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昭和二四年度日本社会党の運動方針をめぐる論争・三
 
労働者の主導権を認めるか
 勝間田 これはかなり、両者ともに議論がおありのようでありますが、この前の大会で一応出た結論は、資本主義から社会主原への社会革命は、政治的革命に集約されるものであって、わが党はかかる政治的革命の達成を目標とする。けれども、この目標への到達にはこれに結合する経済、社会、生活、文化などの各面にわたり、建設的な過程を伴わなければならない。だから、社会革命は、客観的並びに主体的条件の整うに応じて合理的に進展させなければならないという名文句で終ったわけなんですね。今後の社会党の運動方針をつくる場合においては、さらにこの問題がもう少し具体的に究明されていかなければならないというように司会者は考えておるわけですが。次に問題は、そういう社会主義革命を行っていく担い手はだれであるかという問題、特に労働者の主導権というものを認めていくということについては、御両者とも一致をとげられたのでありますし、それがいわゆるプロレタリアの前衛として考えていくという共産党の考え方とも違っていくということも御両者ともに一致されたと私は思うのでありますが、ただこの前の大会のときに、附帯条件として総同盟の高野君から、大会で提案されて決定を見ていることで、その労働者の主導権を認めるということが勤労大衆の要求と決して背反するものでないという点を、もっと明確にしてほしいという条件がついておったように思うのですが、その条件をここでひとつお答えを願いたいと思うのです。お二人とも労働者に主導権を与えるということが、勤労大衆全体の利益に相反していかないのだということをひとつ明らかにしてほしいと思いますが、森戸先生どうぞ。
 
 森戸 これは主導権という言葉はおかしいと思うのです。結局主導
 
 稲村 ヘゲモニーでしよう。イニシアチブというか……。
 
 森戸 何か客観的権利をもって号令することができるような意味にとられるので、この言葉は避けた方がよいので……。
 
 稲村 主導性だな。
 
 森戸 いわば主導性ですね。民主的な組織の中でみんなが信頼して、これについていくということで、主導権というと、共産党の方に近くなると思うのです。
 
主導性を実現する途
 森戸 共産党でも、実はこの間ぼくは第五回のプロトコールを引っぱり出して見たのだけれども、労働組合に命令をくだしてはならぬ、ビラはりでも回でも一番むずかしい仕事は労働者がやれ、農民と労働者の共同戦線でも、一番むずかしい仕事を労働者が引受ける、そうすればヘゲモニーを得る、信頼と支持のないところにヘゲモニーはないということをちゃんと書いてありますね。
 実現の方法なんです。共産党の方は、本来の党としてのあり方はちゃんときまっておって、頭からやってはいかぬから、むりのないようにやっていけという。社会党の方は党の方から組織的なものは置いていない。実際的に活動の中で党が信頼されるものになるということで。大きな基盤はやはり今日の社会が資本主義の社会であって、資本主義の社会の進化というものが社会主義の方向を持つ。この方向に沿いながら社会主義を実現していく。これを担う力として労働階級というものが最も代表的なものであるという点に、労働者の社会勤労大衆の中における中核的、また推進的な力になる社会的な基礎があると思うのです。ただ、しかし今日の事情では、現実的意味でプロレタリアートの数というものは日本の国民の多数ではないと思うのです。労働者の中でもことに婦人労働者のごときは一時的な形で、ことにティピカル・インダストリでは二、三年くらいやって、あとかわるというようなことがあるので、本来の労働者ということができないのではないか、一生自分の地位をそこに持ったことでないと、本質的なプロレタリアートということはできないのではないか、そういう面もありますので、純粋な意味のプロレタリアートというものの数はそれほど非常な多数ではない。少くとも少数である。しかもこれが民主的な政治のもとで社会主義の推進力になるという大きな歴史的な使命を特っているということであれば、一面ではその使命を確信することが必要であるとともに、この労働階級は他の勤労諸階級と反撥しないことに対して、これはディクテーターじゃないのだから、心服させ、自分のあとについて来る力にしなければならぬ。このことが非常に必要であると思う。労働者は自分の歴史的使命の確信を持つとともに、持てば持つだけ自分の特殊の職業的集団的な、利益というものも主張するが、同時にそれが非常に強く現われてほかのものと対立を示すというか、他の勤労大衆と反撥した形にならぬようにみずから押えながらこれを率いていくというところに、特権的地位としてでなく、民主的負託としての労働者階級の意義というものがある。そういうふうに心がけてもらうことが、主導性を実現・する大きな道だと思っておるのです。
 
