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山川菊栄連続学習会第六回 21世紀フェミニズムへ(2)
 
 
鈴木裕子報告(続き)
 
●民族解放と「帝国のフェミニズム」批判
 
 次に「民族解放と帝国のフェミニズム批判」についてお話したいと思います。結論的に言いますと戦前の日本における女性運動は民族問題に対して鈍感であった。日本は台湾・朝鮮半島を植民地支配し、いわゆる満州を準植民地化したわけです。さらに一九三一年からの日中戦争・アジア太平洋戦争では、中国大陸、東南アジア諸地域の人々を軍事的制圧下に置いたわけです。要するに大日本帝国の膨張主義・侵略主義に対して、日本の主流的なフェミニズム運動は同調してきたと思うのです。さらに、同調するばかりでなくそれを支える、つまり加担し、多くの女性大衆に対して指導者として翼賛の旗を振ったという帝国主義的女性運動がつい半世紀まで健在だったということをしっかり認識しておくべきだと思います。
山川菊栄の戦時下をどう見るかはたいへん大きな問題ですので、今日はごく大筋のみお話しておきたいと思うのです。
 
 一九二三年九月の関東大震災では、首都圏だけで六千人の朝鮮人が虐殺されました。当時在留していた朝鮮人はそう多くはありませんから、大変な数の人が残念ながら日本人の手に掛かって殺されたわけです。そのことに関しまして山川菊栄は、私が見た限りでは女性フェミニストとしては最も果敢に朝鮮人虐殺を批判していると思います。『山川菊栄評論集』に収めました「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」ではそのことが厳しく批判されております。
 先程お話が出た無産政党の女性綱領問題では、八項目の追加要求を出しております。そのうちのとても大事だと思うのは、女性の性的差別の撤廃に無産政党が積極的に取り組むのと同様に、教育・職業における差別、同一労働・同一賃金などの原則を、植民地の民衆に対しても差別するなと取り上げていることです。性差別と民族差別、そして労働者階級が受けている階級差別を三位一体のものとして把握して、労働組合や無産政党運動が積極的にかかわっていかなければならないということを強調しております。
 
 当時の左翼的な運動指導者の中には、「植民地民族に日本国内に住む日本人の内地人と同等の権利を与えることは、それらの民族の植民地としての隷属を承認することになるから反対だ」という訳の分からない理由で反対しています。日本の女性運動・労働運動に民族差別という視点・認識が欠落していた当時にあっては、貴重な提言を行っているように思います。しかし山川菊栄の理論は、労働組合からもそっぽを向かれ、無産政党運動からもそっぽを向かれ、女性運動からもそっぽを向かれたというのが、戦前の一つの歴史的事実であったと思います。
 
●「社会的弱者」「生活者の立場」に立つ
 
 三つ目は「社会的弱者・生活者の立場に立つ」ということです。ここでは、母性保護論争について述べたいと思います。母性保護論争では、女性の母性と労働の両立が可能かどうかというところにとかく焦点が当てられますが、あえて今日指摘したいのは、老人問題がこの中で展開されているということです。アンペイドワークなども大事な論点ですが、そのことは専門家の竹中さんに譲ります。老人問題のかかわりでいきますと、平塚らいてうが母性に対しての社会的な保障を要求するのに対して、与謝野晶子が「老衰者・廃人が養育院の世話になるのと同じ」と反論していることを山川菊栄は鋭くキャッチ致しまして、それはおかしいというわけです。
 
 ちょっとそのくだりを読みますと、「与謝野氏は母性の保護をもって『老衰者・廃人が養育院の世話になるのと同じである』として排せられている。しかし平塚氏のお説のごとく母態をもって社会的任務を遂行しつつあるものとみなす時は、この論は明らかに間違っているし、また単に労働不能なるがゆえに保護が必要だというならば、同一視してさしつかえないことである。が、この場合にも私は平塚氏のごとく『保護者のない老衰者や廃人を彼らに代って世話するのは国家の義務』だと考えるから、したがって『非難の理由とすることもでき』ず、また被保護者が屈辱を感ずる謂れはないと考えるのである。もしそれが屈辱であり非難に値するならば、恩給や年金によって生活を保障されている軍人や官吏の古手もみな非難に値する屈辱的生活を送っているわけではあるまいか」。
 
