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連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」B 山川菊栄の労働運動論
 

*出典などは第一回解題参照。パネラーの広田寿子氏は二〇〇二年に逝去されました。転載にあたって手をつくしましたが、ご遺族(著作権継承者)と連絡を取ることができず、サイト管理者の責任で転載いたします。今後も著作権継承者との連絡に努め、事後承諾になりますが転載同意を得られるよう努力します。万一、著作権継承者が転載に同意しなかった時は、第三回はサイトから削除されます。もう一人のパネラー浅倉むつ子氏には転載を快諾いただいております。(サイト管理者 2004.4.17)
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広田寿子・浅倉むつ子
 

井上 広田寿子さんは、一九五一年から労働省の労働統計調査部や婦人少年局で、労働経済や女子労働問題の分析に一五年ほど従事されました。その広田さんに今日は戦前の山川菊栄の女性労働論、とくに大正期を中心にお話をいただきます。
  それから都立大学で、労働関係の法律について研究をされております浅倉むつ子さんに戦後をお願いいたします。
 
■山川菊栄の先見性と時代の制約―大正期における「方向転換」 
  
                                          広田寿子
 
  私は、山川さんが婦人少年局長になられた時に、山川さんのご意志で労働省の嘱託となり、週一回一年間婦人少年局の局長室に通いました。国家総動員法が成立した、一九三八年に女子大の国文科に入学した時、「昭和ヒトケタ」代の学生運動はすでに跡形もなく、社会科学に無知のまま学校をで、敗戦を迎えました。そのため敗戦直後せっかく山川さんに出会えたにもかかわらず、戦前の貴重で、豊富な研究の存在を知らず、歴史を教えていただくうえでまたとない機会を逸しました。しかもいまとは違い山川さんの著作は、滅多に手に入らない時代でした。
 
●山川夫妻の「方向転換」
 
  山川菊栄の夫君山川均は、第一次世界大戦をきっかけとするデモクラシーの世界的な上げ潮のなかで、日本でも大衆性のある労働運動が刻々盛り上がり、それまで労働運動とはほとんど無縁であった社会主義運動も、次第に労働運動との結びつきを強めていることを、社会主義運動の先頭で、身をもって体験しました。その体験を通じて均自身が、運動の仲間に改めて提起したのが、一九二二年の『前衛』論文「無産階級運動の方向転換」です。
  無産階級運動の目標である、資本主義の撤廃を貫徹させるために、いまこそ「大衆の現実の要求を基礎としなければならぬ」というのがその主張でした。「つねに階級闘争主義と革命主義との上にたっていた」過去二〇年間の社会主義運動の反省の結果です。「いやしくも資本主義制度をすぐさま撤廃することのできぬいっさいの問題や運動には、何らの興味をも持たなかった」と言うのは均自身の言葉です。したがって、「少数の精鋭な革命的前衛を産み出した」ことを、運動の第一歩とすれば、第二歩は、大衆をどう動かすかを学ぶことで、「大衆のなかへ」が新しいスローガンになりました。
 
  山川夫妻が結婚した一九一六年は、「方向転換」の数年前でした。日本における社会主義者の先頭に立つ均の「方向転換」を、社会主義を通して結ばれ、おたがいに切瑳琢磨する関係にあった菊栄もまた、共感をもって受け止めています。今日取り上げる女子労働に関連する、大正期の四つの論文にも、この「方向転換」の影響が明らかです。
  つまり「転換」以前が一九一八年の社会政策学会例会での報告(「婦人職業問題ニ就テ」。のち著書『婦人の勝利』収録に際し、「婦人と職業問題」と解題。『山川菊栄集2』所載)と、母性保護論争(女性解放史上先駆的な意味を持つ与謝野晶子、平塚らいてうらとの論争)と関わりのある「母性保護と経済的独立」(同じ年に『婦人公論』に発表。鈴木裕子編『山川菊栄評論集』岩波文庫)。「転換」以後が、政治研究会の綱領草案を菊栄の立場で補足した、「『婦人の特殊要求』について」(『報知新聞』一九二五年。前記『評論集』)と、日本労働組合評議会全国婦人協議会のために、同じ年菊栄が起草した「婦人部テーゼ」(同『評論集』)です。
 
