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第一の見解(二)
C 総括 −基本路線の展開と問題点−
 一、総括するにあたって
 この一年間、われわれは反独占の大衆闘争を高揚させ、労働運動の右傾化を阻止しつつ、生産点から反安保闘争を盛りあげるために、真剣にたたかってきた。一〇・二一国際反戦統一行動、四・二八沖縄奪還闘争、アスパック粉砕伊東現地闘争、中央及び各県の平和友好祭など、大衆行動における社青同の力は、数年前と比べて、はるかに大きくなっている。また、三月に行なわれた第三回国青年団結集会においては、社青同を中心とする職場の青年たちが、労働運動を体制内化し、合理化をいっそう徹底しようとする独占資本の攻撃と、真向から対決し、苦闘を続けている状況が次々と報告され、参加者の感銘をよんだ。
 だが、こうした一面での前進があるにもかかわらず、社青同の運動は全体的にはのび悩み、停滞、ないし分散化の方向にあり、上昇期にあるとはいえない。むしろ最近の新左翼諸派、及び大量のノンセク卜活動家が、反戦闘争、学園闘争を主要な媒介として大量に進出し(小ブル急進主義の方向を本質的に基本としているが)、民青及び民青系全学連も独自の路線を歩みつつ組織建設をすすめているのに比べて、社青同のたちおくれが目立っている。またわれわれは、日本の労働運動が量的には一貫して拡大しながらも、資本の介入を許し、右傾化を続けている(鉄鋼労連はもちろん、合化、私鉄、全逓、電通等の主要労組が反合理化闘争方針を弱め、反安保闘争への取組みをおこたっている)ことを、主体的に総括しなければならない。
 青年運動における社青同のたちおくれ。労働運動の右傾化という事態に、われわれはいかに対応できたのだろうか。とくに日常的に青年大衆と接し、敵の攻撃に直面している班が、いかにたたかってきたのか、それに対する各級機関の指導がどうだったのかを、きびしく総括しなければならない。その討論を軽視して、行動方針や組織工作の手直しによって欠陥をとりつくろったり、視野の狭い分析から、同盟活動の一分野における量的増大に安心していれば、社青同ののび悩みは脱皮できない。
 帝国主義的支配体制確立の中で、独占資本と青年大衆の矛盾が激化し、青年大衆の動きが活発になっているときだけに、われわれは、社青同が(とくに基本組織である班が)いかにたたかってきたのかを、きびしく検討することが重要である、そのことが、同盟内の意見の対立を、前むきの討論へと導いてゆくことになるし、飛躍的な発展のための基礎を固めることになるであろう。逆に、具体的総括をぬきに、大言壮言をくり返していれば、同盟員の指針となりうる方針はでてこない。
二、班活動(長期抵抗・大衆路線の実践)の間題点
 青年活動家を大量に育て、労働運勣の責任あるにない手として自己を鍛えようとしてきた社青同がぶつかっている困難な状況は、N班の活動のなかに典型的に見ることができる。N班は私鉄大手の職場にあり、組合は春闘時には統一ストに参加してはいるが、反合理化闘争を本格的にはたたかわず、資本は“安全問題”をテコに職制支配を強めている。事故がおこるたびに、“不注意”がおこらないようにと、しめつけがきびしくなっている。社青同は、組合の先進的活動家を結集しており、同盟員の約一〇倍の「まなぶ」読者を組織しでいる。この点では、徐々にではあっても、社青同の影響力はのびており、反戦集会にもかなりの動員をできる。しかし同盟員が組合の真面目な活動家であろうとすればするほど、日常の組合業務にエネルギーを使い果し、まわりの青年たちと、腹をわって話合う機会が少なくなる。そのために、社青同の課題を一般的には理解できても、職場の仲間たちが、生産点での矛盾、あるいは政治的矛盾を具体的にどのように意識しているかをはっきりとつかめぬ実態があり、そのために大胆な行動提起か実はできない、オルグをしても迫力がでない、という状況である。「外の」活動に力を入れたため、職場の仲間から批判され、消耗している同志もいる。
 このような状況は、多くの、真面目に活動している班にみられることである。社青同が最も力を注いできた反合理化、職場抵抗闘争が、資本の職場秩序づくリ(帝国主義的支配体制確立の主要な一環としての)の一強化に伴って、非常に困難になっている情勢の反映である。合理化攻勢が思想攻撃の形をとり、ZD運動にみられるように、労働者の「自発的意思」にもとづいているかのような外観をとる。
 生産点での矛盾は、眼にみえにくくなっている。仲間たちが不満、要求をもてば、資本の側は多くの場合、それを受け入れたかのようにみせかけて、(資本は表面的、あるいは部分的に要求を「受け入れ」るだけで、矛盾がなくなるわけではないのだが)より巧みに職場秩序を固めてくる。そして青年たちを体制内の「解決」追求の幻想でまるこめんでしまう。これが「無関心層」でありマイホーム主義である。例えば、一つの職場で死亡事故がおこったところ、職制側が討論を組織して、“もっと安全な機械を”という口実で合理化がすすめられた。その過程で、職場の安全については、労資一体で重視しなければならないという思想がうえつけられてしまう。
