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第七節 生命と権利の闘いの提起
 
 (31)独占資本は、佐藤長期政権に変わって七二年に田中内閣を登場させた。「日本列島改造論」と「日中国交回復」を手に、はなばなしく登場した田中内閣であったが、公共投資の大安売りを伴った日本列島改造論(赤字公債の大量発行)、「石油危機」を利用した独占資本の物価吊り上げによって、日本経済は世界資本主義に輪をかけて激しいインフレにみまわれた。さらに、「新全総」「新経済社会発展計画」にもとづく激しい体制的合理化を推しすすめスクラップ・アンド・ビルドは全産業において強行された。
  これと一体に、独占資本の支配を強化するために「金権政治」だけでなく、小選挙区制の導入、刑法改悪、アジア安保体制の強化の推進などの策動をたえず繰り返してきた。
  このような情勢のなかで、日本社会党は「中期路線」につづいて、「国民連合政府綱領」(七三年)を提唱した。また、日本共産党や中間政党の公明・民社党も問題は含みながらも反独占の方向をもつ連合政府綱領を打ち出した。こうした動きが、インフレの激化と重なり、全野党的な反インフレ共闘が結成された。総評も反独占闘争の強力な組織化として「国民春闘路線」(七四年)を打ち出した。また、総評は長期路線の検討もはじめ、国労、全逓、自治労、全電通などでも戦後組合結成以来、はじめての綱領改正論議や長期方針の検討がはじまったことは注目すべき点であった。
  七四春闘は、量的、質的にもかつてない規模のストライキで三二・九%の賃上げをかちとった。政府・独占資本は官公労の分断と教育の反勧化を目指した日教組に対する不当弾圧や職場における節約運動などの導入によって、労働者のたたかいに水をさそうとしたが、春闘は大きく高揚したのである。
  七四春闘を足場に参議院選挙闘争も力強くたたかわれ、社会党を支持する青年共闘会議も全国で組織され、社会党前進の一翼を担い奮闘した。そして、「保革伯仲」の状態が生み出され、多くの労働者に新しい時代への期待をいだかせたのである。
  この頃、国際的にも反帝国主義闘争が激しく展開された。七三年のチリでのアジェンデ政権の成立や七五年のベトナム・ラオス・カンボジア解放は、反帝闘争の巨大な勝利の象徴的なできごとであり、社会主義勢力の優越を力強く示した。
 
 (32)社青同は七三年一二月に第一二回全国大会を開催した。
  大会では、綱領・規約の改正とならんで、「生命と権利のたたかい」の提起が行われた。そのしばらく前から、『青年の声』一面で「奪われる生命と権利」の連載が行われていた。それは、資本主義において、労働者を犠牲にしながら利潤追求がつづけられている事実を鋭く告発すると同時に、当時の反合理化闘争の弱さについて、反省を促すものであった。例えば、反合理化闘争について、繰り返し議論しながら、その会議の参加者が、合理化病である腰痛症に苦しんでいる現実をみすごしていた。頸肩腕症候群も、同盟員のなかでさえ、体質や特殊な病気で一般性はないものと、みられていた。そうした反合理化闘争の空まわりを気づかせたのが、この提起であった。
  全電通郡山分会の鈴木千恵子さんの入水自殺という悲しいできごと(七三年)は、改めて、合理化が労働者の生命を奪うものであることを、全国の仲間に告発した。自分のところでは反合理化闘争に熱心に取り組んできたから、合理化病はないと思われていた職場でも、仲間たちと討論してみると、予想外の現実を眼の前につきつけられた。胃薬や目薬を常用している者、肩こりに苦しむ者、腰痛で通院中の者など、多くの仲間が合理化の結果として、生命をすり減らしながら働いていた。この現実は、資本への怒りをかきたてた。反マル生闘争勝利の後でもあったので、職場抵抗の火は、多くの職場に急速に広まった。そのたたかいは、たくさんの若い仲間の心をとらえた。
  当時、インフレによる生活破壊も著しく、七三、七四春闘は激しく燃え上がった。社青同も全力を上げてたたかった。要求討論からストライキの準備、実行まで、労組の行動を担った。反合理化・職場闘争の前進、春闘の高揚は、若い労働者の自覚を高めた。この時期、社青同の拡大は最も急速にすすんだ。
