第二節 大衆闘争路線
A 大衆闘争路線とはなにか
(7)資本主義の日々の展開そのものが、階級意識を育て、社会主義への転化こそ唯一の根本的解決だということを明らかにする出発点である。つまり日々の生活を改良しよう、または悪化にたいして抵抗しようとする、さまざまな要求は、プロレタアートと、労働諸階級にとってはほとんどすべてが資本主義との対決になる。
第一の段階はそこで資本主義と自分とのぬきさしならない対立関係と団結の必然性とが明らかになる。第二の段階は討論・教宣・学習によってこの対立関係が本質的全体的に理解され、資本主義そのものの打倒が必要であることが明らかになる。要求はすでにだれもが自発的に心のなかにもっている。要求が運動になって外にでたときも、資本(その手先)との、実はすでにあった対立関係を自分で経験する。そしてたたかう必要(階級闘争)を理解する。もっともブルジョア民主主義体制のもとでは資本は要求を相当なところまで「のみこんで」みせるが、しかし本質的には資本主義である以上、やがて真理がはっきりでてくる。
だれもがもっている自発性を基礎に、要求を運動にし外にだすこと。それによって資本との対立関係を自分で経験させだれにも確認させること。これが大衆闘争路線の基本思想である。いいかえれば、前記の第一の段階を大衆のだれにも通過させることである。
こうしてはじめて第二の段階もまただれにも主体的にとりかかれるものになる。階級総体の、頭のいい一部分ではなく総体の発展を考える時には、いきなり第二の段階をおしつけても失敗する。とくにアメと思想攻撃のもとではそうである。むしろ激しく反発されることが多い。だから日本共産党がどれほどがんばって大量宣伝をやり、宣伝の内容を大衆迎合的に低めて幾十万の党員を作ったところで−プロレタアート総体の発展、革命の実力を築くことはできない。せいぜい総体の一〇%どまりの党員・「支持者」をつくるだけであり、しかも総体と切り離なされた閉鎖的な、逆にみればその他九〇%を物理力として利用する、総体を主体に発展させる観点を失った党員なのである。
共産党やまた民同運動が使う「大衆路線」とわれわれのとは、実は根本的な違いをもっている。(「要求」「自発性」というとき、活動経験のある人には自明だが、すでにみんなが口々に叫んでいるという意味ではない。むしろ表面からはまったくみえないもの、あるいはみえない場合の方が多い。非常に大きな要求さえ、一番献身的な活動家が見落したり忘れていることがしばしばある。逆に表面にあらわれ現に叫ばれている「要求」が、実は一部の仲間の一時的な要求であり、さらに全体的視野からみると見当はずれの反労働者的なものだったりすることも、しばしばある。このために、あとの(12)、(14)が不可欠である)。
(8)あたりまえに近い?右の第一の段階が今日では徹底的に妨害されている。これが実態であり、帝国主義支配体制の基礎である。要求闘争(とくにいわゆる「経済」的な)をもともと軽べつしている極左主義、前衛党万能論・政治主義の流れは常にサボってきた。日本共産党をふくむこれらの流れにくらべれば、要求闘争を自己目的化した(モノ取り的な)民同連動の方が、少なくとも出発点を準備したという点では、まだしも社会主義者の役に立ち、よほど大きな総体の発展に貢献してきた。
しかしもちろん、妨害の主要な担い手は資本と職制および体制内的労働運動指導部である。要求はあっても、アメ・威嚇・思想攻撃・組織破壊によって、それは外にはでなくされた。運動になり外にでないその前で止められれば、発展は生まれない。資本との対立関係は明らかにならない。要求それ自体は、個人の努力によって、職制の手によって、現体制によって、ざらに宗教によってさえも、解決できると幻想され得る−これは大変重要な事実である。要求は自然発生的に常にだれにもあるのだが、それの外にでた要求闘争が自然発生的だとは決していえなくなった。いいかえれば労働運動・労働組合は、形だけはあるが実体はなくなされた。
時には一次的に、要求の自然発生的闘争化、大衆運動化が起り、全国的規模にまで広がることもある(フランスの五月)。しかしだいたいにおいて、資本は闘争化する以前に抑えこんでいる。こうして逆に、要求を闘争化する、組織化することが、あたりまえのこの第一段階が、あらためて重大な任務として確認されなければならない。階級総体の発展のために重大な任務になっている。この任務をアザ笑ったとたんに、階級総体からは切り離されるのである。
