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連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」@ 
                                           山川菊栄―その人と業績
 
     後半      
 
*山川菊栄記念会が一九九九年から二〇〇○年にかけて企画した六回の連続学習会「いま山川菊栄を読む」の記録。各回とも『社会主義』(社会主義協会)に掲載された。
第一回「山川菊栄−その人と業績」『社会主義』436号(1999年7月 本ページ、全文PDF
第二回「山川菊栄のセクシャリティ論」『社会主義』443号(2000年1月 全文PDF
第三回「山川菊栄の労働運動論」『社会主義』445号(2000年3月 全文PDF
第四回「戦時下の山川菊栄」『社会主義』449号(2000年7月 全文PDF
第五回「山川菊栄とナショナリズム」 『社会主義』451号(2000年9月 全文PDF
第六回「二一世紀フェミニズムへ」 『社会主義』465・466号(2001年9月、10月 全文PDF
 
『社会主義』掲載時には各回とも次の前書きが附されていた。
 
「二〇〇〇年は山川菊栄没後二〇年であり、九〇歳で亡くなられたので生誕一一〇年でもありました。山川菊栄の業績を伝え、さらには女性問題研究者を支援することを目的に発足した山川菊栄記念会では、没後一〇年に続き、連続学習会「いま山川菊栄を読む」(全六回)を企画されました。
 山川菊栄さんは私たちとも関係が深い大先輩であり、その社会主義理論に裏付けられた女性解放論は今に生きる豊かなものです。男女共同参画社会基本法が制定され、各地でもさまざまな取り組みがすすんでいる今日、私たちも山川菊栄を読み直してみたいものと思い、記念会のご好意により、学習会を採録させていただくことになりました。(後略)」
 
その後、この学習会記録は一回から五回までが山川菊栄記念会編『たたかう女性学へ−山川菊栄賞の歩み1981-2000 』(インパクト出版会 2000.11)に、参加者の修正加筆後収録された。当サイト転載にあたっては、第一回から第五回まではインパクト出版会編集部から提供された原稿ファイルに基づいた。転載を快諾された『社会主義』編集部、山川菊栄記念会、インパクト出版会ならびに参加者各位に深謝したい。(サイト管理者)
 
【司会】鈴木裕子 【パネリスト】菅谷直子・中大路満喜子・井口容子・津和慶子
 
 
鈴木 今回の連続学習会は共通テキストを『山川菊栄評論集』としております。岩波文庫の一冊として一九九〇年に初版がでまして、今回の学習会を前に二刷ができました。これをテキストとして使わせていただきます。
 今日の学習会では、山川菊栄さんの九〇年に及ぶ生涯の後半生、つまり一九四五年から一九八〇年の三五年間に直接、関わりのあった方々をお招きし、お話をお聞きします。
 さて、山川菊栄さんは戦後、労働省婦人少年局(一九四七年に労働省が新設され、同時に婦人少年局が設置され、いわば、女性運動の拠点として、およそ役所らしからぬ役所として出発いたしました)に迎えられまして、およそ三年半ほど局長を務められたわけです。
 
 この時期を除きまして、山川菊栄は一貫して、戦前戦後、在野におきまして女性問題研究家あるいは評論家、歴史家として歩んできました。実践家としての山川さんの活動も、わたくしどもは重視するべきだろうと思います。それはこれからの学習会で明らかになるだろうと思います。
 
 今日はまず、『婦人のこえ』との関わりから入りたいと思います。『婦人のこえ』は一九五三年に創刊されました。当時は社会党が左派と右派に分かれていた時代ですが、山川菊栄が主宰し、左派社会党婦人部の協力を得まして、薄い雑誌ですが、月刊誌として一九六一年まで発刊し続けました。
 この『婦人のこえ』が発刊された一九五三年からの時代は、まずいわゆる逆コースの時代です。反動化が非常に激しく始まる時代でした。一例をあげますと、「オイ、コラ警察」といわれた、警職法案という、戦前の治安維持法を想起させるような法案が岸(信介)内閣の時ですが、成立を図られようとされました。あるいは、憲法改悪問題、人権や平和を強く訴える教科書などが「偏向教科書」として保守党サイドから激しく攻撃されました。そういう反動期にあって、平和を守るには、人権を守るにはと女性の自覚と力量、行動を高めようという切なる願いから『婦人のこえ』が創刊されたのではないでしょうか。創刊時から一貫して協力し、あるいはともに同志として活動を続けられたのが菅谷直子さんでいらっしゃいます。
 
