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 社青同の歴史・第五節 論争と第一〇回大会
 
 (21)「三つの見解」はそれぞれ、第一見解、第二見解、第三見解と略称された。社青同の今日を築いてきたのは第一見解であり、これを支持した同志たちだが、説明の順序は逆にのべる。
  論争は、「第三期反戦青年委運動」の評価をめぐっておこったようにみえるが、本当は、もっと根本的なものから生まれている。そして実際、かなり広い範囲をあつかう論争に発展した。それはいわゆる「社会党・総評ブロック」の評価であった。社青同は組織的にも運動上も、また同盟員の育ちかたからいっても、社会党の影響下にあったし、総評労働運動を基礎としていた。
  すでにのべてきたように、六〇年代後半はこの社会党・総評系の運動全体が、自己のよって立つ原則を見失ないかかっていた時期であった。もちろんきちんと階級対立、階級闘争の立場に立って、独占資本のつくり出す幻想にダマされない指導者も少なくなかったが、社会党の中で「階級闘争」を主張する幹部さえこの本来の方向は不徹底だった。
  このなかで、極「左」派は、「第三期反戦青年委運動」をテコに青年をかきあつめ、もう社会党も総評もダメだ、別の党や別の運動をつくらなければならないと主張し、積極的な攻撃を開始したわけである。
  社青同内部にはいなかったが、社会党などの一部幹部からは、社会・公明・民社三党の合同による新しい改良主義政党結成構想や、総評・同盟を「統一」(?)した労働運動の「再編統一論」が出されていた。右派と極「左」派は、社会党と総評を解体させようという点では同じ目標を追っていたことになる。
  そして、この全体の動き、論争の中で、社責同内部の論争も進んだのだった。社青同を守り発展させてゆくための闘争は、また同時に、社会党と総評を守り、発展させてゆくための闘争だった。
 
 (22)第三見解は、それまでの社青同の委員長をはじめ中央執行委員会の多数派を中心に出された意見であり、太田薫氏と思想上のつながりを持っていたので太田派ともよばれた。
  この見解は激しく極「左」派に反発したがさりとて社会党や総評の基本的方向に確信をもっていなかったので、今後どうすべきかを提起することはほとんどできなかった。第四回大会の『基調』を守ること、とくにそこにいわれている改憲阻止青年会議(個人加盟)の組織化を強調したが、すでにのべてきた論争の本質についてはたいへんアイマイで中間的だった。
  社会党ナンセンスといわれれば、そうだといい、しかも社会党を見捨てて新党をつくるというわけでもないから(一部はこのコースをとって人民の力派をつくった)、党内闘争を積極化すると主張した。総評についても、「新たな潮流」を形成すべきだ、ただし総評から飛び出すとはかぎらないという主張だった。
  もっとも重要な反合理化闘争については「いかなることがあってもたたかう」と強調したが、たいへんモノトリ主義的な意味であった。それと裏表の関係をなす誤りとして、学習はたいへん弱く、「もうわれわれは分かっているのであって学習が足らないのは社会党員だ」という姿勢だった。
 
 (23)第二見解は極「左」派そのものである。もともと極「左」諸潮流からの加入分子である解放派、第四インターを中心に、第四回大会以前に中央本部に多かった右派の後身が迎合し(構改左派・主体と変革派)、また福岡地本執行部を中心にした部分が、動揺をくりかえした後、ここに加わった。彼らは多くの場合合同して行動したが、内部でも論争しつづけていた。
  すでにのべたような社会党外部の極「左」諸派と同じことを主張したわけだが、社青同ではとくに第四回大会の「基調」を攻撃した。はじめは「基調を守る」といっていた第三見解に突っかかっていたが、やがて思想内容からいっても組織的な力からいっても第一見解が敵だと気づくと、ここに激しい攻撃を集中しながら第三見解を引きつけていこうとした。
  中心は、すでに六〇年代前半から、このような「社青同・社会党の解体」を追求していた解放派であった。解放派は、すでに一九六六年に脱退していた東京の残党も一緒になり、暴力攻撃を含むあらゆる手段をとった。
 
