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                                      討論
 
細井(司会)  どうもありがとうございました。主な論点として、第一に社会主義協会が現実の社会主義をどのように見てきたかという歴史的な系譜の話がありました。二つ目に、現実の社会主義が崩壊した中で、どういう点から総括をするか、それから三つ目がこれからの討論課題ということですので、一応この報告の方向に沿って討論を進めたいと思います。
 
            (一)労農派・社会主義協会ソ連論の系譜について
山崎  僕は歴史の証人ということもあるので、それに関連することを先に説明しておきます。
  瀬戸さんの報告はハンガリー動乱からチェコ事件にとんでいるのですが、この間に協会とソ連共産党との交流が始まりました。そのときにどういう姿勢で交流をしたかということについて、具体的にいうと、向坂代表が六一年にソ連に行って、いろいろ話し合いをしてきた。それでソ連は信用できるという判断をした。それ以降、ずっと関係が強化されて、チェコ事件のときは、かなり関係が固まっていた時期だと思います。
 
  どういう判断でソ連共産党との緊密な関係を選んだかということを大ざっぱに言いますと、要するに日本で社会主義政権をつくるには、反革命もあるし、アメリカの介入もある。したがって社会主義国の援助が当然必要で、それがなければ成功できない。社会主義国といった場合、中ソ対立があったけれども、中国側は理論的にもちょっと幼かったし、経済的な力からいっても、問題にならなかった。だからソ連と接近する以外に、日本の社会主義政権はできない。
  それからソ連と接近する場合に、兄弟組織というのが別にあるわけで、その兄弟組織ではなくて、協会がソ連共産党と人間的に太いパイプを持たなければ、日本の社会主義というものが歪んでしまう。それはスペイン市民戦争を見れば、何が起こったかというのはすぐにわかると思いますが、ああいう事態にならないためには、われわれが太いパイプを持たなければいけない。
 
  太いパイプを持つには、中途半端なソ連支持ではうまくいかない。ソ連共産党の体質もあって、是々非々でいくというような感じの付き合い方では、そうならない。それは明確に、あいまいさを残さずに、ソ連共産党といい関係をつくらなければいけないということです。こういうことはどこの文章にも書いていないけれども、その頃の協会の中では、だいたいみんなそう思っていたのではないか。僕はそう感じながら活動していて、ほかの人もたぶんそうだったと思います。文章がないから、これは証明しろと言われても、証明はできないですけれどもね。
  ただ食い違ってきたのは、協会として主体性をもってソ連と付き合う、ソ連と交流をすると考えてはいたけれども、だんだんそうではなくなってきました。協会や労大や社青同の中にも、交流するにしたがって、ソ連共産党に寄りかかって、日本の運動はうまくいかないが、やがて社会主義体制が資本主義を圧倒してくれるだろうというような傾向が出てきた。ソ連はそういうことを利用して、どんどん影響力を拡大してくる組織で、それはコミンテルンはなくなったけれども、その体質は変わっていなかったと思います。
 
  しかも協会がお付き合いしたソ連の人たち、特に中心であったソボレフさんというのは、ソ連では改革派であった。だから福田さんや田中さんが変わったのは、ソ連とお付き合いをしている人たちの意向に沿って、ソ連批判を途中からし始めたからだと思います。ブレジネフ体制の下で経済改革をやめて、規制、国家統制を強化したことに、ソ連の中でも反対の意見の人がいて、たぶんそれじゃないかと思います。
 
杉田  そのあたりの資料的裏付けはできますか。
 
山崎  七九年一月の『社会主義』で田中さんが突然コミンテルンと「一国社会主義」の批判をしました。その三年後、ソ連・ドイツ代表とのシンポジウムで、田中さんがかなり批判的に、計画化と管理システムの改革はおかしい、逆戻りではないかと追及した。(『社会主義』八二年一月号に載った報告では、簡単な、ボカした言葉になっている)そういうことがあって、それに説得力があるかないかは別として、人のつながりからいえば、整合性があります。
  でもあまりソ連のせいにするのはよくない。われわれの中にやはりそういう弱さがあったということだろうと思いますが、そのようにして変わっていった。
 
