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 社青同の歴史(1960〜1988)
 
第七節から第十節は一九八八年八月に追加された。
 
*出典は日本社会主義青年同盟中央本部『青年の道』第九刷増補版(一九八八年八月)。社青同の公式同盟史。第一節から第六節までは、原型が一九七〇年に社青同東京地本発行『社青同の進路』に掲載され、神奈川地本版(一九七一)、中央本部版(一九七二)、『青年の道』第一刷(一九七四)と掲載・補充されていった。『青年の道』第九刷増補版発行時に第七節から第十節までが追加された。ソ連東欧社会主義崩壊直前までの社青同の基本認識も知ることが出来る。これ以降、『青年の道』新版の発行はなく、「社青同の歴史」も追加改訂されていない。  文字テキスト全文(PDF)                
 
 
 
第一節 結成と安保・三池闘争
第二節 六〇年代前半
第三節 第四回大会と『基調』
第四節  六〇年代後半
第五節 論争と第一〇回大会
第六節 七〇年代の前進へ
第七節 生命と権利の闘いの提起
第八節 七〇年代後半の攻防
第九節 生命と権利の闘いの再強化
第十節 八○年代後半の闘い
 

第一節 結成と安保・三池闘争
 
(1)日本社会主義青年同盟は、一九六〇年一〇月一五日の第一回全国大会で結成された。
  結成の中心となったメンバーの多くは、社会党員(青年部)としての活動歴をもっていた。それをとおして社青同は、理論的にも実践的にも、日本社会党とくに左派(左派社会党)の諸経験を受けついでいる。このなかに一九二三年第一次日本共産党結成当時からの山川均を頂点とする労農派マルクス主義(今の社会主義協会)の思想的伝統も含まれた。
  社青同結成の準備活動は、一九五九年から社会党青年部を中心に行なわれた。準備期間はちょうど六〇年安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期である。このたたかいのなかで立ちあがった青年活動家が、二つのたたかいの経験をたずさえて、誕生した新しい青年同盟に多数合流したのは当然だった。こうして社青同の初期の性格が決まった。この意味では社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。
 
(2)「六〇年安保闘争」は、一九五二年に結ばれた日米安全保障条約を現在の形に改訂して結びなおそうとする、岸信介自民党内閣・日本独占の策動にたいするたたかいだった。この策動は戦後の日本独占資本が行なった、最初の主体的な対外政策だったといってよい。日米の軍事同盟関係と将来のアジア進出へ向けての協力関係とを確立しておくのがその意図であった。このような対外政策を主体的に展開しはじめた事実は、日本独占資本が戦後一五年の間に、アメリカ帝国主義の援助のもとで完全に復活したことを意味している。
  敗戦による独占資本の後退によって、戦後の日本では、アメリカヘの従属による抑圧をうけながらも、反戦平和と、民主主義的政治への意識が比較的自由に発展することができた。戦前の軍国主義とフアッショ体制が敗退した事実が平和・民主主義の意味を大衆的なものとして確立した。六〇年安保条約はこの「戦後の社会」が変化することを意味したわけだから、それまで発展してきた反戦平和・民主主義・民族独立の大衆的にゆきわたった意識と激突し、大闘争が爆発した。
  しかし六〇年安保条約の根源が、六〇年代から内外に全面的な帝国主義策動を開始しようとする日本独占にあること、独占資本のもとでは真の民主主義や恒久的な平和はあり得ないのだと訴える階級闘争の立場はまだまだ弱かった。
 
