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連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」D 山川菊栄とナショナリズム
 
*出典などは第一回解題参照。二ページに分けて掲載。   次のページへ   
 
鈴木裕子・大越愛子
 
 
■山川菊栄におけるジェンダーとナショナリズム
鈴木裕子
 
 山川菊栄さんが一九八〇年に亡くなられた翌八一年から八二年にかけて、わたくしはご縁があって『山川菊栄集』の編集に携わりました。一九九〇年生誕百年記念事業の一環として行なわれた連続講座(山川菊栄と現代)では「暗い谷間の時代・戦時下を生きる│山川菊栄の抵抗の姿」という題でお話しいたしました。今回この連続学習会を山川菊栄記念会で企画しました折は、山川さんとナショナリズムについて深めたいと思い、講師をお引き受けしました。しかしこの一年間ほどずっと体調が悪かったこともあってその後のわたくしの研究は進んでおりません。したがいまして、今日は大したお話ができず、ご参集いただいた皆さまに心苦しく存じます。
 
 さて、今日お話しする時期ですが、一九二八年から一九三一年ぐらいまでに対象を限らせていただきます。
 
 本題に入ります前に、戦後の山川菊栄評価について簡単に触れておきます。山川さんが一九四七年以来、日本社会党に属していたということもあって、共産党色の濃かった歴史学界にあっては、山川への評価は総じて低かったといって過言ではないと思います。せいぜいのところ山川菊栄をマルクス主義女性論の唱導者という評価でしかとらえていません。甚だしい場合には、山川はマルクス主義者として出発しながら、敗戦後の第一回国際女性デーを邪魔したといった、事実に基づかない叙述も見られ、党派的ともいえる偏した見解がまかり通っていました。これにたいして、日本婦人問題懇話会を中心とした、現在の山川菊栄記念会を作った方々は、山川菊栄を女性問題研究者、女性解放思想家として見直す作業を続けてこられました。
 
 山川さん(以下、敬称略)はいままで再三ご紹介がありましたようにたいへん地味なお人柄で、ご自分をアピールするということから全く遠い人であり、晩年は歩行が困難で、引きこもっておられていたせいもあって、一般的には忘れ去られた存在だったのですが、前述のように山川菊栄さんが亡くなって一年後、『山川菊栄集』全一〇巻別巻一巻が刊行され、一一巻そろうことによりまして山川菊栄を読み直していくための基本的なテキスト、つまり素材を提供することになったと思います。
 
 これ以後、若手の研究者、外国の研究者による山川研究もぼちぼち始まったようであり、山川菊栄研究は、ようやく本格的段階に入ったといってよろしいのではないかと思います。
 
●山川菊栄のフェミニズム思想の特徴
 
 山川菊栄のフェミニズム思想の特徴は次の三点にまとめることができると思います。
 まず彼女のフェミニズム思想は、今日で言うところのジェンダーの視点に深く根差していたことです。とりわけセクシュアリティの問題に非常に早くから着目していたことです。
 
 二つめは、山川の女性論が生活者の思想と運動に結びつくことをとても心がけていたことです。山川は極力観念的理論というものを排しました。具体的にものごとをとらえ、解決策を提示しつつ、論理を展開していった人ではなかろうかとわたくしは思います。
 
 三つめは、今日の大きなテーマなのですが、山川菊栄は民族排外主義、ナショナリズムを超え、民族差別に苦しむ人びととの連帯を模索したことがあげられると思います。わたくしの知る限り、日本のフェミニストあるいはフェミニズム運動は、自国の植民地支配にたいして不感症だったと言えます。極言すれば一国主義的女性運動であったのではないでしょうか。ここ一〇年ほど日本軍「慰安婦」問題、正しくは日本軍性奴隷制問題にかかわるなかで、わたくしはそのことをとても痛感させられております。
 
 ちょっと本題から外れますが、上野千鶴子さんが青土社から出された『ナショナリズムとジェンダー』(一九九八年)に少し論及しておきましょう。このご本のなかに「女性社会主義者か社会主義女性解放論者か―山川菊栄の場合」という項目があります。そこにおいて上野さんはまず「戦前の女性社会主義者をフェミニストに加えるかどうかは、それ自体論議の対象となる」として論じはじめます。ついでフェミニズムの定義を暫定的定義だとしながら「第一に女性の自律的運動であること、第二に女性の性役割(ジェンダー)に対する問題化があること」、その二つが要件だとしています。
 