(改良と抵抗の要求闘争の意義を、社会主義革命の立場、革命の実力を築く立場から、積極的に正確にまた誤解の余地なき簡潔さで規定したのは第一に「左社綱領」である。
「資本主義の枠内での辛抱強い日常闘争における党員の誠実・規律・勇敢・忍耐・献身なくしては、労働者・農民・小経営者・知識層・学生・婦人等の党にたいする信頼を獲得することはできない……党は、党員にたいして、勤労大衆の日常の利害を観念的、機械的にではなく、現実的、有機的に代表し、その闘争が社会的変革に結びつく道程であることを理解して、常に先頭に立つことを要求する。」
「大衆路線」「要求」を言葉上だけ云々する日本共産党のなかからは、この立場からの、このような思想はほんの一カケラといえども提起されたことがない。
また一九六〇年の三池闘争まで労組の階級的強化をきづいてきた一九五〇年代の三池労組のたたかいのいっさいは、根本的にはこの思想性だったといってよいのではなかろうか。三池労組が先頭を切って発見し、以下に述べられてゐるもっとも整った「理論的」な理論は、この、あまりに素朴で「非理論的」にみえる思想に立ったたかいから生まれてきた。合理化は絶対反対で、学習の重要さ、長期抵抗路線等々われわれはこれらの理論をまなばなければならないが、その前に必要なのは要求闘争の階級的な意義をつかむことである。この前提ぬきにはその他の理論は命のない人形か、空念仏にすぎない。あるいは応用のきかない教科書的知識におわる他ない。
社会主義者は、反資本の個々の要求闘争の真剣な追求をつうじてのみ、階級総体と一体になれる。社会主義思想はこの糸口をつうじてのみ物質化され得る−‐このパンフレットが、まず大衆闘争路線を明らかにしてから職場抵抗や改憲阻止闘争の説明に移る構成をとる理由もここにある)。
(9)大衆闘争路線は、第一には、不断の、積極的な要求闘争組織化である。民同指導部で使われるような、要求闘争が自然発生的に(あるいはスケジュール的に)起された後から、たたかうなら全員でたたかいましょうということではない。不断に積極的に要求を探がし組織化することである。その時、できるだけ多くの大衆にとって自発的な要求を優先し重視する。第二に要求をかちとる過程での資本・職制との無数の対決を避けないことである。要求がとれればよいのではなく、参加者の大衆的対決によってとることに意味がある。誤解を恐れずにいえば、積極的、意識的に無数の大衆的対決を「創りださ」ねばならない。どこまで激しく対決するかは力関係によって非常に慎重に決めなければならないが、資本との大衆的対決なしには要求はかちとれない。その過程でこそ労働者全員が、自分自身の経験によって、資本と自分がまた自分達みんなが共通に根底的対立関係にある事実を理解する。要求はこの目的にそって注意深く選択され、また要求闘争の発展もこの目的にそって指導されるべきである。
右の意味で大衆闘争路線は「組織化された要求闘争」として具体化される(民同の「大衆路線」は右の第二の部分を欠いている。彼らの位置づけは、要求・要求闘争を、成長や意識変革の発展の観点からではなく、たんなる量的な人あつめにしているからである。但し、第一の部分だけても、連帯や団結をある程度経験できるのは事実であり、われわれも力関係のなかの慎重な配慮の一つとして、とくにたたかいの初期にはこの部分でとどまり、次の(10)項の段階にすすむこともある。それはそれでまったく正しい)。
(10)大衆闘争路線は、討論・教宣・学習と不可分である。要求を獲得することや、ともかく勇しく「たたかって」いることがよいのではない。要求闘争を第一段階として、この出発点のうえに第二段階を継続させること−自覚・力・闘争能力を発展させることが目的なのである。われわれが目指しているのは闘争に参加する仲間の思想・意識、そのうえに形成される労働組合の団結力・闘争能力の向上である。
その発展は要求闘争=対立や団結の経験だけでは保証できない。個々の闘争は糸口であり、出発点にすぎない。しかも本章(28)にのべるように、六〇年代以降、要求はなかなかかちとれなくなり、資本の思想攻撃は悪ラツさを増している。そのためせっかく大衆的に要求闘争を組織化しても、かえってあきらめムードが拡がったり、組合員全体から分離した極左主義的な心情がひろがったりすることが多い。ウヤムヤのうちに闘争は終らされ、要求獲得からいってだけでなく、階級的な総体の発展という点でも成果が何ものこらないことがある。
