新中期路線 一九七〇年代の課題と日本社会党の任務
*出典は『資料日本社会党四十年史』(日本社会党中央本部 一九八六年)長文のため四ページに分割掲載。
第三十四回大会 一九七〇年十一月三〇日
一 前文−六〇年代から七〇年代ヘ
二 七〇年代の内外動向ーその新しい特徴
一 前文−六〇年代から七〇年代ヘ
(1)われわれは平和と民主主義のために輝かしい闘争の歴史をもっている
一九七〇年代は、激しい変動と転換の時代になろうとしている。新しい時代、七○年代の進路を定めるにあたって、われわれは、まず戦後四分の一世紀にわたるたたかいの経過、とくに激動の時代と云われた六〇年代の状況をふりかえり、歴史的総括を行なってみる必要がある。この十年をふりかえってみても、日本と世界の情勢は大きく変化し、新たな段階を迎えてきた。同時にこの時期に、わが党は長期的な後退傾向をたどってきたのである。その根源に本格的にとりくむことなしには、新しい時代・七〇年代の革新を担う党の展望を切りひらくことはできない。
戦後二十五年間のわが党の歴史と伝統をふりかえるにあたって、それを清算主義的にみることが誤っていることはいうまでもない。わが党の歴史に一貫している重要な政治目標の一つは平和憲法の精神を貫き、中立と非武装による平和日本の建設であった。これは世界最初の原爆を経験し、太平洋戦争の廃墟から立ち上がった日本民族の重要な所産であり、同時に全人類の求めている新たな世界平和創造への先駆的役割を担うものであった。そのためわれわれは広範な平和勢力と共に平和四原則の旗をかかげて護憲と反戦のたたかいを展開して来た。昭和三十一年鳩山内閣が与党内の反対をおし切ってソ連との国交回復を行なったとき、わが党はあえてこれを支持して成功に導き、中国との国交回復についても五回にわたって、党代表団を北京におくって今日まで努力をつづけてきたことも全面講和のたたかいの延長というべきである。歴史的な一九六〇年の日米安保条約改定阻止のたたかいにおいて、われわれは国会の内外で国民の先頭に立ち、さらに反戦・平和の中心的役割を果してきたが、このわれわれのたたかいこそが戦後いくたびかの戦争の危機にあたって、日本が戦争に直接まきこまれるのを阻止してきたのである。
さらにわれわれの一貫した課題は民主主義の擁護と国民生活の向上であった。教育・警察・地方自治など戦後の民主的改革を骨ぬきにしようとする保守反動の政策と何回となく激突のたたかいをくりかえした。また労働者や農民の生活と権利を守り、社会保障を拡充するために不断のだたかいをつづけてきた。このような憲法擁護の旗のもと、一筋に平和と民主主義を守ってきたわが党の成果と足跡について、われわれは誇りをもってこれを評価しなければならない。
(2)六〇年安保闘争を境としてわが党は後退しはじめた。それはなぜか
しかし、六〇年安保闘争を境として情勢は大きく変化し、日本経済は大きな発展をとげ、はげしい社会変動、国民意識の変化がおこったが、残念ながらわれわれはこの変化に対応できず、大きく立ちおくれて、六〇年代を通じ、長期的な後退を余儀なくされ深刻な党の危機にさえ直面するに至った。
では、この時間の情勢とわれわれのただかいを総括して、その問題点はどこにあったのだろうか。第一の問題点は、五〇年代から進行した日本資本主義の高度成長が六〇年代を通じて世界に例のない発展をとげ、その結果五〇年代とはちがった新たな諸問題を激発したことである。独占資本は巨大になったその力を背景にして労働省把握、資本攻撃を急速につよめ、また大量消費時代などと云われる生活様式の変化の中で労働者の意識にも変化がうまれた。さらにあくことのない高利潤追求によって進行した高度成長の結果、公害、物価、過密過疎の問題や農業・農民問題など深刻な社会・経済上の諸問題をひきおこし、その中で人間疎外からの人間性回復の要求が切実な課題となった。このような大きな変化にたいしてわれわれが政策と運動の両面において積極的な対応と前進をなしえなかったことが党の停滞を招いた大きな原因であった。
また二つには、日本資本主義の急速な拡大と海外進出を背景にして、日米安保体制が六〇年安保から七○年安保へ、アジアの主役としての日本へと発展したことである。このような変化にたいしてわれわれの平和運動と外交政策は、自主防衛とアジア安保に反対し、アジア全体の平和のための国際的な責任を担うものとなった。それにもかかわらず、われわれが六〇年安保闘争の経験をさらに発展させる面で著しく立ち遅れたことを率直に反省しなければならない。