 (3)「三池闘争」は三井三池炭鉱にかけられた典型的な合理化を背景にし一二〇〇名の中心活動家指名解雇により三池労組を破壊しようとする攻撃に直接的には端を発した。だが、それはたんに一組合の一個別闘争ではなかった。復活した日本独占は、より安く商品を作り、敗戦で立ち遅れた生産技術水準をとりもどし、また独占禁止法等によって解体分散していた資本を再編集中し、欧米の独占資本主義国に追いつこうとしていた。これらはいずれも労働者への合理化、強労働と人べらしをもたらした。またそのための労働組合の破壊、労資協調の思想攻撃を含んでいた。
  三池への攻撃は、このような六〇年代の体制的合理化攻撃の第一波であり、資本の突破口だった。当時炭鉱労働者は質量共に総評の主柱であり、三池労組がその中心組合だったからである。安保闘争と同じく、三池闘争も根底から変化する目本の社会と国家を象徴する大闘争となった。
  三池労組はこの時すでに一〇年以上、学習と職場闘争を非常に広い組合員の積極的な参加で積み重ねていた。三池労組の基本的な運動方向は、総評の「組織綱領草案」などの形で、広く、労働者の中に影響をひろげようとしていた。
 
 (4)三池闘争、また広く反合理化闘争には、六〇年安保闘争よりはるかに強く、階級闘争としての自覚が育っていた。労働者と資本の妥協のできない対立、攻撃の根源は独占資本主義だという事実が自覚されていた。資本や国家は、この階級対立を隠そうと、大規模な思想攻撃を繰り返えす。労働者の生活の仕方や環境自体が資本主義的なものだから、この物質的基盤がすでに、不断に労働者を引きこみ、階級対立を陰弊する。
  しかし三池労組は、階級対立と階級闘争の立場を、労働組合として大衆的に確信し、提起しはじめていた。六〇年三池闘争でも、その後一〇数年のたたかい(CO闘争など)でも、三池労組の先輩たちはますます確信を深め、その故に不屈にたたかっている。六〇年の十ヶ月の激闘の後、三池闘争は「敗北」したが、この提起は重大な意味をもって残った。独占資本は三池労組が全総評に対してもちつつあった指導性・影響力を完全に消しさることはできなかった。
 
 (5) 六〇年安保闘争と三池闘争のなかから社青同に加盟した青年のなかで、質量共に中心をなしたのは総評系労働組合の活動家だった。社青同は労働組合青年部と切っても切れない関係をもつことになる。民青、新左翼などの様々な青年同盟、またさらに世界民青連に加わっているヨーロッパの青年同盟とくらべても、社青同の大きな特徴である。労働組合青年全体を組織するために、青年部全体の決定を得て、青年部自身の取り組みにより活動する。社青同同盟員や一部のシンパだけでする活動は、学習(思想闘争)をのぞけば、原則としてない。この性格は今日も定着した正しいことである。
  しかし社青同に加盟してきた仲間のなかには三池闘争とその提起した内容にはかかわりがなく、安保闘争だけをつうじて立ち上がってきた者もいた。平和・民主主義・民族独立の一般的なムード、つまり反日本独占への方向を本当にはつかめないままの意識も含まれる。
  そのなかでとくに第四インタートロツキストの意識的な「加入戦術」にもとづいて加盟した者、および社青同に加盟してから翌年には結成された解放派(今の革労協)の「社民解体戦術」にもとづいて活動しはじめた者がいたことは後に重体[ママ]な問題となった。
 
 第二節 六〇年代前半
 
 (6)一九六〇年代、とくにその前半、日本独占資本、自民党は、平和・民主主義などの意識を刺激する政治面の対決をさけて社会の生産基盤(いわゆる経済面)の攻撃に集中してきた。
  ここでは、体制的合理化が全産業で全面的にはじまり、反対闘争−とくに三池的な職場(抵抗)闘争をねらいうちで抑圧する支配体制・思想攻撃・組織破壊・労務管理が、急速に激化していった。首相は岸信介から「経済の」池田に代り、「国つくり・人つくり」が基本政策となった。合理化に支えられた造船・電機・合成化学・鉄鋼・自動車などの独占資本は、急テンポで資本を蓄積し合併集中をくりかえして、世界的な大企業にのし上がる。
  労働者にとって、それは、搾取が徹底的に強まることである。しかし政治面をさけて経済面だけを、弾圧は少なくして思想攻撃や教育を、直接の賃金抑圧だけでなくインフレによる間接的な搾取をといった日本独占のやり方は、かなり巧妙で成功した。
 