 (24)第一見解は、第九回大会までの中央執行委員会の少数派を中心に提出され、兵庫・東京・福島などの地本、そして労働大学の学習誌『まなぶ』の読者から支持された。
  この見解は、社会党も総評も、今は弱くてもかならず強化されると考えていた。資本主義社会の法則的な力がそうすること、社会党や総評が、この湧き起る力を受けとめ得る基本方向を持っていることを、感覚的にだが確信していた。まして、労働組合から一時的にせよ撤退して、先進部分の個人加盟組織をつくる主張には耳をかさなかった。
  だから反戦闘争ては、「第三期反戦」「職場反戦」はもちろん、改憲阻止青年会議にも批判的だった。むしろ班が政治宣伝を積み重ね青年部全体をかためてゆく地道な方向を主張した。
  青年部の団体共闘としての結成当時の反戦青年委員会をつづければよいと主張した。
  反合理化闘争でも、組合全体の右傾化に苦しみ迷いながら、組合員大衆も苦しみ、怒りや要求を持っていること、それを引きだせないのは、社会党・総評幹部が悪いというより自分自身の弱さだということを主張した。大衆闘争路線を実行する自分の能力を高めようということである。
 
 (25)第九回大会以後、第一見解の人々が社青同中央本部を担って、ともかく組織を継続させる責任を買って出た。職場での各々の実践を含む論争をつづけて、一年後に組織としての結論を出そうということである。だから執行部の責任を負うといっても、多数決で決定をおしつけるようなことはしなかった。
   第二見解は解放派をのぞき、この執行部に代表を送ったが、所詮は社青同解体を本質としていたから、一年たたぬうちに辞任し、第一見解の人々にも総辞職を要求した。それによって社青同解体が完成すると考えたからである。しかし他方彼らの大衆運動は、極「左」派といっても革共同革マル派、中核派などにくらべれば基本方向の意志統一もできていない連中だったので、しだいに自己崩壊していった。今日も残っているのは、革労協と名をかえた解放派の一部だけである。
   第三見解は、執行部に代表を送らず、大会後すぐ事実上の分裂活動をはじめ、繰り返えされた復帰の呼びかけを拒否しつづけた。はじめは、みかけの上で旧主流派として支持者も多かったが、実は最も、意志統一のない中間派であり、社会党・総評についてだけでなく社青同のこの混乱に関しても、すべて人のせいにして逃げまわったので、急速に影響力を失なってしまった。現在も限られた県で「社青同」を名乗っているが、今では反合理化より文化活動を優先したり、総評の社会党支持決定撤回を主張したり、確固たる主張は何も持っていなかったことを露呈している。
  一年半後の一九七一年二月、第一〇回大会が招集されたとき、第二見解はこれを暴力的に破壊することを宣言、第三見解は開催に反対と、二つとも要するに論争からは逃亡してしまった。そして実際、この時点ですでに、いうにたりる勢力ではなくなっていた。論争の結論はすでに職場でついていた。
 
 第六節 七〇年代の前進へ
 
(26)七〇年代とともに、独占資本の虚構は、崩れはじめ、その真の姿が公然とあらわれはじめた。繁栄とみえたものは資本主義の矛盾の蓄積にすぎなかった。日本独占がつくりあげた巨大な生産施設は生産力の過剰であり、好調にのびつづける日本の輸出は帝国主義列強との対立の激化だった。
  アメリカ独占がドル防衛のためのニクソン声明を打ち出したことを契機に、世界的に資本主義の安定した外見はくずれ、日本資本主義は激しく動揺しはじめた。
 
 (27)資本主義経済の動揺は、また社会的政治的な動揺の開始でもあった。労働者階級のなかに実はひろがっていたこの社会への批判は、いろいろな問題を契機として広範に、闘争として結晶しはじめたし、さらに勤労大衆全体のなかにも同じことがあらわれた。
  労働運動では、全逓の一九六九年年末の闘争がその典型であり、一年後には宝樹文彦委員長の退陣を結果して、あきらかに労働運動路線の内容を問題にしはじめた。それは国労につながり、一九七○〜七一年、生産性向上運動(マル生)にたいして、一〇年ぶりに単産としての大闘争が取り組まれた。総評解体の「労働運動の再編統一」論は、一九七二年末にはほぼ粉砕された。七二、七三春闘は、同盟系労組も含めて非常に広範に、また戦闘的に展開され、公務員の中にも、さらに民間でさえ急速な変化が生まれている。
  農業切捨て(構造改革)政策の諸結果にたいして農民も革新化しはじめ、もはや自民党の票田とはいえない。労働組合には関心のうすい人々も居住地では、公害・交通事故・保育所問題などで活発に運動に加わる部分が生まれてきた。革新自治体は急増している。反戦闘争も、反基地・反自衛隊の内容がもっと生活に密着して具体的にとらえられるようになり、したがって今までよりもっと広い人々が加わりはじめた。
 