  その春闘を終え、各職場の状況を集約してみると、重要な事実に気づいた。盛上がった職場では、管理者が奇妙に協力的であったことである。それが「正常化路線」の開始であった。労資間の対立を、表面上にはやわらげつつ、職場闘争の火を消そうとしてきたのである。
  七四年、全電通千葉県支部の役員選挙に対する、公社の露骨な介入があった。頚腕闘争をはじめ、生命と権利を守る反合理化闘争を労組として実践している千葉県支部の存在を、資本は容認しなかったのである。この攻撃と「正常化路線」は、表裏一体をなしていた。
  七四年一一月に第一三回大会が行われた。ここで、労働者の生命と権利をめぐる攻防こそが階級闘争の焦点であり、資本主義的合理化の現実をしっかりつかんで、反撃を組織しようとの意志統一を行った。たたかいの前進に自信をもちつつ、同時に、「正常化」路線の敵対的性格を厳しくとらえて、決意を新たにしたのであった。
  たたかいのなかで重要な役割を果した機関紙『青年の声』は七四年十一月四目から総局制に切りかえられ定期・敏速な配布体制が確立された。
 
 (33)七十年代前半、青年の共闘運動は飛躍的前進をとげた。社会党青少年局、総評・労組青年部、社青同を基軸とした、いわゆる「三者共闘」による事実上の反独占青年運動の出発であった。
  この前提には、第一に社会党第三三回大会(七〇年)における青年運動方針と青少年局体制の確立や社青同第一〇回大会での主体的条件の確立、第二に、総評四四回大会(七〇年)での青年部運動強化の方針化、第三に郵政、国鉄職場での反マル生共闘運動や地域段階での反戦、沖縄闘争など課題別共闘の存在などがあった。
  反戦青年委員会運動の破綻後、社会党が提起した「青年選対」力針を受けて七三年東京都議選「都議選勝利・社会党を支持する青年共闘会議」が結成された。七四年の参院選では、「社会党を支持する青年共闘会議」として全国化がはかられ、それは四二県、七百地区、四十万の青年を結集する運動体へと急速に発展した。
  この運動は、社会党・総評ブロックにおける青年運動の一つの発展方向を示したと同時に、反独占・社会主義をめざす社青同の成長と不可分なものであった。その中身は、従来の青年運動における青年行動隊的扱いや動員主義を排し、青年自らがまなび成長することに主眼をおいた点にあった。そのため、企業・産別・階層を越えた青年の交流と学習を活動の中心にすえて、「地区共闘運動」として定着していった。
  社青同が「三者共闘」運動のなかで重視したことは、個別の共闘課題を大切にしながら、そのたたかいをつうじて、反独占をたたかう青年の階級的団結と社会主義にむけた政治的自覚を促すことであった。社会主義運動と労働運動の融合を追求し、職場反合理化闘争と政治闘争の結合を重視したことである。また、社青同にとっては、社会党との「支持協力関係」のもとでの青年運動の形態と内実を明らかにしたという意味をもっていた。
  七〇年代前半はまた、平和友好祭運動にとっては、六〇年以来の混乱を終えて、東京地区実連、東京地評を加えて日本青年学生平和友好祭実行委員会が再確立された。全国青年団結集会実行委員会は六七年に自治労青年部・社青同で発足したものが総評青年局・社会党青少年局の参加へと発展するなど前進を示した。
  こうした前進も当然、幾多の困難を経ながらであった。総評では青年運動の育成のなかで青年協の結成が目指されたが、七三年の延期を経て、七四年に頓挫してしまった。社青同及び反独占青年運動の前進に畏怖した革マル派、「全国協」、民青などの党派的介入によるボイコット、妨害によるものであった。
  平和友好祭運動でも第一五回中央祭典(七三年)において、革マル派に影響された動労による暴力失明事件(山中湖事件)によって中央祭典が中断され七六年に再開されるという事態があった。これは、「反帝連帯」か「反帝・反スタ」かという平和友好祭運動の基調をめぐってのものであったが、運動の広がりのなかで克服されていった。
  七三年夏、ベルリンで開催された平和友好祭第一三回世界青年学生祭典は、「反帝連帝[ママ]・平和・友情」のスローガンのもとに行われた。
  また、社青同の国際活動も七O年から開始されていたDDR留学生派遣に加え(七九年まで)ソ連への留学生派遣(七五年から)や定期交流などが開始された。
 
