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昭和二四年度日本社会党の運動方針をめぐる論争
 
森戸辰男・稲村順三・勝間田清一(司会)

一九四九年五月二四日

 
*昭和二四年度日本社会党運動方針をめぐる森戸・稲村論争を当事者が総括した座談会。初出は『社会思潮』一九四九年七月号。ここでの出典は『資料日本社会党四十年史』(日本社会党中央本部 1985)。
長文のため三ページに分けて掲載。
左の写真は社会党第四回大会。
 
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性格・運動方針は明らかにされていたか?
 勝間田 社会党では過般選挙で敗北した直後声明書を発表したわけですが、その声明書の中に、社会民主主義政・党として理論的にも実践的にも党の性格、運動方針を明らかにしていく必要があるということを誓っておるわけです。これは社会党がもっと早く、特に結党当時もっと真剣に検討していなければならなかったことでありましょうし、またこれまでに十分討議されておれば、現在においてこういった新たな研究は必要でなかったと実は思うわけですが、しかしこれを要求している党内の主体的な事情、及び客観的事情というものは相当に私は根拠があると思うのであります。特にイギリスの労働党が生れるときに、バーナード・ショーだとか、あるいはウエッブなどが、どこが共産主義と違うかという点を真剣に討議して、一つは余剰価値説をとるかどうか、一つは唯物史観をとるかどうかという問題で、真剣な研究をした結果、労働党かできたということを聞いておりますが、現在社会党がこれを問題にすることは、非常に社会党の発展のために有意義だと思うし、むしろ画期的なことだと思うわけでして、このことが真剣にとり上げられていくことによって、社会党が前進をすることだと実は考えております。現在いわゆる山川新党あるいは労農党、あるいは労働者の中に社会民主主義政党をつくれという要求のあること、それから社会党をどう脱皮しなければならぬかという党内の条件などから見れば、さらにこの重要性ということがよくわかる感じがいたしまして、この問題を二十四年度でとり上げたということは、非常に社会党の将来のために画期的なよいことだと私は思うのであります。しかしそれは決してなまやさしいことで解決がつく問題ではなくて、やはり愛党の精神に立ってほんとうに自己の信念、特に政治的信念といえば非常に貴重なものでありますが、その貴重な政治的信念というものを傾けて二十四年度運動方針が論議されたということの過程の中には、代表的には森戸辰男さんの御意見、またもう一つは、稲村順三さんが執筆されたといわれる鈴木茂三郎案の線、それが非常に真剣であったし、傾聴に値するものだったと私は思うのであります。それらの結果が十分集約されて大会で決定された運動方針となったというように完全には考えられないのであって、まだ論議の点が残っているし、特に大会では附帯条件などもついて通過されているような実情であります。私どもはこれからさらに透徹した、練れた案がつくられ、またつくることが要求されているわけであります。その意味で、どうか今日は、御両人のさらに心血をそそいだお考えから出発をして、どこに問題があるか、これを中心としてさらに議論を発展して、これが党の最後の完成案に近づく大きな支柱となりますように、対談を進めていっていただきたいと思うのであります。私はその任にたえるわけじゃありませんがたまたまこの前、御両氏の議論をとりまとめさせていただいた者として、司会をさせていただきたいと思っておるわけであります。
 森戸先生にひとつ昔話をお聞かせ願いたいのですが、社会党ができるときには、この問題について十分論議はされなかったと私は思うのですけれども、ある程度までの結論は出ておったように思うのですが、その当時のお考えや、思い出をお聞かせ願いたいと思います。

 森戸 この点では一応いろいろ問題は取扱われましたけれども、理論的に深く探究するというような点では十分でなかったと思うのですでだけども社会党は社会主義の実現を目標とすることは、当然のことであって、しかも現段階において実現しなければならぬというので、現段階はいろいろな事情で制約されておる。ことに敗戦の経済の状態と、また民主的な憲法の布かれた情勢、並びに国際的な情勢のもとに社会党が立党したのであるから、こういう線に沿うて民主主義の問題、社会主義の問題並びに国際平和の問題を取扱わなければならぬということ、したがってブルジョア政党との問題は、これはほとんど、混同されるということは、実は連立の問題もまだ出ていませんから、なかった、むしろ社会主義政党のうちの共産党とどういうような関係にあるかというような問題が考えられたわけです。しかしまだそのときにも、具体的に共同戦線の問題をどう取扱うかということについては、はっきりとした態度は決定されておらなかったように思います。
 
