明確な、しかしまだ消極的な抵抗を強じんな階級闘争として組み上げよう
−七二春闘の情勢と提言
労働大学講師 灰原茂雄
七二春闘はヤマ場をむかえようとしています。日本の労働運動の前進をめざす私たちの視点は、この春闘を含めて、もっと鋭く目的意識的なものに鍛えられねばなりません。科学的社会主義は、社会主義と労働運動の融合だといわれます。労働者階級の必然的な階級運動によって、真の革命がはじめてかちとられようとするなら、そのためには、まづ私たちの日々の労働組合活動が、社会主義の立場から改善され整えられなければならないはずです。このための討議資料として、労大講師としておなじみの灰原茂雄氏に提言をいただきました。日本の階級的労働運動の路線を七○年代に緊急に確立していくためのものとして受けとめたいと思います。なお、これは灰原さんの話しを編集部でまとめたもので、文責は編集部にあります。(社青同中央本部機関紙『青年の声』編集部−一九七二.四.一〇)
一.一方でファシズムが芽ぶき、他方で青年が工場を逃げだす
情勢についていえば、総じて社青同の活動家は、労働組合自体が軽視していることの反映で、どうしても情勢を組織的にみる、科学的にみる、ということができていないと思います。
たとえば、私が地方の活動家に手紙を書いても返事をくれるのは半分ぐらいです。つまり、こちら側の情勢を互いに知らせあうというようなきめ細かい態度が弱いわけです。
『青年の声』も五〇〇号を迎えたとのことですが、この新聞でとりあげられているいろいろな情勢が、職場で、昼休みの喫茶店で、正確に評価され、こなされて話題になっているかどうかが、非常に大切なことだと思います。
1.連合赤軍の思想はナチと変わらない
そこで一つの問題は「連合赤軍」についてです。
長期抵抗・大衆路線に立つわれわれとはまったく違う、「まったくナンセンス」という優越感を感じる程度で、優越感を持つが問題にしないということがあると思います。
しかし、それはまちがいです。
三月一七日付『朝日新聞』の「天声人語」の欄を読むとこう書いてあります。
「過激派か事件をおこすと革新陣営はわが党は関係ないという。これも分らない。組織的には無縁でも、若い活動家がついにここまで頽廃した現実とまったく無縁とは思えない。なぜ自分たちの革新陣営におこった事件として、世間といっしょに悩まないのか」「悪いのは政治だ社会だというのではない。事件の背景には複雑な要因がからんでいる。事件捜索とは別に、そこを追求するのか大人の社会の責任だと考える」
こういう悪らつさですから、ただナンセンスと軽視するのではいけない。向こう側はそこを逆についてきているともいえます。この問題について、私は同志たちと時間をかけて議論しましたが、リンチ殺人などは歴史的にどこでもファシズムにこそありえたということです。
またドイツのナチは、「民族社会主義ドイツ労働者党」が正式名称でした。日本でのファシズムを考えても、二・二六事件をおとした青年将校たちは、集まった兵士たちにむかって、おまえたちは貧乏人の子だ、貧農の子だ、三井・三菱財閥は何をやっているのか、独善を放置していいのか、と煽動しています。つまりファシズムは、社会主義とか、反独占とか主張しながら登場するのです。
だから連合赤軍事件がどんな情勢を指し示すのか、よく考えなければならないと思います。この事件は、ファシズムの芽としてとらえるべきものです。私たちはこのような芽が生まれつつある情勢のなかにいるわけです。
民青や革マル派の諸君たちも、それなりにこの事件について、毛沢東理論なり極左諸派との分派闘争に結びつけてしきりに批判しています。
したがって、科学的社会主義路線を堅持している社青同は社青同として、沸騰する世論のなかで、事件の本質を、情勢のなかで正しく分析し解明した宣伝を、精力的にやらなければならないはずです。
2.自衛隊制服組を注視しよう
ファシズムの芽が生まれているといえるのはもう一つ、国会の予算審議などのなかであらわれた自衛隊や四次防の問題です。
ようやくこんどシビリアン・コントロール(文民統制)のいわば約束をとりつけたわけですが、これでよしとしたり、防衛委設置で野党が国防問題に口を出せるようになったから一歩前進だ、と考えたりするのはまちがいです。シビリアン・コントロールなどで、四次防への道を阻止できないのは、いまさらいうまでもありません。