  以上の山川夫妻の「方向転換」には、一九一八年にロシアで初めて社会主義革命が成功した、という背景があります。それまで全く観念的にしかとらえられなかった革命が、世界の一角で成就したことによって、「マルクシズムの文献を手にはいるかぎりのものを読んで」いた山川均自身でさえ、「マルクシズムは大衆との関係においてでなければほんとうにわからないことに」気がつき、「改めてマルクシズムを学び始めた」と言っています(『山川均自伝』岩波書店、一九六一年)。
 
●全員男性の社会政策学会でのデビュー
 
 戦前の社会政策学会は、工場法の制定や労働者の保護を課題として一八九七年に発足し、一九○七年から二四年まで毎年開催した年次大会では、第一回の工場法を始め重要な社会労働問題を取り上げています。「論題自体が当時日本の最大の時事問題であ」り、その報告書は「当時の最高の知性のそれに対する答であった」と、大内兵衛が述べたほど権威のある学会でした(大内兵衛『経済学五十年』東京大学出版会、一九六〇年)。
  そういう学会の例会に紅一点の菊栄が招かれたのは、学会自体を揺るがし始めたデモクラシーの風潮のなかで、「欧州戦乱の勃発以来婦人労働問題に関する世論は特に喧しくなって居る」という学会の側の認識(社会政策学会第一二回大会開会の辞)に加えて、この時すでに女子労働研究の第一人者としての菊栄にたいする評価が、学会の一部に存在していたことを物語っています。実際に菊栄を例会に呼んだのは、時代の雰囲気にもっとも敏感であった森戸辰男で、労使協調路線で始まった学会が、時代の流れのなかで急速に変わりつつあったことを反映しています。
 
  例会の直後に開催された第一二回大会(婦人労働問題を主要なテーマにした日本初の学会の大会)では、森戸自身が他の二名(河田嗣郎と阿部秀助)と並んで婦人労働問題の報告者に選ばれています。ついでに言えば、森戸は一年後に東大経済学部の『経済学研究』第一号に書いた「クロポトキン研究」によって、大内兵衛とともに東大を追われ、三ヵ月の刑に処せられました。「デモクラシーのひろがりおしよせてくる勢いに久しくおそれをなしていた政府当局の反動的思想弾圧の第一弾であった」と、大内は回想しています。なお婦人労働問題を日本で最初に取り上げた、社会政策学会第一二回大会の参加者は、来賓、新聞雑誌記者を含めて約一〇〇人。うち二人が学会記事に「喜ぶべき新現象」と特記された婦人で、菊栄はその一人でした。
                           
●唯物弁証法と女の立場で労働問題に迫る
 
 「婦人職業問題ニ就テ」の論文には、直接的ではないにしろ、世界の源は物質であるという唯物論と、歴史はおたがいに絡み合いながら動いているという弁証法の立場、つまりマルクス主義の立場がうかがえます。しかもウルストンクラフトの著作や小伝、ベーベルの『婦人論』、フェビアン協会関係の資料などを、読んでいる形跡がありますから、菊栄ほど与えられた課題をこなせる条件を持つ学者は、社会政策学会でもごく少数に留まったはずです。それまでに婦人の職業を取り上げた会員の著作の代表的なものには、河田嗣郎の大著『婦人問題』(一九一○年)と、河上肇が大阪朝日新聞に連載(一九一五年一○月)した「婦人問題雑話」(『社会問題管見』所載、一九一八年)がありますが、いずれも菊栄ほど旗幟は鮮明でありません。
  それからもう一つ同じ論文で私が注目したいのは、菊栄が健全な男女の発達を視野に入れていることです。菊栄の女子労働に関わりのある最初の著作で述べられている次の視点は、まさに自覚した女だからこそ可能だった発言です。「婦人はいまいっそう積極的な態度をもって生活に臨み、常にただ与えられるものを受くるに甘んぜず、自己の労力に対して正当に酬いらるることを要求し、生活の向上改善に資するの覚悟を養わねばなるまい」。
 
