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山川菊栄連続学習会第六回      二一世紀フェミニズムへ
 
井上輝子、重藤都、鈴木裕子、角田由紀子、竹中恵美子
 
*出典などは第一回学習会解題参照。第六回は長文のため四ページに分けて掲載する。
 
重藤報告、鈴木報告(本ページ) 鈴木報告(続き)、角田報告(第二ページ) 竹中報告(第三ページ)  質疑応答(第四ページ)    
 
 

■井上輝子(記念会世話人・和光大学教授)
 
 山川菊栄さんのビデオを見ていただきましたが、山川さんのお姿や肉声を記録したものはこれ以外にはありませんのでたいへん貴重なものです。
 今日ご参加の若い方のなかには初めて名前を聞く方もいらっしゃると思います。山川菊栄さんは、大正期以来、社会主義女性論の論客としてさまざまな思想活動・運動をされてきた方です。そして、戦後できました労働省婦人少年局の初代の局長を務められて、戦後日本の女性労働行政の基礎を築かれた方です。山川さんが亡くなられましたのが一九八〇年、ちょうど二〇年前です。一八九〇年生まれですから生誕一一〇年でもあります。
 
 山川菊栄さんは、資本主義経済体制と関連づけて女性抑圧のメカニズムを解明した、マルクス主義フェミニズムの先駆者です。しかしそれだけではなく、家事労働論ないし不払い労働論、あるいは性道徳の二重基準、生殖に関する自己決定権の主張など、さまざまな問題について一九一〇年代から二〇年代にかけていち早く提起されています。また、階級差別と性差別の重層構造を分析されたうえ、植民地民族の権利の保障を訴えて、山川さんの視座は常に社会の底辺に根差したものでした。つまり、現代に通じる女性学の先駆者と言うべき存在であったかと思います。
 山川さんが亡くなられた翌年の一九八一年に、今は亡き田中寿美子さん、石井雪枝さん、そして今日会場にもお見えの菅谷直子さん、その他山川菊栄を恩師と慕う人が中心となりまして山川菊栄記念会が設立されました。そして、山川菊栄記念婦人問題研究奨励金という制度を作りました。通称山川菊栄賞と呼んでおりますが、フェミニズムの視点に基づいた研究の成果を示された個人・団体にたいして、毎年わずかですが奨励金を差し上げています。二〇回目の二〇〇〇年度につきましては、まだ選考中です。
 
 私たちは一九九〇年に菊栄生誕一〇〇年没後一〇年を記念して、前々年から連続講座「山川菊栄と現代」を開催し、その成果を『現代フェミニズムと山川菊栄』(大和書房)という本にまとめて記念式典を開催しました。
 今回生誕一一〇年に当たっては二つの事業を企画しました。一つは、東京女性財団とかながわ女性センターから援助を受けて九九年から連続学習会「いま山川菊栄を読む」を開いて、山川菊栄のセクシュアリティ論・女性労働論・山川菊栄のナショナリズムといったテーマで、現代日本のフェミニズムの課題に即して山川菊栄の著作を読み直すことをして参りました。今日のシンポジウムはその総仕上げというべきものです。
 
 もう一つ『たたかう女性学へ』(インパクト出版会)という本を発行致しました。毎年の山川菊栄賞受賞者のスピーチと先の連続学習会をまとめたものです。スピーチは、受賞作を生むに至ったそれぞれの方々の個人的動機とか問題意識、あるいは学問的背景が受賞者自身によって語られたもので、受賞作品とともに、そのまま二〇世紀後半の日本における女性学あるいはフェミニズムの歴史が凝縮されているといってもよいかと思います。
 また、受賞作品と山川菊栄さんに関するパネル展示を二〇〇〇年一〇月の末、かながわ女性センターでしていただきました。
 
 山川さんが亡くなられてすでに二〇年、女性をとりまく状況は一見すると華々しく改善されたようにも見えます。例えば山川さんが生前に願っておられた外国女性との交流、あるいは女性学の誕生、そしてそれをリードする女性生活の進展等さまざまな試みがなされてきました。それでは女性を巡る状況は今本当に変わったかと言いますと、必ずしもそうは言えない。性別役割分業を例にとりますと、国内では新しいかたちの「新性別役割分業」という言葉も出ておりますように、再編成が行われていますし、またグローバル化に伴っての世界的な規模で性別分業が改善されておりません。そしてまた山川さんが問題にした女性への暴力とかセクシュアル・ハラスメントといった女性の人権侵害に対する取り組みは、やっと最近始まったばかりです。
 他方では、フェミニズムとか女性学というのはもう古いという声がある一方、母性を強調するバックラッシュも非常に強く、いずれもがマスコミをにぎわしております。
 