 (7)労働者側にはこの新情勢をとらえ迎えうつ思想性が弱く、六〇年安保闘争高揚への幻想―平和・民主主義・民族意識を無原則的に評価して反独占の階級意識の弱さに気づかぬ幻想が渦まいていた。
  社会党内では六〇年闘争の総括として「政権構想の重要さ」だけが議論され、選挙・国会闘争だけに一喜一憂し、いわゆる「江田ビジョン」(構造改革論)がだされた。
  共産党は党・組織建設を重視はしたが、「愛国・正義」が当時の中心スローガンであったように、実は同じ幻想に在っていた。エネルギーはもうある、それをまとめる政策を、的衛党への組織化を、ということで階級闘争の自覚を高める方法は考えようともしなかった。共産党の組織建設は、この根本がぬけたままでそれでも六〇年代の資本主義が相対的に安定していた条件のなかでしゃにむにすすめられた。民主青年同盟も「歌ってレーニン踊ってマルクス」などといわれたようなレクリェーション活動を重視し、そのかぎりでは飛躍的に組織を拡大した。
 
 (8)労働者側に必要だったのは、平和・民主主義の民族独立の意識を重視しながらも、労働者階級としての自覚をもっと重視することである。それは、体制的合理化に正面から対決するたたかい、資本主義合理化絶対反対の闘いを基礎としてはじめて可能である。そこから、ますます多くの仲間が、真剣に学習の必要性にきづき真剣にまなびはじめなければ、独占資本の巧妙なやり方をみぬくことはできない。
  資本主義的合理化との闘争の重要性、マルクス経済学の学習の必要性を本当に理解している指導者は少なかった。この問題を提起し、生産点の、合理化の真相を鋭く暴露しつづけた三池労組の人々は、しかし六〇年以後一〇年間、激しく論争しなければ一歩もこの思想をひろげられなかった。
  三池のような考え方にたいして江田ビジョンは「教条主義」、共産党は「経済主義」という「批判」をあびせた。そして独占資本は三池労組の「敗北」を大々的に宣伝した。
 
 (9)これらの情勢と思想潮流は、結成直後の社青同指導部にも反映した。江田ビジョンの影響を受けて、平和・民主主義・民族独立の意識、自然発生的なムードに、自分たちの指導を無原則に、追従的にあわせる運動がめざされた。社青同も運動をこの次元に低めれば簡単に組織拡大できるはずだと考えられていた。こうして原水禁運動(「核武装阻止」)が重視され、それも核実験や原子力潜水艦寄港などアメリカ帝国主義との対決が中心であった。逆に反合理化闘争についてはそもそも「反合理化」のスローガンさえ激しい議論で決定できない状況だった。
  この頃から、社青同の内部には、いわゆる「路線論争」が大きな比重を占めるようになった。つまり「いかにたたかうか」の「方法」だけを問題にして関心がそこに集中した。
  しかしそのかぎり、当時の中央執行委員会の指導にたいしてしだいに批判がたかまり、社青同内部で左派が結集しはじめた。それは三池労組の提起にまなぼうとするものであり、総評系労働組合青年活動家である大部分の社青同同盟員に共通の方向となっていった。
 
 (10)左派の考えは、反合理化闘争を重視し反独占の鋭い階級意識の形成を重視し、それを基礎として政治闘争を方向性においても闘争形態においても台頭する日本独占資本主義に対決しうるものに高めようとする方向である。左派は原水禁運動でいえば日本独占の核武装阻止を強調し、政治闘争全体の中心を当時池田内閣がすすめていた憲法改正公聴会の阻止におくことを主張した。公聴会阻止闘争は一九六二年、各地で左派によって担われ盛上がった。
  そして一九六四年二月、社青同は第四回全国大会をひらき、執行部原案を修正して「改憲阻止・反合理化」というスローガンを今後のたたかいの中心に決定した。これが社青同のなかで『基調』(または基調の確立)と呼ばれているものである。
 