 当時の東洋製缶の労働組合の専従活動家、婦人部長、また品川区議会議員として活躍なさっていた中大路満喜子さんが、たいへん積極的にこの『婦人のこえ』の維持・運営活動に参加なさいました。
 
 大阪から来ていただきました井口容子さんは、大阪府職の婦人部長として活動なさっておられました。わたくしも『婦人のこえ』誌上で拝見し、そのお名前を知りました。
 
 最後は津和慶子さんです。「最後の弟子」というか、わたくしよりはちょっと年上かと思いますけど、このなかで最年少でいらっしゃいます。山川先生が日本婦人会議の機関紙『婦人しんぶん』、現在の『Iおんなのしんぶん』ですが、そこにエッセイをお書きになるのにたいへん骨を折られたり、一九七七年には山川先生の主要論文を集められまして、『女性解放へ』という本を出されました。山川先生は、当時ちょっとおからだがご不自由だということもありまして、いわば、逼塞されていたような感があるんですが、『女性解放へ』刊行後、立て続けに大和書房から評論集や自伝的なエッセイ類『二十世紀をあゆむ』、『日本婦人運動小史』が出されました。そういうきっかけを作った『女性解放へ』の編集に当たられた方であります。
 
 まず菅谷さんからお願いします。
 
社会主義の世界観が確立していた
 
菅谷 来月九〇歳になりますので、お聞き苦しいことと存じます。また繰り返すかという気持ちの一方でこういう席では何を話したらいいのかと迷ってしまいますので、まとまりのないお話になるかと思います。
 
 私に与えられたテーマは「山川先生のお人柄とご功績」ということでございますが、私が一番敬服いたしておりますのは、山川先生は絶対に嘘をおっしゃらないと言うことです。
 私も「嘘つきはどろぼうの始まり」と厳しくしつけられたんです。でも、当時は女は嘘をつかざるを得ない環境でした。おてんばだったので、男のやることをなぜ女がやってはいけないかと子どものころからずっと疑問を持っていたものです。男の子は夏になると湖に入って遊ぶ。それが本当にうらやましい。当時は一夏に一人二人の犠牲者が必ず出たので、湖に近寄ってはいけないと言われていたんですけれども、水に入ったらどんなに気持ちがいいだろうと思って着物のまま飛び込んでしまうんです。そして、うちへ帰って川に落ちたと嘘をつくんです。「女の子だから」とか、家の者が笑われるとか、家の恥になるとか、女と家の名において絶えず痛めつけられていたので、どうしてもそれに反発して嘘をつくようになってしまうんです。
 
 その点、山川先生のご家庭では、おじいさま(青山延寿)をはじめご両親が、いわゆる最高のインテリで、そういうことが絶対になかったようです。おじいさまは漢学者とはいえ、非常に気持ちの広い方で自由なご精神を持っていらしたそうです。「家を継ぐ」ということはあまり関係なくて、伯父さま(青山量一)は絵が好きだというので絵を学ばれた。お父さま(森田竜之助)も中江兆民なんかとフランスにいって勉強した方で、生涯寝間着以外に着物を着たことがない。これはお母さま(森田〔旧姓・青山〕千世)もご一緒で、洋服を着てらしたんです。そういう開明的な家で、男と女の差別意識というものがなくて、本でもなんでも女の子も読んでもいいというようなご家庭にお育ちになられました。
 
 そしてご結婚されたのも、山川均先生というりっぱな社会主義者でございましたから、嘘なんかつく必要がなかったわけです。私も長い間生きてまいりましたが、本当のインテリ、誠実、真摯なお人柄だということをしみじみ感じております。
 山川先生はご自分がお書きになるものを「私は別にたいしたことは書きませんよ。誰でもしている常識的なことですよ」とおっしゃっていました。三〇年近いお付き合いですからそのほかにもいろいろとありますが、これだけにしてご功績に移らせていただきます。
 