北ベトナムヘ外務省の係官が出かけたが、一ヶ月もたたぬうちに、南ベトナムに自衛隊の幹部が立ち寄ってきた。立川への夜陰に乗じた移駐。沖縄への兵器の先どり持ちこみ。シビリアン・コントロールで安心するどころか、同時期におこっているこれらの事件をもっと深くとらえなければなりません。
防衛大学は三月二〇日に第一六回の卒業式をしたわけですが、今年(七二年)の卒業生は四二八名、一期からの卒業生は七、四一五人に達しています。一期生は二佐(中佐)になろうとしており、二七万の自衛隊のなかでたいへんな勢力です。
彼らはすでに自衛隊の中堅であり、しかも戦前の旧軍隊出身者とはちかい、武器や技術について非常な信仰を持っており、さらには治安活動を辞さない、こういう方向でたいへんまとまりつつあります。相当な勢力になっているのです。
沖縄への兵器積み出しの問題でも、はじめは制服組の石川空幕長などの行きすぎだ、責任だといいなから、次の日には、いや内局(シビリアン)が悪かった、配慮か足りなかったと、持ち込んだものを日本に帰してお茶をにごそうとしています。自民党政府は石川空幕長をおそらく切れないでしょう。切ったらたいへんなことになるといわんばかりの状況が、自衛隊二七万、新幹部七、五〇〇人というなかにあるわけで、これはたいへんなことです。自衛隊・防衛論争を全体としてみると、これはゆうに、ファシズムの芽だということができるのです。
日本の社会主義政党には、いま社公民の共闘構想などもあるでしょうが、ここを明確にとらえて、突ら込まなければならないはずです。なぜそれができないか。やはり青年労働者が鋭い感覚でこれらについて「おかしい」と、突っ込む体制(ママ)がなければどうしようもないと思います。
3.工場の一青年は「喰いものにされる」と叫ぶ
日本の青年労働者の状態を示す例として、私がこの一月の社青同中央幹部学校(西部)で読みあげたものを、もう一度紹介します。
「西日本新聞」の一月二二日の記事ですが、ある大阪の中小企業に一九人の中学卒の同期生が入った。四年たつうちにみんなやめて自分一人になってしまった。一人になってつくづく考えてみると、金の卵などといわれているうちに、実は「長くいればそれだけ喰いものにされる」とさとり、とうとう思い切ってやめたというのです。
四年間で退職金は五、〇〇〇円、貯金が五万円あったから、彼はその五万五千円を握って、一週間であらゆるところで遊んだら、それでなくなってしまった―。そういう青年が「長くいればそれだけ喰いものにされる」といっておこっているわけです。このように、モーレツ社員はもうイヤだ、おだてや、賞品や、お金ではもういやだと、皆んなが大衆的にいい出した。この状況を私たちがもっと正しくみつめなければならないと思います。
この青年のような不満が全体化してくるなかで、資本家側も、けっしてじっとしてはいません。たとえば経済同友会の「七〇年代の社会緊張とその対策」(二月一八日)、日本経済調査協議会の「新しい産業社会における人間形成」(三月一七日)などがつきつぎに提起されています。日経調というのは聞きなれませんが植村日経連会長、永野日商会頭などを代表理事とする財界の調査研究機関です。
さて、その内容は、同友会のものでみると、企業内の福利厚生施設を一般に公開するとか、大学入学前の青年を地方や開発途上国に「下放」して何かやらせるなど、要するに「連帯の回復」に是非全力を上げようといっています。鉄鋼労連での宮田体制に批判が強まったり、職場砂漠論がいわれていることに対応しようとしているわけですが、こうなると、この提起を伝えた『朝日新聞』が解説しているように、「財界の自信喪失」を表明するものといっても過言ではありません。
一方でマル生運動を推進しながらも、それだけでは自信がなく、あわてているわけです。
このような資本側の新しい動きは、たんなる修正資本主義ではありません。もっともらしく合理的な方向で、いままでのひどい搾取、いままでの資本主義ではない日本的修正資本主義を、暗中模索しているといってよいでしょう。
4.「情勢」を確認し、闘いを拡げよう
はじめに書いたように、情勢というものを、もっとみんなで重視し、分析し、そして闘いをつうじて意識的に拡げるということをしないといけないと思います。もう一度内容的にまとめると、一方ではファシズムの芽が経済情勢を含めて育ち、具体的な形をとりはじめて、いいかげんなところで妥協できない情勢であること。他方には労働者階級、とくに青年労働者の抵抗が強まり、ありきたりのものではなく工場を逃げだすところまできていて、独占資本側も、陳謝とか自己批判などを含めた巧妙なやり方で、新しい方法の模索に懸命になっていること。これらを確認できます。