 勝間田 稲村さん、どうですか。
 
目標に向って突き進むのはプロレタリアートだ
 稲村 ぼくも大体その主導性を実現する道というものはそれでよいと思う。ただ問題は、こういうことが言えると思うのです。主導権を確立していくという客観的必然性のあるということ、これは主観的にへたをやればだめだけれども、客観的必然性があるということも相当強調しなければならぬ考えかただと思う。それはなぜかといえば、結局明確に目標を持って、それに対して勇敢に突き進み得るのはほんとうの肉体である、プロレタリアートであるということがいえるわけであるが、その目標に対して現段階がどういう状態にあるか、その現段階を利用してというか、たとえばプロレタリアート以外の勤労大衆も、特に農民のごときは反資本主義というか、資本主義というとこまで行かなくとも、現代の独占資本というか、金融資本というか、こういうものに対してあくまでも抗争し得るという客観的条件がある。これが一番大事なことだと思う。それでまた客観的条件があったとしても、これが労働者階級でなければ徹底的な資本主義の打倒というところにいけない。なぜかというと、勤労大衆はある程度資本主義的な生活をしておるので、資本主義の生産様式というものを一応生かしておる。そういう点からいって、客観的にはどうかというと、一定の限度がある。その限度を最大限度にまで連れていって、その限度をみすから越えしめるような方向にいかなければ、社会主義政党というものは勤労大衆を引きずっていくわけにはいかぬのだね。農民だって、あのままにして農民の要求であるということにしてやっていけば農民はすぐ限度に到達してしまう。それを社会主義政党はプロレタリアートの立場から要求を受入れて、闘争の限度を越えさせなければいかぬ。その限度を越えさす力はだれが持っているかというとプロレタリアートが特っている。また客観的条件は組織と力とによってその限度を越える条件を持っておるというところに、勤労大衆を社会主義政党として動員し得る条件がある。それだけにまたぼくらからいえば、ほんとうの意味でのプロレタリアートの政党であるということを明確にしたプログラムを持ち、それを承認させるという形でもって広範な大衆をそこに引きずっていく、包含していくという形をとらないと、社会主義政党が小ブルジョア化したといわれるところへ落ち込む危険性もあらかじめ考えなければならぬのじゃないか。そういう意味でぼくらは政党としては労働者の政党であるが、しかしながら現在はこういう闘争もするし、こうしていくならば多くの勤労大衆もはいって、それが階層のためになるのだという形でもって包括していくという形式をとらなければならぬというのが、実はぼくらの考えであって、ことにぼくらは、今の段階では農民は一応この段階に到達し得る条件がある、中小工業なども最近はその条件が出て来たけれども、これはどの程度までに来たら限度に到達するか、その点についてはまだまだ多くの疑問を持っておるけれども、しかしやはりわれわれはできるだけそういう勢力をわれわれに統合するという意味で大いにやっていかなければならぬ。そういうことがぼくは労働階級のヘゲモニーというのであって、はいって来た人間は党員としては同資格な人間である、優劣はないはずである。しかし党の性格をどう規定するかによって、初めてそのヘゲモニーが確立するのではないか、こうぼくは考えているので、そこのところは非常にむずかしいところですよ。しかも、そう規定したからといって、こっちの利益だけになるので、一方の利益にならないというようなことを思わせるようなへたなことはやっちやいかぬ。
 