 第八節 七〇年代後半の攻防
 (34)七〇年代前半に高揚した労働運動に対して、七四年後半から七五年にかけて、独占資本は強力な巻き返しをはかってきた。
  不況の影が次第に色濃くなる情勢を逆手にとって、「不況・赤字」宣伝を繰り広げながら、また、「労使正常化」という欺瞞的なポーズを取りながら、巧みに活動家と組合員の分断をはかり活動家の孤立化がすすめられた。
  七四年、田中内閣は倒れて三木内閣が生まれ、「対話と協調」が唱えられた。社青同はこれを「国家的規模の正常化路線」と分析し警鐘を打ちならした。
  七五春闘は、はじめての本格的な不況下での春闘であったが、独占資本の一五%ガイドラインにおし込められた。独占の攻撃は、七四年末にだされた「大巾賃上げの行方研究委員会報告」に基づいたものであり、各資本の結束はかつてなく強固なものであった。当時、職場では資本の労務管理と思想攻撃が小集団運動を挺にますます強められていた。その一環として、七六年頃より「地方財政危機」宣伝と、交通費や超勤手当を材料にした「ヤミ・カラ攻撃」が強化されていた。社青同はこの攻撃を重視し、職場の実態をふまえた反論を行った。この論争が、後の行政改革をめぐる攻防の前哨戦であった。
  七五年以降の独占資本の巻き返しと労働運動、社会党の後退のなかで、社青同のたたかいもこれまでのような前進はできなくなった。
  七五春闘において、社青同はマルクス経済学の学習、生活実態からの大巾賃上げ要求をかかげて、たたかいを担った。しかし、資本の構えは前年とはまるで違っており、日経連の指標どおりに抑えられてしまった。同時にたたかわれた自治体選においても、恐慌下で必死の保守陣営におされて、社会党は伸び悩んだ。
  職場のなかでも、抵抗闘争を担っている活動家への攻撃が強められた。その一側面として、電電公社の圧力を受けた全電通労組との論争が激化した。豊島支部電報合理化反対闘争に関する「社青同の介入」という非難に対して、職場の労働者の一員として、独占資本の攻撃とたたかい抜く社青同の姿勢を明らかにした(八・一申入れ)。以後、全電通労組との論争がつづくが、社青同はあくまでも、公社こそが敵であり、たたかいの相手であるという認識を崩していない。
  七五年一〇月、第一四回臨時大会と結成一五周年記念の全国交流会、一万人集会が行われた。職場・地域で仲間たちの怒りを組織しつつ、独占資本の包囲攻撃を打破ろうと意志統一した。
  労働運動は公労協、地公労による一九二時間に及ぶスト権ストを打ち抜いた(七五年一二月)。日教組も画期的な主任制度反対ストでこれにつづいた。しかし、三木内閣の「ブルジョア民主主義の法と秩序を守れ」という基本路線にもとづき、資本の側は一歩も引かず、やらせてたたくという姿勢を貫いた。保守系住民を扇動してのストヘの非難、大量不当処分で組合組織を揺さぶり、損害賠償を突きつけ、反合理化方針の変更をせまった。スト権ストは八日間もたたかいつづけられたが要求は何も取れずに収束した。
  スト権ストの敗北後、総評を中心とする労働組合の勢いは年々、後退していった。職場は小集団運動と労使協議制を柱にした日本的経営参加の体制が民間の大企業を中心に築かれ、多くの職場で労使はパートナーとなり、合理化推進、生産性向上にすすんだ。不況・赤字攻撃、「正常化」路線で反合理化闘争は労使協議制におきかえられ、職場のたたかいは孤立させられていくのである。
  七六春闘にむけて、日経連は「製造業だけで二OO万人の過剰人員」との脅しをかけながら、「雇用か賃金か」と迫ってきた。賃金は「一桁以下」のガイドラインをしめした。そういう時だけに社青同は、マルクス経済学にもとづく大幅賃上げ要求を強く打ち出した。労働者の生活実態を掘り下げてとらえるために、家計簿づけからの要求づくりを強化し、「まあまあの生活」と思っている者が、実は労働力の再生産もまともにできないように我慢させられているという事実をえぐりだした。そして、大幅賃上げが願望ではなく、譲れない切実な要求であると訴えた。しかし、七六春闘は一桁台の賃上げで不十分なたたかいのまま、資本におし切られた。
 
