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第三節 反合理化職場抵抗と階級的労働組合
A 職場抵抗とはなにか
(17)「多面的な要求のなかで、反独占の方向に立つ大衆闘争路線実現のために、柱となるべきものは反合理化闘争である。プロレタアートだけでなく一般的にいって、経済基盤=生活基盤での攻撃・矛盾・要求が重要である」「本章(26)に整理された第一と第二のたたかい−いわゆる「経済斗争」)。そのなかでも生産過程での搾取にたいするたたかい、そしてとくに合理化がもたらす諸攻撃とのたたかいが、プロレタリアートにとっては柱である。
 第二章(2)、(5)、(8)の観点に立って再度要約すれば、それは全プロレタリアートをまきこんでおり、一人ひとりにとっても最も深刻な生活の問題である。
 
「ブルジョアジーにとっては資本主義経済の利潤追求そのものであり、したがって彼らの階級的な意図一搾取と抑圧がいくら隠してもなお最もむきだしの形で露呈されざるをえない。つまり資本と労働者の根本的対立関係が、またそれが階級と階級の対立関係であることが、第一には最も広い労働者(本質的には全員)にとって、第二には最も鋭い内容で、第三に最も分りやすい形で含まれている。これが、独占資本のすべての攻撃から全面的に大衆斗争を築くわれわれが、その柱を合理化反対闘争にすえる理由である。」
 
 合理化攻撃をのぞいて独占資本の攻撃を云々する(極左諸潮流など)のはバカげている。また、合理化反対闘争をのぞいてプロレタリアートの「要求」を云々することもバカげている。
 (この点に関連し、われわれ自身もしばしばまきこまれている重大な誤まりがある。体制内的な、または動揺的な指導部の労組でよくあるが、反合理化闘争と要求闘争とは、違うもの、むしろ対立するものとして考えられ、「要求」という言葉もその意味で使われる。合理化に対しては「絶対反対ではなく要求対置で」というふうに。たしかに、合理化絶対反対の方向に立った場合も、「基本要求」などと呼ばれる要求を合わせてかかげるたたかい方は、戦術的にはありうる。しかし本質的に、大衆的要求は資本の攻撃と無関係に生まれるのではない、むしろ攻撃に対する抵抗として生まれるのだ、という事実をハッキリさせることが重要である。だから合理化攻撃下の職場で最も基本的な要求は絶対反対である。その合理化を一人ひとりにたいする影響の次元で具体的にとらえ、大衆的にバクロすれば、必らずそうなるのである。われわれは「要求」という言葉をこのような理解に立って使っている。つまり大衆闘争路線にたつ要求闘争とは、資本の攻撃にたいする全面的な総抵抗闘争である。「要求」とは資本の攻撃と大衆との間に起る矛盾、矛盾の自覚である)。
 
(18) 合理化反対闘争での大衆斗争路線は、(7)〜(16)にのべてきた内容−とくに自発性からいって、日常の職場の権利問題でのたたかいである。これが「職場抵抗」とよばれる。職場闘争、職場づくりである。大衆闘争路線の柱としての合理化反対闘争・(合理化反対闘争に適用された大衆闘争路線)は、不断の、積極的な職場抵抗である。第一に職場権利問題についての大衆と資本・職制との無数の対決、第二に職場権利問題についての話し合い、学習、教宣である。
 
