ソ連東欧社会主義崩壊をめぐって
伊藤修、杉田憲道、瀬戸宏、津野公男、細井雅夫、山崎耕一郎
*『社会主義』1997年12月増刊号(第416号)「ロシア革命80年にあたって」掲載。社会主義協会のソ連東欧との交流経過と問題について検討した座談会。この座談会後まもなく社会主義協会は分裂した。
報告 ソ連・東欧をどのように見てきたか
瀬戸宏
報告を担当させていただきます。社会主義協会のソ連東欧論問題討議はソ連崩壊の直後から始まっており、『ソ連東欧社会主義崩壊の原因と教訓』という本も九三年に協会から出されていますし、最近では本誌六月号で特集が組まれています。ですから、量的にはすでにかなりの蓄積があるのですが、私はこれまでの協会のソ連東欧論は、協会の過去のソ連東欧論検討が欠如している、という印象をずっと持っていました。社会主義協会が七十年代以後「ソ連派」という印象を持たれてきたのは事実ですし、「苦い事実」であっても歴史を振り返る必要があるのではないでしょうか。今回の私の報告は、社会主義協会の過去のソ連東欧論の総括に重点を置きたいと思います。内容上、過去の文献からかなり長い引用をすることになりました。今回取り上げる問題は私自身が勉強を始めたばかりでまだ不十分ですが、それにもかかわらず問題提起として現段階の私の見解を思い切って突き出した部分もあります。不適切な個所もあるかもしれませんが、討論の素材ということでお許しください。
T 労農派・社会主義協会のソ連東欧論の系譜
社会主義協会のソ連論の検討に入る前に、その源流である戦前の労農派のソ連論を、雑誌『労農』の論説から見ておきたいと思います。
『労農』を読んで最初に気がつくのは、当初はコミンテルンにかなり好意的であり、同時に社会民主主義に厳しい姿勢をとっていたことです。例を挙げると、大森義太郎は「我々は常にコミンテルンの活動に注意してをらねばならぬ。それが世界の無産者の真の前衛であるという意味で」(「コミンテルンの歴史」二巻二号)と述べ、向坂逸郎は「社会民主主義者の正体は、常に労働者階級の永久的な一般的な階級利益を犠牲にして、一時的な、部分的な利益を追求する所の日和見主義である。」(「社会民主主義とは何か」二巻九号)と批判しています。
もちろん、労農派は、その後コミンテルンに対する批判を強めていくことになるわけです。一九二八年九月にはすでに「プラウダの記者は同志山川のうへに『清算主義者』と烙印した。同志山川に対しては吾々はプラウダ記者と異なった見解を持っている。」(無署名「無産大衆党の結成に関してプラウダ記者に与ふ」二巻八号号外)とコミンテルン批判を明確にします。労農派のコミンテルン批判の代表は、山川均「コミンテルン・テーゼは如何に吾国の無産政党を否定したか」(五巻二号)でしょう。
一方で、ソ連の社会主義建設そのものに対しては、雑誌『労農』は終始肯定的に紹介していました。『労農』終刊間近の一九三四年には「ソヴェート連邦には失業は皆無である。寧ろ労働者の不足に悩んでいるのだ。このやうな国は唯一つである。これは明らかに社会主義の勝利である。社会主義のみがなしえる勝利でなければならぬ。」(無署名「躍進するソヴィエト連邦」六巻四号)という記事すらみえます。
ここから言えるのは、コミンテルンからの自主性を強調した労農派の立場は始めから確立していたのではなく、状況の推移の中で少しづつ形成されていったのではないか、ということです。『労農』やその周辺の雑誌を丹念に調べれば、もっと興味深い事実がみつかるかもしれませんが、今はここまでとしておきます。
戦後に入って五十年代前半まで、労農派のソ連東欧観は厳しいものでした。山川均は、各国共産党の中で最初にソ連に抵抗を示した旧ユーゴのチトーについて一九五〇年に次のように述べています。