 第三節 第四回大会と『基調』
 
 (11)『基調』の確立によって全同盟の意志統一−思想によって団結する青年政治同盟への成長がはじまった。それまでの社青同は総評系労働組合のたたかいで立ち上った青年活動家の、漠然たる集合体にすぎなかった。『基調』はだいたいにおいて正しくこれらのたたかいの内容を整理して理論化し、目的・方法が厳密に一致した団結をめざして努力がはじまった。
  同時にこの整理は、六〇年以前の教訓・提起を受けつぎつつも、むしろ六〇年以後の日本独占資本主義とその支配体制に対抗する方法を探る立場に立っていた。いいかえれば、六〇年の高揚に無原則的に溺れた幻想をうち破ろうとするものであった。
 
 (12)『基調』は日本独占資本との対決に、なかでもその支配体制強化の策動に、たたかいの主軸がおかれなければならぬことを明らかにした。独占資本は平和と民主主義を口にし、政治的対決をさけるかに動いている。しかしそれは長くはつづかない。彼らの真のねらいは逆のところにある。
  ブルジョア民主主義の法律・制度をまきかえしてブルジョア独裁体制を強化すること、これは敗戦によって国内支配体制を大きく後退させていた日本独占の致命的弱点を克服することであり、したがって六〇年代をつうじて現在でも彼ら最大の政治課題である。「現在の日本独占の攻撃は・・・帝国主義的支配体制を確立しようとしている。・・・彼らの攻撃が全面的な合理化、およびその政治的集約としての改憲を基調としてすすめられているのである」(『基調』原文)。
  したがって、『基調』は六〇年安保、後の日韓条約などの現実に始まってゆく帝国主義対外策動へのたたかいをもその他すべてのたたかいも、支配体制との対決に主軸をおいて展開し結集しようとする考え方であった。またもう一つ、日本での反独占(青年)統一戦線をも右の考え方で提起するものだった。改憲阻止戦線という言葉が原文に含まれ、「改憲阻止青学共闘」「行動委員会」の二つの組織形態も具体的に提起された。
 
 (13)『基調』は社会の生産基盤(いわゆる経済面)での攻撃の重大な、破壊的な意味を明らかにし、これに対決する反合理化闘争、思想闘争の重要性を明らかにした。またこの二つの闘争こそが勝利に導く力を生みだすこと、いいかえれば、革命を担う階級的政治的意識をつくる基礎づくりである点を明らかにした。「職場の改憲攻撃ともいうべき合理化攻撃に真に抵抗し、改憲阻止が闘えるような思想に武装された労働者の組織力を強めることが肝じんである。」(『基調』原文)。
  また基調は、帝国主義的支配体制と合理化攻撃に抗してどうたたかうか、その「方法」をさらに追求してゆく出発点と考えられた。これを社青同では『基調の豊富化』と呼んだ。第五回大会での「長期抵抗路線」、第六回大会での「大衆闘争路線」、そして第七回大会での機関紙活動強化決定などが、このように位置づけられた。
 
 (14)以上のような『基調』とその豊富化とは、大多数の同盟員の共感のうえに立っていた。しかし部分的だったが激しい批判も生まれ、社青同内部の討論は先鋭化した。
  一つの思想がそれまでの討論をまとめた形で提出されれば、それを支持するかどうかによって討論は整理され、新しい高まった次元の討論がはじまる。これは間違いではないどころか思想がより正確になり意志統一がより厳密になってゆくための、正しい発展の筋道である。しかしたがいにまなびあう姿勢、発展へ向う方向ではない、自己目的的な論争がはじまれば、それは分派闘争である。この場合、『基調』批判に、加入戦術をとる極「左」派が便乗してきた。
  加入戦術とは、(社青同の)思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から「正しい部分」をいかに分離させ別の方向に向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された。
 