さらに第三に、世界の社会主義諸勢力が中ソ論争、プロ文革、チェコ問題など歴史的な激動の段階に立っているなかで、社会主義の優位性について社会主義一般を説明するだけでなく、日本において、われわれが築きあげる社会主義の方向を示すことが求められたにもかかわらず、それに十分答えられなかったことである。また日本の大衆運動の中に多様な思想と行動がうまれたことにたいし、民主勢力の統一行動についても、六〇年安保闘争の時点とはちがった新たな課題に直面するにいたったが、これにもわれわれは積極的な対応をかいてきた。
このような状況の中で、労働運動、農民運動、平和運動、あるいは激発する学生運動、市民運動にたいして適切に対処することができなかった。党の長期後退傾向をうみ出した根源はこれら激動する内外の情勢と新たな反動勢力の攻撃にたいして十分対応しえなかったことにあったのである。一九六九年末の総選挙の敗北は決して一時的原因によるものではなく、六〇年代の立ちおくれの帰結の表現にほかならない。この危機の申から党を再建し、七〇年代の革新を担う方向へ、われわれは文字通り歴史的な時点に直面しているのである。
(3)後退から反撃と前進ヘ
七〇年代をむかえた日本と世界の情勢はさらに激動の時代となろうとしている。六〇年代の後退から七〇年代の反撃と新たな前進へ今こそわれわれは勇気をふるいおこしてその展望を切りひらかなければならない。
七○年代闘争は、自民党と独占資本の志向する進路−−帝国主義復活と軍国主義化の危険、国民生活と人間性の破壊の道とわれわれの進路−−中立・非武装と人間性と民主主義にもとづく平和と繁栄の道の対決であり、われわれが勝利しなければならない歴史的な闘いである。
その勝利の鍵は、独占資本とその政府、自民党に対決する広範な国民戦線を結集することに成功するか否かにかかっている。この国民戦線の結集に当っては労働者がその中心勢力としての役割をもつことは当然であり、未組織労働者を含む労働戦線の統一強化、高揚する労働者の生活要求運動と地域住民闘争の結合と組織化が重要な基盤となるであろう。また野党各党に対して積極的に共同闘争を呼びかけ、院内外における民主的多数派の結集に務めねばならないことも当然である。
七〇年代にわれわれは、国民戦線に支持された、社会党を中核とする護憲・民主・中立・生活向上のための連合政権を樹立しなければならないし、また樹立することができる。このことは、当然に日本における社会主義への道の展望を切り開くのである。そのためにこそまた社会党の主体的条件確立の重要性が再確認され、統一と団結と行動を通じての組織の拡大強化が何にも増して強く要望されるのである。七○年代はわれわれにとって、まさに反撃と前進の1年でなければならない。
われわれは一九六四年に「日本における社会主義への道」を決定して日本における平和革命とわが党の基本的任務を明らかにしてきた。そのうえに一九六八年に「日本における社会主義への道と一九七○年闘争−中期路線」を策定して七〇年安保闘争をたたかってきたが、いま七〇年代を迎えた新たな状況の下で七○年代の展望とわが党の任務を明確にすることが求められているのである。
二 七〇年代の内外動向 −その新しい特徴
1 世界の大きな流れ
戦後の世界は資本主義対社会主義両陣営内部の多元化、民族解放闘争の高まりによる帝国主義勢力の後退、世界資本主義の内部の新しい矛盾の発生など、複雑な現象が生起しているが、七○年代の大勢は帝国主義勢力の後退、社会主義へ移行する方向に進むであろう。
@米ソを頂点とする東西一枚岩の冷戦構造は、西側におけるEECの成立、西欧経済の復興により、また東側では中ソの対立などによって、五〇年代の終りごろから崩れ出し、いわゆる世界の多元化の傾向を生み出したが六二年のキューバ危機に続き、米ソの部分核停条約の妥協に始って米ソの対立は、冷たい戦争から冷たい平和へ移り、米ソ共存、東西緊張緩和の傾向が一層強まっている。また最近のソ連、西独武力不行使協定の成立などこの情勢に拍車をかけている。
