加納 ありがとうございました。鳥潟問題というのは鳥潟シズコさんという元東大教授のお嬢さんだったと思うのですが、初夜に夫から打ち明けられて逃げて帰ったというので、とんでもない女だという非難を浴びた。それに対して山川さんが非常に積極的な批判をしているということをご紹介いただきました。
加納 竹中さんには百周年の記念シンポジウムの折にもお話をいただきました。その時は「マルクス主義フェミニズムの源流として」だったと思うのですが、今日はそれを踏まえて、今日問題になっておりますアンペイド・ワーク論です。「現段階における政策としてのアンペイド・ワーク論」と非常に限定されたタイトルになっているのは、まさに竹中さんの誠実さを示すものではなかろうかと思って楽しみにしております。よろしくお願い致します。
■現段階における政策としてのアンペイド・ワーク論
竹中恵美子
私も山川菊栄さんの研究者ではありません。たまたま山川菊栄生誕百周年の連続講座に参加し、それからシンポジウムにも参加させていただいたわけです。にわか勉強だったのですが、いろんな面で目を開かれたということがございます。ただしそれ以後深めているということではないので、性差別の根源になるアンペイド・ワークについて、今私たちにはどういう政策課題があるかに焦点を置いてお話しさせていただくということでご了解を得ました。
もちろん、一〇年前にお話しして以後、山川菊栄の業績についていろいろな研究が出ております。私が関心を持っておりますのは三宅義子さんの書かれたもので、「近代日本女性史の再創造のために」という論文を一九九四年の神奈川大学の紀要に出されております。
そこでは、日本ではエレン・ケイが非常に知名度があるのに対して、アメリカのシャーロット・パーキング・ギルマンが忘却のかなたにうずもれてしまったのはなぜなのかというかたちで問題提起されております。実はこのギルマンの翻訳は、日本でも一九一一年に出ていて山川さんも触れられていますけれども、三宅さんはなぜ山川さんがギルマンの論点を説明されなかったのかと問題を投げ掛けられております。私も興味のある問題だと思っております。
今回の「山川菊栄を読む」連続講座の中で広田寿子さんが「山川菊栄の労働運動論」という中で、一九二二年は無産階級運動の方向転換の年で、その前に書いたものとあとに書いたものとでは、かなりその影響があってちょっと違うとおっしゃっています。
これも私は非常に教えられた点ですが、例えば、母性保護論争というのは一九一八年ですからその前なのです。あとで申しますけれども、婦人の特殊要求についての八項目は、二五年に書かれている。この二二年の前か後かということで深めてみなくてはいけないと思います。
ただそのことについてじゅうぶん勉強はできていませんし、時間もないので、今日はレジュメに書きましたように、山川菊栄が性差別の根源と見た資本主義経済制度としての女性のアンペイド・ワークの問題を、今どういうふうにとらえるべきなのか、そして二一世紀を前に日本の課題とはいったい何かということを考えてみたいと思います。
●マルクス主義フェミニズムの源流としての山川菊栄
はじめに、私が前回お話しした時の論点を踏まえるということで始めます。詳しくは参考文献にあげております。一〇年前のシンポジウムが入っている『たたかう女性学へ』と、前回の連続講座の内容が入っております『現代フェミニズムと山川菊栄』を見ていただいたらいいと思いますが、私はマルクス主義フェミニズムの源流というかたちで、山川菊栄の思想を次の三点に押さえました。
その一つは女性抑圧に対する複眼的な視点。つまり当時は階級一元論といいますか、階級闘争一辺倒の時代の中で、そういう階級支配の問題と同時に性支配の問題、それを支えているのは家父長制ということですが、両方を押さえているということだと思います。もちろん山川さんの中には、封建的な意味での家制度を基礎にした家父長制と、非常に近代的な社会、ブルジョア社会における家父長制を支える性別分業の二つが入っていると思います。
とくに当時は明治民法の基盤となった家制度が深く根を下ろしているという状況にありますので、一九二五年の婦人の特殊要求の八項目の最初に、戸主制度の廃止というのが出てくるのです。先程あげましたギルマンの本では、もうすでにアメリカでは三百万もの近代的な家族が存在していると分析しているわけですから、そのまま日本にそれを当てはめられないかと思います。そういう面では、山川さんが家父長制という場合、二つの家父長制概念が存在しているといっていいと思います。