 日本で最初に「婦人問題は社会的に作られたものである」と社会科学的な立場から理論づけられたのが山川先生であろうと思います。婦人問題がどこからきており、どうすればいいという方向も示されたのが、第一のご功績です。
 戦後、平塚らいてうさんとか市川房枝さんの名前は男の人でも知っているのに、山川先生のことはご存じない。どうしてなのか、疑問に思っていたのですが、政治的な問題があったと知らされました。
 
 戦後すぐに社会党も共産党も発足したのですが、共産党のほうは、その年の一二月には婦人の行動綱領を発表しています。一方社会党は婦人対策を黒田寿男議員が担当していた。その方の奥さま(黒田〔旧姓・川上〕あい)は山川先生とも八日会で一緒に活動した方ではありますが、彼がとくに婦人問題に造詣が深かったわけではない。もっとも共産党の行動綱領の下敷になったのは山川先生が戦前にお書きになっていたもののようです。
 
 しかし、共産党は婦人問題に早くから取り組みましたし、共産党系の学者が婦人問題をとりあげました。そして、一九四九年には井上清が『日本女性史』を書き、ベストセラーになりました。そのなかには山川菊栄は出てきません。戦前の記述で一ヵ所、注に赤瀾会のメンバーの一人としてでているだけです。『青鞜』で伊藤野枝と廃娼問題で論争したこと、晶子やらいてうとの母性保護論争、それから労働組合婦人部論争などで画期的な理論を展開されたわけですが、日本の女性解放史上画期的な論争には、いっさい触れられていません。
 女子労働問題では嶋津千利世さんや帯刀貞代さんなどが書かれておりましたが、やはり山川菊栄の業績については無視するか、歪曲するか、でした。共産党では山川菊栄は絶対認めてはならないことになっていると私は党員から聞いております。党利・党略から歴史を歪めるようなことは公党として許されないと思いますのであえてお話しする次第です。
 
 山川先生が誤解されている点について二点申しあげておきたい。生理休暇には山川先生は反対でした。というのは生理休暇を法律で決められると取らなければいけないものになると。それから、書いていらっしゃらないんですけれども、性を強調するのはあまりお好きではなかった。生理休暇が本当に必要な人は病気なんだから、病気として扱うべきで、男との違いを強調すれば普通の女性にとってはかえってよくないと。それがどうも理解されないようですね。もう一つは、当時世界のどこの国も、生理休暇というものを作っている国はないということも理由でした。
 
 それから国際婦人デーの問題ですが、これも誤解されている。国際婦人デーをやるなということではなかったんです。一九四八年に日本の祭日を決める法律に婦人の日をいつにするかが問題だったわけです。共産党系の人たちは、三月八日の国際婦人デーを主張した。山川先生は三月八日というのはアメリカから始まって、それを祝日にしている国は社会主義、共産圏のほかはない、日本の婦人の祭日としてはふさわしくないと。これにたいし共産党系の人びとは反対したのです。国際婦人デーを始めたのは山川なのに反動化したというのです。先生は日本の婦人の解放は四月一〇日、初めて参政権を行使した日、その日が一番ふさわしいと主張されました。私もそれが正しいと思うんです。
 それから、平塚らいてうや与謝野晶子との論争でもっとも優れているというか、決定的に違うのは、山川先生は世界観をちゃんと確立していたということなんです。社会主義の世界観です。らいてうとか晶子は体制のなかでの解放を考えていたので、体制内の女性解放論になったと思う。
 

 それからこれは非常に大きな貢献だと思うんですけれども、英語が非常に達者だったんです。外国の進んだ婦人政策とか理論をどんどん日本に紹介されたということです。山川先生は、しかし理論のための理論をおっしゃったのではないということです。政策として実行させるということが先生の考え方です。だから、ただ言い放しではなくて、それをどうしたら実現できるかということをおっしゃった。婦人部論争を見てもよく分かると思います。そういう点が、私はかつてないような婦人の解放に貢献されているのではないかと思います。
 戦後のご功績については他の方にお話し願いたいと存じます。
 