 (35)七六年一〇月、第一五回大会が行われた。この大会では、「重たい職場の現実」「正常化」をめぐって、討論が行われた。職場の仲間たちは、われわれの働きかけに対して、二、三年前のように敏感には、応えなくなっていた。長期の不況と資本の攻撃のなかで、右傾化の基盤がつくられはじめていたのである。社青同は、そういう情勢下であるからこそ、生活と労働の実態にくらいつき、階級対立の事実を明らかにしながら、労働組合強化の力を組織しようと討論した。その内容が基調のなかで、@生命と権利の視点の確立、A三つの先生(資本、古典、仲間)にまなぶ、B二つの目的 (改良の実現、主体の強化)の再確認となった。
  七七春闘にあたって、大巾賃上げの声が春闘共闘から消えていきつつあるなかで、『青年の声』では、労働者の人間らしい生活のためには譲れない要求として、大幅賃上げの声を、毎号、強く訴えた。そのなかで、階級対立の本質を、鋭くつきだしていった。
  春闘のさなかに、京成労組による、一〇〇〇名首切り合理化に対するストがたたかわれた。資本の側は、赤字宣伝とならんで、京成の職場闘争を取り上げ、「住民は高い運賃で損をしている」と非難した。京成労組は真向から反論し、社青同も全力をあげてたたかいを支援した。
  七月の全電通大会では、社青同を「敵対組織」と規定した。前年から、社会党中央に申し入れを行いつつ、圧力をかけていた全電通は、なりふりかまわず、職場のたたかいを抑え、社会主義と労働運動の融合を拒否してきたのである。独占資本の意図に迎合し、労働運動右傾化の先端をいく動きであった。
  社会党、総評の指導部は、七五年以降の資本の体制的危機意識にもとづく、攻撃の本質を見抜けず、容易な「国民的多数派形成」や「政権の夢」をおい求めた。当時の幹部の口から「反合理化闘争では、民主的多数派は結集できない」「大幅賃上げでは、世論を味方にできない」「反独占では幅が狭いから、反自民で民主的多数派を」と、独占資本との階級的対決をさける傾向が強まった。
  独占資本の攻撃は社会党から反独占・社会主義の牙を抜くことをめざしてきた。七七年四月に江田氏の離党、そして、七七年の参議院選挙を前後して、「党改革」論争が活発化した。社青同に対する批判も強まった。
  社会党、総評の当時の指導部は、反合理化闘争と科学的社会主義の学習を重視し、階級闘争路線に立った青年活動家の成長に恐怖を感じていた。それまで大いに歓迎していた青年共闘運動が一定の力をもってくると自らの地位に不安を抱くようになった。
  また、反ソ・反社会主義宣伝や科学的社会主義は自由の敵という思想攻撃のなかで、多くの中間層がマルクス・レーニン主義に恐怖を感じるようになっていった。社会党、総評内の右派は、「左派」の活動を警戒し、排除に動き出した。そのことを一気に噴出させたのが、七七年の「社会主義協会規制」であった。社会党、総評の運動の前進を妨げている教条主義という攻撃を強めて、社会主義協会と社青同に非難と憎悪が集中された。
  「社会主義協会規制」は職場においては「反合理化・職場闘争規制」であり、あたり前の権利の主張、学習への呼びかけが「社会主義協会派の教条的、セクト主義的行動」とされた。
  社青同は、われわれこそが青年労働者のエネルギーを組織して、党強化に結びつけてきた事実を示しながら明確な反論を行った。しかし、それ以降、党と青年同盟との支持協力関係を断ち切ろうとする圧力が不断につづくことになった。
  こうして、「左派」の活動家を運動から排除することは、労働運動の活動力を落とすと同時に資本の職場支配体制の強化を許すことになった。
  総評は七七年八月の第五五回大会で「反独占」を外した「反自民統一戦線」を提唱することになる。ときあたかも、成田委員長から飛鳥田体制の下に出発した社会党は「百万党建設」「国会議員の代議員権付与」「中期経済計画」の方針を決定し、従来の路線と明らかに違った方向へと強く傾斜していくのである。
  七八年夏、「反帝連帯・平和・友情」の基調にもとづいて世界青年学生平和友好祭典がキューバで開催された。この祭典は、七五年のインドシナ解放をはじめ、ポルトガルからの独立をなしえたアンゴラ、モザンビーク、ギニア、ナミビア、そして、エチオピア、ジンバブエの民族民主革命をはじめ、七八年のアフガン、七九年のニカラグアの解放という七○年代後半の反帝民族解放闘争を色濃く反映したものであった。また、ポーランドでのストライキ問題、アフガンのソ連軍の駐留に関しても社青同はプロレタリア国際主義の立場を堅持してきた。
 
