*六十年代社青同から七十年代社青同への変化を示す貴重な資料。文中にあるように七○年当時、社青同大阪地区本部は第二見解・主体と変革派の拠点であった。出典は『反独占の思想と組織を−社青同大阪地本の5年の歩み』(社青同大阪地本発行 1978)。原文では実名だが、転載にあたっては執筆者の希望で仮名とした。写真は1973年の社青同大阪地本再建大会。 
(一)私の加盟した頃の社青同
 私が社青同を知ったのは、一九六三年の夏、原水禁集会でK氏(のち地本書記長)に会った時でした。それから機関紙『社青同』をよむようになりましたが(当時はタブロイド四ぺージ、旬刊であった。)読み出してまもなく、第四回全国大会があり、西浦執行部の総辞職、「改憲阻止、反合理化」の基調の確立の記事が載り、「大衆化路線」と「大衆路線」はどう違うのだろうか、と思ったことを覚えています。
 
 一九六四年の秋、私は当時の組合役員や党員数名とともに職場班の結成に加わりました。とはいえ、いつまでたっても同盟員証もおりて来ないし、活動もない状態でした。他方、地域で社青同をつくろうというよびかけがあり、一九六五年春にもう一度加盟申込書を書きました。準備段階で何回となく北沢君の家に集まり、終電車がなくなっても彼の家の狭くうす暗い屋根裏で語りあい、路線づたいに歩いて帰ったことがあります。そして六月八日、三つの班からなる「河内支部」が誕生しました。数カ月して八尾にも支部ができました。
 この年は日「韓」条約の締結、アメリカのベトナム侵略戦争の拡大という帝国主義の策動がつよまり、これに対する労働者、勤労国民の闘いが高まりつつありました。大阪でも連日集会、デモがあり、私も常にそのなかにいました。当時の市職青年部のデモは“葬式デモ”で全くおもしろくなかったので、いつも社青同の隊列にいたのでした。
 
 安保闘争時結成された青学共闘は、大阪が最後まで残ったが、民青のセクト主義によって機能を停止してしまい、かわって「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止全大阪青年委員会」(全大阪反戦)が、一九六五年九月九日、社青同、党青対部、地評青年部、府学連、府青協などによって結成されました。民青は「反党分子がいる」とか「相談がなかった」という理由で参加しませんでした。反戦青年委員会は、「自立・創意・統一」を組織原則としたが、そのあいまいさゆえに「三人寄れば地区反戦」の中核派をはじめ、さまざまなセクト、グループが加入してきました。それでも当初は社青同がまとめると何とか統一を保っていたのですが、六〇年代末になると内ゲバなど各派の対立がはげしくなり、社青同の分派闘争も表面化し、そうはいかなくなってきました。職場でも「職場反戦」が雨後のタケノコのようにできていきました。市職でも「市職反戦行動委員会」ができましたが、このきっかけは、私が青年部の第一回平和活動者集会(一九六八年)で提起したものです。平和活動家の結集というのが当初の意図でしたが、全国的な情勢に規定されて、その性格や運動は次第に変質し、最後には一つのセクトと化して消滅してしまいました。
 
(二)空文句をふりまわすだけ
 一九六八年九月に開かれた第十一回地本大会議案は次のようにいっています。「社青同大阪地本は日本帝国主義打倒、労働者権力樹立をめざし、たたかう大衆的職場拠点の構築の全国的発展のために活動する青年労働者の結集体であり、全国社青同を領導する最大拠点地本としてさらにうちかためなくてはならない」、おそらく、こういうのを「革命的空文句」というのでしょう。今や彼らの姿は跡かたもなく消え去っています。これに対し太田派は対案を出したが五〇対三四で否決されました。対案は、松下高槻、国労、大阪変圧器など主流派系の職場班があいついで崩壊していることを指摘したあと、「大阪地本執行部の職場のたたかいに対する無理解と無指導のなかで、多くの同盟職場班が崩壊していった……苦労して組織することの必要を理解しなかったことについて、(執行部は)非難をまぬがれない、地本指導が反戦青年委員会以外に全く及ばなかった。この一年間、地本委員会等でも組織建設に関する提起や、組織実態に関する報告は一度もされなかった」と指摘していました。長く引用したが、ほぼこれが当時の地本組織の問題点といえるでしょう。
 
 当時、班活動というものはほとんどなく、したがって職場の抵抗闘争はほとんど組織されていませんでした。集会やデモ、市議会への坐り込み、ビラまき街頭カンパ・署名など多様な活動はあったけれども資本と労働のもっともきびしい闘いの場に社青同が組織されていなかったことーここに旧地本崩壊の一つの要因かあったといえるでしょう。手許に日付のないマル秘文書があるが、これによると、三五支部五六七名が当時大阪地本の組織でした。
 しかし、これも長くはつづきはしませんでした。六九年九月には「北支部再建」とか、地本執行委員のIがかってに「吹田支部」をつくったとかいう記事が出ています。私の所属した東大阪支部でも同じ月に、支部機関も知らない人間の同盟員証が、ありもしない班の名前を入れておりてきて、返送したことがありました。そして、いつの大会かで、大阪地本は、それまでの数支部を一つの支部にまとめるという、縮小再編を行ない、大阪市内も二〇支部から五支部へと減ってしまいました。しかし、それでも崩壊への波をおしとどめることはできなかったのです。
 