もち論これは資本主義と社会主義両体制の全面的融和を意味するものではない。米国は依然として、資本主義陣営の勢力を維持拡大するため反共戦略を強化し、中ソの周辺に数千の軍事基地をおき、百五十万の軍隊を海外に駐留させ、ドルの力で多数のカイライ政権を支えている。しかし中東紛争もインドシナ戦争も米国側には有利ではない。中東の戦火が拡がれば米国の石油利権が危機にひんするであろう。また、ベトナムにおける米国側の敗北は 決定的となり、ドルの危機と国内の混乱を激化させ、反戦と厭戦の空気が高まっている。この情勢にせまられてニクソン政権は、海外の基地と軍隊を縮小し、自由陣営の守護者としての役割を軽くし、その負担を他に肩代りさせる方向に進んでいる。
以上の特徴からみて全体として世界の緊張を緩和させ、全面核戦争の危険を回避する力と条件が拡大しているということができる。
A戦後の帝国主義は、社会主義の拡大に対応し、その勢力維持防衛のため、米国の指導の下に、IMF、ガットの機構によって、流通市場の拡大をすすめ、国内で管理通貨制度を活用し、インフレによる景気持続をはかった。これによって戦前のような帝国主義間の対立が緩和し、古典的な恐慌を回避することはできたが、その反面、各国とも持続的なインフレという新しい矛盾を体内に抱え、好況不況にかかわらず、物価上昇が続くという救い難い事態に立ち至っている。六〇年代の大半は各国とも国家独占資本主義下の成長政策によって好況が続いたが、六九年来米国の景気後退、世界的なインフレと高金利の定着、ドル・ポンドの通貨不安が続いている。米国は需要の減退、利潤の減少と倒産、失業の増大、他方では物価の上昇、国際収支の悪化、財政赤字など経済危機に直面しており、世界経済に大きな不安を与えている。戦後の経済発展に伴い、先進資本主義国における産業の独占、寡占化 が一層進行し、生産と資本が巨大企業に集中して居り、この寡占経済における管理価格がインフレ状態を固定化する要因をつくっている。また、米国を中心とする巨大企業の海外直接投資が活発となり、資本主義国間の経済競争が激化する方向を示している。
このため、米国の資本自由化の対日圧力が強まり外資企業の比重がふえて、わが国の経済に大きな影響をあたえるのみならず繊維、カラーテレビの輸入制限など米国の産業保護政策が復活し、日米の経済矛盾を激化するであろう。
いずれにせよ、このような持続的インフレは資本の新たな社会的収奪にほかならず、物価高と高金利は資本主義経済の腐朽性と寄生化を強め社会の階級対立と緊張と退廃を一層はげしくするであろう。
米国のベトナムにおける敗北と以上のような経済の混乱が表徴するように、帝国主義陣営の世界における相対的地位が弱まったことは争えない事実である。
B世界の社会主義陣営の内部にも、中ソ対立、チェコ問題、社会主義経済発展上の問題など大きな変化がおこっている。こんご、世界の社会主義発展の過程でいかにしてそれぞれの国の自主性を尊重しながら国際連帯をつよめていくか、社会主義経済の成長を どのように保障していくか、政治や経済の管理の中に勤労者の民主的参加をいかにして充実していくか、あるいは社会主義建設と個人の自由をいかに調和していくか、という諸問題を解決しなければならないだろう。
しかしいずれの社会主義国も、資本主義的な搾取・収奪の制度が廃止され、労働者の地位と生活が向上し、資本主義国の悩んでいるインフレ、病気や老後の生活不安が解決され、教育と社会保障が高い水準で保障されている事実を否定することはできない。
また帝国主義の侵略と戦争政策を阻止し、民族解放を支援し、世界の平和と進歩のために社会主義の果している役割は測り知れないものがある。資本主義の下で、機械文明の豊かな物資生産のかげに、人間の尊厳が失われ新しい貧困と社会悪がはびこる姿をみるとき、人類文明の次の段階を担う社会主義制度の優位性を疑うことは出来ない。
六〇年代を通じて激しく展開された社会主義諸国間の論争と対立は、世界の反帝闘争に深刻な影響をもたらし、その状況は今尚大きく改善されるに至ってはいないが、最近の中ソ対立緩和の兆侯や文化大革命後の中国の外交面での積極的姿勢など、社会主義陣営の連帯関係も漸次改善の方向にむかう傾向がみとめられる。われわれはその統一の実現をつよく期待したい。
2 アジアと日本の動向
@重大なアジア情勢
戦争と平和をめぐる世界の矛盾は現在アジアに集中しており、それはとくにインドシナ半島・中国・朝鮮半島にたいするアメリカ帝国主義の侵略と敵視、干渉によってひきおこされている。七〇年代の世界の情勢はこのアジアの動向によって大きく影響をうけるであろう。
