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連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」C 戦時下の山川菊栄
 

*出典などは第一回参照。第四回は長文のため、三ページにわけて掲載する。
 

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  加納実紀代・林葉子
 

■山川菊栄の「戦争協力」と抵抗
 
  加納実紀代
 
  タイトルの山川菊栄の「戦争協力」は、もちろん括弧つきなのですが、あえて挑発的な狙いもあってつけました。戦争協力ということで言えば、山川菊栄さんはノット・ギルティと一番に言える方だと思います。しかし今日読み直すには、ただほめたたえるだけでは意味がないし、山川さんの戦争中の言動への私なりの違和感も提起して皆さんにご意見をいただければと思います。
 
●十五年戦争の開始と「有識婦人」
 
 柳条湖事件
  戦時下という場合のとらえ方ですが、私は一九三一年九月一八日のいわゆる柳条湖事件、当時は「満州事変」といいましたが、その一九三一年から一九四五年八月一五日までを戦争と考えています。実質一三年一一ヵ月ですが、足かけで一五年。これをいわゆる十五年戦争史観と言います。とくに女性の戦争協力を考える場合には、私は十五年戦争史観で考えたほうがいいと思っております。
  では一九三一年の十五年戦争の開始を、当時の女性の知識人あるいは婦人運動家と言われる人たちがどうとらえたのか。
 
  その前に、当時のマスメディアの戦争協力を見ておきたいと思います。私は仲間たちと一九七六年から一〇年かけて『銃後史ノート』というかたちで十五年戦争中の女性の戦争協力を検証してきました。その三号に載せた「ドキュメント・満州事変」から吉岡弥生、市川房枝、平塚らいてう、高良富子、高群逸枝、八木秋子、山川菊栄といった女性たちがマスメディアで発言したものを紹介します。その前に、当時もっとも大衆的な女性雑誌『主婦之友』の姿勢をみておきましょう。
 
 『主婦之友』
  『主婦之友』一九三二年一月号では、漫画から見た満州問題、日本が満州事変を起こしたのにいかに日本に正当性があるかを漫画というかたちで読者に知らせている。今日でも小林よしのりという漫画家が若い人に害毒を垂れ流していますが、漫画という大衆に入りやすいかたちで正当性を押しつけるのは昔からある手法です。
  同じく『主婦之友』の一九三一年一二月号にのった「満州の軍人さんに防寒着を贈りませう」という社告があります。手作りして贈る、身体を動かして参加することによって精神的動員はうんと進みます。
 
 高良富子
  さて、有識女性の発言を見てみましょう。『東京朝日新聞』一九三一年一一月一八日朝刊に「婦人の立場から満州事変を観る」と題して、高良、吉岡、市川、平塚氏のコメントが載っています。まず高良富子(とみ)さんですが、「日華関係については、十年来婦人としても責任があります。この責任を果たさないうちに、今日のような関係になったことは誠に残念です」としたうえで、日本女性は積極的に平和を望んでいるから、日本の立場を世界に知らせていくことが必要と言っています。戦争の性格については、あいまいですが、戦争に否定的であることははっきりしています。
 
 吉岡弥生
  吉岡弥生さんは、軍や体制側と同じ姿勢に立っています。ご承知のように、満州事変というのは中国東北部、当時の満州において日本の関東軍が満鉄線の線路を自分で爆破しておきながら、中国がやったのだと攻撃をしかけたわけです。どう言いくるめても、日本側に正義の主張ができないと思うのですが、吉岡さんはやむを得ない事態、悪いのは中国側だと言っています。「ですから、今は政党政派にとらはれずに、挙国一致で、事に当たるべきでせう。そして、連盟に対しては、あくまでも強硬に出たいものです」という。
  当時、国際連盟では日本批判はありました。でも国際連盟を構成するいわゆる列強自身も同じ穴のムジナ、植民地支配をしていたので、日本非難もあまり歯切れがよくなかったのです。そのあとで、リットン調査団などが出た結果として、柳条湖事件の正当性が否定されました。それを不服とした日本は、三三年三月国際連盟を脱退するというかたちで国際的孤立を深め、かつドイツ・イタリアのファシズムとの連合を強めていくことになります。そういう事態を吉岡弥生は完全に肯定するわけです。
 
 市川房枝
  次の市川房枝さんの場合、この段階では非常に批判的な姿勢です。「私の平生の考からいひますと、国際紛争は、武力でなく平和的手段で解決したいと思います」「これ以上に拡大しないで解決することが急務だ」と言っています。そして敵も味方もなく子どもを愛するのが「婦人の本性」であり、女性は「人類の母」であることを自覚すべきだと、いわゆる母性主義に立った平和論を展開しています。
 