 合理化攻撃はそのねらいや担い手によって、いくつかの形態に分けられる。第一に国家権力による全国的なもの。第二にグループとなった資本による産業規模のもの。第三に個別資本による全企業的なもの、そして第四に職制による職場規模のものなどである。それらはみな本質的に同じであり、連関し合って ダブッている。極端にいえばすべての合理化は右の四形態の攻撃を同時に含んでいる。それらすべてにたいするたたかいはのこらず、第四のだけでなく他の大きな形態も、大衆闘争路線を適用して考えるなら、職場での具体的なあらわれについてのたたかいからはじまる。職場抵抗闘争を基盤にその他の形態ともたたかう。「合理化反対」を直接呼びかけるだけではなく、むしろ合理化の結果である、個々の具体的な権利侵害から出発しよう。
 この点は大変重大な問題である。社青同の今日までのたたかいは、合理化絶対反対という点ではすでに意志統一を確立しているが、この職場権利問題から(大衆闘争路線に立つ合理化反対闘争)という点はまったく不充分だった。
 産業・企業の全体にたいする合理化の提案など、大きな形態のたたかいだけだと、現に多くの労働組合がそうなっているように、結局は力不足(大衆の意識が前進していない)のままおしまくられる。多くの労組指導部は、この現実のなかで、事前協議制や協定獲得による「歯どめ」をせいいっぱいの左翼的方針としてうちだしている。だが結ばれたとしても協定は紙クズのように有名無実化する。この現実にたいする社青同の批判もまた、「ダンコ絶対反対でつらぬけ」という次元にとどまっている。この批判は正しいが、まったく不充分だった。「問題は大衆の意識・団結・闘争力を前進させることであり、その方法は職場権利闘争と学習教宣活動−つまり大衆闘争路線に立つ反合理化闘争に転換することである。」
 どんな重大な大攻撃も、思想攻撃・帝国主義的支配体制のもとでは、直接そのままでは大衆の自発性と結びつけない。宣伝の量を多くし、より大声でより真剣に訴える、というだけでは克服できない。具体的が影響昶分解してそこから出発し、むしろ教宣・学習の課題として合理化全般やこれに絶対反対の立場をとるべきことを明らかにしなければならない。無関心層とよばれる一人ひとりの心のなかにすでにあるもの、現在の意識でもすでに感じているものを、契機にすること−これが繰り返しいうように大衆闘争路線である。この方法が、反合理化闘争だけでなく、すべての闘争に、政治闘争にも=改憲阻止闘争にも必要である。これは、社青同内部の「第一の見解」と「第三の見解」の間の、最大の違いの一つである。)
 
(19) 反合理化職場抵抗の体制と闘争を構築すること−これは社青同の党派性と直接結びついている。われわれが、慎重な配慮をしながらも、基本的にはいかなる犠牲も辞さない一点である。
 われわれはこれを三池闘争、五〇年代からの三池のたたかい、六〇年「三池闘争」、その後六〇年代のたたかいのすべてを先頭に、そこから受けつぎ、拡大しようと努力してきた。三池労組は一九五〇年代から職場抵抗を大衆的に実現させ、またそれによって学習活動をも大衆的に創出した。その故に組合を分裂させられた後も三池第一労組は強力である。第一に賃金から労働条件まで徹底した差別のもとでも、四〇%以上を、つまり一般組合員を含めて組織しており、また第二に大合理化提案が通過した後すでに一O年間不屈に抵抗しつづけている。
 
 この二点ともあたりまえといえばあたりまえだが? 同じ階級的第一労組と呼ばれるものでも共産党系をはじめほとんどが、第一組合イコール活動家集団だけ、組織人員は一O%どまりという事実。またそれ以上に、ほとんどの民間企業の労働組合は、分裂攻撃をかける必要もなく六〇年代のなかであっさり丸がかえで体制内指導部(事実上の第二組合)にゆだねられてしまった事実。それは企業意識の強かった民間労組では、五〇年代をつうじて職場抵抗・大衆的学習活動を展開できなかった弱さと不可分である。民間での攻撃・支配の厳しさをいうだけでなく、当時からの弱さが総括されるべきである。
 これらにたいして全逓は指導部の著しい動揺にもかかわらず、職場抵抗の蓄積があるからこそいまも組合総体として強力でありうる。国労・動労は指導部の左翼性にもかかわらず、職場での対決は大衆的にはまったく不充分にしか経験されていないから、組合総体としては弱さがある。
 そして全電通の総体的な体制内化は、一九六四年秘密協定による、大衆的職場抵抗の圧殺にはじまり、全逓指導部は七〇 夏の大会でその放棄を提案することによって本格的な体制内化への意図を示した。
(合理化提案から協定段階のたたかいで何回「一発スト」をうったかなどということは、それだけでは何ら階級性の証明にはならない。プロレタリアート総体の終局の目標に向っての発展という観点からはもちろん、実施されてゆくその後の合理化とたたかいぬくためにも、大事なのはむしろストライキを組織する過程である。一方では民同指導部をつき上げてストをうたせ、他方ではネームプレート着用などの質的合理化に無感覚だ、というような「たたかい」は革共同革マル派にふさわしいナンセンスである。また、政治攻撃への「意識」が高く、難しい情勢分析を理解し自分の見解や判断がだせる人、そういう人が多い労働組合が、必ずしも反独占闘争の中心ではない。日帝を正当に批判でき、全共闘や「反戦」にカンパしたり、選挙で共産党に投票する人たちを見直おしてみよ。日常の職場生活のなかで検証するとき、とくに残業に無抵抗で査定をかせぐとか、本当には仲間のことは考えていないとかいう面に、意識・思想の本質が顔をだす。簡単にいえば、「支持者」ではあるが「主体」ではない。このような個人主義やまた受動性こそ、資本主義が育て依拠してきた思想なのである。プロレタリアートの一人ひとり、階級総体が、自分の社会を自から主体的に築き、運営してゆく思想をもつこと−これが階級意識の形成である。共産主義社会とはこの意識・思想を全住民がもったとき完成する。このような意識変革をかちとるためには、とくに反合理化職場抵抗闘争など、資本との対決を自から経験しそこからの討論・学習が必要なのである。真の団結もここからのみ生まれる。三池労組員の人間像はこうして形成された)。
 
