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山川菊栄連続学習会第一回後半
『婦人のこえ』は女性労働者の貴重なテキスト

鈴木 そうは言いつつ、山川さんは一九四七年に社会党に入党されて以来、終生党員でした。
 中大路さん、どうもありがとうございました。ユーゴの話などたいへんリアルで、心に染み込んできたように思います。今日は触れられなかった部分で、前回九〇年の連続講座「山川菊栄と現代」の時の中大路さんと菅谷さんのお話は、『現代フェミニズムと山川菊栄』(大和書房、一九九〇年)に収録されております。
 それでは、井口容子さんからお話を伺いたいと思います。

井口 学歴を書くのは嫌いなんですが、旧制高等女学校の最後の卒業生なんです。戦争直前に入学して、二年間は学徒動員で紡績女工さんと一緒に働きました。そして教育方針も混乱していて勉強もできないまま卒業しました。なにはともあれ、解放されたというので公務員になったんです。親たちは女の子は女学校を出たら御の字で、あとはいい相手を見つけてというふうに思っていましたので、飛び出そうと思っても、公務員ぐらいだったのです。

 大阪府庁に入りましたものの、現実には女の労働者を使う度量ができていない。女だからということで、朝早く来て掃除当番をして、お茶くみをやって、それから本筋の仕事は男の補助ということでした。場合によったらお昼の弁当運びに追われるといったことがありました。
 そのころは労働組合が勢いを増している時で、組合に出てこないかと声がかかった。職場のなかで得られなかった満足感というものがここにはあった。皆がやりたいと思ったらできる、それを体験することができた。そこでは女も男もなかったような気がするんです。でも女の人は少なかったですから希少価値だったかもしれない。

 そういう時に、大阪では総評大阪地評というのが結成された。そのなかで、婦人対策部というものができて、当初は担当が男だったから、そんなんではあかんということで、女がやるようになった。それをやりましたのが、一九五三年なんです。ちょうどその時に、『婦人のこえ』が発行されて、中央から「取りなさい」「勉強しなさい」という指示がおりてきました。婦人労働者にとっての職場といっても、モデルがない、どうやっていいか分からないんです。そういう時に、私たちは、『婦人のこえ』からいろんな情報を得たんです。それは、やはり山川先生の考えの基本であったのだと、あとで思うんですね。
 『婦人のこえ』は、とにかく戦前は女たちは声を出せなかったけれども、これからは女たちも声を出し、出したことは責任を持って行動していくという自立への志向ですね。一方で山川先生が論文はお書きになっているわけですから、私たち地方の者にとってすてきなテキストになった。だから、総評傘下の女性組合員で熱心に学習会をやりました。
 当時の『婦人のこえ』は、働く婦人だけではなくて地域のいろんな皆さんが出てきていたと思います。そのなかで地域のお母さんたちとも手を結ばなきゃということもでてきまして、のちには日本婦人会議での地域の活動にも参加しました。

 『婦人のこえ』の「戦時下のくらし」という特集では、へたな文章を書きました。そしたら地域の婦人たちの間で「出てる出てる」と。「こんなんだったらだれでも書けるんちゃう」というので、「子等に残す母たちの記録」、お母さんたちはこんなふうに歩いてきたんだよというのを、本当にささやかですけれども発行することになりました。これは、『婦人のこえ』の読書会を通してできたものなんです。

 それから、労働組合の運動のなかで女性の権利を守っていくためにたたかった。労働基準法のなかに世界でも珍しい生休(生理休暇)が生まれた。でも制度はあっても、やはり、私たち働く女性が意識的にきちんとしないといけない。なぜ生休ができたか、自分(女)のからだを知ることを学び、そしてその権利をきちんと維持していく。それから当時は、結婚すると辞めてしまう、子どもができると辞めてしまうという時代でしたが、やがて結婚しても子どもができても仕事を続けていくべきだということで、産休(産前産後休暇)を取得するようになりました。とってみて初めて「なんやこれでは短いやないの」という声があがり、せめて産後はもっと欲しい。それで、自治労青年婦人協議会で展開していったんです。もちろん、全逓婦人部とか日教組婦人部も一緒にたたかいました。そのなかで、産休は一四週間あるいは一六週間、通院時間の獲得、それから思いもかけなかったんですが、妊娠中絶休暇も認めさせました。