 ここには山川さん特有のアイロニーが使われておりますけれども、「同一性質にほかならぬこの二種の養老制度が、一を名誉と自由を持つ楽隠居とし、一は屈辱と憐憫にしか値せぬ厄介者とするのは、社会の階級的偏見の結果、老人扶助の方法または形式に多大の差異があるからである」。ここでも社会的・経済的・政治的視点からの指摘を行なっているように思います。
 
●山川菊栄の残した課題
 
 最後に山川菊栄の残した課題ということについて申し上げなければなりません。冒頭で私が日本軍性奴隷制問題のことを申し上げました。端的に言いまして、この問題を日本社会は敗戦後内発的に取り組んできたことはなかったと思います。韓国発によって私どもは触発されたわけです。なぜ日本社会で内発的に問題化できなかったのだろうということです。大きく分けて二点あると思います。
 
 一つはナショナリズムと戦争責任の問題です。大雑把に言いますと、戦後の日本の女性運動も一国主義的女性平和運動だったと言えるのではないかと思います。そして戦争責任問題で言えば、言うまでもなく戦争責任のありか、所在がはぐらかされてきたのです。これは支配層の日米合作によるところが大なのです。そういう中で最大の戦争責任を持つ天皇裕仁が免責されてきたということは極めて象徴的な事柄です。この天皇制について、日本の主流的な女性運動は戦前も戦後も問題にしてこなかった。私どもはそういう反省をなすべきだと思います。
 
 もう一つはセクシュアリティがきっちりと女性の立場から認識されてこなかった。その典型は一九五六年に公布されました売春防止法です。要するに、売春防止法は、「売る」側の女の心構えが悪いから検挙して更生保護施設に送ろうという法律です。買春つまり男性の問題は不問に付されてきたのだと思います。そういう中でいわゆる売る側の女性である売春婦が貶められてきたという状況と、実は日本軍性奴隷制の問題が日本社会の中で、国家的性暴力問題であるということがきっちりと認識されてこなかったことと、同じ軌跡の中にあるのではなかろうかというふうに思います。
 
 まだ申し足りないところがございますけれども、一応時間ですので終わらせていただきます。(拍手)
 
加納 鈴木さん、ありがとうございました。
 

加納 次は角田さんにお願いしたいのですが、今の鈴木さんのご方向というのをお借りすれば、性暴力への視点というところをより深くお話しいただけるかと思います。よろしくお願い致します。
 
■「女性と暴力、性暴力をめぐって」
角田由紀子
 
 山川菊栄を記念するシンポジウムで話をというお誘いを受けて、お引き受けしたのは、山川菊栄に個人的な意味で懐かしさを持っているからです。
 私が中学生のとき、今はもう亡くなりました母が一冊の本をくれました。山川菊栄の『女性五十講』という本で、一九三三年三月に改造社から刊行されております。母は九州の人間ですが、この本が出た時には学生で東京にいたのです。「この本は出たその日に買ったんだけど、買ってすぐに発売禁止になったのよ」と話しながら渡してくれました。
 
 開いてみますと、伏せ字がある本です。つまり、時の政府に都合の悪い、問題のあるような言葉は×(ばつ)にしてあるのです。戦前は珍しいことではなく、場合によっては二行も三行も活字の代わりに×が並んでいる本がありました。『女性五十講』もそういう本だったのです。母が一九三三年の東京で、しかも「危険思想」に触れながらある時代を送り、母が私にその本を渡してくれたということは、ある思想の継承の一つの姿ではなかったかというふうに私は思っているわけです。
 さて、お引き受けしたものの、鈴木さんの話を聞きながら「しまった」と思っているところです。
 