B 「職場抵抗」労働運動の建設
(20) 反合理化職場抵抗闘争は、まず社青同の職場班建設からはじまり、班を中心とした活動家集団の建設に拡大する。あらゆる大衆闘争路線は活動家の思想と組織を建設することぬきには不可能である。
 
 イ 最初は一人からはじまる。彼をこの段階で支えてゆくのは 支部、とくに支部機関である。具体的には地域班・職場合同班と、その諸活動・諸機能が彼の拠点になる。第一に彼自身がそのなかで話し合い、交流し、まなび、たたかいの担い手になる。第二に彼を中心に彼の職場での「仲間づくり」がはじまる。
 
 ロ 「仲間づくり」は、そこからすでに、自分の職場の日常の権利問題−仲間の要求についての話し合い、できれば学習会(たとえば労働協約)を含んでいる。それが基本である。但し文化レク、政治闘争、交流や学習についてなどのその他の多面的な要求もふくまれる。これら職場抵抗以外の要求は、地区単位でも組織化ができる点に、やさしさ・とり組みやすさがあり、特徴になっている。この場合一方では安易さに陥いらないために警戒すべきであり、同時に他方では利用すべきである。基本である権利問題をはじめ合理化攻撃への抵抗要求については、第一に、そこの労働組合がその要求についてどうとりあげ、どうたたかっているかを検討し合うことに 意識的に結びつけるべきである。第二に学習活動に意識的に結びつけるべきである。この基本を実践し職場での仲間づくりに成功するかしないかで、これをあくまでやりぬくかどうかで、社青同の党派性がためされ鍛えられるだろう。
 
ハ 話し合い・学習・仲間の結集は、成功するにつれて、職場での一つの「動き」(運動)になる。同時に一方で資本との対立が公然化し、他方で労働組合との関係が生まれる。第一に、資本・職制との対立は、この段階では、いきなり対決へ、具体的には交渉や公然たる宣伝活動に進むより、つまり本格的な要求「闘争」に発展させるより、仲間づくりを基本にした方がよい。具体的には仲間から仲間へ口づてに、非公然の形で話し合いの輪をひろげること、学習に結びつけ、地区での交流に結びつけること、他の多面的な活動への発展をすでに開始することなどである。第二に労働組合(または青年部)の下部役員−職場委員、専門部員などになってゆくようにすること。指導部が右よりの組合ではこれはもう激しい闘争であるが追求を開始すること。指導部が左よりの組合では、「もっと上部機関にでろ、君はその力がある」といわれるかもしれない。だが、それはガマンすべきである。本当に必要な力は下部役員の活動で鍛えられ築かれる職場抵抗闘争―大衆闘争路線にたつ反合理化闘争の思想と実践能力からである。
 
ニ 職場での活動は、この頃から、むしろ企業・経営での活動に発展する。自分の職場だけでなく、仲間は同じ企業の他の職場にもみつかるしみつけなければならない。自分の職場を企業内でまず確立することを先行させながら、同じ発展を、企業の他の職場の仲間にもかちとらせる活動を始める。この段階がはじまると、そこに独立した職場班の機能が成立している(以上は発展の原則である。この原則にそった発展だけが、職場抵抗活動を担う職場班を最も早く創る。しかしこのような原則どおりの発展は実際には困難につきあたる。問題は班をきづこうとする先進層を獲得すること、発展させることである。職場抵抗の思想は彼のなかにはまだないし、労働組合指導部−左翼的指導部といわれるもののなかにも実はない。既存のいっさいを相手にして社青同の思想闘争が展開される、といってよい困難さがある。この困難さにうちかち、先進層を獲得するためには、支部の職場班建設の指導性は、高度に原則的で同時に高度に柔軟でなければならない。第V章(11)、(12)を必ずもう一度参照せよ)。
 
