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第W章 社青同の基本路線
 
第一節 われわれの党派性
(1)第V章の分析は次のように要約される−七〇年代の帝国主義体制とは、一方で全面的な「攻撃」を展開しつつ、他方で、「支配」の確立をともなっている。「支配」とはプロレタリアート、勤労諸階級大衆を、内面的に抑圧するブルジョア民主主義体制特有の内容であり、新左翼極左が云々する機動隊・自衛隊など暴力装置の「街頭の壁」などはむしろ補完物でしかない。
 その特徴は次の二点である。第一には、第V章(21)〜(25)と(26)〜(31)にみたように、労働運動と社会主義党の体制内化、または動揺である。支配体制はいまやプロレタリアートの指導部のなかにまで反映している。この特徴と、これら体制内的指導部への斗争とは、帝国主義段階で常に生まれ、第一次世界大戦前夜からレーニンの最大課題の一つだった(第二インターからの共産党の分離)。第二次世界大戦前夜には、アメリカ、イギリスをはじめブルジョア民主主義支配のもとでは成功したことがない。だが今日では、フランス、イタリアヘそして日本で、階級的指導部を築くプロレタリアート総体の発展が可能になっている。つまり労働組合内部にその橋頭堡が固まりつつある。日本では総評に他ならない。不充分さ・体制内化の傾向が表面的には眼についても、右の歴史的経過をふまえて、総評の正しい評価を確立しなければならない。
 
(2)「支配」の第二の特徴は、大衆の掌握である。それはアメと思想攻撃とを武器とする。全国家的な網の目の体制だが、とくに生活の問題で、生産点と居住地で中心的な「効果」をあげている。賃金が、米の生産者価格が、アメをともない思想攻撃をともなう。革新と転化は「現実的ではない」、「現体制のほうが明日を保証してくれる」−と、労働大衆の心と思想を資本主義の側にとりこんでいる。だれもが矛盾を資本主義体制と自分との間に感じ、不満・不安・怒りをもっているのに、反独占社会主義の方向をもつことはできなくされ、持続性・団結・本質への発展を妨害されている。一つひとつの矛盾がきわめて鋭く全社会の本質的矛盾全体(資本主義)を内包しているのに、(あるいは)一つの要求さえ全社会の転化なしには真の解決はありえないものなのに、大部分の大衆はそれに気づけないようにされている。アメと思想攻撃を生活のなかに展開することによって、両刃の剣であるブルジョア民主主義は支配の武器となった。前項の第一の特徴は、この第二の特徴の頂点である。
 このような下部大衆からの全体的な支配体制は、第一次大戦前夜にはほとんどなかったが、第二次大戦前夜にはすでに部分的にあり、いまや独占資本主義国に共通のものとなって、日本でも「成功」しはじめた。
 
(3)敵の攻撃の激化は大衆の成長を必らず生みだす−これが発展と転化の弁証法である。独占資本主義国ではこの弁証法の循環が断ち切られている。ブルジョアジーは支配の能力を発達させたが、プロレタリアートの主体的部分(社会主義者、党、労組指導部)は対抗の方法を知らず、革命の主体的条件を成立させえないでいるからである。われわれのたたかいは、いってみれば、この弁証法的過程を復活させることである。プロレタリアート、および労働者階級の、大衆総体の発展を保証する、組織的な活動のルートを再建することである。
 全体の関連のなかで正確にいえば、七〇年代の日本では、革命と転化の実力へ向けて、主体的条件を担う社会主義者の任務は、正確には次のように果たされる。
 第一にわれわれは、帝国主義支配体制に最大の注目を払い、これに対抗してプロレタリアートおよびその他、大衆の終局の目標に向かう発展のためにたたかう。大衆総体の発展のためのたたかいがすべての基礎である。「労働組合の階級的強化」という時も、正確にはこのような組合員の強化―意識の成長、とくに指導部・活動家・先進層の思想内容が問題にされなければならない。構成員の、人間の意識思想の問題である。
  第二にそれは総評を橋頭堡としてかちとりつつ、現在の指導部が体制内化していようといまいと、労働運動と労働組合の内部でたたかわれ、そこから展開する。
  第三に社会主義党と労働運動の階級的指導部とは、このたたかいの過程でのみ、このたたかいに結合している日本社会党内部でのみ、思想と実践能力をかちとり、純化しつつ拡大し結実する。
 「帝国主義支配体制に対抗して」プロレタリアート総体の終局の目標に向かう発展を保証するという点に、以上の全てがかかっている。これがわれわれの「党派性」の基礎である。革命の主体であることを主観的には自称する人々に、われわれがつきつけざるをえないもの、彼らに欠如しわれわれにはあるものである。これが第W章第四節の戦略・組織方針の根底的基礎を形成している。
 