 そこまで来ますと、保育の問題も出てきます。保育所増設が簡単にできないなら、育休(育児休暇)が欲しいとやったわけです。日教組はわりと早く保障されたんですが、一般のわれわれにやっとできたのが最近です。そして国際的女性運動のなかで男女ともにとれるように発展してきたと思います。

 そういうことをたたかっていくなかで自信になったものは、大正年間に行なわれた母性保護論争です。与謝野晶子さんが、女性が経済力をもって自立して自分の子どものことは自分でやるべきだというのはわかるんですが、やはり、社会が後押ししてくれなきゃだめじゃないかということで、らいてうのいうこともわかるんです。でもそのあとで、山川さんがどちらも大事なこと、でもいまの社会の体制を変えないで実現はできないではないかという一言がその後の婦人運動の指針になったというふうに学びました。そういうバックボーンになるものがなかったら、なかなか自信がもてなかったと思う。
 母性保護運動は、当時青年婦人協議会でやりましたが、男は「分からない」というんです。でも、男性も一緒に考えてもらい、取り組むことは、職場で労働者の権利を確立していくことにつながるんです。まさに、いま言われている男女共生社会の基本がそこにあったのかというふうな気がするわけです。

 それから、大阪では総評婦人部だけではなく中小企業に働く女性たちにも呼びかけて「働く婦人の集会」をやりました。ある時、山川先生が見においでになっているというので、お願いしてお話ししていただいたんです。突然のお願いにもかかわらず、本当に熱心に話して下さった。とつとつと話されるんですが、前へ前へと進んだ内容のお話でした。ここに来るにあたってあれはいつだったかと思い、大阪総評婦人部の年表を見てみましたが、山川の「や」の字も出てこないんです。少々驚きました。山川さんの講演会ではなかったけれども、そういうことがあったということはやはり記録しておかなければいけないのではないかと思います。

 それをはっきり覚えているのは、翌日、私は先生と奈良の正倉院展に行ったからです。私は戦前戦後とも非常につましい暮らしをしていたものですから、文化の「ぶ」の字もおよそ縁がなかったんです。正倉院展にお供したら、先生が本当に熱心にどうだこうだと説明してくださるんです。私はびっくりしましたし、これくらい度量をもった生き方ができないといけないんだと思ったんです。

 奈良には、赤肌焼きという非常に素朴な焼き物があるんですが、それを先生は探してお求めになった。それから、お昼におうどんを二杯も食べたんです。たしかにお汁は召し上がっておられませんでしたが、「あなた足りないでしょ。お代わり」って。私は、先生の健康管理のあり方に感心してしまったんです。

 藤沢のお宅には二度伺ったんですが、一度は均先生がお手入れなさっていたつる薔薇をわけてもらって帰りました。その時には均先生は亡くなられていたんですが、「彼が生きている間に来られて会ってもらっていたらよかったのにね」とおっしゃったんです。均先生との、人間としての対等な関係が自分をここまで生きさせてくれているといった思いを語って下さっていたときに出たことばです。「結婚というものは、決して女を男の世話させるためにするものではないんだ」というのが、均先生の口癖であったということをおっしゃっていました。

 それから一日は、労働省の婦人少年局にいらっしゃるのにお供をしました。もうずいぶん足が弱っていらしたのに、電車に乗って階段をよぼよぼと昇っておられました。三代目の谷野(せつ)局長とお会いになったのですが、お互いに相手を尊重した話しぶりを覚えております。
 私は子育ての間しばらく運動から遠ざかっていたのですが、その間「おめでとう」から始まって「これからは女の時代だから、とくに地方の女性が頑張らないと」としょっちゅうお手紙で励ましてくださいました。自分の時代を引き継いでいくために、若い世代がどんどん育っていくことを常に念頭においていらしたのだと思います。というのも、『婦人のこえ』のあとの「懇話会構想」を書いてこられたのです。私なんかにお話になられてもと思いながらも、先生の思いは伝わって参りました。