 それから重藤さんのお話にあった「嶋津千利世育ち」という言葉も懐かしいものです。三五年以上前、大学で婦人問題研究会というサークルに加わっていて、嶋津千利世さんに会いに行きました。女性の学者の本に囲まれた生活というのをはじめて見て、私は感銘を受けたことを思い出しました。
 
●性暴力に対する基本的理解―その先進性と限界
 
 それはそれとして、今日の準備として、山川菊栄の残した仕事が、例えば私がたずさわっております「性暴力」を巡る問題の中でどういうことだったのか、とその問題を扱った論文を集中的に読むことができました。
 一九一〇、二〇年代に書かれていることが、とても新しく説得力があると思いました。でも考えてみるとこの六、七〇年、日本の女性たちは、山川菊栄が提起した問題に対して何をやってきたのだろうか。つまり、それが古くならなかったということは何故なのだろうかと思うわけです。
 
 私が弁護士として性暴力の問題をややたくさん扱うようになったのは、一九八六年に東京強姦救援センターのリーガルアドバイザーの仕事を引き受けてからです。その仕事をするようになって、性暴力はなぜ生まれるのか。何がそういう暴力を可能にするのかが、とても大きな疑問としてでてきました。鈴木さんのお話にあった「なぜ被害者が非難されるのか」、そして「加害者がその効果で免罪されるのか」ということです。これはほかの犯罪にはけっしして起きない、この犯罪だけに特徴的に見られる逆転した構造です。これはいったい何だろうかと常に疑問だったわけです。また、同じ性暴力でありながら強姦罪と強制わいせつ罪の扱いの違いが、刑の重さ軽さという面に非常にはっきりと出てくるわけです。それはなぜかという疑問もでてきました。
 
 ところがそういう疑問は、学校で勉強した法律学でも、あるいは法律実務の世界での議論でも、法律の専門雑誌の中でも、ほとんど触れられることがないし、従ってそれに対する回答をそこから得ることはできませんでした。
 私は強姦救援センターのリーガルアドバイザーとして、被害者の話を聞く中で、その問題に対する答えらしきものに出会った気がしています。つまり、家父長制あるいは性差別構造というものがこの性暴力を生み出しているのではないかと考えるようになったわけです。
 
 このことは、実はアメリカなどではすでに一九八〇年代に解明されていて、この手の文献ではごく当たり前の、言わばイントロダクションみたいなかたちで書かれていることだったのです。
 性暴力という問題は、個別の加害者の資質とかあるいはその人の性的欲望とかその有り様、そういう問題に矮小できないということを、私はたくさんの個々の事件を扱いながら思っていました。にもかかわらず被害者を非難し、被害者を非難することの効果で加害者を免罪してしまおうという構造について、日本の中ではなぜなのかという議論が聞かれませんでした。
 
 今度改めて、山川さんの一九二八年に書かれた「性的犯罪とその責任」という論文を読みながら、その非常なラジカルさを再発見したのです。ラジカルというのは言葉の本当の意味で根源的でありかつ急進的であるということなのです。そのことが「新しい」と私はもう一度感心してしまわざるを得ないのですけれども、二〇〇〇年の今感心しなければいけない私たちというのはいったい何だろうかとも、またもう一方で思うわけです。
 
 鈴木さんが話されましたけれども、山川菊栄の本は一九二八年の時点でこの構造を非常に的確に分析しています。こういうふうに彼女は書いています。
加害者は法律による刑に服せばそれで終わりますが、被害者は「貞操は婦人の命と言われて精神的死刑に処せられる。この矛盾はなぜ起こるのか」。
 
 私は非常に的確な問題提起だと思うのです。貞操は婦人の命だと言われることと精神的死刑に処せられることというのがどういう関係があるかということなのですが、婦人の命だというふうにいわばとても大事なものだと女の人を持ち上げるようなことを言って持ち上げておきながら、だからそれを奪われたときには、そういう大事なものを男が女に預けておいて、その預かっていた大事なものを失ったからあなたの責任もとても重いのだということで、それが精神的死刑ということにつながっていくのではないかと思うのです。それについて彼女は「それはひとえに男女の地位の相違に基づいている」とはっきりと言っております。
 
