三、改良闘争を位置づける正しい積極的な思想を
社会主義をめざして労働運動のなかで活動しているのは、社会党・社青同など私たちだけではなく、日本共産党・民青もあります。また革共同革マル派も、他の極左主義とは異なったポーズで活動していて、連合赤軍事件についてのように、各々それなりに発言しています。したがって、われわれが社会主義をめざし、いままで述べてきたことをすすめていくためにはこれら他党派にたいする、私たちの思想的背景をもう一度きちんとさせることか必要になっていると思います。
1.共産党宣言
まず第一に、マルクスの『共産党宣言』(一八四八年)です。社青同の周辺でも一番よく学習されているでしょうし、私たちの思想的な出発点といってよい本です。
これを読んでなるほどと思うのは、まず、法律、道徳、宗教の一つひとつにブルジョア的利益が隠されている(岩波文庫、五四頁)と書かれています。そういう意味の階級的なきちんとした構えが、日本の労働者階級には弱いと思います。
ひとつの例をとると、労働組合で協約を結ぶ(法律の一種としてよい)。そうするとこれを向こうに守らせようとばかりいう、もっともだめな連中になるとこちらにも守れといいます。悪法も法なりという者が出るくらいです。しかし協約は力関係の所産で、もともと、劣勢の労働者かやっと協定を結んだとき、勝った勝ったなどという基盤はない。しかも、いつでも協約を無視してくるのは資本の側である事実を直視し、協約で安心してはならないのであって、それを足場にもっと突っ込んでいかねばならないでしょう。
できた協約をお互いに守らねばならないという程度では、階級的な警戒心とか階級的なものの見方とか、階級的な構えがサッパリないというほかはありません。
それから次に「共産党宣言」でこの際問題となるのは、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートのたたかいは、内容上ではないけれど形式上は、第一に国民的な闘争だ、といっている点です。私はこの本を何度目かに、三池闘争の後あたりに読んでから「ははあ」と考えました。日本の労働組合の活動家は、企業主義や産別セクトに強くはまり込んだままではないでしょうか。
またもう一つ「共産党宣言」の有名な部分ですが、労働者階級はときどきしか勝てない、いつも負ける、しかしもっとも重要なのは勝ったか負けたか、要求をとったかとれなかったかではなくて、ますます拡がる団結力である、といっている点です。
生活や運動のすべてをきちんと階級闘争としてとらえて対処すること、企業や産別をこえる全国家的な一つの階級運動として自分の組合運動を自覚すること、要求闘争や阻止闘争を、勝った負けただけではなく、ますます拡がる団結という立場から考えることなど、私たちは自分の運動や考え方の現状を、『共産党宣言』にそってもう一度見直さなければならないと思います。
2.「第一インターの労働組合に関するテーゼ」
第二にやはり、マルクスの「第一インターの労働組合にかんするテーゼ」(一八六六年)です。マルクスがインターの求めに応じて書いて採択されたものです。
「労働組合の過去、現在および未来」と題された内容を大まかにいうと、まず労働組合の過去について、資本とは集積された社会的な力だ、それに比べて、労働者というのは労働力を売るしかない。社会的な力ではないからいよいよ不利な状態になる。そこで団結して組織的にたたかうしかないとわかった−これが一八六六年からみた労働組合の過去。
現在はどうか。イギリスのチャーティスト運動がはじまっていたわけですから、雇主と賃金や労働時間について闘争するだけではなく、労働時間を法律的に規制するとか参政権の要求とか、政治的な問題を含みはじめている。
それでは未来はどうか。好むと好まざるとにかかわらず、労働運動はついに未組織の下層に力をかすにいたり、ついで賃金ドレイ制度それ自体を廃棄する。労働組合運動は革命の母体になるといっています。
この三つの段階が意味しているのは、労働組合というものはこのように必ず発展するものだ、弁証法的に発展するものだ、ということです。