議論のある社会主義の断行
 稲村 それはぼくの知っている限りでは、当時の何というか、民主主義勃興の機運に際会して、すぐ社会主義政党をつくれというので、それも当時は資本主義の勢力というものが実際ある以上に弱かった傾向がある。それでこれからも社会主義はただちに実現できるのだという気分、これはわれわれもその当時は錯覚しておった。つくった人たちにもみんなその気持が非常にあった。だから社会主義の断行というものは目標ではあるが、社会主義政党としての究極の目標であるか、現段階的な目標であるかさえ、その当時は明確でなかったということが言えると思う。それからもう一つは、社会主義を民主主義的方法によって実現するという考え方よりも、社会主義即民主主義という考え方がすでにあったので、社会主義建設がただちに始まるのだというような気持も相当あった。というよりも、その当時のわれわれの先輩あたりでも大分そういうふうな気持で社会党に参加したといったのが多いのじゃないか、それがだんだんやはりわれわれの主体的な勢力が弱いということと、それから混乱したりといえども、やはり資本家の勢力というものは政治的にも経済的にも相当強いということがはっきりして来たこと、それからもう一つには、こちらの主体性の弱いのに乗じて、次第に資本家の力が整備して来たこと、それから当時まだ占領軍がどういうふうな方向に行くのかさえわからないので、たとえば共産党ですら、アメリカ解放軍万歳といって感謝のデモをやったくらいの当時でもあったのです。こういうふうなことから全部照らし合せて考えてみると、さてわれわれが果して現段階においてすぐ社会主義を建設し得るのかどうか、という客観的条件などというものはむしろほとんどネグレクトされておった、こういうふうにぼくは考えるのだね。そこでつくられた、しかも忽々の間につくられた社会党の簡単な綱領であり、政策であった。それだから、こういうときになって来ると、社会党はこの時代にそういうものに関して厳密な科学的検討を加えるというのは、ちょうど今はよい段階じゃないかというふうにぼくは考えるのです。
 
対共戦線の問題
 勝間田 そうすると、森戸先生のお話、それから稲村さんのお話を聞いてみると、非常な忽々の時代であったために、一つは対保守政党との関係、特に連立政権などという問題についてはどう考えていくべきかというような点、それから保守勢力に対する十分な認識がなかったというような点が、一面に欠陥になっておったというようなことが言われたわけでありますが、同時に共産党に対してどうあらねばならぬかという問題も、やはり十分に討議されていなかったのじゃないでしょうか。その点はいかがでしょうか。

 森戸 この点は、ぼくはちょっと、稲村君のお話が、非常に社会主義がすぐできるというような考えを持っておったというようなふうですが、党全体としてはそうではなくして、党の中にそういうような気分が相当にあったけれども、党の実際の責任を持っておる人は、そう簡単にはいかぬ、こう考えたんじゃないかと思うんですがね。ただしかし、社会主義の断行と書いてあるのは、すぐやりそうだというのですが、これはどうも何といいますか、ああいう宣言文を書く一つの気分というか、勢いといいますか、そういうところが作用したんじゃないかと思うのです。それからそのことは、社会党が第一回の選挙であれだけの力になり第二回の選挙であれだけの力になるとは実はまだ考えていなかったと思うのです。だから、したがって反対党でいく、こういうところが相当強くて、連立政権をすぐつくるというようなことは、実は党をたてたときには問題にならなかったのじゃないかと思うのです。それからもう一つは、共産党の方は、これは相当に考慮にはあったと思うのです。相当進出して来て、どういうふうな関係になるかということは考慮にあったけれども、日本の共産党がどうやるかということは、これはまだ向うの方でわからない。そういうところで、連立政権はとても問題にならぬが、共産党に対してはある程度共同戦線というものはあり得る、こういう見込みじゃなかったかと思うのですがどうですか……。

 稲村 その当時は共産党と一緒にやるというようなことは考えないけれども、ときによってはやってもよいじゃないかというくらいな気持もあったし、大体共産党自身が混乱状態で、今みたいに明確な性格をもっておらなかった。独裁も捨て、暴力革命も捨てわれわれは平和主義一本やりで行くというような声明を出してみたり、共産党の政策自身がまだ当時混乱しておりましたね。

 森戸 そうそう。

 稲村 だから共産党の性格自身も明確じゃない。それでぼくなんか、そんなら共産党は要らぬじゃないかというような主張を持っておった。

 勝間田 それで、そういった、特に保守党に対する考え方、連立政権に対する考え方が非常になまぬるかったという点が御両人から御指摘になったわけでありますが、その面からいくと、今度運動方針で扱った、いわゆる自己批判の問題というものがはっきり出ており、それで私も理解がいくわけですが、社会党は自己批判をどう考えているか、この点を読者の諸君に知らせていただく意味で、ひとつ稲村さんどうですか。
 