 そのあとさらに「道徳は、婦人を独立の人間としてではなく男子の独占的私有物としての資格の上に、その価値を認めている。だからその独占的私有物としての資格にキズがつけば、人間としての価値が滅ぼされるのである。これに反して、男子は一個の人間として認められている。人間なら過失を犯すのはやむを得ない。その過失に対する法律上規定された刑罰を受ければ、その罪は清算される。もし婦人が男子と同等の人格を持つ者と認められるならば、他人から危害を加えられたという不慮の災難のために何ら道徳上の責任を負うべきではない。けれども今日では男子と婦人とは全然別個の標準をもって人格的価値を評価されることになっているので、婦人はその『貞操』を失うと共にそれが全く自己の責任によらざるにもかかわらず社会的に葬られる結果となるのである」ということを非常にはっきりと言っているのです。
 
 私自身はこういう認識にたどり着くのに長い時間がかかってしまったわけですが、彼女はどういう分析でこの認識にたどり着いたのか、ある事象を社会全体の構造の中で見るという力がこのような分析に至ったのではないかと思います。
 
 もう一つ、性的な犯罪が重要視されるべきだということについて、先程の文章の中では公娼制との関係を言っているのです。「公娼制度のもとでは、国家権力の保護のもとに女性に『暴行』を加えることを許されているほど、女性は無価値な存在にされている」。つまり買春という行為をこの段階ですでに女性に対する暴力だというふうにはっきりとらえているわけです。私たちが買春問題は女性に対する暴力ととらえ、「女性に対する暴力」を個別の強姦であるとか買春であるとかその他もろもろの女性に対する性的な侵害のいわば上位概念としてとらえることができるようになったのは実はごく最近ではないかと思うのですが、山川菊栄はすでにこの段階でそういうつながりをしっかり見ているのです。
 公娼制のある社会、男性であれば誰であれそのようなことが許される社会では「婦人は単なる性的玩弄物であって男子と等しく尊敬されるべき人間ではない」。
 
私はこの後が大事だと思うのですが、「男女の関係を支配するこの一般的な原則が、個々の婦人に対する個々の男子の態度を決定するところの潜在的、無意識的な道徳力となっている」といっています。その社会の中の男性と女性の関係を支配する、つまりこれは性差別的な構造だと思うのですが、その一般原則が個々の人に現れたものが具体的な性暴力事件だということを見抜いているのです。
 このように彼女は指摘しました、性暴力はなぜ生まれるのか、なぜ被害者が非難されるのかというのは、男女の地位の違いによると彼女は言っています。女性の被る被害が男性の独占的私有物である地位によるのだという。女性をそのような存在としている原因は公娼制度、買春を合法化する制度だと分析されているわけです。これは現在ももちろんそのまま当てはまることです。しかし現在でも、一九二八年に山川菊栄が指摘したこの性暴力の社会的構造ということがどの程度女性の間で共通認識とされているのかについては、私はいささか悲観的な考えを持っております。
 
 ただこれは時代的制約だと思うのですが、同じ文章の中で山川菊栄は「女性を男性と対等な人間として扱わない社会の道徳」という言葉を使って分析し、「男子の道徳的水準を高め、その自制力を強めること、これが性犯罪を予防する主観的な力としては、もっとも重要な条件であろう」と書いていますが 私はやはり道徳というようなものとは少し違うのではないかと思います。
もう一つ、有産階級の男性は無産階級の男性ほどそういう性暴力は働かないのではないかと書かれていますが、これもそういうことはないと言えます。現在、例えばドメスティック・バイオレンスについていろんな調査が行なわれておりますけれども、その男性が、今では使われない言葉ですけれども、無産階級か有産階級であるかという、つまり男性がどういう社会的地位にあるかとか経済力がどうであるかということとは関係ないということが明らかにされておりますので、この辺も時代的な制約であろうというふうに思います。
 