それにもかかわらず、私が山川菊栄さんを現代のマルクス主義フェミニズムの源流と見るのは、一九二四年の「職業婦人と母性の問題」という論文に注目するからです。その中でははっきりと性別役割分業そのものが、実は近代工業によって作り出されてきたものだという把握をしております。そのために結局一人の婦人が本来背負わされなくてはならない生産者としての立場と母としての職分とが相打ち、相矛盾して女性の生活が分裂させられてしまう。つまり、そのことが女性の一般的な地位の低さという問題と結び付いているのだということが触れられております。
それから、一年前の一九二三年に書かれた「男性優越の歴史的発達」という論文の中では、結局この資本主義という経済社会では、市場で交換関係にあるものに対してだけ経済的価値があるのだ、どんなに社会的に有用なものであったとしても、家庭の中の労働は一銭の収入にもならないのだ、と述べているわけです。このことで女性が無能者であり劣等者であるという位置付けが出てきているわけです。そして、結局家庭における女性の地位の低さが、女性が市場に出ていくときも、その労働力の市場価値である女性の賃金が、非常に低くなるときわめて明快に述べているわけです。つまり女性の抑圧を資本主義という経済制度そのものが生み出しているという見方がはっきり示されていると言えるのではないかと思います。
その意味で私は山川さんの思想を、マルクス主義フェミニズムの源流というふうに押さえられるのでないかと考えたわけです。
今日、アンペイド・ワークということが問題になっておりますけれども、(私は経済学が専門ですが)経済学というのは市場の中で交換関係にある、稼ぎがでる領域だけを分析してきたのです。しかしその稼ぎをするのに必要な労働力というのは、実は市場の外側で生産され無償で行なわれている。そこを切ってしまうわけで、アンペイド・ワーク論は従来の経済学の分析方法の狭さに対する問題提起をしているとも言えると思うのです。その点で山川菊栄は、市場での生産領域と家庭での直接生命を生産するという再生産の領域をトータルにとらえて女性の抑圧構造を説明したと言えるのではないかと思います。
例えば家庭の主婦に対しても、決して寄食する階層だとは見ていないわけで、不払い労働をさせられている人たち、資本主義という経済構造の中の犠牲者であるととらえている。ですから、家庭の婦人をもいわゆる階級闘争の中に動員していかなくてならないというとらえ方をしています。それが、第一点です。
第二の点は「内なる女意識の改革」です。戦後フェミニズムが最初に問題にしたのは女性の意識改革ということでした。
あの時代に山川さんは、居並ぶ男性あるいは社会主義者、共産主義者たちを前にして痛烈な批判をしています。つまり、男性の女性に対する優越意識あるいは女性に対する蔑視観というものを、司法が利用しているというだけではない、労働組合の幹部自身が、当時の言葉ですからプロレタリアートと言っていますが、プロレタリアートでいるというその事実だけで、すべての差別意識から逃れていると思っているのは間違いだということを言っています。同時に女性に対しては、女意識からの解放、つまり奴隷根性を捨てろということを述べておりますし、強烈な個の意識の必要性を訴えています。この点でも大きな功績ではないかと思います。
第三番目は「グローバルな解放思想」。これはもう鈴木さんがおっしゃいましたけれども、階級支配・性差別・民族差別の三位一体というとらえ方です。これは女性の特殊要求の中で教育や職業それから賃金、標準的な生活水準そのものについて民族的な格差はあってはならないということを述べており、重要な点です。
今なぜアンペイド・ワーク論が前面にクローズアップされることになったのか
さて前提の話で長くなってしまいましたが、アンペイド・ワーク論が大きく歴史の前面に押し出されるようになった背景には、経済のグローバル化、労働力の女性化の過程で性別経済格差がクローズアップされてきたということが、大きな要因として挙げられるのではないかと思います。
二〇世紀の後半、とくに四半世紀にはご存じのようにグローバリゼーション、多国籍企業を典型とするグローバル資本が新しい世界の空間を再編成しつつあります。わずか数百社の多国籍企業が世界資本の三分の一を支配し、世界生産の四〇%を占め、世界貿易の四分の三を支配しているという状況を生み出しました。この過程でしばしば言われることは、世界的な規模での富裕と貧困の形成の問題です。いろんな決定機関からも排除されるかたちでの貧困層が拡大しつつあります。
女性はこの過程でどういうふうに動員されてきたのか。中心国では今どんどん女性が市場の中に出ていっているわけですが、結局は性役割分業というものを基礎にしながら労働市場に参入しているわけで、その典型例はパート労働とか非正規労働です。イギリスのベロニカ・ビーチという人が、「パートという形態は女性のために発明された」と言っています。
