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(二)ソ連崩壊総括の視点と今後の討論の方向について

細井  二の問題に若干入りましたが、あまり境界を設けないで議論することにして、崩壊について、われわれがどういう視点を出すべきかという総括の点をめぐって意見を言っていただきたいと思います。
 
山崎  いま杉田さんの言われたことに関連して言えば、一つは実証的な研究は足りないけれど、実証的な研究がいくらかできたら、不十分な段階でも、それなりのわれわれの見解というものはまとめていかないと、積み重ねができません。そういう意味では、それぞれの段階で自分の考えたことを出すということでいいのではないかと思います。
  それからソ連を中心としたコミンテルンの対応、あり方というのは、協会が付き合う頃から、それなりにはわかっていたと思うのです。ソ連は当然、手を突っ込んでくる。われわれだって、そういう立場にたてば、結果的にはやることになる。相手の国で付き合いやすい人とどんどん付き合っていくし、そっちの人の政治的な力が伸びてくればいいということは、当然どこでもある程度はやります。
 
  それは力関係で、中国共産党みたいに土着の力が強ければ、それをやろうと思っても、うまくいかないし、弱ければ介入されていって、めちゃくちゃになってしまう。そういうことはひととおりはわかっていたのではないかと思います。ただ、それが七〇年代後半になってからは、予想以上に強かった。
  僕は福田さん、田中さんなどに悪い感情を持っているわけではないが、実証的であるというよりは、ソ連の主流派の理論を輸入することから、非主流の理論に変わっただけだと思います。それまではソ連共産党流のマルクス・レーニン主義で、文章の端々にまでその言葉を使っていたのが、ソ連の非主流、反主流の人たちに結果的に乗り換えたのでしょう。あの頃のソ連では実証的といっても、あまり正確な統計もないし、まとまった文献はなかったし、やむをえない面もあったと思います。
 
杉田  ソ連の場合に、統計的資料の信憑性はどうなんでしょうか。
 
山崎  はじめからかなりずれていたのがだんだん拡大していったんでしょう。
 
杉田  統計を意識的に操作し、改ざんしていった段階はいつごろなのでしょうか。明らかに操作しているということが見えてきたのは・・・。
 
山崎  『ソ連経済と統計』(東洋経済社、島村史郎編著)によると、ソ連のセリューニン・ハーニンという二人の学者が推計した統計と公式統計とのズレは五十年代からあったのですが、末期にはっきりした。
 
杉田  東ドイツでは、八〇年代に入ってから意識的に統計操作をしたという若手研究者の報告があります。
 
山崎  国民所得でいうと、ペレストロイカの始まる前、七六年〜八〇年に、両氏の推計で年率一パーセント増なのに、四.三パーセント増に、八一年〜八五年には、〇.六パーセントが三.六パーセントになっている。しかし、これも確かかどうかわかりません。
杉田  公式の統計資料は、ソ連ではすでに六〇年代から使えないということですね。東ドイツでは、七〇年代末ぐらいまでは、それなりに信憑性があってまだ統計資料は使えるのではないかと思っています。
 
細井 最近、西ドイツの学者は、八九年までの東ドイツの統計のうち、四分の三は専門知識を持って分析できれば、情報として使いうる、四分の一は歪曲・操作され、使えないという判断をしています。後者は、例えば、価格・住宅建設・環境などですね。
 
津野  いまのソ連化のことをもっと詰めていくと、非常に陰惨なところにまで触れていかざるをえないところがあります。結局、コミンテルンと各政党との関係は、表向きは政党対政党の関係ということでいろいろいえますが、中国とソ連との関係では、解放軍が根拠地をつくってやったときは、あれはコミンテルンからの派遣というかたちで、ソ連からも軍人が来ているというのが当然ありますよね。
  中国側の資料を見ると、ほとんど跳ね返しております。言うことを聞いておりません。プロレタリアート独裁とか、国際的な連帯ということでは、ソ連がやったことがマルクス・レーニン主義の基本であるかというと、ずいぶん逸脱していると思います。しかしソ連共産党と意見の違う者は、ソ連の国家にとっても敵だという論理になっていきますから、そうすると秘密警察とかが出てくる。
  プロレタリアート独裁ということで、ソ連の問題はある程度説明できるのではないかと思っています。もちろんソ連化ということでの説明があってもいいのですが、党内闘争で、反対派、少数派ということと、それが国家権力を使って抹殺していいということとは、全然論理が違う話です。だから党内で意見の違う者は国家の敵になっていくシステムがスターリン主義の一つのかたちではないかと思っています。
 