まだ足りない社会党の自己批判
 稲村 ぼくは、自己批判は三点が重点だと思う。その第一はわれわれがブルジョア社会の中に生活しておれば、とにかくブルジョア政党との闘争の問題が起り得る。ブルジョア政党との闘争に関してわれわれが政策上誤っていなかったかどうか、これは日本の政治情勢に照らし合せてしなければならぬ自己批判だと思う。ことにわれわれは、選挙の前に行われたブルジョア政党との関係というものは、きわめて厳格な批判をされなければならぬ。第二にぼくらのしなければならぬ批判は同かというと、これは先ほど森戸さんの言われたような、対共産党の批判だと思う。これはぼくらから言うと、今まではどうかというと、共産党はいけないいけないということばかり考えて批評することはあったけれども、その関係においてわれわれが共産党に組織的にどうするか、こうするかというようなことについての批判が非常にない。今度の運動方針も、直接共産党に対する批判は相当あったけれども、それに関連したわれわれの自己批判というものが、大体において鈴木案、森戸案両案を通じてやはり論争が足りなかった、こういうふうに考えておる。第三には、やはり社会党の目標たる革命方式を中心にして、われわれの主体性と関連して自己批判がなされなければならぬ。この三つが最も重要な自己批判の要点でなければならぬと思うんだが、その点に関しては、今度の運動方針は鈴木案、森戸案、またでき上ったところの、いわゆる膀開田君から言わすれば、自分の主観のはいらない勝間田案だが、この三つを通じても、自己批判が系統的でない、こういうことが言えるような気がする。この三つの点にわたっての系統的な自己批判が、今度できる運動方針にはなされなければならぬというぼくの理論です。

 勝間田 今三点を指摘されたのですが、森戸先生どうですか、その点については。
 
労農組織と社会主義政党を除外して日本の再建は考えられない
 森戸 この点については、従来の党自身が、国家的な責任を十分とらぬでもよい、少数の政権とは離れた党であった。そういうところから、党の伝統のイデオロギーというものが建設的なものではなく、大体反対を中心とした、したがってまた理論的といいますか、現実的な基礎のない、公式的な面に非常な力点が置かれて来た。無産政党の伝統が、そういうような理論的というか、思想的の面ではそうであるし、感情的の面ではやはり反抗精神というか、そういうもの一本でずっとやって来たわけなんです。そういう状態で、大体党の思想的並びに感情的といいますか、情意的な構想ができていたのだが、敗戦後の社会党の地位は、二度の選挙の後には非常にかわって来た。またその背景になっている勤労大衆の地位も非常にかわって来て、国家再建ということに対して、外から見ることを許さない、つまり労働大衆並びにこれを代表する労働組織、農民組織、また社会主義政党を除外しては日本の再建が考えられないということになったので、理論的にも感情の上でも、ややそれと違った態度が要求されるようになった。ことにその例として一番当面したのは、みんな反対党でやって来たんですから、政府をとったときには実際戸まどいしてしまうのです。そういうような状態が感情的にも思想的にもあった。したがって社会党の地位が、まだ反対党ではあるけれども、従来の反対党とは違った、責任ある反対党であるという地位になったということについての党自身の反省が必要である。それからもう一つ、日本の長い間の無産政党の伝統として、マルキシズムの思想や理論を持っているわけです。しかもそれが先ほど言ったように、現実的な立場に常に基礎がなかったから、どうしても思想的であり、したがって公式的に傾きやすいという形になっておった。そのような立場から来たマルキシズムの支配というものについて、再建後の社会党の立場というものがその問題を批判的に考えていなければならぬのではないか、階級闘争の問題、階級国家論というようなものをどういうふうに現実に即して考えていくかという問題が理論的には存在しておると思うのです。おそらく運動方針の問題としても、この問題が中心の問題ではないか、個々の政策を決定する中心の問題じゃないかと思います。これが第二点です。それから実は革命方式の問題、平和革命の問題というものが必然的に出て来るわけで、マルキシズムのいわゆる階級闘争論、その持つ階級国家論というものをどういうように解するかということで、この革命方式の問題が一面では規定されると思うのです。この面についていろいろ論争が行われていることは、共産党との関係において、また社会党自身の問題として、その関連において非常に意義があると思います。ただこの問題はマルキシズムの内部の問題のみならず、マルキシズムよりは広い視野において考えられなければならぬのじゃないかと思うのです。これが社会党として反省すべき第三点です。もう一つは、これは稲村君が特に指摘されなかったけれども、これは稲村君も私も同じ立場でいるのですけれども、社会党の運動が、どうも日常闘争において十分に展開されなかった、議会中心、ことに議員中心で、しかも議会が御承知のような情況下にあったから、大衆の日常闘争の形において十分展開されなかったという点、これと関連して労農組織との問題がありますけれども、そういう点が当然反省すべき重要な問題だろうと思うのです。その問題の中に例の共産党に対する問題、連立政権の問題もおのずから含まれていくのじゃないかと思うわけです。
 