  この講演を聞いたのは全部男性。女性は一人もいません。そして社会の叡智を集めていた学会といえども、菊栄の話を理解できた人はどのくらいいたでしょうか。当時労働問題を考える場合、女は一人前とは認められていません。女子労働が問題になるのは、「女工」の激増、「哀史」とよばれたその劣悪な実態、結核に罹った「出稼工女」が帰村してばらまく結核菌によって、兵力や労働力が摩滅する恐れなどのためです。菊栄はそういう時代に、労働者階級の向上に女の生き方が、重大な意味をもつことを明確に提起しているのです。
  菊栄の先見性は以上のとおりですが、この時点は「国勢調査」を欠いている(第一回の「国勢調査」は一九二○年)ため、「婦人職業問題ニ就テ」と言う標題を掲げながら、その職業分析は諸外国の文献にほとんど依拠しています。女子労働問題を特集した第一二回大会の森戸辰男の論文が、同じ条件におかれていながら、精力的に既存の統計を駆使して、日本における女子職業問題に迫っている点では、菊栄より森戸辰男のほうに軍配があがります。
 
●先見的だが観念的な母性保護論争
 
  与謝野晶子や平塚らいてうらとの間の有名な母性保護論争は、当時のエリートがそれぞれの立場で、信ずるところを率直にぶつけあっている点で、画期的な意味があります。社会主義の立場に立つ菊栄の発言はとりわけ明晰ですが、いま思えば大きな難点もあります。それは人間の歴史における、資本主義のプラスの側面を勇敢に切り捨てて、全人類の解放を目指す社会主義こそが女の解放を可能にすると主張し、社会主義建設自体が難業であることを、ほとんど問題にしていない点です。それから八〇年以上経った現在、日本を含む世界の歴史は、人間の歩みがそれほど単純でないことを、事実で証明してくれました。
  さらに菊栄は、本来ならば大いに尊重してしかるべき部分を含む晶子やらいてうの主張を、痛快なほど滅多切りにしており、その限りでは世間をあっと言わせています。しかし前記の例会論文と同様に、菊栄の発言は先見的であるが、観念的であることも認めないわけにはいかないのです。そこでは大半の女子労働者が、事実上棚上げにされているからで、同じことは晶子やらいてうについても言えます。この三人の着想は、現代においてこそ噛み締めるべき問題をたくさん含んでいますが、少なくとも大正前期に母性保護論争を、自身の問題として受け止めることのできた女は、むしろ例外であったのではないでしょうか。菊栄をはじめとする論争の当事者を批判してすむことではなく、ここでは時代の制約が大きな問題になります。
 
●「婦人の特殊要求」を理解できなかった労働組合幹部   
 
  そこで次に山川夫妻の「方向転換」後の菊栄の労作に移ります。最初に述べた無産階級運動の方向転換論が、大きな共感を得て、軌道に乗り始めた矢先の一九二三年に、突如関東大震災が起こりました。この救援活動の過程で誕生した、東京連合婦人会に菊栄が参加したことは、その直前『前衛』が提唱したロシア飢饉救援運動で、率先して著名婦人たちから基金を集めたことと並び、「方向転換」の結果と見てよいでしょう。
  ところで震災後、普通選挙実施を先送りすると、かえって運動が盛り上がると判断した政府は、治安維持法制定と一対で、普選実施の方向を具体化します。そういう情勢のなかで無産政党結成を目指した、無産階級諸団体の行動綱領草案の婦人問題軽視を修正するために、菊栄は「婦人の特殊要求」を明確にして、所属する政治研究会婦人部に提出しました。「婦人は一つの経済的階級として存在するものではないが、政治的、社会的に平等の権利を剥奪されている点では、各階級の婦人が共通の特殊利害をもっている」という認識は、かつて新婦人協会の参政権運動を、「女遊民のおべんちゃら」として全面否定した時代に比べて大きく「転換」しました。
 
  「特殊要求」は、その趣旨がコミンテルンやILOですでに認められている、常識的なものであったにもかかわらず、佐野学、徳田球一、杉浦啓一などの政治研究会委員(当時共産党幹部)が協議の結果、公娼廃止問題を除いて、反マルクス主義という理由で否決されます。菊栄の先進性を理解できなかったのは、時代の未熟さの反映でしょう。「特殊要求」の項目と内容については、『山川菊栄評論集』(岩波文庫)を是非ご参照下さい。
 