杉田  スターリン化とは、各国の共産党がいかに国家化していったのか、そのプロセスの問題であると考えます。国家化された党の具体的分析だけでは、しかし、社会主義崩壊の総括は、不十分でしょう。ソビエト化という場合には、もちろんスターリン化を包摂していますが、たとえば、社会主義人間形成ですが、僕の知り合いは、東ドイツでプロの画家でしたが、七〇年代から八〇年代にかけて少なからず発表の機会を奪われていました。別に反体制活動をしていたわけではないのですけれども、芸術の世界で「社会主義的人間形成」に馴染まないと判断されたようです。研究者にとっての出版の機会も同じ状況であったと言えます。年間の製本用の紙の使用は、計画で決まっていて、その枠内でどの機関のだれが何枚使ったのか、あるいはだれが使えなかったのかといった調査も項目別におこなわれているくらいです。つまり、ソビエト化によって、人びとが選別されていくプロセスがあるのです。ソビエト化が社会全般にわたってどのように浸透していったのか。その浸透とともに、人民の意識が社会主義からいかに離れていったのかが問題でしょう。
 ユーゴには、戦後、党組織をコントロールし、チェックする人民機関がつくられていたようですが、潰されました。僕は、ある時期までは、その他の諸国もこうしたチェック機能があったのではないかと思っています。各国によって違いはありますが・・・。
 
 話は変わりますが、六月にドイツで「東欧諸国のソビエト化」についての国際会議がありました。会議では、すべての報告者が例外なくソビエト化の否定的側面を強調していました。未発表の資料を使って、津野さんが言われた非常に陰惨なところまで触れる、いわば暴露合戦が、会議の内容でした。僕がこの会議で申し上げたのは、ソビエト化に否定的側面があるとともに、肯定的側面もあるのではないかということでした。戦後四〇年も続いたのだから、いいところもあったでしょう。そう見なければ崩壊への道を辿る内的メカニズムが説明できません。
 
津野  日本の社会主義者、共産党員の中でも、ソ連に行って、スパイ容疑で殺されている人たちもいますし、野坂参三というのはそのために、晩年の最後に名誉を剥奪された。僕は目を閉じろと言っているわけではないのです。いまはそういうのがもうちょっと相対化して見える時期になってきている。われわれが言わなすぎたのが事実だから、スターリンの粛清というのはむちゃくちゃです。それはそれでちゃんと位置づけて、やる必要はあると思うんです。
  ただ、そのときにそういうふうになっていくのはなぜか。本来は党内闘争としてあったものが、党内闘争で党から除名されるのは、党の民主主義の問題で、いいかどうかは別にして、ありうるかもしれない。だけどそれが国家権力を使って投獄するとか、拘置するという論理は全然違う論理なんです。
 
杉田  細井さんの研究論文で、SPDとKPDの統一問題に関連して、一夜のうちにSPDの態度が急変し、SEDの結成にむけて動きだすのですが、どうして態度が急変したのか、理由がまだ明確になっていないというようなことが書かれてありました。
 
細井 細かい話で恐縮なんですが、一九四六年二月の両党統一準備会議のことで、見解を変えた夜の会議の議事録が公表資料から欠けているのです。
 
杉田 仮に統一がおそくなったり、なくなっていたら、官僚主義もかたちを変えていたと思うのです。国家党的性格にある程度ブレーキがかかったのではないでしょうか。これも、かれの論文のなかにあるのですが、両党の統一後、社会民主主義の概念が変更されていき、ゾツイアルデモクラティズムという新しい言葉がつくられて、社民の位置づけ、中身が変えられていきました。
 これは、三番目のテーマである「今後の討論の方向」にかかわってくる問題でしょうけれども、細井さんがおこなっているような、具体的で緻密な実証分析が、今後の協会の活動にとって必要だと思います。
 
山崎  ソ連についていえば、制度の問題もあります。でも制度はスターリン憲法を一条一条読めば、かなり整って民主的でした。ただ、共産党が唯一の指導政党であるということと、国家に対する反逆はいちばん重いという、その二項で反対派を全部弾圧したのです。その他は非常に民主的な憲法です。政治家と国民の民主主義の意識の水準に合わせて制度が発達していかないと、それがかけ離れたら、制度がつぶれるか、制度だけが一人歩きすることになる。ソ連の革命直後は非常に理想に燃えて、民主的なものを実現しようとしたが、それが現実とかみ合っていなくて、いろいろ問題が出ている。
  たとえばさっきの紙の割当も、一九一八年には合理的なことだったのです。ただそれを一九七〇年、八〇年まで同じ規則でやろうとすれば、当然、無理のほうが大きくなる。そういう意味では革命当初のものを、制度の形だけ残せば社会主義を守ったと考えた、そういうふうにしか考えられなかったソ連共産党の問題というのは考えておかなければいけない。そういうことが小さな問題では、われわれの運動の中にもたくさん起こっている。
 