 上野さんは「社会主義の運動はまず男性優位の運動であり、したがって女性の自律的運動という条件を欠いている」といいます。これだけ見ますと正しく、わたくしも異存はありません。次に上野さんは「社会主義陣営は女性の要求の独自性を認めず、むしろ女性が独自の動きを作ることを『分派主義』と呼んで嫌った」といいます。そのあと「社会主義者にとっては女性解放は労働者階級の解放に従属するものであり、社会主義革命と同時に自動的に達成されるべきものであった」。それゆえ「女性独自の闘いは意味がないばかりでなく、労働者の団結を阻害する、と見なされた」。「しかも解放されるべき女性は労働者階級に属する女性たちであって」、青鞜派フェミニズムなどは、「ブルジョアの手すさびと言うべきであった」と述べられています。ここには日本の社会主義運動にたいする、ある意味では非常に簡潔な上野さんの評価が下されています。
 
 そしてこれらを前提に上野さんは山川菊栄について次のように断定します。「現在の経済関係といふ禍の大本に斧鉞を下」そうとしない、つまり、社会主義革命に結びつかない「女性解放」に否定的であった。「山川においても、女性の解放は労働者の解放に従属し、かつそれとともに自動的に訪れると信じていた」と論断されるわけです。上野さんには、山川菊栄がまずジェンダーから出発し、そのジェンダー概念・正義を階級的女性運動に生かそうとした苦闘の跡は全くしのばれていないようです。それは上野さんが当時山川自身が書いたものをほとんど読まれていないらしいことと大いに関係がありそうです。このほかにも、上野さんの山川批評(クリティーク)には、女性参政権にたいする山川の見解などについての基本的ミスがあります。一次資料に当たらないためですね。研究者としてはまず一次資料に当たることがルールです。基本テキストに当たらず、このような断定を下されるのは、いかがなものかと存じます。山川菊栄の実像をきちんとお伝えするためにもあえて苦言を呈させていただきます。
 
●セクシュアリティへの視点
 
 本題に戻り、第一のセクシュアリティですが、先程も申しましたように山川菊栄はたいへん早い時期からこのことに着目し、発言しました。性差、つまりジェンダーというものが、まさに歴史的・社会的に作られたものであるということを一九一〇年代において喝破しています。山川自身の言葉でいえば「すでに売淫の発生が経済問題と、婦人の屈従を強いる教育と、その拘束との結果であることが判然としている以上、これが根絶は経済革命と婦人解放とによるほかないのは自明である」(「現代生活と売春婦」、原題は「公私娼問題」一九一六年)と。ここに早くも社会主義的立場に立つフェミニストとしての相貌をあらわに示していたということが言えると思います。
 
 第二回目の井上(輝子)さんのご報告で詳しく論及されていますが、セクシュアリティへの関心は、彼女に自主的母性論に基づく産児調節論をも早い時期に主張させています。社会主義者としては、これは稀有なことです。当時の社会主義者は、洋の東西を問わず、山川が深く敬愛していたローザ・ルクセンブルクをはじめ、新マルサス主義反対の立場から産児調節運動に否定的でした。日本でも大方そうでして、堺利彦などは例外的でした(詳しくは、鈴木裕子編『堺利彦女性論集』三一書房、一九八三年、参照)。
 
 さて、日本における産児調節運動は、マーガレット・サンガーが来日した一九二二年を機に展開されますが、山川菊栄はそれ以前から積極的に産児調節論を主張しております。「産児制限は、生殖の奴隷たる地位より放たれんとする女性の努力の現われである。自己の意思に反して母たることを呪う心は、同時に自己の意思にしたごうて母たることの要求と一致する、かくて産児制限によって、性的奴隷制度に対する女性の叛逆は成就せられ、自由母性の崇高なる理想は実現せられうるのである」(「女性の反逆」、一九二一年。のち単行本収録に際し、「婦人解放と産児調節問題」に改題)。女性の生と性の自己決定権をここで強く打ち出したと申し上げてよろしいと思います。
 