 しかしながら私は山川菊栄がその当時の時代的な制約の中で、道徳という言葉で表現したものを現在に当てはめて考える必要があるのではないかと思うのです。つまり彼女が道徳という言葉で表現しようとしたものが何なのかということが、私たちに与えられた課題の一つではないかと思います。今の言葉に翻訳して考えるならば、恐らく性のダブルスタンダードの問題である、あるいは性別役割分業で女性に押し付けられた女性の地位の低さ、そしてそういうものを実質的に支えている女性の経済的な地位の低さ、こういうものが彼女が道徳という言葉で語りたかったことではないかと、私は思っているのです。男女を不平等な地位のままに固定化するメカニズムが、女性を男性の独占的な私有物にすることを許すわけです。独占的私有物であれば平等とか対等ということとは、およそ遠くなるということだと思います。この社会にある構造的な性差別が、恐らく山川菊栄が道徳という言葉で見たその基にあったものではないかと私は思っております。
 
 もう一つは、彼女の「性的犯罪とその責任」という短い文章から私たちが受け取らなければいけない問題ですが、その見方がなぜ引き継がれてこなかったのだろうかということです。同時に一九二八年という時代にこういう見方に、社会はどういう反応をしただろうか、あるいはしなかったかもしれない。女性たちがどういうふうに受け取ったのかということも興味があります。今とは違って一般の女性たちが彼女の書いたものに接するということは恐らくなかったと思いますけれども、なぜこの議論が引き継がれてこなかったのだろうかということはとても関心があります。
 ただしこういうものの見方、分析の仕方というのは七〇年代の女性運動の中では語られてきていますが、現在でもそれほど広い社会的な理解の対象になっていません。それはなぜなのだろうか。依然として性暴力の問題をタブーとしてしまう力がとても大きいのです。そのことを言わせないようにすることによって利益を得る人たちがおり、そしてその人たちがこの社会で実は非常に大きな力を持っているからこそ、この問題を語らせないという非常に大きな力が働いているのではないかと私は思っております。ですから彼女の問題提起を受けてその大きな力に対して私たちはどんなふうに戦っていくのかということが、投げ掛けられた問題ではないかと思います。
 
●「貞操」とはなにか
 
 私が非常に目を開かれたもう一つのことは、山川菊栄が貞操という問題についてはっきりと書いていることです。「貞操」といっても若い人にとっては「何のこと?」でしょうし、辞書にしかない言葉だとお考えになるでしょう。しかし、私のように裁判所という所で仕事をしている人間にとっては、女性を抑圧する方向で堂々と生きている言葉なのです。
 人権と深く関わる場所で生き続けているこの言葉の意味というのをもう一度しっかり考える必要があるのではないかと思うのです。ところが、実は法律家の世界、法律学の世界では貞操とは何ぞやということをきちんと分析されて語られたことがなかったのではないようです。
 そのことについても、私は手探りしてきたわけですが、山川菊栄は非常に早い段階、一番早いのは一九一六年「現代生活と売春婦」で書いております。例えば、「現代生活と売春婦」では、「貞操とは、男子の女子に対する独占の希望から発した、女子の個性萎靡、本能抑圧の要求であり、その拘束に冠した美名である」実に明快です。「男女が社会的経済的に同等の貢献をし、平等の地位を保った共産時代においてはかくのごとき道徳は存在しなかった」。
 
あとは省略しますが、つまり時代を経て、「富及び生産機関の独占者たる男子は、生活の保障を唯一の条件として婦人の一生を私しようとした」ということです。つまり結婚することによって女性に生活保障を与える代わりにその女性を私的独占物にしてしまった。
「貞操は女子自身をしてこの私有品たる地位を厳守せしめんがために男子閥によって制定された道徳である。すなわち貞操とは男子による女子征服の象徴である」と書かれているわけです。
 にもかかわらず、この「貞操」というものがあたかも女性のためになるかのようにごまかされてきたことを、私はきちんと見なければいけないと思うのです。つまり彼女の言うように、「貞操」というものの考え方は、男性が女性を征服する象徴、男性が私有物として女性を持っておきたいという希望と要求、そういう拘束に付けた美名であるにもかかわらず、あたかも女性の利益が何か保護されるのではないかというような錯覚を女性自身が抱かされてしまっていたのではないかということです。
 