伊藤 ここで経済問題について一言いわせて下さい。
 瀬戸さんの報告の「今後の討論の方向」の最初に経済問題が書いてあります。そして協会内でかなり討論が進んでいると書かれています。たしかに討論はたくさんしたのですが、なかなか深まらないし、全然まとまっていないと思います。
 この件に関して、僕がいちばん困るなと思うのは、「正しい路線からの逸脱があったのでソ連・東欧はだめだった」という考え方。これは大変に困る。正しいあり方というのがすでにわかっている、知られているという前提は、われわれが先に進むことを阻んでしまう。実はわからないところがたくさんあって、その事実を調べ、考えながら、これから肉付けしていくべきだと考えないと困る。
 
 さらに、すでにわかっている正しい路線というのが、資本論をはじめとする古典を読んで、そこから論理を引き出すことで判定がつくというのも、僕は困った考え方だと思っています。ソ連・東欧の巨大な経験、その事実に徹底して食らいつかなければいけないのに、引用と三段論法でカタがつくような姿勢では根本から間違っている。
 こういう立場に立って報告に対してコメントしますと、まず生産手段の公有制について、これは不可欠であるという点は揺るがないと僕は思います。資本主義の問題点はやはり私有財産制から出ている。だからこの根本を変えないとだめだというのは、僕は揺るがない点だと考えます。
 
 それから計画と市場、商品の問題については、かなり議論のあるところですが、商品はなくなるべきか、貨幣はなくなるべきか、いやあるのかという論争は、言わせてもらえば実はかなりくだらない問題だと思っています。これは、商品とはどういうものかという定義しだいで、いかようにも結論が出せる。つまり、国有部門の生産物も商品と呼ぶのか、あるいは私有財産として生産されたものだけを商品と呼ぶのか、いわば若干、言葉の遊びのような性格があって、そこはあまり本質的ではない。定義ではなくて、事実の評価が大事だと思います。そして事実と照らし合わせてみれば、計画と市場のある種の組み合わせが必要だということは、これ自体はもう間違いないことだと思います。
 この点について、旧東欧系の改革派の学者たちは最近、非常に否定的で、自分たちが以前に言っていた改革提案みたいなものでは結局だめだ、全面的な資本主義化しかないという清算主義的な発言をするのが目立ちます。しかし僕は改革の実験というのは十分最後まで試みられなかったし、決着はついていないと思います。この点は相当に力を集中して研究すべきところだと考えています。
 
 もう一つだけ、最後の社会主義的人間ですが、遠い将来にはこういうものが出てくるかもしれないけれど、当面かなり難しいと思います。たとえば資本主義社会では、企業は利潤最大化をめざし、個人も自分の利益をなるべく大きくしようとして行動する。それが社会主義になればなくなるかというと、なかなか難しそうだ。ソ連・東欧の企業も、怒られない限り、生産指令を達成する限り、なるべく楽をしたいとなっていた。個人もそうだった。一言で言って、自己の利益を追求したいというのは、なかなか払拭できない。簡単に資本主義の残りカスだ、で済むとは思えない。
 それは資本主義のもとでの私益の追求と、中身や形は違うけれども、これはなかなかしつこそうで、これを前提にした上でどういう制度をつくるかということを考えなくてはいけないと思います。
 
杉田 三番目のテーマである「今後の討論の方向」のなかで、瀬戸さんは、いろいろ研究究課題を提起されていますね。こうした諸問題を出来るだけ早急に解決しなければないことを、僕も痛感しています。しかし、それ以上に協会が今やるべきことは、理論研究集団、研究調査集団としての協会の重要な役割についてメンバーがお互いに確認しあうことだと考えます。協会の存続を願うのなら、政党問題で激しく内部対立している場合ではないことを、ここで強調しておきます。もっとやるべきことがあると思います。つまり、そのひとつが社会主義崩壊の総括であり、それを徹底的におこない、将来展望を指し示すこと、そのための共通認識の確立にむけてメンバーが精一杯努力することが、当面の課題ではないでしょうか。
 もっと言えば、今日、私たちの活動に決定的に欠落しているのは、当面の課題を解決するための調査活動がほとんどおこなわれていないということです。たとえば、プロレタリアートの独裁の問題について、頭のなかだけで考えるのではなくして、積極的に調査活動をしていくべきです。ソ連・東欧諸国の共産党、労働者政党は、九〇年ごろから党大会でプロレタリアートの独裁を否定していきますが、しかし、大会のなかでこの問題をめぐって激論しています。私たちは、これらの政党がプロ独を否定していったプロセスの整理さえもしていません。研究・調査活動の立ち遅れは、決定的です。遅れた状況を改善することもなく、「総括」を試みても説得力はありません。
 