むしろ、民同指導部のもとでの要求闘争のほとんどが、このように終らされ、たたかうたびに総体・組合の意識・団結力・闘争能力は後退させられてきた−要求闘争粉砕をテコとして資本は体制内化に成功してきた−そういっても過言ではない。
これと同じことが、われわれ自身の組織する数十人規模の要求闘争のなかでも、実にしばしば起っている。数人の努力でせっかく一時期は「大衆闘争」が存在するが、やがてはじめた頃の数人を残して他の仲間はもとの無関心状態へ戻ってしまう。職場でも政治闘争でも文化活動でも実によくある現象である。
これは「経済闘争から政治闘争へ高めなかったから」「社青同の政治路線をうちださなかったから」「オルグ根性がなかったから」等々という問題ではない。それ以前に、要求に立った大衆闘争の意味と限界を正確につかんだ位置づけがなかったからである。
その大衆闘争の出発点となった要求に則して、要求闘争との直接の関連のなかで−大変重要な点である−資本とわれわれの<総括>対立という事実が明らかにされなければならない。対立の原因、労働者はお互いに共通の経済基盤・利害をもつ(階級である)こと、社会主義革命の必然性などが、明らかにされなければならない。また先進部分にはたたかいの基本路線が明らかにされなければならない。
そのための話し合い・教宣・学習が、要求闘争と表裏一体に、最初期から常に同時進行で−これも大変重要な点である−必らず呼びかけられ組織されなければならない。これは必ずしも「学習会」ではない。労働組合の教宣活動も重要である。職場討議も大事な場だし、闘争期間中不断につづける一人ひとりとの日常会話はむしろ一番効果がある。学習会はどうしても主として先進的部分だけが対象になるし、そうすべきである。
このような学習闘争が第二段階としてともなうという意味で、大衆闘争路線は「指導された要求闘争」として具体化される(民同指導部の「大衆路線」は、この第二段階を欠いていると整理してよい)。
(11)以上の内容((9)(10))の実践は、強い目的意識性と強力な主体・担い手−つまり活動家集団がいなければ不可能である。帝国主義支配体制に抗して以上の内容を本当に実現するためには、このような要求闘争の位置づけと目的とを、革命事業の立場から深く意志統一した活動家が、必要な能力をもって、相当な数で存在し、組織的に活動しなければならない。
大衆闘争路線は階級的活動家集団、主として社会主義党や青年同盟の建設と不可分でもある。
労働組合活動家集団によっても不可能だとはいえないが、何よりも階級総体の発展という次元からの目的意識性がなければ担いぬけないという点で、結局は社会主義者が中心になる時だけ果たし得る任務である。要求は獲得できないことが実に多い。にもかかわらず不断の積極的差要求闘争を組織化するには、この次元からの目的意識性があってはじめてできることである。
「このような活動家養成と配置とが、社青同という組織の性格であり、任務である。それが具体的には、社青同の組織拡大として追求される。」
またその前段として、サークルは実践と学習との両方のなかから、活動家へと様々な一定の自覚をもつ先進部分を育ててゆく。学習会もほぼ同じ任務をもつが、ただ実践の方はサークル運動としてではなく組合運動として行なわれ、学習だけが主要な内容になる−この点は学習会の運営でいつも気をつけなければならない。つまり学習したら、「組合や職場で実行に移そう」と、メンバーにいつも呼びかけるべきである。
先進的な部分に(誤まった思想潮流から奪回することも含めて)常に注目し、組合員全体に対する働らきかけと共に、必ず働らきかけよう。その内容はもちろん、組合員全体にたいする時の内容より一歩次元の高いたたかいの基本路線をふくむものになる。
B 大衆闘争路線の条件
(12)大衆闘争路線を資本のありとあらゆる妨害に抗して実現するためには、少なくとも次の五点が、担い手である活動家に要求される。