ベトナム侵略に失敗したアメリカは、七〇年代の軍事・外交戦略の基調として発表されたニクソン・ドクトリンに示されたように、世界の反共勢力にたいして自主的防衛責任と肩代り政策を強調し、とくにアジアにおいて日本が中心的役割を担うべきであると主張している,しかしアメリカのこの新戦略は、かれらがアジア侵略から手を引くのでなく、ベトナム侵略の失敗や国内外の批判に直面してアジアの同盟、従属諸国の積極的な集団防衛機構を組織し、これを強化して一層の軍事的・経済的負担を転嫁し、「アジア人同志をたたかわせる」ものであることは明らかである。
また、カナダ、赤道ギニア、イタリアなど相つぐ中国承認国の増大、国連における中国代表権が国府から北京政府に移ることが必至とされる最近の情勢は、世界とアジアの動向にはかりしれない影響を及ぼしている。さらにこれによって、サンフランシスコ講和以来米国に追随しつづけた自民党政府の中国封じこめ政策が清算を迫られ、佐藤内閣の命運をも左右するものとなろうとしている。
カンボジアヘの米軍の侵攻は戦争をインドシナ半島全域に拡大したが、これによって戦争は長期化し、「ベトナム化」政策は困難となり、軍事負担は増大し、ドル不安がいっそう高まるであろう。インドシナ人民首脳会議をはじめとする反米帝国主義統一戦線の前進にみられるように侵略に反対する闘争はさらに強化され、アメリカ帝国主義はその敗北からぬけ出すことは決してない。インドシナ半島全域への侵略の拡大はアメリカがかかえている矛盾に一段と深刻度を加えているのである。
中国は文化大革命を収束し、経済、社会、教育に独自の改革による社会主義建設を進めつつ、人工衛星の打上げに成功し、再び積極的な外交を展開して、国際的な影響力を増大している。中国を無視しては、インドシナ戦争の解決も、朝鮮問題の処理も不可能であることは明らかである。
また在韓米軍の縮小を契機にして日本の朝鮮平島への危険な責任分担の要求が高まっており、それは七〇年七月の日韓閣僚会議などを通じて急速につよめられようとしている。しかし韓国の情勢は不安定であり、朴政権すら従来の「武力北進」を云うことは不可能になり、いつわりの「平和統一」をかかげざるをえない状況も生まれている。
佐藤内閣自民党の中国敵視、日中国交回復妨害の政策と、朴政権支持、米日韓台共同防衛体制を強化する大きな矛盾と危険性が次第に明らかとなり、われわれの主張する、日米共同声明路線反対、日中国交の早期回復、日本軍国主義化阻止の課題は一肩の重要性を増
している。
A日米共同声明による安保の変質
一九六九年十一月の日米共同声明は、日米安保体制を新たな段階に拡大・強化するものとなった。
この共同声明によって韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要であるとして韓国を安保条約の共同防衛区域にくみ入れ、「朝鮮半島における国連軍」への協力の名の下に朝鮮半島全域への日米韓共同防衛作戦を承認し、また台湾の平和と安全も日本にとって重要であるとして日台関係も運命共同体の立場をとり、さらにアメリカのベトナム侵略に改めて支持を表明することによって「極東の範囲」をアジア全域に拡大し、日本政府自らがその安全の確保に積極的に政敵することを誓ったのである。この日米安保の「アジア安保」への拡大は、七〇年六月の安保条約自動延長のあと堰を切ったように行なわれた日韓閣僚会議、日韓協力委員会などを通じて急速化されている。
また、事前協議に当っては前向きの態度で短時間で対処することを表明し、「事前協議に関する米国の立場を害さない」として沖縄および本土からの自由発進と核兵器の持込みの道をひらき沖縄の「核ぬき」は何ら明文化されていないことによって゜核安保」への転化を示している。日米共同声明に対する日本政府の説明の欺瞞性は、日本と沖縄に関する米上院外交委員会の秘密議事録の公表によって暴露されている。
さらに政府は日米安保を基調とし自衛隊を従とする体制から自衛隊を主とし安保を補完とする「自主防衛」体制への転換のなかで、軍事力の急速な増強をおしすすめている。
佐藤首相は日米首脳会談にあたって「太平洋新時代」とのべたが日米安保条約はいまや日本を主役とする「アジア安保」に変質し、日米共同声明の路線が急速に具体化する道を進んでいる。
B帝国主義復活と対外膨張