 だから、「貞操観念が強い」ということを女性自らが良いことであるかのように思ってしまったり、自分の利益を主張するために「貞操権」という言葉、あるいはそれに相当するような内容のことを主張してしまうということがあるわけです。私は、「貞操」という言葉が持つ本当の意味、あるいは歴史的意味を、きちんと女性が知らなければいけないのではないかと痛感しております。
 

●性暴力被害を女性の責任とする構造の不合理
 
 最後に、全部につながってくる問題なのですが、山川菊栄は具体的に、性暴力の被害を女性の責任とする構造がいかに不合理であるかということを指摘しているのです。
「鳥潟問題再検討」という三三年に書かれた短い文章があります。長岡学士(昔は大学を出た人をこういいました)が結婚に当たって、自分は性病に罹患していないということを言ったにもかかわらず、実は性病に罹患していて、そのことを結婚したあとで告白したことによって、女性がそれでは話が違うので離婚したいということで、大問題になった、そういう問題なのです。
 山川菊栄はその中で「女は弱き者、愚かな者として、社会的・政治的に平等の権利を剥奪されてきた。しかるに…」、当時、女性の側に対して、そういうことを言うのはひどい、その程度のことは許してあげてもいいではないかという議論があるわけです。しかもその男性が性病に罹患したのは不幸な機会を持ったからであるという同情すら流布していることをとらえて言っているわけです。
 
「しかるに道徳的能力においてだけは、女は超人間的・神秘的な力を持ち偉大な忍耐力と寛容と慈悲とを持って赤子のように無力な男たちの手疵をなで慈しむ女神にされてしまった」。「大慈大悲の観世音菩薩に祭り上げられては、女たるものくすぐったからざるを得ない」としています。
 そして、「性に関する限り、男は全く無抵抗の哀れな犠牲者として限りない同情と憐憫の的となる」。「しかし、女の場合には、たとえ暴力で犯されてもその弱さがなじられ、なぜに死をもって抵抗しなかったかととがめられる」。今日の強姦事件での「抵抗の有無」もこれにつながっていますが、山川菊栄は「長岡学士の持った『不幸な機会』については、だれ一人死をもってそれと闘わなかったことをとがめる者はいない」と非常にはっきりと言っているのです。
 
 これは性の問題に対するダブルスタンダードの問題でもありますし、それがいかに不合理でいかにばかばかしいかということです。それをつまりその長岡という男性に対して、そんな性病に罹患しないように、そういう機会がもし訪れたのであれば、なぜあなたは死をもってそれと闘わなかったのですか。性病に罹患しないように男子たるもの死をもって闘わなかったのか、最後の最後まで抵抗しろ。女が性暴力に遭ったときに言われるように、最近死をもってとは言われませんけれども、でもできるだけの抵抗をしなかったのかということで女性は非難される。ではそれを男性に対してこの問題について投げ掛けたらいったいどういうことになるか。それがいかにおかしいかということを指摘することによって、翻って女性に対して課せられる過酷な要求ということがいかにばかばかしいものであるかということを、彼女は非常に的確に指摘していると私は思っております。
 
 いくつか読みましたこの性暴力を巡って山川菊栄の提起した問題というのは、つまりこういう問題を生んでいる根底にある構造と、その構造で支えられた思想とに対して私たちがこれからもそれを正面に据えてきちんと見て、どういうものかということをはっきりと理解したうえで、それと闘わなければいけないということは、恐らく山川菊栄から私たちに投げ掛けられたメッセージではないかというふうに私は思っております。(拍手)
 
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