 (36)七七年、三木内閣から福田内閣という反動の親玉に変わり、資本の側の結束はさらに固くなっていった。
  七八年は、吹き荒れる不況がその頂点に達し、四百万人首切りが宣言され、倒産と首切りの実態はすさまじく進行した。造船、繊維、鉄鋼などの民間企業や公労協、公務員の職場にも首切りの攻撃が吹き荒れた。
  七八年には、全逓名古屋中郵事件に関する最高裁の反動判決が出され、これを挺に「郵便法違反」を口実とした弾正が強められ、七八春闘では全逓はスト中止に追い込められる。
  そして、三池闘争以来、影をひそめていた指名解雇が公然と復活し、沖電気での三百名の指名解雇(七八年十月)はその第一陣であった。
  このように一貫した戦略をもって、独占資本は、たたかう労働組合をつぶすことに全力を上げてきたのである。また、二百カイリ問題では、反ソ・反社会主義キャンペーンを繰り広げ、階級対在を隠蔽する攻撃も強化された。
  七八年九月に第一六回全国大会を開催した。同年四月には社青同専従者基金制度を発足させた。大会では反合理化闘争と春闘の後退のなかで、民間の仲間の反首切り闘争にまなびながら、いかに反撃していくかを熱心に討論した。そのなかで、生活実態とマルクス経済学の立場に立つ大幅賃上げ要求討論のあり方をめぐって、論争がおこった。その前の第六八回中央委員会から始まったもので、労組の現状にそぐわない大幅な要求は、かえってたたかいを弱めるのではないか、という疑問から出たものであった。中央委員会は大幅賃上げ要求の討論はすすめつつ、賃金闘争とその思想を広げていくという立場で討論を集約した。
  翌年、全逓の反マル生闘争に対する大量処分(四・二八)が出されたが、これは、社青同に対する攻撃でもあると、受け止められた。なぜなら、生産性向上運動に対する職場抵抗の組織化は、生命と権利を奪うことを許さない社青同自身のたたかいでもあったからである。このあと全逓は団交重視、特昇協約と路線を変えてゆくが、全逓内の同志は階級闘争路線を確立し頑張り抜いている。
  社会党青少年局からの日朝青年連帯委の提起も、次の項にのべるように、社青同にとって重要な判断を迫るものであった。七九年一二月の第一七回臨時大会は、日朝連帯委、党、総評と社青同の関係を中心に討論が行われた。
  八○春闘は、交通ゼネストの中止をもって、事実上のストなしにおわった。そのなかでたたかわれた京成闘争は、「社青同は企業をつぶす」という攻撃に抗するたたかいをも含んでいた。社会主義と労働運動の融合に対する資本の攻撃の典型ともいえるものである。五月には、国労、動労に対して停職一九〇人を含む三八〇四人の処分が出された。これも階級的労働運動を圧殺しようとする、資本の意志を示すものであり、八○年代の厳しい対決を予測させていた。
 
 (37)七〇年代後半は青年の諸共闘においても今日に至る攻防の諸問題点が出されてきた時期であった。
  青年の諸共闘運動から社会党、総評の召還がはじまっていった。社会党を支持する青年共闘会議は、七七年参院選において、総評が召還し活動しえず、七七年末の社会党青少年局長の交替を期に事実上「開店休業」の状態に追いやられた。団結集会実行委員会は、七六年から総評が「欠席」の状態になっていった。さらに平和友好祭実行委員会では「幅が狭い」「単産縦割参加を認めよ」という全電通などからの意見と反帝連帯・平和・友情の基調をめぐる議論が激化し、あわせて、七七年、七八年と「全国協」加入が総評などから主張されるようになってきた。
  七九年に入り、青年の共闘運動は大きな変化のなかでの「決断」をうながされ、社青同はより強い「決意」をすることになった。
  この年、社会党を支持する青年共闘会議は総評青年局の「欠席扱い」(事実上、空席)のまま再スタートし、全国青年団結集会実行委員会も総評青年局は同様の扱いとなり社会党青少年局は後援団体という位置で再スタートした。さらに日本平和友好祭実行委員会は実行委員長に総評青年局はとどまったものの、事務局長は総評青対部が降り、単産青年部(総評青年協として)のもちまわりで努める[ ママ]ことになった。