  僕はもともとの判断として、ソ連と共闘関係を持って、太いパイプを持とうとしたのは、当時の政治的な判断としては当然で、それ以外の選択は当時はしにくかったと思います。日本で社会主義を実現しようと思ったら、それがいちばん現実的な政策であった。
  それが結果的に十何年経って、裏目に出たということは事実です。接近しすぎたし、接近の仕方にも何か問題があったかもしれない。でもそういう政治的な判断をして、読みが違って失敗するということは、こういう運動の中ではしょっちゅうあることで、それはそれで、今度はうまくやろうと考えればいいことではないか。
 
津野  ソ連がああいうふうになって、協会は自己批判しろと、支局の大会があれば、関西の同志から意見が出るという時期がずっとありました。
  だから自己批判をしろと言うのであればしてもよいのですが、自己批判する限りは、次の方針が出てくるような、意味のある自己批判をしなければいけないので、単に自己批判という言葉を言っても仕方がないという感じで、この間、付き合ってきました。
 
  私は、いま思うと、七〇年代の思想的、理論的作業不足が原因ではないかと思います。七〇年代の、あのときはソ連、東欧の社会主義建設上のいろいろな矛盾が出てきて、しかしそれがわりと自由に東欧では議論され始めた時期だったのではないかと思うんです。そういうものに対して、僕らも無関心だったし、協会の中でもほとんどそういうものが議論されたとは聞かない。あっても、ソ連の中のほんの一部の議論が紹介されるだけだったように思います。社会主義協会というのは社会主義経済論が一つもなかったと、私は理解しています。
  ただ、私どもは学生運動などで新左翼の人たちとも付き合っておりましたから、そういう議論がいっぱいありました。本はたくさんそれなりに読んでいるのですが、協会の中ではそういう議論がほとんどなかった。これはタブーという意味ではないのですが、事実としてなかったのです。
 
  それからもう一つ、七〇年代は資本主義の側も非常に矛盾が激化していて、統一戦線政府が先進資本主義国ではできたり、あるいはできるのではないかというような予兆ができていく過程で、左翼自体がいろいろなことを考え始めたと思います。
  その一つが、日本でいうと、社会党の「国民統一綱領」です。あそこに至る過程として、ヨーロッパで興っている議論などを含めて、ソ連型社会主義ともっと違うものが、あのときにもっと出てきてもよかったのではないだろうか。
 
  福田さんに対する反論も、そういう観点での反論は全然できていないのです。福田さんがいいとは私は思いません。福田さんも結局失敗したのですが、福田さんに対する批判の仕方が、協会が言ってきたものとは違うんだというところにしかなっていないから、結局、全然創造的なものではなかったでしょう。
  それに関連して、瀬戸さんも国際連帯のことをかなり言っているのですが、労農派というのは島国派ではありません。途中からコミンテルンとの関係がいろいろ出てくるので、スターリンとかに対して厳しく妥協せずにやり合ったということで日本型といわれるだけの話です。日本の社会主義運動の歴史では『平民新聞』の「露国労働者に与ふ」などで、当然はっきり打ち出しています。
 
  だから、いまも弱いと思うのですが、ヨーロッパのいろいろな社会主義政党との思想に追随する必要はもちろんないけれども、そういうところから、進んだものやヒントは取り入れていくとか、そのようなもっと開かれたものが必要だったのではないだろうかと思います。だから今後、その側面はもっとわれわれは強化していかないと、これまでの過ちを正すことにならないのではないかと思っています。
 