 計画経済と市場の問題にしてもそうです。社会主義における市場の必要性の有無を「純粋に」理論的に議論するのではなくして、歴史的事実の分析から出発しなければならないと考えています。そのための調査活動も、非常に不足しています。七〇年代の後半から、社会主義における商品・貨幣関係が強化されてきますが、そのさい、商品経済に典型的なマイナス面の特徴が社会主義のなかに顕著に現れてきます。たとえば、延滞・制裁利子、取引不履行による違約金、棚卸減耗など「計画不可能な原価」の激増が、それです。これを改善するために、各国の計画委員会はいろいろと努力をしたのです。私たちは、どうして商品・貨幣関係が社会主義のなかで深化していったのかを、具体的に調査・分析をければなりません。その結果として、商品・貨幣関係をどのように具体的にレギュレートしていけばよいのかという視点がはじめて出てくると思うのです。
 
山崎  日本でそういうのをやっているのは大原社研が組織的に多少やり始めているぐらいかな。アメリカがいちばんやっているんでしょう。
 
津野  アメリカのなんとかが書いた『ソ連共産党内論争史』というのは、ものすごく細かくいろいろなものを、要するにレーニン以外の人をいっぱい……。
 
杉田 僕がここで強調したいのは、党大会や計画委員会の資料を分析するだけではなく世界各国の研究グループとの交流、とくに、ソ連・東欧諸国の研究者との交流を積極的に進めていくことです。すばらしい研究成果を発表しているグループもあるということをここで述べておきます。
 
山崎  さっきの商品の問題にもどりますが、また伊藤さんに怒られそうなんですが、マルクスは社会主義になって商品があるともないとも、どっちとも言わないけれども、「未来
社会」では生産物は「交換」ではなく「分配」すると、言葉を区別して使っていました。ただ、エンゲルスは明確に「商品生産は廃止される」と『空想より科学へ』で言っている。「労働者の労働は直接に社会的労働になる」とも、『反デューリング論』の中で言っています。「分配」といえば、だいたい配給のようなものを連想しますが、マルクスは、労働証書のようなものを基準にして配られると『ゴーダ綱領批判』で述べている。
  エンゲルスとマルクスは一体だと考えられていたのだから、当時の社会主義者は社会主義になればそうなると思っていたと思うのです。だからソ連でもそのとおりにやろう、やろうとして努力したけれども、結局そこに行けなかったというのが現実で、これはマルクス、エンゲルスが考えたとおりにはならなかったと、ちゃんと総括をしたほうがいいのではないかと思うのです。
 
杉田 理論的整理をおこなうことは、もちろん必要であると思いますが、そのためには生々しい現実をもっと見るべきです。社会主義の建設・発展にあたって、資本家は、各国で多かれ少なかれ存在していたのです。東ドイツでは、七〇年代はじめまで資本家がいました。今日の社会変革を考えても、同盟の問題を避けて通れません。直接的に社会主義に移行するわけではないのですから。僕は、社会主義における商品・貨幣関係の問題を歴史的必然性ととらえています。さっきの伊藤さんの話は、よく理解出来ますが、僕は、それが出発点であると思っているのです。
 
山崎  出発点ではあるけれど、ソ連の場合だと、ネップのあと、農民と一部商人が残った。それをスターリンは農業集団化の中で基本的になくしました。それはそれで、当時の社会主義者はこれこそがいちばん正しい道だと信じてやったのですから、それはそういうものとして受け止めて、ただ、やる方法が誤っていたし、やった結果が意図したとおりにはならかなったと理解したほうがいい。
 