そして現在一九七二年には労働組合の任務はどうなっているかというと、だれでも第一段階ではなさそうだと考える程度です(実質的には第一段階しかやっていないものもいます)。しかし本当にさしせまっているのは、少なくとも、第二段階にとどまることではなく、端的にいえば第三段階のはずです。私が不十分ながらこの提言の前の部分でいってきたのはこのことです。
3.レーニンの論文−改良闘争と改良主義
第三に、レーニンの考え方として論文「マルクス主義と改良主義」(一九一三年)があります。
マルクス主義者は、無政府主義者とちがって、敵の権力のもとにおける資本主義下の改良闘争を、全力をあげてすすめる。しかしマルクス主義者は改良主義とは断固としてたたかう、という非常にきちんとした命題がでているわけです。
資本主義下の改良闘争というのは、その要求をとるとともに、改良闘争を通じて組織に対する信頼、労働組合の客観的な任務、社会発展の道すじ、歴史的法則をわかるためにも、物とり的な改良主義であってはならないのです。しかし同時にこのためには、改良闘争といっても、体系的なもの、歴史的法則を含めた改良闘争でなくてはならないのです。
私たちは、今までいつも、私たちは改良主義はいかんといっています。左派だといっています。しかし本当に左派だといえるでしょうか。改良主義者と違うというだけでは左派とはいえないのではないか。現に春闘の一七年の歴史をつうじて、賃金でマルクス経済学にブチあたるというような指導は全然していないのです。歴史的法則を忘れています。
短かい論文ですが、このレーニンの論文をみても、私は、改良闘争というものの歴史的な階級的な意義を、私たちがもっと学びとる必要があると思います。つまり、改良闘争の正しい意義を学んで、積極的に改良闘争を土台として活用する立場を確立すべきだと思います。改良闘争の意義がわからないと、極左主義者がいっている「総評も社会党もナンセンス」ということに同調することになります。しかし、そっちょくにいって日本において社共両党をのぞいて他に社会主義政党ができるはずがありません。革マルをはじめ他のセクトには、いくら口ばかりいっても大衆にたいする誠意がありません。総評の運動を軽視するだけで本当に改良闘争に献身する誠意がない。だから労働者階級はついていきません。
マルクス・レーニン主義というのは、基盤を資本論に、搾取におき、大衆の力を汲みとる、労働運動を最大に重視して、その強化に献身する。このことをぬきにしてマルクス・レーニン主義はないわけです。このためには長期抵抗をかまえるのはあたりまえなのです。革マルでも、中核でも人民の力派でも、これら諸潮流はみな「ブッ倒せ」だけであって、労働者階級・大衆の苦しい長期のたたかいを一貫して支持し指導する思想的基盤がないわけです。一貫して彼らにはなく、他方私たちは一貫してそれをやってきたのです。社青同の仲間たちは、この点の誇りと確信をもっと一人ひとりが不抜のものにしなければなりません。
同時に、私たち自身も改良闘争と改良主義のちがいをもっと明らかにすることが必要です。この立場に本当に立った社会主義政党を築かねばならないが(社会党強化)、そのためには社青同が思想的に確立されることです。
4.「左翼小児病」
第四に、いわゆる「革命の条件」を、左派陣営に定着させたとされるレーニンの「左翼小児病」(一九二〇年)があります。
レーニンは、ロシア革命を自ら総括して「すべての革命、とくに二〇世紀の三つのロシア革命によって確認された革命の基本法則はこうである。すなわち、搾取され、圧迫されている大衆がいままでどおりに生活できないことを自覚して、変更を要求するだけでは、革命にとって不十分であって、搾取者がいままでどおりに生活し、支配することができないことが、革命にとって必要である。「下層」が古いものをのぞまず、「上層」がいままでどおりにやっていけなくなるときはじめて、そのときにはじめて、革命は勝利することができる」とのべているのですが、ずい分と重みのある教訓ではないでしょうか。