 (15)群馬・栃木・東京・愛知・大阪・京都・徳島など少なからぬ重要な県で、極「左」の加入戦術がおこなわれ、激しい分派闘争がしかけられた。東京では彼らが地本執行委員会を握り、地本内部でも全国の同盟にたいしても、『基調』がいかにまちがっているかの「討論」や「教宣」をつづけた。第四インターはとくに三多摩地区を中心にかなりの勢力をもったが自己崩壊し、東京では一九六八年頃までには社会党系の運動からひきあげた。
  解放派は「社会党・社青同などの社民勢力を解体しておかなければ、新しい前衛党建設をはじめても革命的労働者は結集できない」という、奇妙に自信のない発想に立つ。つまり本当の目的である新たな前衛党を公然とうちだすのではなく、社会党・社青同内部で分派闘争を恒常的に自己目的的に展開し、最後に分裂してゆくという。この立場から第四回全国大会以後、『基調』を支援する者=社会主義協会こそ「日本革命の最大の敵」と公言し、『基調』による全同盟の意志統一を、手段をえらばず妨害しようとした。
  その頂点は一九六六年九月三日の東京地本第七回大会(流会)であった。第四インター・解放派は、この大会の代議員選出基準を規約による慣例から変更し是が非でも執行部独占を意図し、さらに開会直後手に手にゲバ棒をもった数時間にわたる暴行・テロを加えた。百数十人の負傷者のなかには二年間半身不随で療養する同志もあった。これがいわゆる「九・三事件」である。緊急中央委員会の決定で東京地本はいったん解散され、同年一二月に再建されたのが今の地本組織である。解放派・第四インターは、再登録にともなう自己批判を拒否し東京では社青同を脱退した。
 
 第四節六〇年代後半
 
 (16)六〇年代後半、「全国総合開発計画」「経済社会発展計画」などの国家計画が打ち出され、国家権力を駆使して独占資本の抑圧と搾取が強化された。インフレと財政投資にたすけられ、法律や「行政指導」に導かれて、独占資本はますます資本を蓄積した。銀行・造船・鉄鋼などでは「世界のトップ・メーカー」もいくつか生まれた。
  資本の側では、これを「高度成長」とよび、われわれは「体制的合理化」とよんでいる。資本はGNP(国民総生産)が世界第二位になったと誇るが、われわれはこの過程で、社会のほんの一部にますます富が集中され、大多数をしめる勤労大衆には、疲労と貧困が蓄積されたことを知っている。
  日「韓」条約(一九六五年)、佐藤とジョンソン、あるいはニクソンとの間に取り加わされた「日米共同声明」(六八・九年)、そして沖繩「返還」などの対外政策をつうじて、日本独占のアジアヘの帝国主義的進出も本格化し、それを防衛する政治的軍事的体制も強められた。国会での反民主主義的な策動も日常茶飯のものになった。平和と民主主義を口先ではとなえながら、独占資本は、実は平然とそれを踏みにじった。
 
 (17)しかし資本と労働者階級の敵対的対立関係は、独占資本と大多数の大衆の利害が相反するものだという事実は、外見上は、みえにくいものになった。人々は「戦後は終った」といい、新しいものがはじまったのではないかとの幻想さえ持たされた。「所得倍増」、「経済大国」、「福祉国家」−−。
  戦後、日本社会党に集中していた勤労大衆の支持は分解しはじめ、民社党が微増ながら議席をのばしたり、また宗教的な装いをもった中間政党である公明党(創価学会)が台頭したりした。また共産党も、このような勤労大衆の意識に巧みに政策や外見を合致させることを努力して、飛躍的に得票をのばした。
  労働運動でも、同盟系が増え、とくに民間製造業では右翼的な改良主義がはびこった。職場抵抗や学習は軽視または放棄され組職づくりは形骸化されたものになった。総評は民間単産だけでなく、公労協でも宝樹文彦氏(全逓)などの右翼的な思想が幅をきかせだし、公務員で共産党の影響力が伸びはじめたといっても、それも右翼的な「政党支持自由化」や「よい合理化もある」「中立・自衛」などのスローガンをいいはじめたことによった勢力拡張にすぎなかった。
 