六〇年代の高度成長政策を通じて世界に例をみない発展をみせた日本資本主義は、日産プリンスや、富士・八幡にみられるような巨大企業の合併と集中が進行し、また新経済社会発展計画や、国家財政にみられる国家との密着がますます強まり、合理化は個別企業の合理化から体制化的合理化へとすすんでいる。
同時にアジア経済安保ともいうべき大規模な対外進出が進行しようとしている。
六九年の海外援助は一三億ドルにすぎなかったが、七〇年五月愛知外相は一九七五年に四〇億ドルの援助を国際的に公約し、「一九七〇年代=アジア開発の一〇年」構想をうち出した。日本の海外援助はDAC加盟国中第四位であるが、GNP同様資本主義世界第二位となる日も遠くないであろう。これら日本の海外進出の特徴は、協力・援助の名の下に大企業の商品輸出、資源開発と密着していること、国家資本プラス民間資本という形で経済援助における国家独占資本主義の体制が確立していること、低賃金労働力と資源開発を求めての資本投資がはげしい勢いですすんでいること、さらに援助と進出の対象がアジアにおける反共諸国家に焦点を合わせ、そのテコ入れと事実上の軍事援助の性格をもっていること、である。経済大国から軍事大国へ、日米安保から「アジア・核安保」への変化は、このようなアジア経済安保の進行と一体のものとなっている。また経済の軍事化も七○年代の日本経済における大きな特徴である。防衛支出が巨大なものになっていくのに並行して、防衛産業が戦略産業化し産業複合体が形成されつつある。経団連の防衛生産委員会が国家安全保障会議の設置、国防白書の作成、四次防予算の増額を政府に要望したのをはじめ、兵器の国産化と直接間接の軍需輸出が増大している。
七〇年代を迎えた日本資本主義のこのような新しい段階は、日本の帝国主義復活の主要な要因を形成しているといわなければならない。
C軍国主義化の危険
わが党はすでに六九年の総選挙で、わが国が経済大国から軍事大国に向う危険を強調したが、七〇年四月、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国両政府の共同コミュニケにおいて「米帝国主義の積極的庇護のもとに、アジアにおいて再び危険な侵略勢力として復活した日本軍国主義がアメリカ帝国主義と共謀結託して、昔の大東亜共栄圏の夢を実現しようと妄想しながら、アジア人民に反対する公然たる侵略の道に入ったことを強く糾弾する」とのべ、また四月、アメリカ上院外交委員会アジア特別調査団が「日本は新しい軍国主義に向って進んでいる」と強調したことを契機として軍国主義の問題が世間の注目を集め、東南アジア諸国のなかにも日本軍国主義の復活に対する関心と懸念が高まっている。
政府は平和憲法の存在を口実にし、海外派兵はできないし、徴兵制もないからという理由で軍国主義復活を否定しているが日米共同声明によって日米安保を変質させ、わが国が極東アジアの安全保障の役割を進んで分担する方針をきめ、韓国と台湾の安全を自国の安全と不可分のものとして、積極的な行動をすることを約束した佐藤内閣には、平和憲法を楯にして軍国主義化を弁護する資格はない。
軍国主義は、好戦的侵略的なイデオロギーと支配の方式が、政治、経済、教育文化の各面において圧倒的になろうとするものであるが、戦後、平和憲法をささえてきた民主勢力の力が一九三〇年代のような軍国主義の全面的な展開をはばんできた。
しかしいまわが国が単独ではなく米帝国主義と共謀し、その後楯の下にその極東戦略の一環として行動する。正にそのことが重要なのであり、しかも自衛隊は第四次防、第五次防によって増強せられ攻撃的性格を濃くし、中国を除いてアジア最強の軍隊にのし上がろうとしている。
また自衛隊の治安出動訓練、財界の国防強化、憲法改悪の企図、郷友連盟、自衛隊協力会など外郭団体の拡大、教育、マスコミを通ずる軍国思想の普及、司法の反動的傾向など軍国主義化の傾向が次第に強まり、このまま進めば、自衛隊と財界との癒着を深くし、その政治的発言力を強め、米国のような産業と軍部の複合体が政治を左右する危険を生むであろう。
この日本帝国主義のもとにおける軍国主義化の危険をいかにして阻止するかが、七〇年代革新運動の最大の課題であり、この現実の発展に目をおおい、対米従属、対日支配からの解放という民族主義的側面のみを強調することは日本の帝国主義復活と軍国主義化の危険を過小評価する誤りを犯すこととなるであろう。