したがって、青年労働者の、明確な形をとりはじめてはいるが、だがあまりに消極的な抵抗を積極的なものに組み上げるという任務を、社青同は持たねばなりません。
このような情勢を私たちがどれほど正しく科学的に総括し、本当に突っ込むのか。社青同として、どう突っ込むのか。
状況が、いわば客観情勢は有利だということなのですが、主体的にはまだまだ弱い。そのなかでどうするかが問われているのです。
二、生産性向上運動と結ぶ「分配」賃金論攻撃の意味
1.賃金闘争を、マル生に組み込む独占がわ
以上のような情勢の見方を確立して、今年の春闘を考えてみると、まず資本側が「賃下げもありうる」といっていることです。
生産性基準原理に立って、「生産性が上がらなければ賃金は上げられない」といいはじめて三年目だと思いますが、今年は右のように「賃下げもありうる」といい、その時、先行きの業績、将来の生産性の見とおしに即して賃金を決めなければならないといいはじめたわけです。
これは非常に重大なことです。なぜなら、賃金はこれまで、春闘の独立したたたかいで独立した協定で決めています。ところが、生産性向上という大きな運動のなかで、そのなかに賃金をくみこんで、賃金協定ということで、額を決めるときには将来の生産性向上を含ませるといっているわけです。
そこで、これと関運して、第二に彼らの賃金論があります。ブルジョア経済学の用語ですが「付加価値」についてで、売上げから、原材料費・動力費などを引き、さらに減価償却をやって残ったものが「付加価値」(パイ)というのです。
このパイを、第一に労働者の賃金として分配し、第二に税金として国家社会に還元し、第三に残りを企業に「利子」(国鉄当局のいい方)として分けあう。三つに分けあうのだから、パイを大きくすれば、賃金額も大きくなる、と宣伝するわけです。
科学的にいえば実に馬鹿なことをいっているわけですが、重大な思想攻撃であって、前記の生産性の予測論と一体をなしているのです。昨年出た産業構造審議会の「七〇年代の通商産業政策」という答申も、七〇年代は生産性向上運動を徹底的に貫徹するとかいってましたが、それが具体的にこのようにあらわれているのです。
私が属する社会主義協会は、国鉄当局が生産性向上運動をはじめたとき、機関誌『社会主義』に別冊の特集号を出しましたが、これは国鉄労働者だけでなくあらゆるところで読まれはじめました。生産性向上運動か、いたるところで対決の中心になってきたわけで、私たちの見とおしは正しかったと思います。
2.毎年の春闘も、分配闘争でいいのか
賃金は春闘のなかで独立して決め、生産性向上とは無関係です。従来もこの立場できたわけですが、これをいままでのように無意識にではなく意識化しなければなりません。つまり賃金闘争自体が資本側に思想攻撃としてねらわれているわけですから、こちら側もはっきりしなければならないと思います。
このため第一に、賃金論として、賃金というものは分配ではないということを、はっきりしなければなりません。材料費、営業費とともに人件費として賃金はいつもコストに入れられてきたのに−「賃金が上がったため物価が上がる」(コスト・インフレ論)というように−、生産性向上運動のなかでは、最近はコストの一部ではなく「パイの一部」だ、「パイの分配」だといわれるインチキを暴露しなければなりません。
ところでこの暴露をすることによって賃金闘争は科学的になります。そうでないと、生産手段は私有であり、ブルジョアジーが持っているのだから、彼らが利潤をとるのはやむを得ない、したがって、われわれは商品としてしか扱われない自分の労働力をしかし高く売りつけるのだ、そのためにはストライキでたたかう、というそのかぎりやはり一種の分配論に、分配闘争に甘んずるだけになるわけです(もどるわけです)。
しかし分配論の暴露だけで、したがってただ額だけとればいいという今日までの体制内の賃金闘争、意識のない額だけを追う自然発生的な春闘を守るだけでは、実はほんとうにだめな状況になっているのです。
そこで第二に、生産手段の私有をめぐって「おかしい」、「われわれの労働力を商品あつかいするな」という反撃が必要になっています。労働力を商品あつかいするような、そんなことだからモーレツ社員はイヤだ、「長くいればいるだけ搾られるだけだ」と工場を逃げだす青年労働者が大衆的に生まれているのです。