 二〇〇〇年に向けて女性行政が重要な位置を占めるようになっている今日、そして私が国際女性年絡みの新しい女性行政に関わってくる過程で、山川先生が初めて婦人少年局をお作りになってしかも地方の婦人少年室の担当者を全部女性にされたことの先駆性を思わずにはいられません。いま地域に女性センターを、女性の窓口を作るにも、やはり官僚、男がでしゃばってくることが多いんです。私は定年後、宝塚市と摂津市の女性センターに関わっていますが、小さなところではとくに、地域の女性の力を活用する、市民参加できるというシステムというものが大事になってきます。思い切ってやってみますと、行政マンのもっていない素晴らしいノウハウが、みんな何かの能力があるんだということが分かる。これが本当の男と女の共同参画になるんではないかと思います。また、そういうことを提言したり実行したりする私たちの年代というのは、若いときに山川さんに学んで「なるほど」と実感してきた世代だからかなと思います。

 大阪は与謝野晶子の出身地です。彼女も活躍中は足蹴にされていたんですが、最近では、晶子クラブなどをつくって役所が顕彰しています。そんななかで歌人としての晶子だけでなく、評論などもとりあげられるなかで山川菊栄さんとの関係も語られるようになりました。

『女性解放へ』で女性運動の本質を提起

鈴木 ありがとうございました。お話が尽きないようで恐縮でございますが、急がせていただきます。

 ちょっと時代が飛びまして、『婦人のこえ』が廃刊されます。これは一九六一年ですが、六二年に田中寿美子さん、石井雪枝さん、菅谷さんたちと一緒に婦人問題懇話会、現在の日本婦人問題懇話会を設立されるわけです。この会からは女性問題研究者がたくさんお育ちになり、山川さんはそういう後進の方々が育つことをたいへん喜んでおられました。
 一九六二年というのは、実は戦後の女性運動の再編期でもありました。つまり、この年に日本婦人会議ができました。一方、新日本婦人の会ができます。ある種の女性運動対立の構図ができました。この日本婦人会議にも山川さんは少なからぬ関わりを持っていらっしゃいます。次にお話をしてくださいます津和慶子さんは、日本婦人会議事務局長などを経て、現在、議長です。

津和 「最後の弟子」というのは、私が自認しているだけですが、でも本当に最晩年の数年間を山川先生に触れさせていただいたのは私にとって大きな財産となっております。
 私は日本婦人会議が出していた『婦人しんぶん』の編集に一九七二年から関わることになりました。そこで連載の企画をして先生にお目にかかることになりました。

 菅谷さんや中大路さんの話にありましたように、旧左派社会党で女性運動の啓発のために『婦人のこえ』を出して女性運動の組織化をはかっていかれたわけです。そのなかで日本婦人会議が社会党の主導で運動体として結成されたわけです。しかし、本当に社会党が女性団体をどのように育てていこうかという明確な綱領がなかった。
 その位置づけをめぐっては内部的にもいろいろと議論がありました。日本婦人会議は何を目指すべきかということが、それぞれの思いのなかで違っていた。それで、結成一〇年を契機に、歩むべき方向、あり方をきちんと議論のなかでまとめていこうではないかとなったわけです。いまからみると堅苦しいのですが、組織綱領といいます。

 それに当たっては、戦前の運動の系譜をどう引き継ぐのか、その柱として、山川菊栄先生の存在、その論点をもっと学ばなければならないということになりました。共産党系の婦人運動が広がるなかで山川先生の業績が忘れられている、それは、私たちが継承し勉強していかなければいけない。そのなかで、名文家でいらっしゃる山川先生にも原稿を書いていただこうということになったわけです。
 最初が英国の賃金差別を引きながらの男女平等賃金について、二回目が一人暮らしの婦人問題。私自身は、まだ大学をでたあと数年の社会生活しか経験していなかったので、婦人運動そのものにどういう課題があるのか確信がもてない時期でしたし、賃金問題、老人問題、それから環境問題と、女性運動というのが労働問題だけでなく、一生涯女を縛る問題に触れられている点で、その幅広さ、女性運動というのはそういうことまで考えなければならないという意味でとても印象深かったわけです。