労働運動を、改良闘争を、一貫して重視し、追求するマルクス・レーニン主義は、当然のことながらこのように、「社会主義革命」を恣意的なものに歪曲しないで、科学として確認し、そのためにこそ日常闘争を大切にするというものですし、指導部隊として力量ある社会主義政党の建設がめざされなければならない、とするものです。
私たち三池の労働者も、あの歴史的な「安保と三池」の大闘争に学び、「長期抵抗・統一路線」を三池の次元で打ち立て、この一〇年余をたたかいつづけていますが、いよいよマルクス・レーニン主義に学ぶ必要を痛感しています。
彼らどおしの、くちぎたないののしりあいをみても、まさに小児病的な武闘ごっこをみても、さらにはいたずらな反幹部闘争主義をみても、革マルとか中核とか赤軍派など、社青同を除く各セクトの言行を、私たちはマルクス・レーニン主義からはまったくほど遠いものとしか、考えることができません。
5.「方向転換論」−革命・大衆・要求
第五に、山川均の論文「無産階級運動の方向転換」(一九二二年六月)です。
この年の七月に第一次共産党ができました。山川さんはこれに参加しましたか、一九二六年再建された第二次共産党には参加しませんでした。第二次共産党を福本イズムが支配しましたが、これはいまの極「左」主義と同じで、精鋭部隊で革命をやっていくということです。
「方向転換論」はこれとはちがっています。今日の社会主義協会につながる、労農派マルクス主義の基本を定めた論文といえますが、こういうふうにいっています。
革命意識に成長した少数の先進分子は、遅れた大衆のなかに帰って、いかにして大衆を動かすかということを学ぶことが必要だ。
つぎに、観念的な革命思想の自己陶酔から脱皮して、大衆の現実の要求を代表した大衆的な運動をやるべきだ、と改良闘争を強く提起しています。
それから、消極的な政治否定から、積極的な政治的対決をやるべきだ、といっています。前者は、新左翼諸派のいう既成政党ナンセンス論にたいする批判ということでしょう。後者は、今でいえば、社会党の社会主義政党への強化が第一だということです。
そして山川さんはこういっています。
「大衆の行動を離れては革命的の行動はなく、大衆の現実の要求を離れては大衆の行動はない」と。
「方向転換論」は、やはりすばらしいものだと思います。福本イズムなどは問題にならない。ここにあげた前の四冊の本(論文)とならべてみても、一つの狂いもなく、一筋のたて糸のように一貫しています。この私たちの考え方の背景をなすのが「資本論」です。
結語−主体的な思想体系で闘いの先頭に
社青同の諸君は、このような一貫した路線を、マルクス経済学を含めて、けっして教養課程ではなく、具体的なたたかいのなかに生かさねばなりません。
情勢をみきわめては、労働者階級の意識をたかめるために、この情勢ではここまで出す、このたたかいではここまでいくという、主体的な思想的体系をもって具体的なたたかいの先頭に立つことか必要なのです。
長期抵抗という構えは、このようにして、労働者階級のたたかいを、資本論にもとづき労働価値説で武装して、革命をやるという基本的な原理、原則にそって押しすすめていくことです。
情勢に流されたり、情勢を理解できなければどうにもならない。今年の春闘の課題は何か。たたかいというのは相手をこわがらせなければなりません。額をとるためにも、もっと思想的に高まらなければならない。相手の痛いところはここであり、痛いところをつかねばならない、という知力と行動力を鍛え上げよう。
資本は今春闘で、おっかなびっくりで、思想に挑戦しています。労働者階級の思想(マルクス・レーニン主義)におっかなびっくりで挑戦してきているわけです。
ストライキは重要な武器ではありますが、これまでも不況期にいく度もあったように、鉄鋼資本などはストをやられた方が滞貨が減っていいという一面もありましょう。内容のないストではなく、本当に労働者が怒り、一歩でも半歩でも思想的に高くなる−革命が近くなる、これが資本を恐れさせる内容です。
これをねらって私たちがくさびを打ちこむことを考えて、なぜ悪いか。
また七二年春闘に必要な総括の中心は、ここにあると確信するものです。
(以上)
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