 (18)このような状態にたちむかおうとする人々も、社会党を中心にもちろんいたが、その多くも、独占資本と勤労大衆との階級的対立という法則にそってではなく、その一部分であることは事実だか、日本独占の海外進出に集中し、これとたたかうことに主力を置いて考えていたといえる。このような傾向は青年のなかでとくに強かった。
  アメリカのベトナム侵略戦争が本格化し、日本独占がこれに積極的に加担しかつ経済的にもこれを利用していくとともに、反戦闘争はそれなりに強化された。各労働組合でも、少しづつ、このたたかいの必要性は理解された。そこで日本労働者階級は、一つの前進をかちとっていた。
  しかし反戦闘争の位置づけには不充分さがあった。外見上は安定期にあり、はなやかな「高度成長」をつづけていた資本主義経済の内実は、ますます階級対立が先鋭化していくことに他ならない。このことを確信をもってみつめ、この法則にそって反戦闘争を位置づけることが弱かった。反戦闘争を自己目的化したり、反合理化闘争はもうたたかえないが反戦闘争ではたたかえると逃げたりする傾向は、多かれ少なかれ運動全体の中に入りこんでいた。
 
 (19)このような状況の中で、公労協青年部を中心に、「反戦青年委員会」が結成され、一九六五年日「韓」条約反対闘争から活動しはじめた。青年はもちろん、社会党のなかでも、この組織や運動にたいする期待はかなり大きかった。
  「反戦青年委員会」ははじめ、労組青年部の団体共闘を中心に、社会党・社青同が加わり、さらに個人加盟を認め、様々な学生集団のオヴザーヴァー参加をも認める構成だった。そして中央につづいて、各県段階、さらに地区段階にも結成されて大きな役割りを果した。
  しかしこのように下にひろがってゆく途中で、学生から個人参加メンバーというルートで、極「左」主義諸潮流が積極的に加入戦術をとるようになった。そして一九六八年頃になると、もともと社青同に「加入」していた解放派や第四インターだけでなく、革共同革マル派、中核派などが、社会党・社青同の指導性の弱い地区や単産に入りこみ、「反戦青年委員会」の運動をつうじて勢力を拡大するとともに、「反戦」を引きまわすところも出てきた。
  彼らは独自の「反戦」運動を提起しはじめ、「第三期反戦青年委員会運動」を自称していた。その頂点は、いわゆる「職場反戦青年委」で労働組合を真向から否定した。「自主・創意・統一」というスローガンを悪用して、やりたい者だけをあつめ、生産管理だの山猫ストを叫ぶようになった。
  このような状態が部分的にせよ生まれたのは、根本的には、労働運動全体の右翼化のいわば「罰」である。少なからぬ青年労働者は学習も足らずまた指導もなく、階級闘争にむけて本当の前進をかちとることができなかったが、それでも職場の矛盾を感覚的につかみ、たたかおうとしてその場所を探しはじめていたのである。
 
 (20)社青同のなかで、これらのことが反映し大きな論争がはじまった。一九六七年第七回大会が終わったあと、その秋ごろからこの論争がはじまった。翌年の第八回大会では、事実上三つの流れが生まれ、一九六九年九月の第九回大会では、いわゆる「三つの見解」がてい立してまとまらず、次の一年間、この三つの見解書を中心に、徹底的に討論し、再び団結する道を探そうということになった。
  この一年間は社青同の歴史のなかで、最も困難な時期だった。一部の人々(太田派と解放派)は、この第九回大会の決定を拒否し、事実上の分裂活動をはじめていた。だから、社青同そのものへの失望も内外に生まれた。しかし同時に、少なからぬ同盟員が、この混乱を、結局は自分たちの弱さが原因だと真向から受けとめ、そこをとおって自分を高めよう、社青同の成果をうけつぎ発展させようと、本当に一人ひとり立ち上った。

 
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