「近来、しきりにチトー主義ということがいわれるが、チトー主義とは何か?最近では、一国の共産主義政党が、自主性をもつこと、あるいは自主性を主張することを、チトー主義と呼んでいるようだ。一面、チトー主義は民族主義だとか、国民主義だとかいって非難しているが、しかし一国の共産党にしても社会党にしても、自主性を主張することは決して民族主義というものではないと思う。・・・いったい鉄のカーテン諸国の共産党は、自力によって革命を成し遂げて政権を握ったのは、ほとんど一つもない。いずれもソ連の兵隊の後からついて行って政権を握ったものでコミンフォルムによって、ああいう方式で指導されるのも無理からぬことである。しかし中共の場合はそうではない。この点からも、中共をあの方式で召使の党、奴隷の党にすることはむずかしい。」(山川均「どこの国にもチトーは必要」一九五〇年四月)
山川均のこの指摘は、今日からみても古びていないと言えます。一九五〇年の段階で、その後の中ソ対立の可能性まで予言していたのは、卓見としか言いようがありません。
五四年には労農派が中心になって左社綱領が制定されます。それを読んで気がつくのは、具体的なソ連分析がないことです。これは、当時の労農派が国際情勢に敏感でなかったということの現れとも言えるでしょうが、山川均に代表されるソ連に対する批判的な視点の屈折した反映とも言えます。左社綱領が「民主主義的な社会主義革命」を強調していたことも、注意しておくべきだと思います。
と同時に、当時であっても「ソ連を中心としたヨーロッパの平和運動が、つよくのびるのも、ソ連の共産党とソ連権力という強力な力が背骨をなしているからである。」(向坂逸郎「社会主義政党の合同」一九五五年三月)というように労農派の中にもソ連に肯定的な発言があったことも、触れておきたいと思います。
一九五六年には、スターリン批判とハンガリー動乱という国際共産主義運動、社会主義運動の歴史の大きな分岐点になる事件が起こりました。労農派は、この二つの事件をどうとらえたでしょうか。
スターリン批判については、次の向坂先生の発言が代表的なものでしょう。
「海の彼方では、スターリンの偶像すら、こっぱみじんに打ち砕かれた。日本でもいっさいの偶像が、破壊されなければならない。いっさいの権威が地におちなければならない。マルクシズムという理論の前には、疑うことの許されない『聖なるもの』はない。」(向坂逸郎「マルクス主義者も人間である」一九五六年八月)
ハンガリー動乱については、山川均がまとまった発言をしています。
「いわゆる共産圏は社会主義的な世界ではなくて、強大国ソ連という重しによってのみ保たれていた結合であった。共産圏の非スターリン化は、西欧側から『ソ連帝国』と呼ばれたこういう性質の結合が、社会主義の世界に結合されることを意味している。そしてこのような変革によって、それらの国々に正常な社会主義の道が開かれるばかりでなく、ソ連じたいもまた、正常な社会主義への発展を保証されることになる。そしてハンガリーの悲劇ーそれは同時に、あるいはより大きな意味で、ソ連の悲劇でもあるがーも、こうした変革の過程における一事象として理解さるべきである。」(山川均「ハンガリー動乱をめぐって」一九五七年二月)
「共産圏が非スターリン化の方向に変革されることは、西欧側の立場からすれば、共産圏の崩壊、ないしは『ソ連帝国』の崩壊と見えるに違いない。しかし国際社会主義の立場から見れば、さきにも言ったように、社会主義の世界が形成される過程が、一歩前進することを意味している。・・共産圏がそれ自体の内包する矛盾の発展によって分解をはじめたことは、ロシア革命によって開かれた国際社会運動史の一つの時期が終わりを告げ、または終わろうとしていることを意味している。これは資本主義国から見れば社会主義の崩壊として歓迎されることであるし、社会主義の立場から見れば、国際社会主義の新しい一時期の夜明けであり、社会主義の世界の形成への一歩前進を意味するものである」(同)