杉田 今日までの社会主義研究の成果を踏まえながら、(一)労農派・社会主義協会のソ連東欧論の系譜に関連して、ちょっと発言させていただきます。
 先程、山崎さんが言われたように、協会とソ連邦共産党との交流がチェコ事件後ではなく、ハンガリー事件からチェコ事件へのプロセスのなかで始まり、発展していったことはその通りだと思います。しかし、その発展過程は、協会の変質過程でもあったというを認識すべきです。チェコ事件で、それが決定的になったと見るべきでしょう。
 
 この間の歴史を振り返って見ますと、まず、五七年の山川さんの「ハンガリー動乱をめぐって」のなかでおこなわれた非スターリン化の視点からのすぐれた情勢分析があります。たとえば「これは、資本主義国から見れば、社会主義の崩壊として歓迎されることであるし、社会主義の立場から見れば、国際社会主義の新しい一時期の夜明けであり、社会主義の世界の形成への一歩前進を意味するものである。」との言説などは、当時の鋭い洞察力に裏付けられた分析だと、僕は思います。しかし、協会は、その後この「一歩前進」といいう視点からの分析が中心となり、残念ながら非スターリン化のなかから形成されてきた「新たなスターリン化」を十分に認識することが出来なかったのではないでしょうか。
 
 今日、私たちのなかでこのスターリン化という視点に立って社会主義崩壊を総括しようとする試みがあるようですが、しかし、ここ数年間に達成された国際的研究水準、その研究成果から見れば、この視点からの整理では決して説得力があるとは言えないということを、ここで強調しておきたいと思います。というのは、主として政治領域、特に政党論を分析の支柱に据えるスターリン化では、崩壊を体系的に説明できないのではないかと言われています。それゆえ最近では、それにかわってソビエト化を問題にするようになってきました。つまり、ソビエト化をいうことによって、政治領域の問題だけでなく、社会全般にわたる問題、経済、文化、宗教、スポーツ、さらには社会主義的人間形成などの問題が総合的にとりあげられ、ソビエト化がソ連邦、東欧諸国のなかでどのようなメカニズムで機能していたのか、あるいは機能不全の陥ったのかが具体的資料にもとづいて分析されているです。
 このように見てくると、ソビエト化という視点は、座談会の二番目のテーマである「ソ連・東欧社会主義崩壊総括の視点」に深く関連する問題になってきますが、僕は、この点について協会の分析視角がかなり的外れになっているのではないかとの印象をもっています。これについては、後ほど触れることにします。
 
細井  瀬戸さんの引用された八五年の情勢分析の項はたぶん僕が書いたんです。ですからかなり責任もあるし、そういう面の自己批判をしなければいけない点を感じています。われわれの基本認識として、やはり国際情勢というのは体制間対立が基本で、しかも現代は資本主義から社会主義への移行の時代であるという基本的な認識がありましたから、社会主義を全体としては肯定的に見よう。それから冷戦の一方の極に帝国主義がありますから、反社会主義攻撃がわれわれの運動に対してもいろいろな否定的な影響を及ぼしているので、それから社会主義を擁護しなければいけないという観点は非常に強く持っていたのです。そういった面で、当時の考え方としてはそんなに間違えていなかったと思っています。
  ただ、私の何が弱かったのかということは、歴史的・論理的な方法のうち、論理的には社会主義を非常に考えたけれども、歴史的・実証的研究が非常に弱かったと思います。例えば、民族問題では、エンゲルスの言う通りに解決していると考えました。社会主義の崩壊後、そうでなかった事実が旧ソ連でも、旧ユーゴでも明らかになりました。僕は福田さんとの論争が起きたときに、ソ連、東欧留学生はだいたいみんなそうなんですが、現実に生活をしたので、欠陥はかなりよくわかっていました。だから東京都支部の学習会で、それは率直に指摘したのですが、そのときに、協会のある幹部の方からは、社会主義の欠陥というのはブルジョアマスコミが十分に報道してくれるのだから、われわれが言う必要はないと、非常に強く言われたのです。
 