 平塚らいてう
 平塚らいてうさんは、『都新聞』(一九三一年一二月二七日)で、社会主義婦人団体が今度の事件にたいしてはっきりしないことを批判しています。この東京朝日では、「また権益とか条約とか、いはないでも人類的立場から何うしても日本民族が生存するうえに、満蒙がなくてならぬものである以上、正義にかなつた主張を立派に全世界に対して出来るはずだと思ひます。人類の共存共栄の大きな立場があるはずです。人類の生存といふ点から必要なるものとして弁解的でなく、堂々と解決に導けるはずです」と言っています。
  これだけ聞くと、当時侵略論者がいっていた「満蒙は日本の生命線」と同じです。日本の侵略には、それなりの人類的意義があると読める文章ですね。
 
 高群逸枝
  高群逸枝は、満州事変が始まる二ヵ月前の七月一日から「森の家」にこもって畢生の女性史研究に取り組んでいたわけですが、時評的なものをずっと書いています。そのうちの一つ『婦女新聞』のコラムでは、女性運動家たちの戦争反対の動きの鈍さを批判し、その原因について弁証法哲学の父ヘラクリトスとかヘーゲル、マルクスだとかの発言を引きながら、無産婦人運動における階級闘争の必然性から、戦争の必然性を導き出しています。
  また有産婦人の「母性の立場」も、「やがては『一太郎やぁい』となるべきことが、それ自身として正しいのである」と非常にクールに批判しています。
 
  「一太郎やぁい」は、日清戦争で息子が出征していくのを「俺のことは心配しないでお国のために働けよ」と言って送り出したという母親の鏡として国定教科書に出てくる話ですが、高群はそれをひいて、世界史の発展が闘争・戦争を不可避とするならばそれ自身としては正しいのであると、非常に傍観者的立場から発言しています。
 
 与謝野晶子
  次は与謝野晶子。日本は満州事変の翌年二月に上海事変を起こしますが、そのなかで爆弾三勇士事件というのが起こります。これも教科書にのったり、歌やお芝居や映画になり、当時の民衆意識を国家に集約していくうえで大きな役割を果たしました。それにはマスコミが犯罪的な役割を果たしています。与謝野晶子は、三勇士の死を尊い自己犠牲と非常に肯定的に取り上げています。晶子は、日露戦争に当たっては「君死に給ふ事勿れ」と非常に素晴しい歌を作ったわけですが、この段階では夫の鉄幹が爆弾三勇士の歌を作詞しているということもあってか、批判的な姿勢はまったく見えません。
 
  四〇円の月給で家族五人が何とか食べられる時に、新聞社が爆弾三勇士の歌を募集し、賞金がなんと五〇〇円なのです。何万という応募があって、結局「廟行鎮の夜はふけて」という与謝野鉄幹の作詞が採用されました。
 
 八木秋子
  八木秋子はアナキストで山川さんとは違う立場ですが、満州国家建設はブルジョアの利益に資するものでしかない、「帝国主義戦争絶対反対だ。俺たちは凡ての愛国運動の欺瞞を暴露し粉砕せよ」とまっこうから批判しています。ただ『農村青年』というミニコミの運動体の機関誌に無署名で書いたものです。
 
 山川菊栄
  肝心の山川さんですが、当時いろんなところに連載で時評的なものを書いていました。満州事変に当たっては『婦人公論』の一九三一年一一月号に「満洲の銃声」という文章を書いています。『山川菊栄評論集』に全文が入っております。
  山川さんも、自分がどう思うというよりも、この事件が客観的にどういうものであり今後どうなるという姿勢で書いています。このころは大不況で、労働争議が頻発していて右も左も騒然としていたのですが、「満州で放たれた一発の銃声は、国内の騒音をはたと沈黙させた」と、冒頭で、一発の銃声の歴史的意味をぴしっととらえています。
 
現状分析として、幣原のそろばん外交も軍部の侵略主義も根っことしては同じものという見方が印象的です。当時の幣原外務大臣(非常にリベラルだということで、戦後は首相にもなった)は軟弱外交と批判されていたわけですが、いよいよ強行路線の満州事変が起こったとき、強行路線がけしからんというだけではなく(もちろんけしからんと思っていらっしゃることはこの文章からも分かります)、経済的侵略も同じなんだと、資本主義なるものの性格を非常にクールに見すえたうえで、いずれも中国民衆の独立欲求を押さえることはできないとしています。
  それから、女性主義だとか女は平和勢力だとかということの限界性を、ぴしっと書いておられます。「戦争防止の力を婦人の平和的本能に求めようとするお上品な運動もひっきょう平和時代の遊戯にすぎない」「彼女たちは、正義のため、共同利害のためには、子に傾け尽すと同じ熱情と感激とをもって、その子を戦神の祭壇に捧げて悔いないのである。単純な、本能的な母性愛や平和な家庭生活への執着は、より大きな、集団の共同利害の前には、いつでも犠牲にされるだけの用意がある」と結んでいます。この後での日本女性の戦争協力を予言されてしまったという感じがします。
 