山川均のこのハンガリー事件論は、ソ連の行為を一面的に批判したり肯定したりするという単純な思考様式を取らず、複眼的な視点で事件を分析したもので、論の内容だけでなくその思考様式も、今日においても極めて参考になると思われます。このような発想を積み重ねる中で一九五六年一二月発表の「社会主義への道は一つではない」が生まれてきたのだと思います。この論文は『道を拓く』(社会主義協会刊)などにも収録され簡単に読めますし六月号でも引用したので、ここでは引用を省略します。
しかしながら、以上のような労農派のソ連観はその後大きく変更されていきます。一九六八年九月には『社会主義協会の提言』(当初の名称は『社会主義協会テーゼ』)が決定されます。六八年九月という時期はチェコ事件の直後ですが、『提言』の内容が書かれたのは当然チェコ事件の前であり、『提言』はチェコ事件直前の協会のソ連東欧認識を示していると考えていいと思います。ご承知のように、『提言』の本文ではチェコ事件にはまったく触れられていません。
『提言』は、全体としてソ連東欧の現状に肯定的で社会主義は発展しているという認識で貫かれています。今日問題になっており当時もすでに多くの人から取り上げられていた諸問題ースターリン体制、一党独裁制、官僚主義などは触れられておりません。端的に言えば、ソ連社会主義の歴史的総括が欠落しているのです。
ソ連東欧が崩壊した今日からみれば、『提言』の記述にさまざまな不十分点や欠陥が目につくのは免れません。ただし、『提言』起草時はソ連社会が上り坂にあった時期の記憶が強く残っており、『提言』の肯定的なソ連認識は六八年当時としては一定の根拠があった、と考えておくべきでしょう。『提言』は中国についてもかなり言及しています。当時の中国は文化大革命の最高潮だったわけですが、中国に対してはかなり冷静な認識を示しています。『提言』は本誌の読者はよくご存じの文献なので、引用は省略します。
そして、六八年八月にチェコ事件が起きます。周知のように、協会はチェコ事件について、断固としてソ連を擁護する立場を取ったわけです。次の文章は、その姿勢を明確に示すものです。
「向坂逸郎 チェコ問題がおこったゆえんはチェコ内部の問題であるとともに、ソ連圏といわれる社会主義国家の共同体制のなかから、チェコをひきはなそうというアメリカや西独のどす黒い意図にこそあった。・・たとえブルジョア新聞がどんな非難をしようとも、社会主義体制をぜんたいとして守らなければならない、とソ連が決意したことは正しかったと思う。」(「社会主義協会テーゼ」学習のために 一九七一年五月)
と同時に、これまで引用してきた山川均のソ連論も、協会の中でしだいに触れられなくなっていきます。向坂先生も、山川均との違いを次のように述べます。
「向坂逸郎 私はそのころつねに一つの不安をもっていました。それは、どうも山川さんとかならずしも一致しない点があるらしい、ということです。運動の上では山川さんの指導に不安はないが、マルクスの思想の正系のあとつぎがレーニンであることについてかならずしも一致しないものがあるのではないかと思っていた。・・・私は、レーニンを読みはじめたときから、労農派の一員になったときまで、レーニンの理論をマルクシズムの唯一の正系の嫡子だと思っています。」(同)
こうして、社会主義協会のソ連論はそれ以前と決定的に変化していきます。この変化を最も強く反映しているのは、田中慎一郎さんの次の文章でしょう。
「ロシア革命とその後のソ連の社会主義建設を、特殊ロシア的な経済的に後進国の経験とみなす見解は、一見マルクス主義的な言葉を使ってはいても、その実はプロレタリア国際主義をふみにじりブルジョア民族主義におちいっていることを示すものであり、そのことによって世界革命運動の成果と今後の発展をはばむ、帝国主義国際反動の反社会主義・共産主義のイデオロギーにくみするものといわねばならない。ロシア革命以後は、ロシア革命とソ連の社会主義建設に対する態度が、プロレタリア国際主義に忠実であるか否かの決定的な基準となっているのである。」(「社会主義建設とプロレタリア国際主義」 大系国家独占資本主義第八巻 一九七一年六月)