 そのような山川は同時に、これまた一九八〇年代にようやくわたくしたちの耳に入ってきました「性暴力」問題にも極めて敏感であったのです。「ひとえに男女の地位の相異に基づいている。道徳は、婦人を独立の人間としてでなく、男子の独占的私有物としての資格の上に、その価値をみとめている。だからその独占的私有物としての資格にキズがつけば、人間としての価値が亡ぼされるのである。…もし婦人が男子と同等の人格をもつものと認められるならば、他人から危害を加えられたという不慮の災難のために、何ら道徳上の責任を負うべきではない。…婦人はその『貞操』を失うと共に、それが全く自己の責任によらざるにもかかわらず―社会的に葬られる結果となるのである。…男女の地位の相異ということは、婦人に対する暴行事件とは、一見関係がないように見えて、根柢においては切り離すことのできない関係をもっている。男子にとって婦人は同等の価値ある人間ではない。冒すべからざる人格をもつものではない」(「性的犯罪とその責任」、一九二八年)と、女性への性暴力のよってきたるゆえんをあざやかに斬るわけです。また、わたくしどもがあらためて驚嘆させられるのはセクシュアル・ハラスメントにたいしても、山川が性暴力として正確に認識していることです。さらに強調したいのは、彼女が性暴力の根底にある女性への性搾取・性暴力を公認・官許する公娼制度の存在を明確に指摘し、終始一貫して徹底的批判を加えていることです。
 
 一九二五年の無産政党結成時に女性政策をどう盛り込んでいくかという時に山川菊栄が出しました「『婦人の特殊要求』について」があります。出された綱領中、女性関係は三つ、すなわち参政権要求、深夜業等の禁止、母性保護要求が出されていましたが、山川はこれにあきたらず一から八を追加項目として提出しました。その一つが公娼全廃です。
 山川菊栄が言うところの公娼全廃というのは徹頭徹尾無産階級女性の立場に立っています。婦人矯風会や廓清会が、風俗・性道徳問題として捉えがちであるのにひきかえ、山川の見解はきわめて明晰で、これを無産階級女性の経済問題だと把握します。
 
 すなわち公娼廃止の問題は「その本質において無産階級婦人の人身権擁護の問題であり、その封建的搾取制度の可否いかんの問題であることを冷静に考えねばならぬ。…(日本労働組合評議会の行動綱領の中に)『人身売買、親方制度その他野蛮なる労働制度の廃止』という項目が掲げられている。日本の公娼制度はある程度までこの項目の内容に該当している。異なるところは、この場合には強制されるものが『労働』であるに反し、かの場合には売淫である一点である。もしも売淫が労働の一種とみなされうるならば、われわれはこの評議会案の項目の中に『公娼をも含む』と註を容れるだけで済まされるはずである。
 
 監獄部屋の労働を非としながら、監獄部屋の売淫を是とするいかなる理由を見出すことができようか。のみならず、公娼の場合には、単にそれが監獄部屋での強制売淫たるに留まらず、強制検梅という、婦人、否な全人類の人間性に対する最大の侮辱、最大の人権蹂躙が伴い、かつ国家権力をもってこれらいっさいのことが保護されているのである」(「『婦人の特殊要求』について」、一九二五年)と、女性の人権の視点から公娼廃止はもとより、強制検梅(強制性病検査制度)にもはっきりと否と言っているのです。
 
 当時の労働者の気風として俗に「飲む、打つ、買う」といわれました。運動に熱心な労働者だからといって、必ずしも女性の人権に敏感だったわけではありません。むしろ、女性の人権にたいして不感症で、女性を道具視さえしていました。その典型は戦前の左翼運動のなかに見られたハウスキーパー制度です。そういうことにたいしての批判もここに含まれていると思います。
 
 山川菊栄は一九二五―二六年を境にして、実際運動との関わりが薄くなります。これは、コミュニストグループにおける福本派のヘゲモニー掌握と大いに関わりますが、ここでは割愛させていただきます。とりわけ一九二八年以降は『婦人公論』や『読売新聞』などへの時事評論執筆などに活動の重心が移ります。それ以後も、性暴力やセクシュアリティに関しての彼女の関心、怒り、指弾は貫かれていたと思います。
 
●階級差別と民族差別を撃つ
 
 最後に「階級差別と民族差別を撃つ視点」についてお話ししたいと思います。わたくしはやはり、山川菊栄という人は、いつも社会的な「弱者」の立場に立ってものごとを考えかつ書いた人だと思います。
 