 (28)日本社会党の中では、この現実をしっかりととらえることのできる、つまりマルクス・レーニン主義の視点で、経済・社会・政治の変化を評価できる人々の発言力が急速にたかまった。これら全般的な変化を確信をもってとらえ、この流れがどのように進まざるを得ないかを、社会党はほぼ正確に語ることができるようになった。青年はもちろん、真剣に情勢に対応しようとする人々の中で、社会党は再評価されはじめた。それはまた、科学的社会主義の思想・理論の再評価であり、学習への意欲でもあった。
  「社・公・民」路線をとる部分と極「左」派は、一九七〇年年末の第三十四回社会党大会に、党解体の策動を各々の立場から集中した。しかしこの大会は逆に、社会党がすすむべき正しい道を、あらためて確立した大会になった。社青同員もこの大会を極「左」の暴力から防衛するために協力し、社会党には立派な革命家が少なくないことをそこであらためて知った。
  一九七二年の暮の総選挙では、社会党は再確立された党の基本路線にそってたたかって立派な成果をあげた。そして社会党の周辺に、最も活動的であり、かつ学習しようという意欲にみちた青年労働者が結集しはじめていることも証明された。
 
 (29)第一〇回大会の後、社青同はかなり早いテンポで、質量共に前進している。この大会の時は、第二見解派の脱落によって同盟員数は、へっていたし、第三見解派も正式に脱退していった。しかし第一〇同大会に参加して社青同の組織と運動を守った仲間は、その後一年半、第一一回大会までに二倍近く増えた。この大会で再登録がおこなわれて全同盟員が一人ひとり、あらためて社青同員として積極的に活動してゆく決意を固め、次の一年でさらに五割をこえる仲間が加わった。七三年暮の第一二回全国大会で、社青同は結成いらい事実上最大の組織を持つようになった。
  このことは第一に、思想、基本方向を獲得しそれによって団結した時、そこに生れる力がいかに大きいかの証明である。第二にその思想の内容については、漠然としていたとしても、第一見解が次のような姿勢を定着化させていたことの重要さである。つまり困難に直面してもたじろがず動揺せず、大筋の基本方向を堅持して踏みとどまる姿勢。それから他人のせいにせず、自分自身がまなび、自分を鍛えることによって展望を切りひらこうとする姿勢である。
  第一見解を支持した青年同盟員の主張はまだきわめて不充分だった。しかし基本的なあやまりはなかった。またこの見解は、あたりまえのことを不屈に、地道に粘り強くやっていく姿勢、そして謙虚な姿勢を保証した。この故に、第一〇回大会前後から社青同は情勢の発展に適応し、必然的に湧き起る労働者階級の力をいっぱいに汲みとって、急速に前進してきた。
 
 (30)第一〇回大会前後、社青同の同盟員は、第一見解を出発点にさらに多くのことをまなびとって組織の共通の認識にしてきた。その中心は「階級および階級闘争」だといえる。
  資本主義社会は階級対立の社会であり、資本家階級と労働者階級は敵対的に対立している。資本主義は日々、労働者階級を搾取し抑圧し、その生活と、生命さえ奪っている。そしてそのことによって、この階級の自覚、団結、革命闘争を、日々強めている。われわれはこの法則に沿って活動しなければならない。平和や民主主義を守る闘いも、この基本方向にたった働きかけでなければならない。そして最も重要なのは、資本主義的合理化にたいするたたかいとマルクス経済学・唯物史観を中心にした学習である。この二つを中心に、自分自身もまた広い仲間たちにも、社会を動かし歴史を変える法則をまなびとることができる。
  自分たちが日々おかれている状態は、職場で生活の全域で、かつて分っているつもりだった頃よりずっと厳しく認識されはじめた。資本はこのオレの生命まですりへらしている人殺しである。他人のせいにするわけにはいかないのはもちろん、解決の道は、それがどんな種類のものであっても、もともと簡単ではなかったのだ。合理化とたたかうといってもこうすれば攻撃をハネ返えせるといううまい「方法」がどこかにあるわけではなかった。
  第四回大会『基調』も、このような搾取と抑圧に抵抗しぬくことの呼びかけであり、この抵抗が積み重ねられ広がってゆくとき、どのようにそれが発展するかの筋道を示したものであった。個々の抵抗のなかで、労働者は時々勝利することができる。しかし真の勝利は、階級のない私有制のない社会を創る他なく、それが自分たちにはできるのだという確信、その団結、そして社会主義社会のための革命闘争こそ真の勝利なのである。
  社青同第一二回大会で決定された新しい綱領は、このような新しくまなびとられたものの成文化である。

 
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