(21) 現実にはわれわれの多くは、労組指導部が充分な正しい方針をださないなかですでにたたかっている。ではわれわれ自身は正しくたたかっているのか。自分の活動を再検討し改善する必要がある。現状からどのように、職場抵抗の体制をきづき、たたかいを改善するのか。
 合理化が提案されたらそれを個々の職場での、一人ひとりの労働者への影響がどうおよんでくるかにまで分析し(本章(14))、職場抵抗闘争の形態として組織する。この観点てたたかおう。
 「産別企業全体での闘争形態(ストライキなど)は、そのうえでのみ成功する。誤解をおそれず換言すれば、むしろ職場抵抗闘争を各職場に創るためのテコとしてのみ、意義がある。」
 今日の現状は、提案が通過してしまい職場に実施されはじめたとき、多くの労組は無指導状態・無抵抗状態になる。この現状こそ右の観点とたたかいかがないところから起る、真の敗北である。
 
 合理化提案もなく「平穏無事」にみえるときには、できれば労働組合として、できなければわれわれだけででも、徹底的な職場点検をやってみよう。研修・休憩時間・各種の休暇・要員配置・仕事量・職制の態度−これだけ調べても、資本の搾取と支配(合理化)が着実にすすんでいることはすぐ分る。職場権利問題は至るところにあり、話し合いの具体的なネタがみつかるにちがいない。
 春闘をはじめ、マスコミの影響もふくめて、あらゆる大衆的な高揚期を利用し活用しよう。むしろ、春闘の賃金闘争も、職場抵抗として、一人ひとりの要求に立ち、一人ひとりの資本との対決によってたたかわれなければ、勝利もできないし階級的意義も薄い。職場抵抗は労働運動のあらゆる課題とたたかいに不可欠であり、その意味では労働運動のいっさいであるといってよい。この確認をもってあらゆる組合活動を担ってゆこう。
できない大きな目標を追ってかえって何もしなくなるより、たとえば労働協約の学習会をつくるというように権利問題での話し合いからはじめて、一歩でも前進し組織的にすること。
 また本章(12)〜(15)にみたような自分自身の強化改善を追求しよう。とくに組合役員としての自分の活動を再検討しよう。無内容に業務におわれ、時々のたたかいに追われていないか。そのなかで目的意識的に築いてゆかなければならないわれわれの目標を、階級的労働組合の内容を、職場抵抗と大衆的学習としてはっきりみつめよう。
 (「組合活動に埋没するな」ということが社青同でよくいわれるのは、この意味である。「社青同の活動家が組合活動に最大の時間と精力を集中するのはまったく正しい。組合活動と別に同盟活動があるわけではない。社会主義青年同盟の目的意識性に立った組合活動が、他ならぬ同盟活動である。社青同外からも組合とは別の活動の場をもつべきだという好意的注[ママ]告が少なくないが、六〇年代の客観的情勢そのものが形成させてきた日本での階級的青年同盟の性格と任務は安易に変化しえない」)。
 
(22) 職場抵抗活動は、とくに最初期を脱して現実に資本との対決・闘争がはじまれば、労働組合の組織と運動になる。ひらたくいえばわれわれは労組執行部に選ばれ機関を掌握しなければならない。職場日常抵抗のためには労働組合の職場組織(分会、五人組)が必要であり、その全企業への拡大とそれを基礎とした企業単位の形態での反合理化闘争のためには企業組合の機関(支部から上の)が必要であり、全産業への拡大と産業規模の形態での反合理化闘争のためには産別労組指導部が必要である。第一にこの追求は時間的に全段階で開始されることが本質的には必要である。このための努力を避けてはならない。第二に、しかし、この追求は多くの労組では現在の指導部・執行部との激しい思想闘争が必要であり、大衆のなかにしたがって職場の下部に、われわれ自身が運動実体を築いてはじめて勝利することができる。
 したがって実践的には、われわれは体制内的な、また民同運動や日本共産党などの様々な労組指導部と、「われわれ自身が職場抵抗闘争を築くために」という視点から関係する。われわれ自身のこのたたかいの発展度に応じて、彼らとの対立を回避し、彼らを活用し、あるいはこのたたかいのより以上の発展に必要な範囲で闘争する。一般的にいって現在のところ、体制内指導部にたいしてさえ、直接の闘争はできるかぎりさけることが必要であり、それがわれわれの力を集中させる。
 民同指導部は積極的にか消極的にか、職場の要求をとりあげて大衆闘争に組織しようとすることが、いまでもこれからでもある。これは民同運動の本質的な性格でありいまも変ってはいない。体制内指導部でさえ、時にはそうせざるをえないことが多い。このような場合を、細心の注意を払って利用しなければならない。また大衆的な力で、こういう場合を創りだし、拡大しなければならない。
 
 
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