歴史観にも女性解放の視点
 
鈴木 ありがとうございました。いまのいわゆる生理休暇問題について付け足しますと、生理休暇問題だけを取り上げるというのではなくて、もっと労働者の健康とか安全権を確立させるためにどうするかという視点だったと思います。
 時間が限られていて申し訳ございません。菅谷さんが書かれた『不屈の女性 山川菊栄の後半生』(海燕書房、一九八八年)で補えますのでご覧いただければと思います。それでは続きまして、中大路満喜子さん、お願いします。
 
中大路 今日は、菅谷直子さんのお誘いで出てきました。一〇年前とダブる点はご了承いただきたいと思います。
 山川菊栄という名前は、働く女としてかなり昔から知っておりました。でもお会いしたことはなかったわけです。婦人少年局長になられた直後、つまり一九四七、八年だと思うんです。私が住んでいる品川区は、いまはちょっと様子が違いますが、南部の工場地帯として、働く人が多いところでした。そこの婦人の集まりに山川婦人少年局長がおいでになるというので、その会に参加したわけです。
 
 昔の鋭い評論を知り、そして労働省の婦人少年局長なんていうから、ばりっとした格好でみんながしんと静まるような話をなさるのかと思っていたら、非常に地味で質素なワンピースを着ていらして、話をするというよりも、身を乗り出して、そこへ集まった人の話を聞き漏らすまいというふうになさるんです。それが印象的だったんです。
 私は山川先生の評論はあまり読んでいないんですが、晩年になってお書きになったものは読ませていただきました。やさしく書いてあって、みんな面白いんです。まだの方がいましたら、ぜひお読みになるといいと思います。
 
 山川先生ご夫妻は、うずらを飼うために藤沢郊外にお住みになった。『わが住む村』はその農村の風景。『おんな二代の記』というのは、先生とお母さまとのことで、自伝を含めた本だと思います。『覚書 幕末の水戸藩』というのは、ご自分のうちに残っていた古文書とか、あるいは図書館とかで調べて、その水戸藩のことをお書きになった。
 このいずれにも、かなりいろんな人の聞き書きが入っている。山川先生というのは人の話をどんなことでも、本当に神経を集中して誠実にお聞きになるという態度の方なんだと私は思ったんです。それらの本は、直接「婦人解放」とか「社会の仕組み」とか書いてはないんですが、どこかにそういう観点が散りばめられ、貫いているということを非常に感じるんです。
 
 『覚書 幕末の水戸藩』でも下級の武士のいろんな苦労とか、その家族の生活とかが書いてある。それから、封建時代の女性の問題なんかにも触れています。例えば、水戸藩主は子どもが五〇人もいた。殿様いわく、殿様というのは女をいっぱい持ってもいいのだと。だけど、貧乏人は一夫一婦でなければいけないんだというふうなことを言ったと書いてあるんです。こういうことは、いかにも山川先生らしい見方であると思います。これらを読んで、山川先生は、地方史とか民俗文化とかについてもひとかどの研究者ではないかというふうに思ったわけでございます。
 山川先生はたいへん地味な方でした。労働省をお辞めになって直後に英国の労働党政府の招きでヨーロッパへ視察においでになったんです。ささやかな歓送会を社会党系の婦人が開いた。二〇人ぐらいしかいなかったんですが、その時のことで私の印象に残るのは、深尾須磨子さんという詩人が、「ああ本当に、本当に、山川さんはまじめ一方で、外国へ行くでもなしにこつこつとやってきて、本当にあなたにとっていい機会だ。ぜひ行って、いろんな収穫をしてらっしゃい」と、自分のことのように喜んでおっしゃったんです。山川先生ご自身が何をおっしゃったのかは覚えていないんですけれども、深尾須磨子さんの発言だけは非常に印象に残っているんです。
 
 その時は、深尾さんと山川さんとは取り合わせがちょっと違うという感じを持っていたんですけれども、あとで山川さんが書かれたご本を見ると、一九二二年ごろ、ロシアの飢饉を救済するために婦人の会(露国飢饉救済婦人有志会)を作ったんだそうです。その時に、この深尾須磨子さんも発起人の一人として入っていらしたというご縁があることが分かったんです。その発起人のなかには、社会党の国会議員をやられた加藤(当時、石本姓)シヅエさんとか河崎なつさんとかという名前もあったので、こういうこともあったのかと私は思ったわけです。
 山川先生に身近で教えを受けるようになったのは、『婦人のこえ』という雑誌を出し始めたことからなんです。熱心にかかわったと紹介下さいましたが、「やれ」と言った社会党も無責任で、途中からはちっとも応援をしない。最初の編集委員になった、著名な方たちもだんだん出ていらっしゃらなくなる。面白いという雑誌でもないものですから読者も減り、経済的にも困るということでした。それが八年も続いたということは、全く菅谷さんと山川先生のおかげです。毎月の編集会議には足もお悪いのに藤沢から出ていらして、ご意見をおっしゃってくださるんです。その間に私はすっかり敬愛するようになりました。
 