 それから、綱領を補完するものとして、先生の論文を集めて、『女性解放へ 社会主義婦人運動論』(日本婦人会議中央本部出版部、一九七七年)という本を出版させていただきました。それに当たって、山川先生のお書きになったものを国会図書館で片端からコピーしてどれを収録するかを含めて勉強するといういい機会をえました。菅谷さんや亡くなられた石井雪枝さんにいろいろご相談をしながらできたわけですが、婦人労働論と組織論を中心に、そして当時も論争になっていました母性保護論を加えて三つの柱とした論文集をだしたわけです。そのなかでも山川先生の幅広さというものを痛感いたしました。

 そのとき、田中寿美子先生がこれはぜひお入れなさいといわれたのが、「日本婦人の社会事業について伊藤野枝氏に与う」です。公娼論について書かれたもので、いまになって田中先生が是非にとおっしゃった意味が分かるんです。今日のフェミニズム運動に通じる課題、女性にたいする暴力の問題、からだや性にたいして女性自身が主体的でなければならないといったことを非常に明確に指摘されています。そして女性解放や暴力の問題は背景にある社会的なしくみ、階級関係、社会構造そのものに迫らないでは解決できないということもおっしゃっているわけです。それから具体的な問題指摘を通してその本質を指摘するという方法論はほかの論文でも貫かれています。
 『女性解放へ』の本の題名を決めるにあたってご相談したら、「婦人は嫌ですね」と最初におっしゃったんです。それで『女性解放へ』としたんですが、多くはおっしゃらずに女性運動の本質を提起しておられたわけです。

 もう一つは、例えば社会主義になったら女性問題はすべて解決するという主張の誤りを山川先生は示されています。現存の社会主義が本当に女性を解放しているか、ということを常々言われていました。豊かな社会主義のためには、民主主義の伸張、人権の確立の拡大なしにはありえない。構造が変わったらすべてが変わるものではないということを私はいろんなところから読み取りました。
 話が変わりますが、先生が労働省におられる時に「男女平等賃金論」に関するパンフレットを作っておられるんです。いまに通用する同一価値労働同一賃金という主旨です。これは、本当に学者の皆さんに研究しなおしていただきたいと思うものです。

 最後に、山川先生が主として婦人問題懇話会で活動されたのは、研究者を育てるということと理論的研さんに主眼を置かれたからだと思いますが、日本婦人会議にも惜しみない援助をして下さいました。その立場で勉強した限りでは、山川先生は党と女性団体のあり方では分けておられたのではないかという気がしております。党に女性問題の視点が不足していることは指摘され、女性運動の視点を盛り込むことに努力されてきた。一方、大衆的な婦人運動の必要性は感じておられたのですが、党の指導の下に女性団体をつくることには疑問をもっておられた。いまは日本婦人会議は自立した女性団体として位置づいております。社会主義女性論というのは党がもつべきもので、女性団体はもっと幅広く自主的な運動であるべきと考えておられたのではないか、その点を確認しておきたかったなあとも思っております。
 皆さんが触れられたのでお人柄についても一言。私も先に論文を読んでからお宅に伺うことになったものですから、最初は恐かったですね。でも、一言も「あなた、駄目よ」とかはおっしゃらない。「藤沢のこの辺りは野っ原でした」という話をなさる。それで、いまはこの地域のなかでも内職をしたり、パートにでたり、何かしら働くようになって変わってきましたとおっしゃるわけです。日常のできごとのなかに社会が変わっていっていることを教えてくださったと思います。

 先生をお世話なさった岡部(雅子)さんはたいへんだったとは思うんですが、同居する同士が自立した関係を持とうという意志が感じられた。ベッド生活でもこれこれはしてほしい、一方で自分でできることはされていたようで、家族介護のあり方を見たように思います。
 働きながら家庭生活をやるのはたいへんですという話をしていたら、「それはできることです。お皿は一枚にするんです」とおっしゃる。私は旅館育ちだものですから、五品ぐらい、器もいろいろ変えないといけない人だったんです。さらりとおっしゃった一言で、そうか、私自身が常識に縛られていたと思いました。何かやりたいと思ったら、いろいろと工夫があるんですよと、合理主義というだけでなく、常識を変えていかないと社会を変えていくことはできないんだということを教えていただきました。