 ある意味では今こそ山川菊栄さんのフェミニズムあるいは戦う女性たちへの思想が見直されるべき時代ではないかと考えています。今日のシンポジウムと、本の出版という事業が、二一世紀に向けてのフェミニズムの前進に何らかの効果を持つことを期待します。(拍手)
 

■山川菊栄の人と思想
重藤 都
 
 山川菊栄先生は私にとっては非常に大きな森のような方で、とてもその任ではないと思いながら、年齢順ということでお許しいただきたいと思います。
 
●山川菊栄の著作にふれる機会
 
 山川先生は七〇歳を過ぎて、日本婦人問題懇話会をお作りになりました。それまでは社会党の機関誌ともいえるかたちで「婦人の声」を菅谷さんとご一緒にだしておられた。そういう盟友の菅谷さんや田中寿美子さんたちと婦人問題懇話会をお作りになりまして、私もそれに加えていただきました。山川先生は労働部会には藤沢のお宅から東京まで毎回おみ足が悪いのに大きな荷物を提げてご参加くださいました。その都度いろいろなお話を聞くことができたことが、私にとっては大変大きな収穫だったと思います。
 ただし、私はそれまで山川菊栄先生のご本は一冊も読んだことがなかったのです。私ども新制高校に学んだ世代は、嶋津千利世さんのご本を読んで育ちました。今の若い方はもうお読みにならないようですが、嶋津先生は母性保護に基準を置いた運動論であったといってもいいかと思います。
 
 これに対して山川先生は女性の労働ということだけではなくて、男女の役割分業のなかにおかれた女の一生全部を踏まえ、男の人も含めた人間の解放、トータルに社会を変えていく中で女の人がどう変わるかという提起をしてくださったと思うのです。
 戦後出版界が活発に動き出した後も山川先生の戦前の労作は出版されませんでした。
その後、山川先生の著作集が出るようになりました。あるいは「幕末の水戸藩」が大仏次郎賞を受けて出版されました。そういう意味では、菊栄記念会の仕事としての今回の出版というのもすごく大切なことだろうと思います。もし山川先生のご本が出版されていなければ、私どもはそのよりどころがなかっただろうと思うのです。
 
 これは私の深い反省でございますが、私だけではなくて、例えば広田寿子さんが、「労働省の時代から懇話会の時代まで私は宝の山を前にして、山川先生の著作を戦前から戦後にかけて読んだことがなかったので、本当に質問すべきことを質問しないままに来てしまったということは本当に残念なのよ」とおっしゃいました。
 また、懇話会の大先輩でありこの記念会の中心でもいらした石井雪枝先生から「あなたは山川先生の本をちっとも読んでない」と叱られたことがありました。その時私は「ご自分たちが記録なさらなかった」と言ったのですが、これからは、私どもの世代が山川さんの心なり論理なりを次に伝える番だと痛感している次第です。
 
●女の目で歴史を見ると…
 
 山川先生の人と思想を、『おんな二代の記』よりお話をしたいと思います。
 『おんな二代の記』は、質素な身なりをした少女が馬に乗って水戸を出発して東京へ向かう、夢にまで見た勉強、学校というところに一歩一歩近付くということで胸がはずむという道中から始まっております。これを読んで明治維新というのは何だったのだろうと思いました。女の人がそれほどにわがものとして喜んだ、女の人にとっての明治維新というものを、私は初めて読んだように思います。
 
 その意味で男性の明治維新はどうだったかのと思い、島崎藤村の『夜明け前』を読みなおしてみたことがあります。どうぞ皆さんも読み比べて下さい。男と女の視点の違い、ここまで違うのかということがよく分かります。
『幕末の水戸藩』を読んでもそれはよくわかります。女の人は、藩が壊れようと幕府が壊れようと、それまでの貧しい生活、日々労働に明け暮れる生活はほとんど変わらないわけです。生活者としての継続性と、生活者としての発見、生活者としての実行力が、明治維新によって解き放たれることで、更に発揮できるようになった、チャンスととらえることができました。
 