一方周辺国地域の場合は、どんどん多国籍企業が生産拠点を移してきていますし、農村の生存維持の経済は解体してという中で、輸出産業の単純生産のところに若い女性の労働力が導入され、そしてまた法律の規制を受けないようなインフォーマルなセクターの分野に、ますます女性が就労していく、こういう状況になっているわけです。
そこでは、労働力として導入されている女性がどんどん国境を越えてきているわけです。その国境の越え方というのが、単に生産の分野だけではなくて、再生産という分野、育児や介護という分野に組み込まれているという意味では性役割分業というものの在り方が、一国民経済だけでなくグローバルな規模で再編成されてきていると言えるでしょう。
六〇年代アメリカの女性の社会参加を支えたのは中米やカリブからの女性移民であるメイドやベビーシッターですが、今台湾やマレーシアといった工業国でキャリア女性の社会進出を支えているのが、フィリピンやインドネシアなどからの家事労働を担う移民だと言われています。その意味ではさらに欧米諸国においても、すでに看護とか老人介護などの公的な再生産の領域が、こういう移民労働によって構成されつつあるということも指摘されています。
そういう意味から、従来私どもは家事労働はアンペイド・ワーク、それは労働しながらペイが払われない労働だということでもっぱら家事労働に限定していたのですが、現在はこの概念が広く考えられるようになりました。先進国の場合にはアンペイドの分野としては家事労働が大きいかもしれません。あるいはボランティアの分野もあるでしょう。しかしまた家族経営の中の家族労働にペイが払われないという分野もあるでしょう。発展途上国の場合には自給農業などの中で、そうしたアンペイドな分野が大きく、今日ではアンペイド・ワークを広義な意味で使われるようになってきているわけです。
「国連女性の一〇年」以来、このアンペイドワークについて光を当てる作業はずっと続いていますが、例えば一九八〇年にILOがこう言っています。「世界の労働の三分の二は女性が担っている。しかし受け取る所得は五%、そして資産はわずか一%である」と。つまり実際には女性は経済に参加していないのではなくて、経済活動に参加しながら大半がペイが払われない人たちだということです。
とりわけ一九九五年、北京の世界女性会議の「行動綱領」では、アンペイド・ワークが誰によってどのくらいどのようなかたちで担われているのか、それを計測して、GNP(国民総生産)とかGDP(国内総生産)と関連のあるものとして、その額を表す努力をすることが各国に求められました。
この場合、経済計算をすることが目的ではないと思います。つまり、アンペイド・ワークを社会的・経済的に評価するというのは、一つはアンペイド・ワークは経済活動の一環をなしているのだという社会的認識を高めるということ。もう一つは、アンペイド・ワークは女性の役割というかたちで抱え込むことによるマイナスを除去して、これを社会と男女両性に担い分ける政策・制度を作っていくということでもあるということなのです。そのためには、どのくらい、だれが、どういうふうに、例えば男女が担っているかということを統計的に表さなければならない。政策を立てるためには実際にそういう統計が必要であるわけです。
ここで私が重要だと思いますのは、計測と評価に関連して「新しい時間の利用調査」が提起されたことです。従来はペイド・ワーク、つまり支払いのされるワークとそれから余暇、自由時間の二方法だったわけです。しかし、この二分法は、男性の経験でしかないわけです。従来の時間の調査というのは明らかに男性の経験に基づいているのであって、女性の経験に基づいていないわけです。フェミニストたちが作る「時間政治」(タイムポリティックス)では三分法にしていく。つまりペイド・ワークとアンペイド・ワークと自由時間・余暇です。睡眠時間などを別にして四分法とする人もいます。
そもそも日本の場合、労働運動もそうなのですけれども、時間短縮とは言っても男性たちが考えるのは、いかに余暇を増やすかということです。いかに夫婦が一緒に、あるいは子供たちと食事ができるようにするかということを考えても、誰がそれを作るかという時間は全然念頭にはないのです。一九九七年五月に、経済企画庁が「無償労働の貨幣的評価」を発表しましたが、それによるとアンペイド・ワークの九割は女性が担っていて一〇%以下が男性という、世界に例がない配分の状況が明らかになりました。しかし、この結果は、いろいろな制度や政策を作り出したものなのです。
日本におけるペイド・ワークとアンペイド・ワークの大きなジェンダー・ギャップ