●日中全面戦争と日本婦人団体連盟の結成
  次の段階として一九三七年七月七日、北京郊外で起こった盧溝橋事件をきっかけに、日中全面戦争になるわけです。
 
  市川房枝の転向
  先程、市川房枝さんの満州事変にたいするとらえ方には批判的姿勢が見えると申し上げました。その後も婦選大会を三五年まで開いて、ファッショ反対とか軍事費の増大にたいする批判をスローガンに掲げていました。しかし、三五・三六年の選挙粛正運動などからは国策協力路線に自ら入っていくかたちが見えてきて、盧溝橋事件以後それがはっきり出ています。
 
  婦選獲得同盟の機関誌『女性展望』三七年九月号から日中戦争を契機とした彼女の「転向」を示す文章を紹介します。「現在の如き情勢に於ては所謂婦選―法律の改正運動は、一層困難となるであらうことはいふ迄もあるまい。然し私共が婦選を要求する目的は、婦人の立場より国家社会に貢献せんがために政府と又男子と協力せんとする所にある。従ってこの国家としてかつてなき非常時局の突破に対し、婦人がその実力を発揮して実績をあげることは、これ即ち婦選の目的を達する所以でもあり、法律上に於ける婦選を獲得する為の段階ともなるであらう。悲しみ、苦しみを噛みしめて、婦人の獲るべき部署に就かう」というわけです。
  つまりこういう事態のなかで戦争に協力すること自体が婦選の目的と一致するというわけです。
 
 日本婦人団体連盟の結成
  具体的な現れとして結成されたのが日本婦人団体連盟です。一九三七年九月二八日に、市川さんなどが中心になって、自主的な女性団体八団体が集まって作りました。婦選獲得同盟、YWCA、婦人矯風会、『婦人之友』の友の会、それから小学校、中学校の女教員会といったところです。体制内の女性団体、国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本女子青年団などは、国民精神総動員中央連盟という組織に入っていたわけですが、それにたいして日本婦人団体連盟は外から協力しようというのです。この婦団連の規約には「本会は全国的組織を有する自主的婦人団体にして、社会改善乃至は、婦人の地位向上を目的とする婦人団体を以つて組織し…現下の非常時局の打開克服に努力することを以つて目的とす」とあり、宣言には「国家総動員の秋、我等婦人団体も亦協力以つて銃後の護りを真に固からしめんと希ひ」とあります。
  四〇年には、婦人参政権はなくても国策決定の場に女性が進出している、社会参加できているとして婦選獲得同盟を解散してしまいます。
 
  それでは婦団連として具体的に何をしたのか。
  一九三七年七月の盧溝橋事件のあと日本軍は上海に上陸し、上海から南京に向けて進撃、三七年一二月一三日に南京を陥落させました。南京では、南京虐殺、南京レイプという大事件を起こしています。しかし中国は首都を落とされても、「空間を持って武器となす」という発想で降伏しないので、日本軍は徐州へ、武漢三鎮戦へと、だんだん内陸に引き込まれていくわけです。そういう長期戦のなかで日本はもともと資源小国ですから、どんどん生活必需品は不足してくる。それを耐え忍ばせるためには女性、とりわけ主婦の協力がぜひとも必要です。
  そのためには女性の生活実態、女性の願いをきちんと言える人の協力が必要だということで、国民精神総動員委員会に、三八年から三九年に婦団連の人たちをどんどん入れていく。そして女性に戦争協力させるためにはどうすればいいか、資源不足にどう対応するかといったことを積極的に提示していく。買いだめ防止と巷の無駄を探すということも生活の合理化とセットになって行なわれます。
 
 山川菊栄の批判は鋭く的確
  婦団連にたいする山川さんの批判は非常に手厳しく、また非常に的確です。「政府の女性徴用」と「婦人の団体行動」というタイトルで、評論集に収録されています。
  かつて私は、「わがあこがれの顛末」(『女たちの〈銃後〉増補新版』インパクト出版会、一九九五年、所収)で次のように書きました。「しかし、非大衆の女に対しては、山川の口調は一転して辛辣をきわめる。とくに、国民精神総動員運動への協力をうたって市川房枝らが結成した婦人団体連盟の活動家たちに対しては手厳しい。『精動のチンドン屋、旅費稼ぎの講演屋という悪口が言われている』、『中には政府との協力を気負って、もはやタダの女、タダの人民ではなくなったかのように鼻息の荒いのもあるとかで…』」。
  慎重な言い回しながら非常に辛辣です。もちろん、批判だけではなく、悲しみというか残念だという思いも非常にあっただろうと思います。
 