革命政党として民族問題を如何に扱うか
 勝間田 稲村さんの方は、どっちかというと必然論というものを非常に強く見ていらっしゃるという点が特徴的であるし、森戸さんの方はかなり党内デモクラシーというか、民主主義的党組織というものに中心を置かれておる。この点で必ずしも両者が違うわけでもないように思いますが、まだかなりニュアンスの点で違っているようにぼくは思うのです。しかしその問題は、前からのずっと続きの問題とも関連する問題でありますので、今後さらにこの点は問題にしていきたいと思いますが、ただ今度党が職場組織を中心に持っていく、あるいは労働者大衆が入党して来たというような点て、かなり最近新しい空気がはいって来たことは、非常に私はよいことじゃないかと思っておるわけでありまして、今まで組織論というものが十分に闘わされていなかったし、特に今いったようなことが闘わされていなかったために、地域組織もだらだらになって、小ブルジョア化したという点も相当あるので、これに今度けじめを与えたという点において今度の運動方針が非常に役立ったというふうに感じます。
 それで、その問題はその程度にしまして、その革命のときに問題になったのは、民族主義の問題がまだほんとうに討議されてないように思うのですが、いわゆる階級的な一つの意識という以外に民族とか平和とか独立とかいう道徳的な一つの考え方というものが同時に加わっているという問題が合わさって、その点が私ははっきりしたように思わないのでございますが、革命政党として民族問題をどう扱うか、その点ひとつ森戸さんから……。
 
民族意識をとらえて社会民主主義に向ける
 森戸 これはぼくは、さっきいった階級闘争をいかに評価するか、という問題だろうと思うのです。マルクス主義のいわゆる正統派の公式理論だと、人間の歴史は階級闘争の歴史であるということで、階級利益というものがすべての利益に対して優先的な支配をするということであり、それから現代においてはブルジョアジーとプロレタリアートとの決戦の時代である、だからこの二つの階級利益が決定的な優位を持つものである、こういう前提を持っておると思います。この前提はその通りじゃないのじゃないか。ここに批判の余地があると思う。実際の歴史的事情からいっても、人間の歴史は階級闘争の歴史だけでなく民族戦争その他の歴史があるし、民族戦争は階級的なことだけで解釈できない面が非常にある。そういう点から、最近の事態においても、民族の意識というのは相当に強くて、ドイツでも長い間マルキシズムが労働階級の前衛を務めていたにかかわらず、第一次世界戦争のときでも、その後でも、なかなか民族意識というものが強く動いて、階級意識と交錯して出て来ている。共産党自身もまたそういう事実をはっきり認識して、階級闘争一本じゃいかぬということで、少くとも戦略的に、そういう方針をとっている。現実的に人間の心理の状況は、公式的な、いわゆる階級闘争が絶対優先的な支配を持つ決定的なものであるというふうに考えるのは間違いである。階級闘争はもちろん存在するし、階級意識も存在するけれども、その他の利害等々と交錯して作用している。人間の歴史の決定がそこにだけあるとは考えられぬ。したがって今日の日本において、ことに敗戦国のような状態のときは、かような人間の心理を正しくとらえないと、非常に誤った指導をなし、そのために革命が失敗するということは、ドイツの第一次世界戦争の後でも、今日の諸国でもそういうことがあるので、共産党はなかなかその点は機敏で、そういう点を十分に顧慮したような考え方を戦術的ではあるけれどもとっている。そこで日本の場合には、現実的には戦争に負けた日本人のうちには、相当に民族意識が起っておるし、現にそれをナチズムの場合でも共産党の場合でも利用している。これを正しく民主的な社会主義的な線でとらえていくということが非常に必要である。そういう面で、社会党はこの点に留意して、ことに戦争に敗けた目本の再建を今後十分力を入れてやっていかなければならぬという点で、公式的な階級闘争を主張するマルキシズムに対しては、はっきりした態度をとらなければならぬ。これがぼくは、再建の社会党、また日本再建の社会党にとって非常に重要なモメントであると考えておるのです。
 