 
 地本崩壊の大きな契機となったのは、一九六九年五月三一日の大教組の「沖縄奪還全組合員集会」(扇町プール)に対する「高校反戦」の乱入事件です。「高校反戦」は地本執行委員Kら「根拠地グループ」の指導する組織でしたが、この事件の総括をめぐって、反戦派内部の対立は激化しました。「主体と変革派」で、「第4インター」にも加盟しているとうわさされたN委員長、K書記長らと高校生班協は、自己批判を表明、「根拠地グループ」と「解放派」はこれに反対したのです。府高教が「高校反戦」を告訴したことがいっそう問題を大きくしました。地本委員会議案の中で執行部は、大教組集会が、「日の丸復帰」的レベルに後退していると批判しつつも、他労組が何もしないなかでの取り組みとして評価を与え、「高校反戦」の「実力参加」は「大教組運動に打撃を与えた」「行為そのものはいささかも容認できない」とのべ、「プチブル急進主義との徹底的な闘争」を訴えています。「根拠地グループ」は、こういう態度は「公認左翼への逃げ込みだ」と批判していました。地本全体が。この総括をめぐって大きく揺れ動いたのです。「中津は、向坂派だ」「いやあいつはうち(主革)だ」「お前はどっちだ」などといわれたように、私もー今から考えると滑稽ですがー大いに悩んだものでした。
 
 
(三)こうして地本は崩壊した
 七〇年三月三一日の第二回地本委員会で、六九年の佐藤訪米阻止闘争の総括等が行なわれましたが関大班など「解放派」は臨時大会を要求、六月七日に第一三回臨時地本大会が開かれました。議案は「日米共同声明をめぐる内外情勢の特徴とわれわれの任務」と題されたが、ここでも[解放派」は「執行部少数と代議員有志の対案」を提出しました。一方、太田派は、地本委員会で要求されていた「自己批判」(地本に結集せず、別行動をとっていた)を拒否し、退場してしまいました。
 
 七〇年七月八日、大阪地本選出の中執K、中央委員Sら 「主革派」五名が「社青同崩壊にさいし、全国の同志諸君に訴える」という文書を出し、第三一回中央委員会を攻撃しました。
 七〇年十二月二十一日、第一四回地本大会か開かれ、「第一三回臨時大会決定で要求されている自己批判を拒否し、今大会をボイコットした支部を解散、その他正当な理由なく、大会をボイコットした支部に警告を行なう」と満場一致決定しました。前者は、此花、八尾、天王寺、阿倍野、寝屋川など、太田派が主導権をもつ支部であり、後者は、東大阪、東淀川など「根拠地グループ」が握る支部でした。大会はまた、「向坂派セクト大会粉砕闘争を貫徹する」と決議し、「主革派」と「解放派」による執行部を選出しました。
 
 七一年二月、太田派は六人の支部委員長(代行含む)の連名で「大阪地本の再建をめざすわれわれの決意」なる文書をバラまきました。
 これより先、中央でも分派闘争が激しくなったためか、「青年の声」が突然届かなくなってしまいました。再三の請求にもかかわらず、ついに地本解散(第一〇回全国大会直後)まで一部の『声』もとどかず、全国、中央の動きもつかめないまま、“身のふり方”を考えていたのでした。「主革派」地本は、全国大会後しばらくは息をひそめていましたが、やがて消滅してしまいました。その後「解放派」が牛耳った地本から二回ほど「地本大会」の案内をちょうだいしましたが、やがて彼らの事務所も荒れ放題の空家と化したのです。
 
(四)旧地本の誤ちから何を教訓とするか
 以上の流れから、次のようなことが指摘できるでしょう。
 まず第一に、科学的社会主義の学習が欠落していたことです。私は一九六五年一月から労大の通信教育初級課程を受け、中級、上級と修了しました。しかし、社会主義運動、労働運動に関する少しばかりの知識を得たにすぎず、その後の活動に正しく生かしたとはいえませんでした。地本全体としてもそういう学習は重視されていなかったのです。時々開かれた「社青同学校」も時事的な課題のみであり、科学的社会主義による思想武装というものではありませんでした。
 時々「労大新書」を買って独習したりしていましたが、ほんとうに科学的社会主義を学ぼうとしたのは、一九六七年の社会主義協会の分裂からであったと思います。さっそく雑誌『社会主義』再建第一号を申込み、いっしょうけんめいに読みました。それでも、協会全国オルグ(当時)の松永さん、労大の当摩さんにオルグをうけたときは、もうひとつピンときてはいませんでした。
 今、私たちの学習は、当時に比べてみると質的にも量的にもかなり前進してきています。
 
第二に、反合理化闘争の決定的な弱さがありました。構造改革論とその亜流の当然の結果です。今一部に、「社青同は政治闘争がない」という意見があります。職場の反合理化闘争と結びつかない政治闘争とはどんなものなのか。一例をあげましょう。「根拠地グループ」のK君が「そろそろカネがなくなってきたので、また大阪駅でカンパ活動しよう。今度はベトナムでいこうか、沖繩にしようか……。」むろん、すべてがこうであったわけではありませんが、市民主義、街頭カンパニアでは、真に独占資本に打撃を加えることはできません。
 資本の搾取と分断攻撃がつよまっているなかで、社青同も例外ではありえません。斑の団結にすらヒビが入れられます。今こそ真剣に班の団結の強化をはかっていかなければなりません。全人間的な結びつきがだいじになってきています。
 
 第三に、大衆路線の欠如です。現状で社青同が社会党より思想的に優れているとしても、社青同は党を代行したり、のりこえることはできませんが、当時の地本執行部(あるいは各セクトの指導部)は、そんな錯覚にとらわれ、分派闘争に憂き身をやつしていました。崩壊は必然でありました。大胆に訴えるとともに、謙虚に学ぶ姿勢が大切であることを知らなければなりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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自己崩壊をとげた旧大阪地本
 
中津春夫