 水戸藩の下級武士の女性たちはまず川べりに棉を植えて、その綿を紡いで染めに出し、織って仕立てて、また仕立て直しながら家族の生活を賄っていく。それが生き生きと描かれていました。私たちは学校の歴史教育では、武士階級は生産から切り離されていたと習いました。ところが下級士族の女性は生産から全く切り離されていなかった。だから生産者として生活者としての新たな時代が始まったというように捉えている。女の目から歴史を見直すという意味で、私にすごい大きな影響を与えてくださったところです。
 同じことは、戦時中の女性の生活を描いたものにも言えます。懇話会の折に聞いたことですが、戦争によって女性労働がわっと増える、第一次大戦しかり、第二次大戦しかり。だから女性労働が増えるということを素晴らしいことと一面的に見るのではなく、また女性労働が増えることは搾取に組み込まれるのだという一面的な見方ではなくて、歴史の流れの中でそれを女の人がどう培っていくのかを見ることが大事という、大変したたかな生活感に基づいた女性解放論、歴史観を与えていただいたと思います。
 
●日本最初の無産政党の中で
 
 さらに山川先生の場合には、日本で最初、あるいは有数の社会主義者であったということです。これは先生の表現ですが、そのころの社会主義というのは大変いいかげんなもので、労働者が主人公になるということは理解していても、具体的にどうなることか、生産の場所がどうなるか、日々生活している行政の仕組みがどうなるか、そういうことが全く分からないで、非常に一面的に解放というところで大喜びをしていたと。ロシア革命が素晴らしい喜びを世界じゅうに与えたということも書いていらっしゃいます。みんなそれぞれに、一部分ずつを自分のものとしていて、全体像をつかむまでには社会全体の大変激しい厳しい論争がなければならなかったということが分かると思います。
 日本最初の無産政党ができる時に山川菊栄さんは、当時お住まいになっていた神戸から六項目の女性の要求を綱領の中に盛り込むように要求なさいます。その要求は国際的には当時でも当たり前であったにもかかわらず、日本の無産政党のあるいは社会主義運動の特徴であったのかもしれませんけれども、却下されるわけです。例えば売春の禁止とか、同一労働同一賃金とか、そういう極めて初歩的なことですけれども、それが全部却下されるわけです。当時の日本社会主義運動の基本は権力奪取であって、権力を奪取しさえすれば、次に女性の解放も男女の平等も来るという論議の組み立てでした。根っこから変えるのだから枝葉末節はそのときにということであったのだろうと思います。
 
 その点が戦前の山川菊栄さんの非常に大きな戦いでした。労働運動の綱領の中にも女性の同一労働同一賃金を盛り込むことなど七項目の要求を出しますが、ここでもまた否決されるわけです。その時ほとんどの女性が男性側に付いた。山川さんは大変孤独ではあるけれども、高らかな闘争を続けていらっしゃいました。こういう運動の姿は戦後も長く七五年頃までは続き、私どもはおかしいと思いつつもそこを乗り越えられないできたというのが私どもの反省です。
 もう一つ、戦後の女性労働運動の中では、男女の平等を前面に出すのではなくて、母性保護が中心的な課題になっております。その点も私どもの反省だろうと思います。山川菊栄さんは母性保護に重点を置き過ぎる戦後の日本の労働運動には大変批判的で、懇話会の労働部会でたびたび教えていただいたところであります。
 
●民族差別の本質を捉えていた
 
 やはり権力奪取という政治力学の面を軸にして社会を変えるという男性の論理と、実際の生活の中から積み上げていって社会を変えるという山川先生の論議とがうまくかみ合わないといいますか、排除し合うということがあったのだろうと思っています。
しかし、戦後のソ連の在り方に対しては大変厳しい批判の目をお持ちであったと思います。私はそのころから社会党に籍を置いていましたが、「山川菊栄さんに大変私淑しているようだけれども、旦那さんの均さんは反ソだ、ましてや菊栄さんはもっと反ソだ。あなたは分かって付き合っているのか」と言われたことがありました。私はよく分からないままにでしたが、山川菊栄先生の教えを受けてこられたことは幸せだったと思います。
 
 今日の問題として言えますのは、『おんな二代の記』の中に韓国の王子を人質に取った伊藤博文のことが出てきます。山川さんが上野図書館から帰ってくる時に、たまたますれ違った無蓋の馬車に乗っていたのは伊藤博文で、横にいた男の子は紛れもない韓国の王子です。男の子は太って見えたけれども青白くて元気がなく、新聞などでは伊藤博文侯を慈父のごとくに慕っていると伝えられているけれども、言うなれば慈父を演じるがためにわざわざ横に置いて無蓋の馬車で上野公園を走って動物園にでも連れていくのであろうか。そしてその文章の前後に日本が対外膨張を続けて、植民地侵略を続けていくことについての大変痛烈な批判が書かれています。
 植民地侵略の批判については先見の明があったと言えばそれで済むことですが、太ったように見えるけれども青白いいかにも元気のない顔をとらえ、それを引き連れている伊藤博文の醜悪さに対して痛烈な批判を浴びせる、その感覚は先見の明ということで片付けてはならないのではないかと思うのです。
 