杉田  しかし、レーニンはその当時、ネップの本質の一つとして、いわゆる国家資本を導入するにあたって大資本のことも言っています。
 
山崎  それは一時的な妥協としてですね。当時は妥協が終わったあとには商品は廃止されると考えていた。
 
杉田 レーニンは、資本主義から社会主義への移行がかなり長い期間を要することを指摘していますが、そのさい、経済計算制をどのように考えたのか。さらに社会主義を実際に建設していくなかで、経済計算制がどのようなプロセスを歩んできたのか。この研究および調査が、たいへん必要になってきていると思います。
 
山崎  その面も必要だけれど、当時はそういうふうに理解できた人というのは、社会主義者の中ではほとんどいなかった。やはり社会主義になれば、商品はなくすものだと思っていたのも事実で、それは社会主義建設を始めたばかりの発展段階における限界ということであって、その人たちがけしからんとか、亜流だというふうに言うことはできない。七〇年代にそういうことを言っていたのは間違いだとは言っていいと思いますけどね。ソ連で現実にそういう結果が出ているのですから。
 
細井  やはりエンゲルスが、生産手段を社会が掌握すれば、商品生産は除去されるというのは基本的な認識としてあって、社会主義国がマルクス、エンゲルスの言ったとおりにやらなかったから崩壊したのだという一つの論はありますが、できるだけ現実の中で、マルクスやエンゲルスが言っていたことをやろうとしていたことは事実です。経済改革の論争が始まるまでは、たとえば一トンのコークスは生きた労働の一六・八時間だとか、綿花一トンは四〇〇〇時間だとか、そういう計算をソ連はやっていたのです。現実には五二年のスターリン論文で、消費財を商品として扱うということが提起され、それからまた六〇年代の経済改革をくぐって、もっと現実に生産財も商品として扱うということが提起されるのですね。さっき言われたようなことで、もう一回、あまり注目してなかった経済計算論争も勉強するし、それから現実の社会主義の歴史、社会主義経済の運営のあり方も勉強するということが、いま必要になっているのではないかと思っています。
 
  それからもう一つ、崩壊の原因をめぐって、協会の中でもいろいろな意見がありますが、僕は経済をちゃんと見ようと考えています。崩壊の原因をめぐっては、そもそも経済計算論争から、ハイエクが言ったように、社会主義の存立不可能性というか、合理的な資源配分は社会主義では不可能なんだという論があります。それから成長要因の枯渇という、別の要因に求める見解もあります。
  しかし僕自身は、いまのところは、協会テーゼがちょうど切れているところの、経済改革をやって生産力と生産関係が調和するような新しい段階に行くというときに、かなり不適合があったと思っています。そのシステムの問題としては、将来の社会主義を考えたときに、もう一度勉強し直す必要があるのではないかという問題意識を持っています。
 
瀬戸  山崎さんから、六〇年代のお話などが出ましたが、社会主義協会とソ連などとの関わりについては、一般の会員なり、その周りにいる人が知らないことがまだずいぶんあると思うんです。そういう事実は実際にかかわられた人が、もっとどんどん証言していただきたいと思います。それがやはり協会の理論の総括を豊かにしていくことに繋がると思います。
  それから福田さんについて、ソ連主流派からソ連非主流派に乗り換えたのが、考えが変わった原因だということですが、私はこの考えは初めて聞きました。そうだとすれば、それは付き合う相手によって考えを変えるということで、論理としての説得力は全然ない。そういう事実も、もし事実であれば、やはり出していただきたいと思います。
 
  実証研究が不足しているというのは、そのとおりで、これは数年前から言われ出してきたことですから、不足していたということを指摘する段階はもう過ぎて、これからは実証研究をどう組織していくかという段階に入ると思うんです。
 
津野  実証的研究が足りないのは本当に事実で、そういうのができる体制をどうつくっていくか。これは社会主義の問題には限りません。国際的な社会主義運動の分野とか、労働運動でもいろいろなものが出始めているように思うのです。そういうものを含めて、もっと情報を集めて、各国の運動の実態なり、その中で学ぶものとか、もっと実証的にやる。そういうデータもなく、どっちが正しいかということばかりやっても、人間が成長しないから、そういう体制をつくっていくというのは、大事だと思います。総括から言える最大限のことは、そこだと言ってもいいですね。
 
細井  チェコ事件も来年でちょうど三〇年なので、協会が判断に依拠してきたものとは別の資料(たとえば、西側旅行者を装って反ソポスターを貼ったりしたのはKGB特殊部隊の自作自演でしたし、東ドイツ軍は侵攻に参加しなかったのです。)が出ていますから、それを使って、少しチェコ事件の歴史を振り返るということはやってみたいと思っています。
 