  僕はそのときには、福田さんがあの本で書いている矛盾はあります。ただその矛盾のとらえ方が、ここの提起でいうと、社会主義の矛盾は解決しうるという立場に立つか、立たないか、その点が違う。現実に職場の中で、同盟員とか協会員が責められているのですから、その事実がないというやり方ではよくないのではないか。だからその見方をわれわれが提起すべきだ、と言いました。
  そういった面で、いま社会主義が崩壊してみて、客観的に見つめるならば、現実の崩壊は八〇年代の初めまでに進んでいて、ゴルバチョフが出てきたから崩壊したわけではない。現実の社会主義は経済体制としては七〇年代の末から八〇年代ぐらいまでに非常に矛盾が重なって、崩壊をしてしまいました。後期のペレストロイカの政策はそれを促進しただけであって、ペレストロイカが社会主義を崩壊させたのではないというのが、僕のいまの認識です。
 
伊藤 僕は七〇年代に組織の重要なところを担っていた皆さん方と違って、末端でゴソゴソやっていたわけです。そういうところから見ると、たとえばオルグするときに、「私はソ連はいい、すばらしいと思っている」という相手はほとんど一人もいない。親ソ的な点だけは納得できないという人がほぼ一〇〇%だった。そしてこちらも、そこの考え方を変えなさいとは末端ではやっていなかった。
 マスコミでは社会主義を批判する例として宣伝されるので、結果的にわれわれが資本主義の問題点を批判するのを邪魔する効果があるのだから、その意味で反論する、擁護するということだけ一致すればいい。僕の知っている範囲ではそうでした。
 
 それはそれでいいと思うのですが、これで弁解することにはならない。どこがいけなかったかというと、先ほどから出ているように、事実はどうなっているのかということを知らなかったし、あまり興味もなかった。どうせいわば演技としてソ連を擁護しているのだから、どうでもいいという気持ちもあって、あまり調べなかった。そう思います。
 ですから、いちばんの問題点は何かといえば、事実に基づいて判断すること、宣伝をどうするのかとは別に見解をもっているということが弱かったと思います。経済についてもそうで、ソ連や東欧の公式数字や資料にほぼ完全に依拠して、自分の目で調べる、見解を持つというところが非常に弱かった。これが第一の自己批判の点だと思います。
 
 具体的にどこを自己批判しなければいけないのか。チェコ事件などの見方とか、国際問題については、僕ははっきりと自己批判すべきだし、間違っていたと思います。政治体制についても、レーニンは『何をなすべきか』や『背教者カウツキー』などで、形式上は非民主的に見えても、生き生きとした組織であれば、批判されるような独裁にはならないと主張していますが、しかし長い期間にわたってそういうことが期待できるのか。やはり権力に対しては、チェックとバランスの機構をつくらなければいけないだろう。これは歴史を見れば決着済みではないかと思っていまして、これについてははっきりとした議論をしなければいけないのではないかと思います。
 
瀬戸  山崎さんが言われた、どうして社会主義協会がソ連に傾斜していったか。それはチェコ事件ではなくて、六一年段階から始まったんだということですね。今日から見てその判断が正しかったかどうかということは、残ると思います。
  国際的な事件を見ても、ソ連と関係があるということ自体、アメリカが直接介入する、あるいは国内の反動派が立ち上がる口実になるのです。事実、革命にはるかに遠い社会党内ですら、ソ連と関係があるということが主要な協会攻撃の口実になったのですから、当時であっても、ソ連と関係を持つことが革命に必要なんだという判断はどうだったのかなという気がしないでもない。事実、朝鮮とかベトナムは中ソどちらにもつかない道をとりました。それはいま言っても仕方がないことかもしれませんが、今後の研究課題としたいと思います。
  杉田さんが言われたスターリン化ではなくて、ソビエト化というところを、もうちょっと説明していただけませんか。
 