連立政権は成功したか?
 勝間田 日常闘争が足りなかったとか、それから党の主体的な条件が成立していなかったとか、疑獄事件ができたとか、いろいろなこともあるわけですが、やはり一番大きな問題は、さっき話があったように、保守党との連立政権というものに対してはっきりしていなかったから、感情的にも思想的にも連立政権がうまくいかなかった、あるいは正当に批判されなかった。それから同時にマルキシズムとの関係が十分に論議されてなかった。これらのことが条件となって、稲村君の言ったように革命方式や党の性格が明確になっていなかったということになると私は思うのですが、そういうように要約できるように思うのですが、一体連立政権というものは、森戸さんも閣僚だったわけですが、これは成功したと見るべきでしょうか、成功しなかったと見るべきでしょうか。

 森戸 これは戦後のどこにもあるようにで二面の性格があると思うのです。おそらく連立政権で社会主義を立てようと考えた人はなかろうと思うのです。その点いろいろ批判をしますけれども、これは間違っているので、問題は、当時日本は食糧問題その他で危機にあった。また外国の関係でも相当信用を落しておった。その日本の状態をどれだけ危機から防いでいくかという消極的な面が連立政権の重要な要素であったと思うのです。社会党が第一党となってこの点はいろいろ議論があったのですけれども、国民の負託に対してこたえる一つの大きな点は、この危機に対して社会党が思い切った協力をして、何とかこれを防止するという面に尽すことが必要なんではないか、そういうようなことが連立を成立させた大きな理由であると思います。それによって保守勢力にくさびを打ち込むという点もありましたけれども、これは第二の問題で、一番中心の問題はやはり日本経済の危機を切り抜けること、また国際的な信用に対する日本の地位を守っていかなければならぬという消極的なものだったと思うのです。その限りにおいては、これはもちろん連立政権だけの力じゃなく、いろいろな結びつきもありますけれども、食糧問題、工業生産の問題、インフレの問題等、とくに、一年半ほどの後には自立再建の基礎ができる段階にいったことは、ぼくは一つのよい面だと思います。だけどまた他面それと反対の而もあったと思うので、これは偶然的な面と、実践的に十分にできなかった面があるのですが、同時に両反対党−−民自党と共産党との相当無責任な煽動があり、国民に政治的批判力がないという理由もあり、社会党の側からはまた今まで政権的な地位に立つことがなかったし、またそれは非常に不得意であり、特に地方の党議とはまったく逆なことであったので、社会党の立場も十分徹底することができなかったという点があって、選挙の上には必要以上に悪い結果が出たのではないかと思うのです。そういう点で、よい面と悪い面と両面あるので、これが絶対に悪かったということはぼくは考えておりません。

 勝間田 稲村さんはよく革命コースということを、特に今度の運動方針では盛んに主張されて、りっぱな革命コースというものが大体きまったわけですが、革命コースの線から見て、あれはプラスだったと思いますか、マイナスだったと思いますか。

 稲村 ぼくは客観的には大体マイナスが多かったと思います。それはなぜかというと、一番大きい例は、革命コースを進める意味からいえば、結局社会党が一応の主体的条件を固めることなんで、そういう立場から見ればたしかにマイナスの面が非常に多かったと思う。ぼくは日本における戦後の連立内閣で、よいことは一つも考えることができない。さっき森戸さんの言われたような連立内閣の必然性というかそういうところに行かなければ日本の立直しが不可能であったという時代は、ぼくは片山内閣の時代だったと思います。片山内閣の時代は、これはマイナスであったけれども、これを格で表現すれば、ポジチブの格だと見ている。片山内閣が倒れた後における連立はそれと一緒に解釈はできないというふうにぼくは考えている。ことに芦田内閣においてもまれたことは、ほとんどぼくらにとってはマイナスが多かった個々の政策においてはそれ以上のものもあったかもしれぬけれども。その点からいえば、すでに片山内閣でもって、どうしてもわれわれの手によってなさなければならぬということに一応手をつけていったのであって、あとはやはり連立政権というものから離れるのがほんとうだったというぼくらの意味になって来るわけです。

 勝間田 森戸先生はその点二つに区別されておりますか。
 
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