山崎  それはあまり構えないでやったほうがいいと思う。当時の判断のすべてを否定しないで、判断の間違いはだれがやったってあるということを認めてやらないと、なかなかできない。
 
杉田 山藤さんは、ソ連を礼賛する理由として社会主義の優位性の実現をあげているようですが、この考え方は、一面的です。調査・分析すれば的外れであることがわかるでしょう。社会主義が優位性を追及していったからこそ崩壊したとも言えるのです。社会主義の優位性とは具体的に何であったのかを調査し、それが社会に及ぼした影響を分析しなければなりません。その意味でも、瀬戸さんが言われた実証的、歴史的な社会主義研究は、今日、非常に大切になってきていると思います。
 
細井  マルクス・レーニン主義という根本の問題が提起されていますが、マルクス・レーニン主義がなぜそういう呼び名になったかということは、歴史的にロイ・メドベージェフが最近論文に書いています。瀬戸さんの報告も、レーニンに価値がないということではないと言っています。レーニン主義と呼ぶか呼ばないかは別にして、レーニンが帝国主義の分析を、あの当時やったように、われわれ自身がいまの資本主義なり、もっと広くは世界をどのようにとらえるかということをちゃんと分析する。それから党理論をそのままあてはめるわけにはいかないと思いますが、ロシアで労働者を組織して、党を組織したというのはレーニンの功績だし、そういうことはわれわれも、日本で微力ながらやらなければいけないことだと思います。そのへんは常に頭においてやりたいなとは思っています。
 
津野  『社会主義』一二月号の増刊号で、ローザ・ルクセンブルクとロシア革命ということで書かなければいけないことになっています。途中で専従になりましたのでできなくなりましたが、大学院では少し研究した時期があります。それから当時の学生運動の関係で、神戸大学というのはフロントが非常に強くて、グラムシについて関心が高く、当時いろいろ刺激されたりしたので、その二人の考え方というのは、ずっと焼き付いているのです。
  ただ、僕の読み方は、これは『社会主義』の論文もそうなると思うのですが、レーニンの普遍性というのは当然あります。しかしもう一方では、ロシアという特殊な状況の中でレーニンがやったことというのがあります。だから党組織論にしても、ローザとレーニンは違うだろう。やはりローザはドイツ社会民主党の党組織論ということで一定の伝統の中にある。ただカウツキーとはまた違うところがあります。ローザの場合は、レーニンがドイツにいたらこうやっただろうなというふうに読んでしまうのです。これは僕の限界かもしれませんが、いまのところ、そういう考えです。
 
  グラムシについても、ロシアと違う、より先進資本主義国で革命運動をやっていくなら、こういうところがさらに補強されなければいけないというようなことを提起していると、僕自身はグラムシを理解しています。
  そういう意味では、グラムシ主義者とか、ローザ主義者という人たちから見ると、読み方が間違っているとは思うのですが、僕はレーニンがイタリア、先進資本主義国あるいはドイツにいたら、こうしただろうなというような側面で、ローザ、グラムシの言っているところを評価するという視点です。だから、レーニンのような考えの人が、日本にいたらどうだっただろうかと考えていくのが、マルクス・レーニン主義を適用する、理解すると
いうことだろうなと思っております。
 
山崎  レーニン主義については、引用の中に正系の嫡子という比喩的な表現があって、あれはレーニンまではある程度当たっていると思うんです。第一次世界大戦の過程で社会主義運動が全世界的に崩壊しかけた中で、『帝国主義論』と『国家と革命』の二つで社会主義理論を立て直したということはいえると思います。ただあの頃は、どうしても個人のカリスマに従って運動が動くというかたちが多かったので、レーニン主義という表現も、ある程度実態に合っていたと思う。しかし、いまは個人的カリスマ性にみんながくっついていくとか、理論もその人が言ったことは一から十まで全部信じるとか、そういう時代ではない。相続でいっても、私生児にも平等の相続権があります。だから、レーニン以後は、個人的には嫡子はいないとしたほうがいいと思います。
 
瀬戸  時間の関係もあって、私が報告したことを全部は討論できなかったのですが、私自身は自分の考えを絶対視する気はありませんし、将来、実践や研究・討論の進展によって私自身も変わるかもしれません。現時点の私の考えを整理して、皆さんの討論の素材として提出しました。ですから、これをきっかけにいろいろな討論が行われたらいいと思います。理論部会でも、本日の座談会を機に実証的な社会主義研究ができる体制を作っていくことを確認したところです。本日は、ありがとうございました。
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