山川菊栄を現代に近づけて読もう

鈴木 余計なことかもしれませんが、合理性を考えて、『おんな二代の記』にはお皿を一枚にしたところ、その一枚だけではその度ごとに洗うことになって、かえって台所と行ったり来たりするのがたいへんだというので、増やしたとありました。

 山川菊栄さんは、社会主義者であると思うんですけれども、最晩年のころの言葉に「だけどマルクスも男だからね」という言葉があり、当時、たいへん印象深く読んだ記憶があります。これはやはり、女の問題は女が解決しなければということを意味していると思います。それから一九七〇年の「大国と小国」という小論に「国も人も自主独立に限る」という一節があります。ユーゴの自主的社会主義について触れているところです。そういうふうに、我も彼も自主独立、自ら主体性を育てるということを尊ぶということも山川理論、山川思想の特質ではないかと思っております。

 パネリストのみなさん、どうもありがとうございました。
 それでは、会場のほうからご意見をいただきたいと思いますが、最初に岡部さんお願いします。

岡部 私が山川先生と初めて会ったのは、一九四三年です。菊栄の息子の振作と私の母の妹美代が結婚したときでございます。その後しょっちゅう出入りしていたんですが、二人の夫婦の会話というものが余りにもきちんとしているので感心しておりました。
 すごく地味な格好をして歩いてるんです。そんなものですから、どこの田舎のおばあさんがでてきたのかと思われたり、喪服きて歩いていると言われたものです。風呂敷包みをしょって歩くような人でした。

 あまり思い出が多すぎて何も言えない感じなんですが、最後に、入院するころまで、できれば自分は自分だけで生きていきたいということだったんです。女性が扶養家族であることをひどく嫌がってもいました。ですから、やむをえない時期がくるまでは、ベッドで寝ていてもきちっとしていました。
 店屋ものをとって食べるということが大嫌いでした。均さんの食べ物を気をつけなきゃいけないということがあったのでしょう。たしかに均さんは盃一杯ずつぐらいしか食べられなかったんです。それに比べればしっかり食べていましたが、お話にあったようにそんなに食べた記憶はありません(笑)。

 あと彼女が非常に嫌がっていたのは、延命措置というものをやたらやって欲しくない、自然に生きて、自然にあまり端に迷惑をかけるようなことはしないで始末して欲しいということでした。そういう考え方は息子たちにも受け継がれていて、みな適当に消えていくのかなと思っています。

鈴木 遠方からいらしている木南ゆうさんいかがですか。

木南 先程の津和さんの話、『女性解放へ』となった経緯は興味深い。ある小説家が「婦人の婦というのは高貴な人に使うものなのにどうして嫌がるのか」ということを書いていましたが、この間の論議のなかでいずれも女性を使うようになってきていることがあります。日本婦人会議も名称変更しようという動きもあるようですが、その時きちっとした考え方をもてるアドバイスをいただければ。

鈴木 なかなか難しい問題ですね。津和さん、いかがですか。今日すぐにお答えいただくというわけにはいかないでしょうか。ほかにはいかがでしょうか。

山の手 大学で、平塚らいてうとか与謝野晶子とかは知っていたんですけれども、山川菊栄は知らなかったんです。日本の女性問題の歴史とかにちらっと出てはいるがそれ以上は分からない。その後、ある雑誌に李順愛さん(山川菊栄賞第7回受賞者)という在日の方が日本のリブとかフェミニズムのあり方を批判した文章のなかで、山川菊栄さんをちらっと引用されていたんです。それと『批評空間』という雑誌で、インドラ・リービさんという外国の方がわざわざ日本語で「リブ的フェミニズムと山川菊栄」という記事を書いた。それで、日本の女性運動やフェミニズムのあり方と山川菊栄の知名度が低いということには関係があるらしいということを知りました。最近、上野千鶴子さんが書いた『ナショナリズムとジェンダー』でも山川菊栄にちょっと触れている。でも、やはりすごく評価が低い。誤解があるというか、ちゃんと山川菊栄の本を読んだとは見えない(笑)。