第一に活動家の姿勢であり、相手と歩行を共にすることである。三池労組指導部はこの姿勢を「一緒にスクラムをくんですすみながら語りかけてゆく」といっている。職制が網の目のように細かく配置され、ZD・QO・提案制度が「要求の先取り」をやり、活動家と会話することさえ査定にひびく民間職場では、この姿勢が本当に確立されていなければ一歩も前進できない。テクニックとしてではなくむしろわれわれの人間性にまでなっていなければ、いかに自発的に要求をもち不満をもっているとはいっても、闘争に組織できない。
闘争というよりは、不満・怒り・要求についてわれわれと話し合う関係をまず確保すること。「職場づくり」がすでに大事業でありたたかいなのである。この関係(人間的信頼関係)をきづきつつ、それと共に個々の具体的な不満や不安について粘り強く、繰り返し語りかけてゆく。何人も「まとめて面倒をみる」式のアジテーションではなく、一対一の話し合いがむしろ重要である。その一人の相手の気持を、彼の個人的なことまで、たとえば郷里の問題、下宿のこと、夜学の問題などまで細かく一緒に心配してゆくような、真の働らく仲間としての姿勢が必要なのである。こうしてはじめて、人によって時間はかかり、また必らずしも公然と人前でいわない形かもしれないが、「そうだ、オレもおかしいと思っている」という発言が相手からでてくるようになる。次の仲間に向って、彼がわれわれと一緒になって「あれは問題あるぞ」と語りかけるようになる。
大衆闘争路線の基本思想に基づくわれわれ自身の思想確立が必要なのである。 (革命は階級全体の運動なのだという事実を自分自身の思想にすること。それは自分の活動経験のうえに、その組織的討論をつうじた総括と、そこで生まれた鋭い問題意識に導びかれた学習からかちとられる。総括も学習も知識をめざすのではなく思想をめざすべきである)。
(13)第二に右のことは、労働組合の運営・組織制度についても実現されなければならない。いわゆる「組合民主主義」の問題である。これはわれわれが、たとえ末端の役であろうと組合役員に選ばれた時とくに重要である。
つまりお互いがよく知り合い、信頼し合い、各々の本当の気持を率直にだし合って、それで団結し励まし合う−これが本当の労働組合の姿である。「団結の質」などの言葉が流行しているが、帝国主義に対決し得る質をもった階級的団結は、このことからのみはじまることができる。このためにたとえば「五人組」「班」など小人数の組織を支部・分会の下に組合の制度にする、一票投票によって決定はすべて全員に返しておこなう、などの組織制度上の工夫も必要である。
「しかし、たとえばニュースの配り方でも、職場オルグの仕方でも、日常茶飯化した普通の組合運営を、どんな姿勢でしているか−一人ひとりの仲間と「話し合っているか」こそが真の問題である。まとめて面倒を見る式で、人間であり仲間である組合員をまるで物か人形のように扱う姿勢−ニュースは配ればいい方で積み上げてあるとか、職場オルグはみんなが聞いていたかどうかもはっきりしないとか−これこそ「労組形骸化」である。こういう組合運営を社青同内では、「組合業務におぼれている」といっている。
(14)第三に仲問たちがどこで資本・会社・職制に不満や不安をもっているか、もつだろうかを正確につかむことが必要である。「職場分析」といわれるものであり、その職場、その労働者にとっての、資本主義との対立点・矛盾点を、具体的な一つの問題の形でつかみだすことである。これには一方ではその仲間のあるいはその職場全員の意識や考え方、感情の分析と他方では敵の資本についての「情熱分析」、つまり敵の次の攻撃がどこでどんな形で展開されるかの分析の両方が必要になる。
この時、結局は総資本と総労働の、全国的な、さらに世界的な情勢分析が頭に入っていなければ正確にはできなくなる。情勢分析はとっつきにくいので敬遠されたり飾りもの的にあつかわれることが多いが、本当はそれではいけない。第1章にみた六〇年代のI〇年をつうじて、『改憲阻止・反合理化』の基調を中心に情勢の大枠を正しくつかんでいた社青同は、各々の企業・職場の段階でも敵の攻撃を正確に分析し、みたところ何でもなさそうな会社の提案のなかにひそむ合理化を摘発して素早く全大衆に訴えた。
これに対して共産党は、対米従属という誤った枠のなかで情勢をみ、職場をみているので、いまだに合理化攻撃の意味さえとらえられずにいる。