日本では圧倒的にアンペイドを女性が担っていますが、それは経済効率至上主義の企業中心の社会が作り出したものであると言えるのではないかと思います。
今、年功序列賃金あるいは終身雇用制が崩れつつありますが、年功序列や終身雇用というのは男性のものですが、その基礎に性別役割分業という家族が存在しています。つまり、それを基礎にしている限り、女性は働こうとすれば、どうしても非正規雇用、パートでしか働けないという構造になってしまうわけです。それを強固に維持していくために、例えば専業主婦やサラリーマンの妻が働く場合の年収一〇三万円の壁といわれる配偶者控除・配偶者特別控除の税制や年収一三〇万円以内であれば自らの国民年金保険料を払わなくとも夫の保険料で代替されるといった社会保険制度があります。家族を単位にして、家族を養う者は男性だという構造のもとでいろいろな政策・制度が行われてきました。賃金にしても、やはり世帯賃金を基準とすることで、女性の賃金を低く押さえてきたのです。そういうさまざまな制度・政策が、女性をアンペイド・ワークの領域に誘導してきたことになると思います。
●アンペイド・ワークの政策化に向けて日本の課題は何か
次はどうしていくのか。ここが一番肝心なところだと思うのです。このアンペイド・ワークを背負った女性は、性役割分業というかたちでいる限り、市場に出るときにもそれと折り合いの付くかたちの働き方になる。一方、企業のほうはいつ止めるか分からぬ女性を重要なポストに配置するわけにはいかないといった理由で縁辺労働に止めるといった労務管理が行なわれたわけで、相互関連を持っていると思います。
日本でも他の先進諸国でも、高度経済成長期に社会保障制度が進みます。基本的に社会保険が軸になっております。これは拠出を前提にしているわけで、稼ぎを持たない妻の場合は、その主たる拠出者の夫に付随したかたちでの給付を受けるしかない。つまり女性は、社会保障に対しても平等な権利、平等なアクセス権を持てないのです。
では、どうすればいいか。それはペイド・ワークとアンペイド・ワークとの性によるアンフェアな制度を平等にしていくことであり、それは、「男女が共に仕事や家庭・地域の活動にバランスの取れる『時間政治』」を作り出していくということではないかと思います。今、盛んにワーク・シェアリングと言われますが、失業者と働いている人が仕事を分け合うことと同時に、ペイドとアンペイドとの性によるフェアなワーク・シェアリングこそ目指されるべき課題です。
例えば労働時間枠は全体的に短縮はしております。そして時間外労働も男女共通の規制にするという方向自体もいいわけですが、年間三六〇時間が上限というのは、多くの国と比較してみても非常にアブノーマルです。そういう点では、家庭も仕事も地域も、男女が共にその活動に時間を取れるようなかたちにするための労働時間はどうあるべきかということで考えていかないといけない。フランスは週三五時間制の法律まで作っていますが、時間規制の問題について、本当は男女が共にそういう時間を作っていくことが非常に重要です。
二番目の「職場の均等待遇の確立」も、もちろん重要な点です。三番目が「ケアの社会化」。特に今まではこういう分野はほとんどアンペイドで担われていたわけですが、社会化していくことが重要な分野です。
この点で看過できないのは、今日「擬似アンペイド・ワーカー」が広範に存在している点です。ぜひ「擬似アンペイド・ワーカーの職業的自立」が重要です。二〇〇〇年四月から介護保険が施行されました。私は「高齢社会を良くする女性の会・大阪」の活動をやっているのですけれども、ヘルパー供給の事業体調査などをしましても、ヘルパーは実は登録ヘルパー(疑似アンペイド・ワーカー)として広がっているわけです。もともと介護の社会化とは、今までのアンペイドでやられている労働をもっと社会的に目に見えるかたちで、それを職業として自立させるものとして展開していくものだったはずです。樋口恵子さんの言葉ではないですけれども、「家庭の嫁を社会の嫁にしてはいけない」わけですが、現実に進んでいるのはそうではない。ですから、均等待遇、あるいは間接差別の問題とか男女同一労働・同一賃金の問題等を含めて、そういった問題に取り組むことこそが、この問題を改革していく大きな鍵になるのだと申し上げたいと思います。ほかに先ほども触れました「税や社会保険制度の問題」がありますが、よくご存知でしょうから省かせていただきます。
最後の問題「アンペイド・ワークの社会・経済的評価の制度確立」だけはちょっと説明が要るかもしれませんが、質疑でお答えするというかたちで、ひとまずは終わらせていただきたいと思います。
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