 山川先生の外見が思っていたものと違うように、お気持ちとかお人柄も違った。本当に暖かい方で、いろんなことによく気がついてくださいました。そして、私は一度もこういうことなんだよとご講義とかお説教とかというかたちで教わったことはないんです。でも、その間に、「本当に立派な方だ」ということをしみじみ私は思うんです。
 私は一九二〇年(大正九年)の生まれなんですが、山川さんはそのころすでに立派な論文を書かれ論争をされていた。しかも女性に関する問題などは、今日私たちが言っているような、男と女の役割分担があってはおかしいというようなことをとっくに言っていらっしゃるわけです。
 
 それから、働く人たちの問題のなかにも、もちろん日本人だけではなくて、日本にいる外国人というのは主に朝鮮の人だと思うんですが、そういう人たちの労働条件にも差別があってはいけないということを何十年も前におっしゃっているんです。先見性といいますか、先駆性といいますか、そこに本当に心を打たれるわけなんです。
 私はそういう問題について、山川先生以上の人はいないと思っています。でも、山川菊栄さんは知られていない。政治的なこともあるでしょうが、たいへん地味で自分を売り込むということがないお人柄も、一つの理由ではないかと思うんです。ですから、私はこういう機会に山川菊栄という人をぜひ知っていただきたい。それは、昔のことを勉強するのではなくて、今日、まさに私たちが必要としていることをおっしゃっているからです。
 
 先程の英国労働党の招きでは、帰りにフランスとかユーゴなんかへも行かれた。サラエボでの案内の青年について話していらっしゃるんです。先生が娘のころ、新聞を見ていたら、オーストリアの皇太子が殺されたという記事が大きく載っていた。後ろからのぞいていたお父さんが「これはたいへんなことになる、世界じゅうの戦争になる」と言われたんだそうです。そのとき、山川さんは「ああ、またうちのお父さんは」ぐらいに思ってたら本当に戦争になったわけです。案内の青年にその話をしたら、青年は「あの時は皇太子が殺されなくても、世界は戦争になったかもしれない」と言ったというのです。あれから四〇年もたって、いまユーゴがNATOの空爆にさらされているということを思いますと、歴史の偶然か必然か、歴史は繰り返されるんだと思わざるをえない。先程のビデオ(『二一世紀を生きる人びとへ―山川菊栄』一九九〇年制作、非売品)での山川先生のお話のように、どうやったら戦争のない平和な社会を作っていくことができるのかというのは、本当に大問題だと最近特に感じるようになりました。
 
 『婦人のこえ』が廃刊になってから、私は先生にお会いする機会がなかったわけですけど、お手紙を出すと必ずご返事をくださいました。記憶にあることを二つほど。
 一つは、東京都政に関することで、当時は、美濃部(亮吉)知事でしたが警察官を増員するという提案があった。警察官はあぶく銭稼ぎと思っていた時代でしたので、私は悩んで手紙を書いたわけです。ご返事は、原則的には自分も反対だけれども、とても社会党の力でそれを阻止することはできない。社会党と美濃部さんとの関係にひびが入って、お互いに苦しい思いをするより、この際は呑んだほうがいいと。新しく発展してきた近郊では警察官が足りないという意見もあるんだから仕方がないというものでした。
 
 もう一つは、社会党に山本幸一という書記長がいて、女性問題で新聞で非難されたんです。そのことをとらえて、社会党も議員を公認する場合は私行についてももっと厳しくしなければいけない。だいたい、社会党はいろんなことについての方針が非常に不明確で、若い人の養成もしないし、これでは空中分解するのではないかとあったんです。その言葉を思い出して、いまを私は考えているわけです。
 
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