資本主義は実に生き生きと動いている。アメリカ経済がうまくいかなくなれば、日本に対する輸入制限や資本輸出圧力が強まる。日本独占は対抗処置をとるが、それは当該産業での体制的合理化になる。その産業に関連するすべての企業で合理化は拍車がかけられる。だとすればあらゆる職場にそのあらわれがでてくるはずである。末端では形はボヤかされてくるが、右の全体の情勢をつかんでいる者はそれを見ぬくことができる。このような具体的な直接の−したがってだれにもよくわかる形で攻撃をとらえたたかいを呼びかける。それが大衆闘争路線である。
情勢分析に助けられて、われわれば第一にはあらかじめ敵の攻撃を予知して、不断に積極的な要求闘争を組織化することができる。また第二に個々のボヤかされた職場の問題がもっている本当は重大な意味を、全体との関連のなかで説得力あるやり方で説明することができる(要求と攻撃とは不可分のものだということに注意しよう。これについては本章(17)の注、体制内的指導部の奇妙な「要求闘争」論を必らず参照すること。要求とは具体的に考えてみればすぐ分ることだが、宙に浮いて存在するのではなく、資本の攻撃−低賃金抑圧や労働条件切り下げにたいする抵抗として一人ひとりの心のなかに生まれてくるものである)。
(15)第四に要求闘争、要求の呼びかけは全面的でなければならない−政治的な課題や文化的要求についても、全面的にふくまれる。この点は社青同のなかにも(17)の反合理化闘争との関連でしばしば混乱がある重大な問題であり、注意する必要がある。独占資本の攻撃は合理化にかぎらず全面的であり、無数の火花がたえまなく飛びかっている。そのうちどの火花が炎となって燃えあがる−つまり労働者大衆の思想・意識を総体としてとくにめざめさせる力−をもつかを知ることはできない。しかしそのすべてが発展の契機になる。われわれは次の第三節、四節に一定の見通しを明らかにするし、発展の糸口のなかでとくに重要な基本を明らかにする。しかしあらゆる糸口が、基本になる糸口をとりまきつつ、すべて活用されなければならない。青年運動ではとくにこの点が大切である。要求を選び組織化し発展させてゆくには常に指導性がある。しかしできるかぎり広く、多面的な組織化を行なうように配慮すべきである。
(16)第五に右と関連して、サークル組織が必要である。この点も社青同のなかでしばしば混乱がある。サークルはもともと全員ではできないこと−たとえば政治闘争や、若干高度な文化活動、恒常的な地域交流などは、全員加盟の労働組合では、少なくとも現在は無理である。しかしその点では他の仲間より情熱のある者が、そのために作る組織である。このようなサ−クル組織とその活動は、その構成員の発想がまだ未成熟である場合、時たま全員加盟の組織−労働組合などの利益と矛盾することがある。
たとえば一定の先進的自覚をもった者が政治闘争に向って立ち上るとき、えてして、他の連中はどうせやらないんだから「オレ達だけで断固山猫ストに突入するべきだ」ということになる。こうした組合員のなかの不均等発展はとくに青年の間ではよく起る。これは一般論ではいえない、具体的にその時々に判断する他ない問題だが、このような一定の自覚(全体の仲間のことはまだ考えられないが、自分はヤル気がある)を、どう活動家に成長させるかこそ最も重大な問題の一つなのである。
目的をはっきりさせ、大衆闘争路線の考え方を適用した正しい指導が内面的に貫徹されたサークルがこの任務をはたす。サークルの目的は、そこで展開される大衆闘争路線によって、労働組合全体に闘争を呼びかけてゆく活動家を育てることにある。サークルは自治労の反戦青年委がそうであるように労働組合決定で組合組織の一部として組織できればその方がよいが、それができない場合にむしろ必要性が強い。(大衆闘争路線の、自らの経験を出発点とする成長、という考え方は、全組合員の反独占資本の意識をつくるという点だけでなく、他にも適用できる。オヤはやる、オレだけでやれる、オレだけでやるしかないと思っている仲間に、粘り強く呼びかければ全員の立ち上りを実現できることを分らせることができるし、また逆に全体の団結がなければ勝利できないということもそうである。また政治闘争だけでなく反合闘争も必要だということもある。サークルの組織と運営の基本原則は、こうしたその人にとって必要な経験を、そのような経験に至るような実践をつうじてかちとらせてゆくことである。
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