 こうした資本の攻撃に、従来どおりの(民同的)組合運営、つまり、組合員の自然発生的な不満や要求を物取り闘争としてのみ、階扱的成長への視点ぬきに組織し、それさえ不充分で妥結するという内容では、たたかいの発展はないし、そもそもたたかいがおこらなくなっている。社青同もまた、ただ真面目に組合活動をするだけでは、職場抵抗を組織できない状況になっている。資本と労働者の矛盾がどこに現れているかを具体的に分析し、仲間たちが潜在的に意識している不満や要求をひきだし、反独占の方向をもって、大衆自身が組織的に抵抗するよう指導する力を、身につけなければならない。支部、地本は、そうした活動こそを指導できることが必要である。
 一方、大都市を中心に、反戦闘争における、ノンセクト活動家の発生がある。学生運動だけでなく職場のなかでも、従来の組合役員(活動家)でなかった部分から、激化しつつある政治的矛盾を自覚して、個人的に(組合に期待せず)行動する青年がでてきている。それは、量的には「政治的無関心層」に比べてはるかに少数だが、しだいに増大し、「動員力」からみれば、「社会覚、総評ブロック」を上回るほどになっている。この層は、今のところベ平連等の市民主義的反戦運動新左翼諸派の基盤となっており、その一人ひとりに対する意識的指導がなければ、労働組合運動の階級的強化とは結びつかない。社青同はこのような青年たちへの対応においても不十分であった。彼等の自然発生的な社会への反抗を、いま一歩高い内容に、つまり、個々人が街頭でたたかうのではなく、職場を基礎に組織的に労働者が団結して帝国主義と対決する方向へ指導する能力が欠けていた。敵への怒りを直接行動にうつそうとする彼等の衝動にではなく、彼我の戦力の正確な分折にもとづき、確実な見透しをもってたたかうよう導いてゆかねばならない。
 「無関心層」の場合でも、ノンセクト活動家の場合でも、真の階級的自覚への発展を支援し保証する基本としての大衆路線は、「自分自身のたたかいの経験を持たせる」ことに本質がある。そのためにわれわれは彼ら自身が自分の問題としてとらえられる「要求」「行動形態・戦術」を選択的にではあるが重視するのだ。自分の要求のために自分で考え、行動し、敵の弾圧にぶつかって「敵の存在」を知り、一定の成果をかちとれば自信を持ち、主体的に団結や組織(労組)の意味を知ってゆく。言葉や文章では、資本のアメをともなう思想攻撃の中で、主体的につかむことかできなくなったものも「自分自身の経験」の中でかちとられる。かつては自然にほっておいても進んでいったこの「経験」過程が、今は強い目的意識的−組織的支援なしには不可能なのだ。
 学習による活動家養成についてもこのこととの関連なしに考えるこはできない。まだ公労協などでは自然にほっておいてもこの過程が進み一定の段階に達して主体的に学習活動に入ってくる仲間も多い。しかし、もはやそれは情勢の主流ではない。三池はほっておいてもよかった彼らから鋭い目的意識性をもってこの「経験」を大量につくりだしたからこそ(職場闘争)比類なく厚い学習活動に主体性をもった参加を組織しえたのであった。
 社青同の多くの班は、真剣にたたかいながらも、以上のべたような、帝国主義的支配の強化に伴う情勢の変化に全体的には有効に対処できていない。
 反戦青年委員会の混乱、労働組合幹部による青年部活動(青年の自主的な活動)へのしめつけの強化に対して主体的に対応できない弱さも、この点にある。しかも、全国的に意見の対立が表面化し、行動方新においても分れて、社青同としての統一した運動が分散しかけてきたために、さらに困難は大きくなった。
 だが、このような数々の障害を打ち破って、力強い前進をしている班、支部、地本も少なくはない。反独占の思想にもとづき、長期抵抗・大衆路線の立場にたって、周囲の青年たちとの共同行動をおこすなかから、班確立をかちとっている。
 S班(全逓東京)においては、数年間にわたって、青年部活動をにないつつ、「まなぶ」による学習、サークル活動などをつうじて影響力を強めてきた。当初はほとんど非公然の活動で、一時は消極的になりすぎたこともあったが、いまでは親組合にも足場を固めている。そして、郵政の「青年訓練」反対闘争をテコに反撃を強め、職場権利闘争の意識的な再建を基本に、それと学習活動を結びつけて階級的自覚を育だてている。またこの班をはしめとする全逓班協議会は、全逓東京地本青年部(これまで民青と新左翼諸派の力か強かぅた)内でも力をのばし、青年訓練拒否闘争を大衆的におこしている。このような運動の強化が、組合の政治闘争を弱め、その一環として反戦委運動への参加を許きず、さらに青年部そのものも廃止しようとする「親」の指導に対する、われわれの回答である。