私は田中慎一郎さんについては講演を聞いたことはありますが個人的に話す機会がなく、面識はまったくないと言っていいのですが、どうして田中さんがこのような文章を書いたのか、いま読み返しても不思議でなりません。ソ連に対する態度が「プロレタリア国際主義に忠実であるか否かの決定的な基準となっている」のなら、そもそも労農派が存在したこと自体が間違いになってしまいます。しかも、田中さんはこの論文を書いてから十年もたたないうちに、この観点を放棄してしまうのです。この「プロレタリア国際主義」だけは、私は七十年代から疑問を感じていました。
ともかく、チェコ事件以後社会主義協会のソ連擁護の姿勢は明確になりました。その後の協会のソ連論は基本的にこの延長上にありますので、次はペレストロイカ直前の社会主義協会のソ連東欧論をみることにします。協会の公式文書である「一九八五年の内外情勢と課題」から引用します。
「ソ連をはじめとする社会主義国の経済は、独占資本の『経済不振』『経済危機』との宣伝をよそに、五ヵ年計画にもとづいて着実な発展をとげている。」
「だが、多くのブルジョア学者は、こうした社会主義経済の発展と優位性を認めようとしない。その一つの例証が、経済成長率の鈍化という問題である。経済成長率の鈍化が、『中央集権的経済の破綻』や『社会主義体制そのものの危機』と描かれる。」
「もちろんわれわれはソ連経済が全般的な発展にもかかわらず、克服すべき問題をもっているのを知っている。白タク、ヤミ市、ヤミドル交換など、マスコミや本に書かれている個別の現象は事実として存在するであろう。その種の現象は、資本主義日本ではもっと大規模に、もっと複雑に存在する。問題は、われわれの社会主義をみる視点であり、社会主義への確信である。そのためには資本主義への根本的批判がなければならない。」
「ポーランド問題は、よく言われるように、『ソ連型社会主義の破綻』ではなく、社会主義の原則の逸脱から生じたものである。・・しかしもちろん、社会主義体制は、それらの矛盾や困難を、敵対階級が存在しないゆえに、資本主義とは異なり、社会主義世界体制と労働者・勤労国民の利益にかなって解決することができる。ポーランドの場合、それを支えた力は、ポーランド労働者階級と統一労働者党の再生・確立であり、国際連帯の力、とりわけソ連をはじめとする社会主義共同体の支援だったのである。」(『社会主義』八五年四月号)
一見してわかるように、「停滞の時代」を発展と認識しています。この文書を読んでも、なぜソ連がペレストロイカを実行しなければならなかったのか、その必然性が見えてきません。もう一つ指摘しなければならないのは、『提言』自体がそうなのですが、ソ連、東欧社会主義の歴史的分析の欠落です。協会の周辺では、ソ連東欧崩壊以後になって歴史的分析が始まったのです。
しかし、八十年代前半に、協会ソ連論の歪みを正そうという努力が協会の中でなかったわけではありません。その代表が、一九八二年一一月刊行の福田豊・鎌倉孝夫編『現代資本主義と社会主義像』(河出書房新社)でしょう。核心部分を引用しておきます。
「社会主義こそ自由と民主主義の全面的に開花する社会であるという原則の実現につとめなければならない。・・社会の成員の思想、信教、言論、出版、集会、結社、デモ、国内外での交流は自由である。社会主義に批判的な思想の表明、政党・政治集団の活動も自由である。・・普通・平等・秘密選挙による議会政治を継承して社会主義建設を進めていく以上、以上のような諸自由が認められるのはとうぜんである。社会主義建設について意見の違う政党政派は、ポーランドと違って国民の前にその見解を自由に表現し、選挙で国民の多数の支持を得た党派の政策が実施されることになる。・・多数派の意見とちがう主張を『異端』としてしりぞけ、それらの人々の表現の自由や政治活動の自由を奪うことがあってはならない。唯一の前衛的な指導政党が理論・政策の一切をとりしきるという政治のありかたは、議会政治によって社会変革を進めるわが国にはなじまない。」(福田豊「現代の変革」、同書第十章)