 贅沢退治運動をどう見たか
 四〇年になるとさらに物不足が強まって七月七日に奢侈品等製造販売禁止令というのが出ます。そして八月一日には都内一五〇〇ヵ所に「ぜいたくは敵だ」という看板がばーんと立つわけです。
  それにたいしていろいろな女性たちが発言していますが、作家の宮本百合子と窪川(佐多)稲子の発言を紹介します。窪川稲子さんは「贅沢の出来ない女性たちこそ、今度は大手を振って歩けるわけである。贅沢や華美に対して、今度は軽蔑の目をくれてやれることになるわけだ」と書いています。佐多さんはプロレタリア作家として世に出た人ですから、貧しい女性の立場に立っています。その上でいわゆる有閑婦人を批判し、戦時体制における「平等」を歓迎しているわけです。
 
  宮本百合子も、「この日本で、女の贅沢をひかえさせるために女の挺身隊がいるなどとは」、つまり、挺身隊が街角に立って、指輪はこの際全廃しましょうとか、パーマネントはやめましょうというカードを渡す、たもとの長い女性を見つけたらたもとを切る、そういう一種女性憲兵が出現したことにたいして、「何と情けないことだろう。今の時代に目にあまる贅沢などというのは、つまりは女が社会を見ている眼の狭さ小ささ、愚かしさを語るだけのものだ。ひとの儲ける金を浪費する女の感情のだらしなさが映っている」と、もっぱら取り締まられる側の女性を批判します。
  これにたいして山川さんは、『読売新聞』四〇年八月七日に「女の寄生生活一掃へ」を書いていますが、これは山川さんの特徴が出ていて見事だと思いました。女性がおしゃれをしたりぜいたくをしたりするということは、男性がそういうふうに仕向けているのだというわけです。
 
  「男の中には女の洒落気なく着物好きでないのも玉の杯底なきが如くに思ふ者が多い」「贅沢品への執着はかういふ女の生活の結果であり、また女に対する男の低調な要求の結果でもある」。つまり女がそうであることを批判するだけでなく、なぜ女がそうならざるを得ないのか、その背後にあるものをきちんと見ている。「今の女学校出の中には、お化粧の外に能がない、ダンスの相手やお茶の給仕より役に立つ仕事に向かぬやうに育てられた、者が多い。芸娼妓も同じことで、なる者よりは、そこへ追ひ込んだ世の中に罪がある」。
 
 最後に「女を生産的な仕事から引離して、男の玩弄物としてみる男性自身の女性観を変へるのでなければ、永久的な効果はむづかしからう」というかたちで、現象だけをとって批判するのではなくて、現象を生み出した構造にきちんと目を向けて批判をしています。
 
●山川菊栄の「戦争協力」
  さて、山川菊栄の「戦争協力」です。「わがあこがれの顛末」にも書いたことですが、配給制度に関するものです。山川さんは『読売新聞』三九年一二月一三日に「物資の欠乏と切符制度」という文章を書き、物不足のなかで、切符制度つまり配給統制を国家としてちゃんとやるべきだと要求しているわけです。具体的にものがなくなってきたら、政府は女性にたいして、「ぜいたくするな、買いだめするな」と現象的なことを言い立てるのですが、山川さんはそんなことを言うひまがあったら生活必需品が平等に渡るよう配給制度を早く導入すべきだと言っています。これはもちろんその限りでは正しいことだと思うのです。しかし、戦時体制全体を見たときに、配給制度が導入されることによって民衆の生活は根底から国家につながれてしまった、国家に統合されたと思います。山川さんが配給統制を要求したことは結果的に見ればやはり間違いだったと私は思っています。これが私の違和感です。
 
  最後にもう一つ、山川さんが一九四三年に出された『武家の女性』を読み直して違和感を感じたのが、明治民法にたいする評価です。『武家の女性』は、幕末から明治維新直後ぐらいまでの水戸藩に焦点を絞って、お母さんの千世さんの話を中心に、変革の時代に生きた女性を描いたものです。そのなかで、一八九八年(明治三一年)明治民法ができたことによって、妻の立場が非常に安定化したと肯定的に書かれています。
  これは私の認識とは非常に違います。明治民法というのは、日本全体の女性から見ると、例えば相続も長男相続に一本化されてしまった。それ以前の一般民衆で言えば、姉家督だとか、末子相続だとかいろいろあったのを家父長制的に統一したわけで私は否定的に見ています。
 
  一九四三年に書かれたものですから、戦時体制下において筆を曲げざるをえなかったのか、あるいは山川さんが士族出身であってその立場から見れば明治民法を評価するということになるのか。どちらなのだろうと考えているところです。
 
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