 むしろ山川先生が放っていらっしゃる批判は、その当時にあっては異常な感覚というべきものではなかっただろうか。山川先生は、人質になった男の子のように何千何万何十万の人がどれだけひどい思いをしただろうかと続けていらっしゃいます。侵略戦争の結果として、今も日本と北朝鮮の国交回復はできていませんが、私たちはその何千何万何十万の朝鮮人をどういう目に遭わせたであろうかという痛みをもって、日本と北朝鮮の国交正常化交渉に目を向けているだろうかと改めて感じています。やはり私たちはその当時と同じように、朝鮮という国は遅れた国、独裁の国、ああいう国は好まないという優越感を持ちつつ、ミサイルと拉致の問題を前にして口をつぐんでいるわけです。それは、朝鮮に進出していった戦前の日本と似て通じるものがあるのではないだろうかと思うわけです。
 そういう意味では私は山川先生から得たものを今の時代に出すという意味で、私たちの心の中にある民族差別と向き合いながら今後も頑張っていきたいと思います。これでつたない紹介を終わらせていただきます。(拍手)
 
井上 山川先生からじかに教えを受けた重藤さんのご紹介は山川先生のご指導が浮かび上がるようなお話でした。
 
 
 
■加納実紀代(記念会世話人・女性史家)
 私は七〇年代の初めから「戦争と女性」の問題にかかわってきて、戦後のご活躍で尊敬していたあの人もこの人も戦争協力をしたのかという思いのとき、山川さんの文章を読みました。本当に一服の清涼剤という思いが致しました。そうやって読んだだけで、山川菊栄の研究者とはとても言えないのですが、司会を務めさせていただきます。
 
 では早速、鈴木裕子さんにお話をいただきますが、鈴木さんについては皆さんよくご存じだと思います。私が初めてお目にかかったのは、私が山川菊栄に衝撃を受けたころ、若い研究者が頑張っていらっしゃるということでご紹介いただきました。すでに十分な研究蓄積をお持ちでしたが、鈴木さんのご研鑚については、鈴木さんが第二回山川菊栄奨励金の対象となられた時の山川振作(菊栄さんの子息)さんのお祝いの言葉があります。菊栄さんと一緒に暮らしておられた振作さんさえ、執筆したことを知らなかった雑誌を、鈴木さんが探し出してきて下さったことに感動しておられます。『たたかう女性学へ』に再録してありますのでごらん下さい。
 
 山川菊栄総論というかたちで、鈴木さんにお願いしたいと思います。
 

■山川菊栄の仕事と今日的意義
鈴木裕子
 
 懇切丁寧なご紹介をいただきまして、戸惑っております。今日は大変大きなテーマでお話しさせていただくわけですが、限られた時間ですので三つほど柱を立てました。
 井上さん、重藤さんのお話の中にかなり総論的なものが既に提示されております。そして、性暴力のかかわりについては角田さんから、いわゆるマルクス主義フェミニストの先駆者としての山川菊栄については竹中さんから詳しくお話があると思います。ですから私の話はお二人の序論的になることを最初にお断りさせていただきます。
 
●性暴力への社会構造的把握
 
 私が『山川菊栄集』全一一巻(岩波書店)の編集に携わった頃はまだ三〇代の初めで、性暴力という観点が残念ながらほとんどなかったと思います。ただ彼女のセクシュアリティ論には触発される部分が多くあり、限られた巻数の中に、その関係の著作をかなりたくさん入れさせていただいたように記憶しております。
 この間私は日本軍性奴隷制、いわゆる「従軍慰安婦」問題にかかわっていく中で、性暴力というものを山川菊栄の中からもう一回再発見した気持ちでおります。角田さんが関係なさっています、一九八三年に設立された東京強姦センターというのがございます。センターでは強姦について次のように規定しております。一、強姦は女性に対する支配・征服が性行為というかたちをとった暴力である。二、強姦は女性が望まないすべての性行為です。これは非常に見事な規定だろうと思うのです。こういう一九八〇年代における強姦をはじめとする性暴力認識は、この間国際的にも非常に明確にとらえられてきていると思います。
 