この本に対しては、周知のように協会の中で激しい批判がありました。この批判はマスコミでも大きく取り上げられましたが、批判そのものはもっぱら協会の組織内で行なわれ『社会主義』誌上ではほとんど反映されておりません。ここでは八三年協会全国総会の前日の一月二九日に行なわれた全国討論集会の議事録をみることにします。この議事録は内部文書ですが、すでに十四年前のものであり、また当時全協会員に配布されたものでもあるので、ここで資料として用いても差し支えないと考えます。批判の要点は、次のように整理できると思います。
一、現代社会主義の困難がプロレタリア独裁からもたらされている、と考えている。
二、資本主義の危機と社会主義の危機を、同質のものとしてとらえている。
三、テーゼで規定されているプロレタリア独裁が否定されている。
・社会主義に反対する政党や勢力を認める・労働者階級と社会主義政党の指導性を否定している・プロレタリア民主主義を、自由と民主主義がないと否定している。
四、社会党の「八十年代路線」「社会主義の構想」と同じである。
五、テーゼと違う路線の提起を、協会の責任ある立場の者がいきなり外部に発表した。
今日この本を読み返してみますと、福田さんらの提起は、ソ連崩壊を待つまでもなく、ペレストロイカ以後なら完全に『社会主義』編集の範囲内である、と言えます。福田さんらへの批判とその処理は、今日からみれば、協会が実証的なソ連研究を開始する絶好の機会を逃したものではないでしょうか。最近の『社会主義』の論調からも明らかなように、現在の協会は基本的に当時の福田さんと同一の論点に立っていると思います。しかし、その変化が過去の主張の真剣な総括からもたらされたのではなく、ペレストロイカや東欧・ソ連社会主義の崩壊という外部的要因によって外発的にもたらされたことが、今日の協会の理論的混迷を生んでいるのではないでしょうか。
ただし、当時指摘されたように福田さんらの側にも、過去の論点との整合性や提起の仕方に問題があったのは、間違いのないことです。私は福田さんとも面識がありませんが、当時福田さんらの提起にかなり共感しそのグループの機関誌を読んだりしておりました。しかし、過去の論点との整合性の問題がひっかかって結局福田さんらを徹底的に支持することができませんでした。また、福田さんら自身がその後『現代資本主義と社会主義像』の論点からも離れ、そのグループもいつのまにか解体してしまったのも、この整合性の問題を充分に解決できなかったからではないでしょうか。
その後、ペレストロイカが始まりましたが、まもなくソ連東欧社会主義は混迷を深めていきました。協会は、八九年秋に『社会主義』増刊号「社会主義建設論」を発行しました。この号には私も中国に関する論文を寄稿しているので記憶しているのですが、執筆時期は八九年夏で、東欧社会主義が崩壊する直前でした。掲載論文には、ソ連東欧は問題点は多いが崩壊することはない、という認識が支配的でした。しかし、この「社会主義建設論」発行とほぼ同時に、将棋倒し的な東欧社会主義の崩壊が始まったわけです。
今日からみるなら、協会のソ連論の基礎は、六八年のチェコ事件から始まったといえるのではないでしょうか。チェコ事件以後の協会のソ連傾斜、ソ連型社会主義を事実上唯一の社会主義とみなす発想は、それまでの労農派の歴史からは異質である、といえます。しかし、まさにこの時期に協会が労農派の歴史上で最も勢力拡大したことも、事実であると言わなければなりません。この問題をどう考えるか、研究課題にしたいと思います。