 先程共産党との関係がいわれましたが、戦後やはり共産党の陣営から分派した新左翼とか、左翼運動自体の変遷のなかでリブとかが出てきていました。そのなかで、山川菊栄さんは社会党に入っていたので、全体的な左翼運動のなかでは辺境的なところに追いやられて、単に女性運動だけの問題ではないのだと思うんです。
 最近、左翼運動をやっている人でも、山川均を知らない。改めて戦前に活躍した在野の知識人の活動にすごく興味を持っていて今日伺いました。

 山川菊栄さんの文章というのはすごくやさしく、ちゃんと読み手のことを考えて、自分はこういう研究をしているとか、読んでいるとかを紹介するだけではなくて、読み手にたいしてこういうことを言いたいということで明確な文章を書いている。そして外国の現代のフェミニストの文献と比べても、そんなに昔の人という感じではない、普遍的な視線があると思っています。例えば、戦前の時点で家事労働というものは支払われるべき労働なんだということをきちんと言ってるんです。山川菊栄をもうちょっと現代の問題に近づけて読んでいくと、いま読んでもすごく勉強になると私は思います。

鈴木 どうもありがとうございました。今回わたくしどもが学習会を催すことになった動機などについてたいへんお若い山の手緑さんが、全部まとめて話してくださったようです。パネリストの皆さま、またご出席の皆さま、どうもありがとうございました。

[パネリスト略歴]

菅谷 直子 [すがや なおこ]
 一九〇九年茨城県生。二六年千葉県立佐原高女卒。二七年医師と結婚、二九年死別。三一年職業婦人を目指し、東京市の失業対策事業などで各役所を転々とする。のち市の本雇となったが直ちに退職。四二年アテネフランセを卒業し、四六年、室伏高信経営『青年』社に勤務。五三年、山川菊栄主宰『婦人のこえ』編集、六一年廃刊まで働く。六二年婦人問題懇話会設立に参加。事務局担当、婦人問題の研究を始める。八三年事務局を辞任。著書に『不屈の女性 山川菊栄の後半生』(海燕書房、一九八八年)、共著に『婦人』(有斐閣、一九五四年)、『日本の女性』(毎日新聞社、一九五七年)、『近代日本の女性像』(社会思想社、一九六八年)、『女性解放の思想と行動』(時事通信社、一九七五年)。

中大路 満喜子 [なかおおじ まきこ]
 一九二〇年大連生。五歳より東京に暮らす。一九四六年勤務先であった東洋製缶の労組結成に参加し、組合役員を務める。翌四七年、日本社会党に入党。品川区議会議員、六三年より六九年まで東京都議会議員を務める。現在、八潮団地わかくさそう自治会会長。なお、「中大路満喜子さん―民間組織の婦人部長から女性議員へ」鈴木裕子『女たちの戦後労働運動史』(未来社、一九九四年)参照。

井口 容子 [いぐち ようこ]
 一九三一年大阪市生。一九四八年大阪府庁入庁。一九五二年より大阪府職員組合婦人部長として専従。同時に大阪総評婦人部長、自治労協青年婦人協議会副議長等を務める。一九五八年出産のため職場復帰。日本婦人会議大阪府本部など地域活動にも関わる。一九八八年大阪府女性政策課長を最後に大阪府を定年退職。その後兵庫県宝塚市立女性センター(一九九七年まで)、一九九八年から大阪府摂津市立女性センター(ともに初代館長)、現在にいたる。

津和 慶子 [つわ けいこ]
 松本市生。一九七二年より日本婦人会議(現、I女性会議−サイト管理者)発行『婦人しんぶん』(現「I 女のしんぶん」)編集部に。現在、同会議議長。ほかに、戦争への道を許さない女たちの連絡会事務局、女のからだと医療を考える会事務局、北京JAC会員(暴力防止法コーカス)、国際婦人年連絡会家族福祉部会座長などを務める。『男女平等』(日本婦人会議中央本部出版部、一九七八年)など著書多数。