 T班(都職労)では、自治労の統一ストにすら参加できなかった職場のなかで、ささやかな学習会から出発したグループが、徹底した職場オルグ、とくに職場の日業的権利侵害についての青年たちとの不断の討論をつうじて、反合理化闘争をおこしている。また同時に地区の野戦病院反対青年共闘や都職労反戦(産別組織)の拠点ともなっている。T班は、「政治的無関心層」への働きかけも、市民主義的傾向にながれたがる青年へのオルグも行ないつつ、班の周囲に数十名の活動家集団をつくっており、組合の階級的強化に成功しつつある。このような運動が可能となったのは、班が仲間たちの、こまごました職場要求にも、政治的要求にも、あるいは文化、レク活勣への要求にも応え、それを社青同が“ひっぱってゆく”運動ではなく、青年大衆自身の意思にもとづく運動として組織してきたからである。
 もちろん、前の二班のように、順調に成長するためには、職場の条件(公然とした活動を比較的自由に行なえる)も必要である。民間の大きな職場(資本の力が強く、労務管理が強力、かつ巧妙)では、くらべものにならぬくらい厚いカベを破らなければならない。たとえば鉄鋼労連に属するH班の同志は、団結集会で次のように報告した。「JC路線の浸透とともに。旧来の組合左派は一挙に極少数派へと転落した。圧倒的な物量をもつ資本の攻撃のなかで、工場や社宅へのビラ入れも不可能に近い状態に陥り、班のなかでも、戦術をめぐって(積極的に反撃すべきか時期がくるまで非公然のまま待つのか)意見がわかれた。真剣な討論をくり返しながら現在では、一人ひとりの同志が職場のなかで、可能な方法をみつけだして抵抗をおこそうとしている。
 M班(合化労連)は、組合の分裂のなかで第一組合の中軸をにないながら、反合理化、職場抵抗を一貫して追求してきた。ところが合化労連が右派の圧力のなかで反合理化闘争を条件闘争として方針転換し、産業別労使懇談会、全国反戦の解体(反安保闘争の軽視)をすすめている現在、従来の産別組織との結合のあり方を、もう一度真剣に考えざるをえなくなっている。M班の同志たちは、職場での大衆討議のなかから、大会でも積極的に発言した。班としてーも、組合としても「上部」を頼りにするのでなく、主体的にたたかう方向を確認したわけである。しかしこのような強さを身につけても、遠くはなれた新工場への大量の配転(実質的には首切りになる)を会社側が強行しようとする現在、組合員の生活を守ることが、非常にむずかしくなっている。そのことは産別指導、拠点対策の重要性をも示している。
 三「基調」とたたかいの総路線
 以上、社青同の主要な問題に大部分の紙数をきいて、班に担われた大衆路線の展開−たたかいの基本についての総括を終る。たんに反合闘争にかぎらず政治闘争でも、必要なことはふれられたはずであるが次章の補足を参照せよ。
 わが同盟の目的=反独占社会主義革命を推進する労組強化、また当面の(帝国主義が国家体制を含めて完成されるまでの時期)たたかいを導びく「基調」もこの基本の上にのみ現実の大衆運動として築くことかできる。これぬきにカンパニアを拡大し政治闘争強化を叫んでも、労働者階級の諸組織は空洞化し、スローガンは空文句に終るだろう。総評と社会党の停滞を打ち破ることはできない。
 改憲限止・反合理化の「基調」も、こうした班・職場段階からの大衆路線を実は柱としている。この基本を実践する時、われわれは反資本主義の階級的意識をはじめて大衆的規唄で創り出すことができるからだ。そしてこの階級的意識・運動・組織(労働組合)を柱としたときのみ、反戦平和と、民主主義への広く存在する、しかし今のままではムードにすぎないエネルギーを、意識的なものに高め組織として結集(統一戦線)することが可能になるだろう。
 日本独占資本はしだいにその帝国主義の体制をととのえつつある。しかしたとえば公然たる海外派兵用の軍事力を提起できないように、その支配体制はまだ弱点が多い。とくにその国家体制(ブルジョワ独裁体制)は、フランスのドゴールや最近(基本法改悪後)の西ドイツと比較してあまりにも弱い。われわれは改憲攻撃を、この帝国主義国家体制確立への不可避の過程として迎えうたねばならない。「改憲阻止・反合理化」の基調は、この過程をつらぬいてたたかいを導く。
 たたかいの基本を正しく踏まえつつこの基調のみとうしに立って前進しよう。言い換えれば、それは改憲阻止統一戦線(青年戦線)として、階級的意識・運動・組織を柱に、すべでの反独占のエネルギーを結集してゆこうとする不断の追求である。
 独占資本主義の発展と、その攻撃のつくり出す現実(情勢)は、青年大衆が、それを意識的にとらえかすための無数の契機と条件を生み出している。自分の職場の搾取の現実は、アジア「後進国」人民が受けようとしている同じ日本独占資本の資本輸出=搾収・収奪についても、たしかな理解と連帯を感じとらせようとしている。その条件はある。
 「基調」に導びかれた日本独占資本とのたたかいだけが、真に世界帝国主義と有効にたたかい得て、アジア人民をそのクビキから解きはなつ連帯をかちとることができる。
 過去一年間の全同盟的実践と討論とは、この確信を深めさせた。同時に混乱していることを否定できない「基調」理解は、一歩正確な次元での統一的理解へと高まろうとしている。
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