まとめていえば、新たに賃金闘争が資本側にきびしく攻撃されるなかで、体制内の闘争も不十分ではあるけれども(したがってその強化をはかりつつ)、しかし体制内闘争に、額上げだけに、へばりつくだけではなくて、賃金奴隷制度の拒否にまでもち込めるかどうかという非常に思想性の高いものが問われているのです。賃金闘争を階級的なたたかいにするというのはこのことです。
3.経済学への直接の挑戦
私は昭和二三年一〇月以来、四四年八月まで二一年間労働組合の専従をしてきましたが、その経験からいうと、労働価値説・マルクス経済学と独占資本かいっていることの直接的なぶつかり合いを見たのは今回がはじめてです。
生産性向上運動は、たとえば、昭和三六年の三池の場合でも(同年一〇月三一日の第二組合との平和協定)、このような点は問題になりませんでした。資本は合理化協力、生産性向上委員会を各段階につくる、ストをしないなどを強制し、第二組合はこの代償として一律月八○○円をもらいました。
当時、私たちの方も、生産性向上運動には昭和三〇年来の論議で問題ははっきりしているではないか、ストを売りわたすとは何事かと、一生けんめいビラ入れなどしました。しかしやはりおれたちの労働力が商品としてあつかわれるのはけしからんというところまではいきませんでした。情勢もありますが、自己批判も含めて思い出します。
一一年前は、資本も「あなた方に分配している」とはいわなかったし、私たちの方も「資本論」の学習もやっていましたから(第一巻三分冊ぐらいまでいっていました)、いろいろ頭のなかではわかっていたのですが、この点は問題にできず、大衆化されなかったのです。
ところがいま、日本独占は真剣になってこれを打ち出しています。「お前たちには付加価値から賃金を分配しているのだから、生産性向上に協力するのはとうぜんだ」と。
日本の賃金闘争は一面ではナメられていると思います。マルクス経済学をちょっと知っていれば、当然資本のこのような分配論は反撃されるでしょう。ところがマルクス経済学を学んでいる者はあまりにも少ない。
そしてその量が少ないだけでなく、学習はしていても、その人たちは大学でいえば「教養課程」のつもりでいます。実践に関係ないと思っているのではないでしょうか。だからナメられているのです。そして資本側は、苦しまぎれにマルクス経済学に挑戦しながら六〇年代とかわって「参加」を求めようとしているわけです。日本的修正資本主義を確立しようとしているわけです。暗中模索をしながらも、ある程度自信をもっているから、この分配論や「参加」を大胆に打ち出してきました(「参加」については昨年一○月の本紙に私が書いたとおりです)。
4.マルクス主義学習は教養課程ではない
こうして、われわれ側からすればまさにマルクス経済学による直接的反撃が必要です。あるいは、社会主義か資本主義かについての路線を明らかにする、その一環として七二春闘をみつめていくことが大切になってきたわけです。
そういう態勢をもっていなければ、企業再建のためにはやむをえない、国益のためにはやむを得ないと、合理化賛成に、帝国主義に、引きずりこまれてしまいます。敵はこれをねらっているのです。
思想闘争というものが、いよいよ対決の中心になっている。後じゃない、前にでている。これが今度で三度目の、つまり昭和三〇年頃、三六年頃以降(六○年代)、そして今度の生産性向上運動の前面に出てきた背景です。
春闘・合理化、いずれも大へんな思想性をわれわれの方がもたねばならなくなっていると思います。
もう一度いいます。われわれのマルクス・レーニン主義についての学習は教養課程ではないのです。マルクス経済学をつかんで離してはダメなんだ、日本における社会主義革命の理論を把握していないと闘えない、というところにきています。右翼的労働戦線統一をすすめる指導者とここがちがうのです。マルクス・レーニン主義をもって直接反撃することです。
この思想的高まりがなければ、七二春闘はしっかりとはたたかえないところまで迫っているのです。数年前に、総評岩井前事務局長は、「社会主義教育」の重要性を運動方針として打ち出しましたが、これが削除されたことは本当に残念です。この辺に日本労働運動の弱さが明らかにしめされています。
(編集部注−総評三四回大会(六七年)で太田合化委員長は、社会主義教育強化は、資本から政治主義だとの組合攻撃を強める、とし削除を要求、鉄鋼なども同調した。)
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