 与謝野晶子は、母性保護論争において女性はすべからく経済的独立の要件を備えてから結婚・妊娠すべきであるということを主張し、平塚らいてうの言うように妊娠・出産・育児期にある女性が社会あるいは国家から保護されるべきとする「母性保護」の主張にたいし「老衰者廃人が養育院の世話になるのと同じ」だとして、母性保護を排斥しました。その与謝野の主張にたいして山川菊栄はこう批判しています。「もしそれが屈辱であり非難に値するならば、恩給や年金によって生活を保障されている軍人や官僚の古手もみな」非難に値する。「畢竟同一性質にほかならぬこの二種の養老制度が、一を名誉と自由をもつ楽隠居とし、一を屈辱と憐憫にしか値せぬ厄介者とするのは、社会の階級的偏見の結果、老人扶助の方法または形式に多大の差異があるからである」(「母性保護と経済的独立」、一九一八年)と、老人問題にたいしてもみごとな階級的把握を行なっているのです。これは、今日の、介護や医療問題に典型的にあらわれている「弱肉強食」「優勝劣敗」的な、いわゆる社会ダーヴィニズムにたいする真っ向からの批判にもなっているでしょう。
 
 平塚らいてうの「母は生命の源泉であり、母性の営みは国家的・社会的営みであるから国家社会がそれを保障すべきである」といった主張にたいしては、それは、母性の保護を「国家の好意を俟」とうとしているものであると鋭く批判します。母性保護も女性の労働権の確立にしても、それを勝ちとる主体は女性労働者自身であるという彼女の階級的立場がそこにくっきりと反映されているのです。
 
 山川のこの階級的立場に立つ女性運動論、いいかえれば社会主義フェミニズムは一九二一年に旗揚げされた赤瀾会のバックボーンになります。赤瀾会は八ヵ月足らずでつぶれますから山川の女性理論が実現化されたとはとうてい言えませんが、赤瀾会に山川が大きな期待を抱いたことは事実といえましょう。
 
 さて、次に民族的差別と偏見を撃つ山川の視点についてですが、一九二三年九月の関東大震災では六千人の朝鮮人が虐殺されました。当時関東地方に住んでいた朝鮮人はそう多くないのでたいへんな数字です。わたくしが知る限りでは山川菊栄は女性知識人としては最も果敢に朝鮮人虐殺に抗議した人です。「大試練を経た婦人の使命」「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」(いずれも一九二四年)には、官憲に躍らされたとは言え朝鮮人虐殺に手を下した日本民衆の罪を強く糾弾していることがうかがわれます。むろん、そこには権力にたいする強い批判が脈打っているのはいうまでもありません。
 
 さきの無産政党女性綱領のなかに、山川が八項目要求としてあげているうち、とくに民族差別の除去に日本の無産政党が努力すべきことを主張しているのはやはり注目すべきです。うち三、四、五項からキーとなる文章を拾いますと、「すべての教育機関および職業に対する女子ならびに植民地民族の権利を内地男子と同等ならしむること」「民族および性別を問わざる標準生活賃銀の実施」「業務を問わず、男女および植民地民族に共通の賃銀及び俸給の原則を確立すること」(「『婦人の特殊要求』について」)でした。教育・職業・賃金において女性同様、植民地の民衆にたいしても「内地」の日本人男子並みにせよと強く平等を迫っているわけです。それにたいして、本当に信じがたいことですが、当時の左翼運動の指導者たちは、「植民地民族に内地人と同等の権利を与えることは、それらの民族の隷属を承認する」といった奇妙な理屈で、民族差別撤廃を自分たちのたたかうべき課題として取り上げるどころか、逆に排斥していったわけです。日本では左翼も右翼も関係なくナショナリズムの罠にはまっていたと言えます。
 
 それにたいする山川さんの反論はこれまた明快で、「われわれは植民地民族にとっても、内地人の場合と同じく、政治的、社会的デモクラシーが徹底的解放の要求を援けこそすれ、決してそれの妨害となるものではないことを信じている。植民地民族に対する教育上の制限が、帝国主義的政策の具体的な現われの一つであり、知力上における内地人の優越権保護と、植民地民族の自覚防止とを意味するものであることはいうまでもない。しかるに反帝国主義を標榜しつつ、帝国主義的施策のこの具体的な例を承認してよいだろうか」(同前)と怒りをもって反論を加えているのです。
 