  勝間田 稲村さん、どうですか。
 
民族問題は階級的立場に統一しなければならない
 稲村 その点ぼくは、階級問題、民族問題とかいうものは、あらゆる問題がそうだけれども、階級闘争は、われわれが一つの革命というものを考えれば、一つの階級から一つの階級への政権の移動なんです、そうすれば、基本的な問題はやはり階級闘争なんですね。それは何といったって、どんな形であろうが、資本家と休戦しようが、共同戦線を張ったって、これは究極的には革命を遂行するためだとすれば、階級闘争の一歩前進のためだし、手をつないで共同戦線に立っても、それは階級闘争の一変形だと思う。森戸さんの御意見だと、過去の輻湊した関係が存在するから、民族問題も国家主義問題もいろいろ起きて来る、それを無視してはいかぬ。これもそうである。しかしこれは基本的な問題と並列した問題として収上げては、二律背反の問題、ただプラスしたという結果になりませんか、こういう危険がある。この点はファシズムの誤謬がそこにあった。あらゆる問題を並列的にそれをプラスしたということになる。ぼくらが民族問題をとらえる場合には、少くとも階級理論の建前からこれを統一しなければならぬ。階級理論に統一することが必要である。民族論を階級理論と別個なものとして並列的に採用すると非常な危険性を持って来る。こういう考え方です。そのために、日本のような戦争に敗けた現段階においては、民族発展の将来の担い手は労働階級であるというか、社会主義勢力である。いわゆる階級的基盤の上に立つものがその担い手である。そこに民族というものと階級というものとの調和というか、統一がはかられていく。その建前からぼくは民族問題を取扱わなければならぬのじゃないか。単に民主主義は民族の問題だというような考え方をすると、阪級闘争を否認するようなかっこうになる。一応、階級闘争というものを否認しないにしても、二律背反的なものをただ集めたというようなかっこうになる。こういうかっこうを避けていかないと、これはもう知らず知らずの間にファシズムに−−その唱える人はファシズムではないにしても、それを聞いた大衆は、ファシズムとの間に区別がつかなくなる。その点の一番よい例として、ナチズムとコミュニズムが、戦争直前に、片方にはアルバイト・フロントがあり、片方にはローテ・フロントがあった。あの時代のドイツがそうで、あの時代の・ドイツは、民族主義というものを共産党が等閑にしておったためにナチスが抬頭して、大衆が引張られた。そのために共産党はあわてて、無批判的に民族主義をとらえた。そうするとナチズムとコミュニズムとの区別がつかなくなった。これはしばしば、その当時のドイツの通信などに見られた問題なんです。ぼくはそういう混同を避けるために、われわれ独自の民族の扱い方を常にそういう階級的立場においてなさねばならぬ、こういうことになるので、ちょっと少し・・・。
 
われわれの今後の課題
 勝間田 その点は、稲村さんは、民族問題は階級的立場に続一しなければならぬという言葉をお使いになり、森戸さんの方は、階級的観念のみによって歴史は動かない、それ以外の条件、特に民族問題というようなものは常に重要な要素として社会の発展の要素をなしておるというような考え方でいらっしゃる。この問題は議論しても、おそらく根本的な哲学の立場というものが違うのではないかという印象を受けるわけですから、これ以上問題の所在を明らかにしたというだけで議論は避けまして、いずれにせよ、以上党の批判の問題、これから社会民主主義に対する考え方の問題、それから革命に関する問題、それから革命の担い手に関する労働者の地位の問題、特に占領治下においての日本の重大問題である民族の問題というようなことについて、それぞれお話を願ったわけでありますが、あるものは一致し、あるものは一致しないという条件にあるわけです。これは結局大会の決議に基いていわゆる運動方針委員会がさらに設けられて、そうしてこの問題を発展し、統一していくということが行われるわけでありますが、これはかなり実践によっても証明されていく問題だと私は思うので、実践と理論の交互の働きがこれをかなり統一していくだろうと思うのですが、要は、今日社会党において、とかく右、左ということが、よく言われておりますが、むしろそういう議論は私は根本的にあってよいと思うので、議論は大いに闘わしでよい。ただこれをいかに実践的に統一し、理論的に把握していくということが、今後われわれの重大な課題であり、その実践的統一のできたときに左右の統一、党の主体性も確立できるものである。そういう感じもいたします。それもこういう問題の発展いたしました以上はまたやむを得ないものであるということを、党員諸君も了解していただきたいと特に私は考えるものでありまして、やがて次の再建大会が特たれるときには、文字通り、理論的にも実践的にも、この問題が統一されることを御両人とも希望されておることと信じます。
 以上司会者が非常にまずかったのでありますが、これで会を閉じさせていただきます。(おわり)
(『社会思潮』一九四九年七月号)
 

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