●婦人部テーゼ
 
 日本労働総同盟の分裂の結果、左派は日本労働組合評議会を結成(一九二五年)しました。総同盟時代から婦人部再建に関わっていた有力な婦人組合員は評議会に移り、そこで開かれた全国婦人部協議会で、婦人部の方針、運動の方法などが討議されましたが、その指針となったものが、山川菊栄起草のこの「テーゼ」です(全文は前記『評論集』)。
  日本の労働運動において、工場労働者の過半数を占める女子が、労働運動の圏外に置き去りにされ、「未来を支配する階級の新しき理想、新しき道徳を代表し、体現すべき」組織労働者が、「大多数の女子労働者を思想的に完全に資本家傭主の支配に委ね」ている現実を、ここで菊栄は鋭くとらえました。そしてこの現実打開のために、封建的男女関係の打破、婦人の隷属の拒否、婦人の組織化の必要が、提起されたのです。ソ連や英国など先進諸国の実践を、明らかに参考にしている、「運動の方法」の詳細は、前記『評論集』に収められています。なお谷口善太郎は『日本労働組合評議会史』で、菊栄が事実上指導した「この婦人部協議会は、かかる婦人の問題を、階級的な立場から、しかも具体的に問題としたわが国最初の歴史的な会議」と評価しました。
 
  「婦人部テーゼ」自体は、「婦人部協議会で無修正のうちに採択されたうえ、評議会の中央委員会でも承認を得」た、と言われています(鈴木裕子『山川菊栄 人と思想(戦前篇)』労大ハンドブック39)。しかし肝心の婦人部設置は、その後いわゆる婦人部論争が、極めて複雑な形で巻き起こって頓挫しました。それにもかかわらず「菊栄が無産運動に婦人問題を大きく位置づけようとした理論的貢献の大きさは今日改めて認識されねばならない」という意見に、私は大賛成です(田中寿美子「解題一」『山川菊栄集4』所載)。
  今回は大正期を問題にしましたが、この「方向転換」の行く手には、「方向転換」を許さない難関が控えていました。働く側の弱さと不団結が、戦争への道を開けて通してしまったからです。この過ちを二度と繰り返さないために、いまの私に何ができるかが、私にとっては実に大きな課題です。  
 
 
 
■男女同一賃金原則の実現のために
 労基法第四条の成立過程とその論議から 
 
                                   浅倉むつ子
 
  今日はたった一つのテーマ、つまりいまも日本女性のかなり大きな関心事である男女同一労働・同一賃金の原則を私たちがどう読んだらいいのかに焦点を絞りたいと思います。
  この連続学習会の第一回目で、津和慶子さんが、山川さんが労働省の婦人少年局長だった時に男女平等賃金論のパンフレットを作っておられる、これはいまに通用する同一価値労働同一賃金という趣旨だから、学者の皆さんに研究し直していただきたいと言われました。津和さんにコピーをいただいたところたいへん興味深いものだったので、これをとりあげます。
 
●山川菊栄と男女同一賃金要求
 
  この男女同一賃金要求につきましては、山川菊栄がそれこそ戦前からずっと言い続けていることです。広田先生のお話にもありましたように、「婦人職業問題ニ就テ」という論文で、婦人の給料問題というのは大きな問題であり、なぜ低いのかには、女子の教育訓練が充分に行き届いていないこと、家庭に責任を持っていることなど理由があるのだと述べています。したがって、同一仕事にたいする同額の報酬という女権運動の標語は、実際問題として極めて困難であると言っております。しかし、続けて「全労働階級の一致せる利害のため、将来における共通の幸福のために、男女間における同一標準の採用を主張する」のだと非常に明確に言いました。つまり男女間の同一標準の賃金を採用するというのは女性の賃金を引き上げろというだけではなくて、全労働者階級の一致した利益なのだという主張だと思います。
  また一九二五年の「『婦人の特殊要求』について」にもそのことが反映しております。その四番目に「民族および性別を問わざる標準生活賃銀の実施」とあります。「民族」というのが載っているのが非常に山川菊栄らしいと前回の連続学習会では指摘されていました。性別を問わざる標準生活賃金の実施についても解説を付けておられまして、「低廉な賃金をもって婦人が男子の職を奪おうということは反対である。男子と対等の人間として、同一賃銀率を要求しながら、職業の門戸開放を要求するのだ」と。山川菊栄にとっては、男女同一賃金というのはかなり基本的な要求であったと思います。
 