 一九九三年一二月、国連総会で女性に対する暴力撤廃宣言が採択されました。翌年には国連の社会経済理事会にあります、人権委員会が女性に対する特別報告者を任命します。スリランカの女性法律家ラディカ・クマラスワミさんですが、一九九五年に中間報告を出し、続いて一九九六年二月にクマラスワミ報告書を出された。
 その件で一つは、いわゆるドメスティックバイオレンスに対し法的整備を含めた適切な手当を講じないことは、その国の政府がそのドメスティックバイオレンスに加担しているという極めたはっきりした定義付けが行われました。
 
 もう一つの柱としては、日本軍性奴隷制の問題があります。私どもは当初から「従軍慰安婦」という言葉に対して非常にこだわりがあったのですが、クマラスワミ報告では、従軍慰安婦というのは性奴隷であると明確な規定付けを行いました。
 そして日本政府に対して具体的な勧告を寄せたわけですが、その中でとりわけ私が重要だと思うのは、三つ目のいわゆる国家的性暴力の加害者に対する不処罰問題です。日本軍性奴隷制という国家的性暴力に責任を有する犯罪責任者が裁かれずに来た、そのことが旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて国家あるいは組織による強姦行為を再発させているのだというものです。そして日本軍性奴隷制問題が現実的な問題としてあるという指摘が行われました。
 
 さらに二年後、人権小委員会の特別報告者になったアフリカ系アメリカ人の女性法律家、ゲイ・マクドゥーガルさんはもっと明確にいわゆる責任処罰論を打ち出しました。つまり犯罪責任者が不処罰であった結果、要するに不処罰の循環というべき犯罪が繰り返された。従って、その犯罪責任者に対してきっちりした法的処罰を下すべきであると、日本に勧告されているわけです。
 そういう国際的な流れ、もちろんその中には韓国をはじめとした女性運動の努力が反映されているわけですが、その中でもう一度山川菊栄を読み直してみると、日本では見えてこなかった一つの性暴力問題を彼女が原初的に提出していると私は思いました。
 
 例えば、一九二八年に発表した「性的犯罪とその責任」の中で、性暴力の特徴として、被害者が加害者扱いないし傷物扱いされていることの不当性を言っているくだりがあるのです。婦人を独立の人間としてではなく、男子の独占的私有物としての資格の上にその価値を認めている。だから独占的私有物としての資格にキズがつけば、人間としての価値が滅ぼされる。まさにこれは性暴力被害の一つの実態を表している表現であると思います。
 そして、最近では改正雇用機会均等法にも新たに設けられましたが、例えばセクシュアル・ハラスメントなどに対して、そういう言葉ではありませんが、それをうかがわせるような指摘がされております。今日のご案内のリーフレットには山川菊栄からのメッセージとして「日本では日常茶飯事となっている婦人同乗客に対する悪戯や、婦人通行者に対する侮辱的嘲弄的な言辞は、いはゆる暴行と共通の性質を持っている」とあります。性的なそういった嫌がらせ、言葉による嫌がらせ、行為を含めまして、それがセクシュアル・ハラスメントにほかならないと山川は明確に指摘していると思います。
 
 加えて買売春問題、この言葉を使うこと自体引っ掛かりを感じますが、女性の性的搾取の問題としてとらえている。山川さんがまだ二〇代のころの一九一六年に、伊藤野枝といわゆる公娼廃止を巡る論争を行いました。当時はまだ売淫という言葉を使っていますが、「売春」問題の基本について山川さんは、これは冨および生産機関の男子の独占、つまり社会的・経済的な女性の劣位の状態が基本をなしているということを明確に指摘していると私は思います。ともすれば当時からいわゆる売春問題は女性の心構えの問題として語られていました。醜業婦と蔑まれ、「汚れた女」たちと指弾されたりして、もっぱら女性の側の純潔とか貞操の問題として語られることが多かったのですが、これに対し山川さんは純粋に女性の社会的・経済的・文化的・政治的地位の低さが問題であると極めて社会科学的な分析をしているわけです。
 この点は後程竹中先生から論及があるかと思いますけれども、女性の労働権の未確立という問題が山川菊栄の「売春」問題に関しますアプローチの一つの大きな論点をなしていると思います。
 
 以上申し上げたような彼女の見方は、先程重藤さんがご紹介されましたように、いわゆる無産政党の女性綱領問題、それに続く労働組合の婦人部論争で山川さんは大変な孤独な戦いを強いられるわけですが、その時にも遺憾なく発揮されております。『山川菊栄評論集』にも収録されています「『婦人の特殊要求』について」をご覧になられますと、大変明確に彼女の主張が伝わって参ります。「性暴力への社会構造的把握」がすでに一九一〇年代から出されていたということです。
 
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