 職業の自由についてもそうです。「今日すでに資本家が賃銀の廉い婦人や支那(差別的言葉ですから、本来使用すべきではないのですが、歴史的用語として使います)朝鮮の労働者を雇うて内地の男子労働者を駆逐せしめつつある際、このうえ婦人や植民地民族に男子と平等の職業の機会を与えることには反対するというのが、評議会指導部の意見である。これは正確にクラフト・ユニオニズムの精神である」、「資本家が婦人や支那人朝鮮人を好んで雇うのは、内地男子と同等の人格を認めての上ではない。かえってその反対に、不同等と認めればこそ、従って賃銀が廉くて済めばこそ、雇うのである」(同前)と激しく非難し、その誤ちを指摘してやまないわけです。
 
●ナショナリズムを超える視点
 
 「山東出兵」というのはあまり注目されていないようですが、いわゆる済南事件(一九四五年三月の東京大空襲はたいへん有名ですが、それよりも一七年も前の済南事件はあまり知られていないようで)というのは、日本軍が無防備な中国市民にたいし激しい無差別爆撃を行なって、三六〇〇人を虐殺した事件です。この無差別爆撃が日本軍の残虐性を中国人に印象づけ、かえって抗日意識を高めさせたということが事実としてあります。
 
 その時期に書かれたのが「フェミニズムの検討」(一九二八年)で、一九二八年七月に長谷川時雨が創刊した『女人芸術』に載せられました。ブルジョア女性運動は、事実のうえで資本主義政府に協力し社会と女性の解放を防あつする、資本主義的搾取とたたかわず、帝国主義戦争に反対しないフェミニズムと、山川は厳しく批判しています。そして、資本主義体制の内部において女性が公的権利、つまり市民的・政治的権利を回復し(女性参政権運動などを指します)、公的活動に参与することによって人類の政治と道徳が根本から立て直されるというのは幻影であり、そういう幻影を抱く者が「女性文化」論者であり、「フェミニスト」であるといっています。ここでは「フェミニスト」をブルジョアフェミニストという意味で使っているわけです。
 
 第一次世界大戦で反戦の立場をとったローザ・ルクセンブルクは虐殺されました。それにたいしイギリスの戦闘的女性参政権運動家でありましたパンカーストたちは、参政権を得るために第一次世界大戦に協力しました。そのことを例に引きつつ、日本の「フェミニスト」への危惧が語られます。「今や第二の世界戦争の危機は刻々に切迫してきている。特にその危機が、支那問題を中心として極東の空に迫りつつあることは、何びとの目にも明白である。この時にあたって『女性文化』論者たるフェミニストは、戦争を防止するためにどういう努力を払っているか。婦人の地位向上を主張する団体のうち、無産階級と共に世界戦争の危機へ導く出兵問題に対して抗議したものが一つでもあるだろうか」(「フェミニズムの検討」)。
 
 この彼女の危惧は不幸にも的中いたします。「盧溝橋事件」さらに「アジア太平洋戦争」と侵略戦争が進むにつれて、日本の女性運動家たち、フェミニストたちは、「大日本帝国のフェミニスト」となって、国民精神総動員運動、大政翼賛運動に積極的にコミットメントしていきます。女権拡張、あるいは女性の権利を勝ちとる、日本の女性の地位を高めていくのだという論理によって戦争協力・翼賛加担が正当化されていきます。
 
 最後に、一九三一年の柳条湖事件が勃発した直後に書かれました「満州の銃声」(一九三一年)という文章を紹介し、終わりにさせていただきます。「戦争防止の力を婦人の平和的本能に求めようとするお上品な運動もひっきょう平和時代の遊戯にすぎない。婦人は平和を愛し戦争を憎むにしても、その社会的、集団的訓練は、自己の属する社会の共同利害のため、すなわち正義と信ずることのために、自己の私的利害、私的感情を犠牲にするだけに、根づよく培われてきている。いつの世、どんな社会にも、戦時における婦人の犠牲的、殉国的態度の見られぬということはない。彼女たちは、正義のため共同利害のためには、子に傾け尽すと同じ熱情と感激をもって、その子を戦神の祭壇に捧げて悔いないのである」、まさに軍国の母ですね。残念ながら、日本のフェミニズム運動は、戦時にあって、この「軍国の母」路線に収れんされていきます。以上まとまりませんがこれで終わります。
 
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