  そして戦後ですが、婦人問題懇話会の会報でイコールペイの特集を出すようにと島田とみ子さんに言われ、会報二〇号、二一号がその特集となりました。山川さんご自身も会報二〇号で「同一賃金のためのたたかい」という文章を書いておられます。その次の二一号でも「格差撤廃の闘争は中休みか」というかなり戦闘的な文章を書いておられます。日本と同じように同一賃金について消極的であったイギリスがいよいよ同一賃金法を作るということをいち早く山川さんがキャッチされて、日本もILO一〇〇号条約を批准しただけで放置していてはいけない、イギリスと同じようにもう少し努力をすべきであるという論文をたいへんな意気込みでお書きになっています。
 
●労基法第四条は当初「同一価値労働」だった
 
 さて、山川さんが婦人少年局長に就任されたのが一九四七年九月ですが、その前に労働基準法ができております。その労働基準法の第四条(男女同一賃金原則)の成立史を紹介してみます。信山社出版から『日本立法資料全集』(一九八九年〜)という膨大な資料集が出始めておりまして、その五一巻と五二巻が労働基準法の成立史です。それを読むと、かなり興味深いことが分かりました。
  あまり細かいところは触れませんが、一九四六年の三月から労働基準法の草案が出始めます。これが国会に提出されるまでに二三次の修正案が出されました。そのたくさんの草案のうちの第六次案が興味深いものです。一九四六年四月一二日から六月三日までに第一次案から第四次案までが出るのですが、そこには男女同一賃金に関する規定はありませんでした。そして、一九四六年七月二六日の第六次案に、初めて第四条というのが登場いたしました。
 
  その時の第四条の見出しは「同一価値労働同一賃金の原則」となっておりまして、「使用者は同一価値労働に対しては男女同額の賃金を支払わなければならない」ときちんと書いてあったわけです。ところが、一九四六年一〇月三〇日の第七次案では、いまの労働基準法第四条の規定になったのです。つまり「男女同一賃金の原則」という見出しで、「使用者は女子であることを理由として賃金について男子と差別的取扱いをしてはならない」ということになりました。
 
●労務法制審議会における第六次案の検討
 
  いま私たちが心から求めている同一価値労働の規定が、六次案では入っていたのに、どうして抜け落ちてしまったのか。たいへん興味を引かれました。当時の労務法制審議会の記録を見てみましょう。
  会長の末弘厳太郎氏は第二回労務法制審議会で、四条について、国際条約にこうあるので、ここにも載せたといっています。そして、女であるという理由で、労働の価値としては同じであるのに不当に低い賃金が払われることがありがちなので、これを禁じる趣旨ですと説明しております。
 
  その時に、子どもということで不当に低賃金を払うということがあってはいけないので、年齢を入れようという議論もしているのです。ところが、年齢を入れると年功賃金も禁止されることになってしまうから困らないか、となり、結局「国際条約にある程度で、男女同額ということにした」という説明をしております。
  さらにその議論のなかで、西尾末広氏が、こういうふうに同一価値労働と入れると、生活賃金と男女同一価値労働同一賃金に矛盾があるのではないかという質問をされました。会長の末弘さんは、「同じ価値なのに女だからといって特に差をつけてはいけないという書き方をすれば、
誤解はなくなるのだ」と答えています。
 
  そうしたらさらに西尾氏が、「家族の多いものにたいして家族手当を与えるということは間違っているということにならないのか」と質問しました。吉武労政局長はこういう回答をしております。「同一価値労働同一賃金というのをあまり厳格に解すると、日本はアメリカのように能率賃金ではないから問題が起きる」と。そして、家族手当だけが家族をカバーしているわけではなくて、日本は本俸にも生活給があるからあまり厳格に解釈しないようにしよう、と。つまり、女だからといって低くしてはならんぞというぐらいに解釈してやっていきましょうという議論があったようです。
  そのような議論が反映して、同一価値労働を入れてしまうと生活給と矛盾してしまうのでそれを避けるために、第七次案になりますと「価値労働」という言葉が消えたのかと推測されるわけです。それで現行の労働基準法四条の規定になりました。
 
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