(4)様々なエセ「前衛」が、プロレタリアートの先進的部分(活動家や一定の自覚をもつといわれる層)を迷わせ、その力を分散させている。直接的な原因としてはまさにその故に、独占資本主義国では弁証法的発展が断ち切られている。どこでもどんな場合も、発展は部分的にはじまり、平常の状況(政治的停滞期)では、プロレタリアートの発展も必ず三つの層に分れる他はない。問題は第二の層、先進層が正しく主体的条件への任務を自覚し、遂行し、第三の大部分の層に働らきかけるかどうかである。先進層は攻撃の強化と共に大量に生まれている。「反戦派労働運動」(第1章(35))に、民青に、そして電機労連や同盟系労組のなかにも生まれている。一応新左翼極左潮流は、一つの矛盾さえ全社会的本質的な憎悪に結合する契機になりうる独占資本主義下の生活が、一時的に与えるラディカルな行動力に有頂点[ママ]になっている。彼らはこの感性や行動力を思想的実践的に鍛えて主体的な革命の担い手に育てるのでなく、現在すでに客観的条件も成立しているという非科学的「分析」をもっている。こうしてラディカルに行動すれば階級総体も決起するとしていっさいを正当化し、そう宣伝している。彼らは「支配」について盲目同様にみれない。(「機動隊の壁」がようやく眼に写る程度)。
日本共産党と民主青年同盟も実は残念ながら同様の程度にすぎない。かって現在の新左翼そこのけの極左であったこの党の指導部は、その反動として、大衆の現在の意識に一致することに熱中している。ブルジョアジーの生産基盤での思想攻撃がすすみ、合理化への協力がある層をとらえてしまうと、「合理化には近代化の側面がある」といいはじめる。これを基盤に政治面での思想攻撃がすすみ、民族主義がブルジョア流に(排外的に)叫ばれ「自主防衛」論がある層をとらえてしまうと、「独立・自衛・中立」といいはじめる。
 新左翼極左と、日本共産党とは、プロレタリアート総体の現状を放棄するか、または終局の目標を放棄するか、いずれにせよ現状から目標への必然的進路からすでに分離した。この進路を行を共にして歩む主体の任務を放棄した。彼らは量的には「壮大な」拡大を誇り、ブルジョア的マスコミにすでに認められて、宗派運動の繁栄が謳歌されている。だが彼らは宗派の視野にとらわれずに歴史の教訓にまなぶべきであり、さもなければ貴重なプロレタリアートの先進層を道連れに敵のエジキになる他はない。歴史のなかでは、たとえ百万の党さえも、もし階級総体のなかに、その発展のなかに存在しない党ならば、わずか一ヵ月のうちに、支配階級によって粉砕されつくす他なかったのである(たとえば、一九三〇年代の極左主義を克服しきれなかったドイツ共産党、一九六〇年代の大衆迎合的色彩の強かったインドネシア共産党)。
 
(5) 社会主義者は誤まった「前衛」との党派闘争を避けることはできない。社青同という組織は、プロレタリアートと勤労諸階級の先進的部分−その圧倒的な部分は青年である−を正しい方向に結集する「活動家の学校」である。社青同はこの点で重大な役割を担い、総評を橋頭堡とする労働組合、全勤労諸階級の統一戦線、そして社会党としてきずかれる日本での唯一の社会主義政党に関係する。社会主義青年同盟の機能と組織ぬきには、労組・統一戦線・党−第U章(18)〜(21)に明らかにされた革命と転化の実力をきずくことはできない。社青同は公然とこの役割について宣言し自己の立場を表明する。社青同のこの機能は、班=支部を基本的な場として、実際のたたかいの経験と、学習とによって果たされる。
 
(6) われわれに党派性を与えざるをえない、帝国主義支配体制に抗する階級総体の発展についての問題、そのいっさいの基礎であるプロレタリアート大衆(正確には第U章(16)の第三の大部分の大衆)の発展をどう保証するかという問題−これへの回答こそ社青向の基本路線であり、第W章第二、三、四節である。
 それはプロレタリアートの階級運動の根本的な原則と七〇年代(日本)資本主義の展開についての情勢分析との二つから与えられている。
 前者を後者のなかでどのように貫徹させるかということであり、その意味ではとりたてて目あたらしいことは何もないに違いない。歪曲され、無視され、サボられていたことの再提起が多いにちがいない。問題はそれを実践することである。社青同の回答、社青同の基本路線は、第一に「大衆闘争路線」、第二に「反合理化職場抵抗闘争(長期抵抗統一路線)」、第三にそれらが不可避的に政治闘争に発展したものとしての「改憲阻止・闘争(基調)」−以上の三点に、一般的には整理されている。
 
 
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