杉田 瀬戸さんのご報告に関連して、ソビエト化について考えてみましょう。瀬戸さんは、福田さんをはじめとした人たちの見解をかなり評価されているようですが、かれらの見解は、自由と民主主義の問題を社会主義と一般的に対置したにすぎないのではないでしょうか。その意味では、当時すでに世間一般で問題視されていたことです。これでは内的メカニズムが分析できません。当時の唯一の可能性は、細井さんが指摘されたように社会主義国に留学した人たちの生々しい生活体験、それも社会主義にたいする幻滅の悲哀をどのように受け止めるべきだったのかというところにあったと思います。それゆえ、当時の論争は、さっきからの皆さんのお話のなかにあるような歴史的事実に依拠した、具体的で体系的な分析を前提にしたうえでの対立ではなかったと考えています。
 ソビエト化とは、ソ連・東欧諸国でここ数年間に公表されてきた具体的資料をベースにして、ソ連を中心とした社会主義システムの内的メカニズムを実証的、歴史的に分析することを意味します。例えば、これは最近の研究成果ですが、ソ連邦の共産党学校ナンバー十二には、ドイツからの亡命者が約一二〇名いました。かれらはドイツ共産党員であったのですが、ソ連側から共産主義者として見なされたわけではなく、幹部養成のためそこで徹底的に再教育を受けることになりました。その教育内容も多岐にわたっているようです。戦後、帰国したソ連亡命者のなかで路線対立がおこるのですが、このときにソ連邦共産党員六六名が挑発行為をおこない、モスクワ・カーダーのうち左派を切り捨てていくものに、W.ウルプリヒトのメンタリティーをも検討しながら、かれを中心とした指導体制が確立されていったことが、報告されています。こうした挑発行為は、後でふれますが、ドイツ社会民主党にも向けられていました。
 
 つまり、ソビエト化の実態が、歴史的資料にもとづいて具体的に分析されてきているのです。それゆえ、政治領域を中心とした、とくに政党論を分析の中心に据えたスターリン化とは、研究対象領域が大きく異なってきていることに、まず注目しなければならないでしょう。さらに、ソビエト化は、分析の対象だけでなく、レーニン時代を含むことによって分析期間を拡大していることも見逃すことの出来ない重要な点です。
 この視点から考えると、「総括の視点」という二番目のテーマに少し入っていきますが、瀬戸さんの報告のなかで紹介された山藤さんや山崎さんの発言内容について、僕はあまり理解することが出来ません。「ソ連・東欧がどのような社会主義であったのか」という問題提起の「どのような」の部分が不十分であると思います。
 
 山崎さんは、ブレジネフ体制時代の官僚主義を問題にされています。その時代の特徴としては理解できるのですが、もっと重要な点は、社会主義が官僚主義を生み出していったメカニズムでしょう。いろいろな原因が考えられるでしょうが、たとえば、東欧各国の共産党と社民党との関係がどうであったのかということも興味あるテーマです。社民政党の占めた位置、その果たした役割の強弱によって、官僚主義のあらわれかたが各国によって違っていたのではないでしょうか。私たちは、これについて調査・研究をすべきでしょう。これに関連して、細井さんがドイツ社民党について国際的に十分に通用する研究をおこなっています。(細井雅夫「ソ連占領下のドイツ社会民主党ーSED成立史再考」ほかー編集部注)かれの優れた研究成果が私たちの活動のなかに十分に生かされていないのは、非常に残念なことです。このような研究から、教訓として何を引き出せるのかを考えることは重要です。
 
 これまで社会主義的民主主義を礼賛していた協会が、「総括」にあたって、いとも簡単に民主主義がなかったとか、官僚主義であったとか、マルクス・レーニン主義からの逸脱であったとの結論を出すのはどうかと思います。もっと重要なことは、結論を導きだすためのプロセスを大切にすることでしょう。そのための実証的、歴史的研究が必要になってきます。

 
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