  この七九年の「決断」は、作りあげてきた「三者共闘」の内実を確保しながらも、形態上における「変則」を事実認識しながらの「決断」と出発であった。だが、この「決断」は生き残りのための方途としての選択としてではなく、「三者共闘」の運動を守るための精一杯の努力であった。
  したがって、社青同が改めて決意することの意味が厳しくつきつけられた。つまり、単産青年部が表に出て総評青年協が分岐する(総評確認は「単産・県評青年部の自主性を認める」という内容)、あるいは各県段階における分断攻撃による差異などのもとで、貫かれるべきは「三者共闘」の運動を守るという点にあり、この点で、どのような形態が残されているかということであった。この「新たな時代の始まり」は、そうした事態を社青同として、それぞれのおかれた差異のある条件下で統一的に認識できるかという点が要であった。
  すでに七八年一月の第五九回中央委員会の『地方選と自治体問題についての決議』で、社公民路線下における社青同及び青年共闘の一員としての選挙闘争での立場についてふれている。そこでは、社青同が独立の組織として方針を持ち、主張することは当然の原則であるとしながら、選挙闘争に際しては社会党の最終決定、社会党の運動の一環を担っていくとしてきた。つまり労働運動や大衆運動の成長・発展の芽を与えられた条件のなかでつかみ、それに沿った活動形態を発見し全力で取り組むことによって社会党、総評の団結を強めるというものであった。そうであるが故に、社青同は独自に宣伝・扇動し、学習や討論を組織するが、可能なかぎりそれは社会党員を中心とする革新勢力、及び大衆運動の団結を守っていく立場をとるということであった。
  七九年の「新たな一時期の始まり」についても、そのなかでの「総評の召還」「単産自主性への移行」を次のように考えてきた。「分岐」を「瓦解」への一歩としてではなく、総評青年運動内に否定しがたく「三者共闘」の運動実体がうちたてられていることに依拠し、大衆的運動を背景として、これを守り抜き発展させていくことであった。社会党もその事実を否定しえなかったのである。よって、「不況・赤字」攻撃と「企業主義」の台頭の下で、総じて労働運動のなかに組合主義が成長し社会党をも組合主義的政治で包含しつつあった時、七九年の状況は確かに「妥協」を含む再出発ではあったが、一方で前進のための力と足場を再確認しあえたという意義をもっていたといえる。
 
 (38)七〇年代後半から八○年代にかけ、社会党・総評ブロックの青年運動に大きな問題を投げかけたものに社会党の「複数青年運動論」があった。七七年の第四一回大会で社会党系青年組織として「全国協」「青年懇」が言及され、七八年の第四二回大会で「複数青年運動論」として打ち出されてきた。この路線的背景をもって七〇年代後半の青年の共闘をめぐる攻防が激化し、七九年の再出発を迎えたわけである。七九年の再出発は新たな論争の出発でもあった。
  それは「日朝連帯青年委員」の結成をめぐる論争として、実体化されてきた。そこで社青同が問題にしたのは「複数青年運動論」による「全国協」「全青連」の形態上の認知問題と同時に、日朝連帯運動の内容であり、全国統一闘争としての組織化の方向についてであった。社青同は「反独占・反帝連帯」という基調の明確化や、運動の統一的提起とその集約が行われる中央、各県を含めた全国組織の結成を求めてきた。それが「複数青年運動論」による社青同及び反独占青年運動の解体の目論みを克服する道であったからである。結局、八一年に社青同抜きで日朝連帯青年委員会は発足したが、社青同は党内の先輩や労組青年部の仲間たちとの精一杯の努力と、各県で作りあげてきた日朝連帯運動の実態を背景として八二年に参加していった。
  七○年代後半からの社会党、総評ブロックの青年の共闘運動は「単産自主性を認める」方向での対処によってしか総評の統一性を保持しえないという総評青年運動の停滞と瓦解を土台に、これに社会党が追随することで「三者共闘」運動の前進が阻まれてきたといえる。
  このように青年の共闘運動は社会党、総評労働運動の推移に規定されながら歩んできた。同時に社青同は常に大衆運動に依処し、その運動が併せもつ思想と統一闘争が求める共闘形態をもって問題に対処してきたといえる。
 
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