第十節 八○年代後半の闘い
(44)中曽根内閣は、八五年の内政の課題として、教育臨調、地方「行革」、国鉄改革の推進を表明した。自治省は一月に「地方行革大綱の策定」についての通達を各自治体へ出し、八五年を「地方行革元年」にする意気込みを示した。六月に臨時教育審議会は「教育改革に関する第一次答申」を発表する。七月に行革審は「行政改革の推進方策に関する答申」を発表し、内閣の総合調整機能の強化、規制緩和、国有地の活用をはじめとする「行革」の全面的展開を表明する。また、同月、国鉄再建監理委員会は「国鉄改革に閣する意見」のなかで、「分割・民営化」をはじめとする一二万四千人の首切りを発表する。一二月には、国鉄当局は国労をはじめとする組合に「労使共同宣言」を強制するが、国労はこれを拒否した。「分割・民営化」を一年余り後に控えた国鉄当局は、国労への攻撃を集中し、「雇用不安」を利用しながら、分断・分裂工作を強めてきた。動労の国鉄当局への屈服をはじめ、国労からの分裂組織が結成されていった。
八六年七月には、動労が総評を脱退した。合化労連では、春闘、反合理化闘争をたたかうことを求める組合と全民労協を支持する合化本部との対立がつづき、臨時大会で(一二月)三五組合(約二万万千人)の除名が決定された。
独占資本は労資協調を唱える全民労協を歓迎するかたわら、一方で国労をはじめ反合理化闘争を基軸にして、たたかう労働組合と労働者の排除攻撃は織烈さを増し、労働運動内部では、全民労協の路線をめぐって総評を二分する意見の対立となった。
八六年十月九日、国労は第五〇回臨時大会(修善寺)を開催した。大会は執行部が提案した「労使共同宣言」を否決し、たたかう路線と組織を守った。その後、国労旧主流派は、国労から脱退して、「鉄産総連」を旗上げした。総評、社会党指導部は、国労旧主流派との結びつきを強め、国労への冷たい態度をとりつづけた。八七年四月一日の「分割・民営」後の新会社の採用、清算事業団への配属の実態は、国労への不当差別、不利益扱いであることを衆知のものとした。
(45)社会党は『日本における社会主義への道』に変わる「新宣言」を八六年一月の第五〇回続開大会で決定した。「新宣言」という改良主義路線は、大量首切りと政治反動の吹き荒れる客観的条件から大きく離れたものであった。その結果は八六年七月に行われた衆・参同時選挙に現われた。自民党は二百五十議席から三百四議席へ躍進、社会党は百十議席から八十六議席へ後退という衆議院の結果であり、中曽根内閣に「五五年体制の崩壊から八六年体制」と言わせしめた。
総評は八七年の第七七回大会で「一九九〇年に全的統一を達成して総評を解体する」ことを決定した。全民労連が一一月二〇日に結成されるに伴って、同盟、中立労連は解散を決定した。これによって、国民春闘共闘会議は解散されるなど総評労働運動の軸足は全民労連へ移行されることになった。
社会党も全民労連の発足を前にして「自前の党づくり」として、安保や自衛隊をはじめとする党の基本政策の見直し、「新言言」に基づく「組織改革」(案)が提案され、社・民の歴史的和解が叫ばれるようになった。そうしたなかで「新宣言」に反対した党県本部代議員を中心に党の基本政策の変更を許さないことを基本活動とする党員活動家による「党建設研究会全国連絡協議会」が発足した(八七年六月)。
国労は八七年九月に第五〇回大会から試練の一年を経過し、「分割・民営」後の五ヵ月余のたたかいを総括する第五一回大会を開いた。大会では国労の反合理化闘争路線を堅持し、総評解体反対、たたかう労働戦線の統一をめざして他の単産との共闘を強化し、その先頭に立ってたたかいつづけることを宣言した。
国労、全港湾などの呼びかけによって、総評解体反対の単産の結集が民間中小労組や日教組内の奮闘などと連動しながら、全国的な動きとなりはじめた。
社青同もこれを支持し、青年運動のたたかいと総括から反合理化闘争を自らの職場から再構築していくことを重視しながら、全民労連に反対し、総評労働運動解体反対の取り組みを強化した。
(46)社青同は、国鉄闘争が正念場を迎えた八六年十月に 第二一回大会を開催した。十月九日の大会開会の委員長挨拶で国労修善寺大会で「労使共同宣言」を否決したことが報告され、会場は万雷の拍手でこれに答えた。資本の集中的な攻撃のなかで、たたかわれてきた国鉄闘争は、総評や社会党の弱さを明らかにしたが、同時にたたかう国労への大きな期待が広く存在していることも示した。
とりわけ、熾烈な体制的合理化が全産業、全職場で吹き荒れるなかで「国鉄闘争は自分の問題だ」という企業を越えた労働者の連帯意識を育て、反合理化、反「行革」統一闘争が全国で組織された。敵の攻撃で国労組織は減少させられたが、たたかう路線と組織が残った意義は大きい。
大会では労働者が人間らしく健康で働きつづけ生きつづけていくためには、資本とたたかいつづけるしかないこと、当局にすり寄っても、生活と権利は守られないこと、そして資本とたたかいつづけていくためにはもう一人の仲間、家族を含めた団結がないとたたかいつづけられないことが、統一的に強調された。これが国鉄闘争を軸に反「行革」統一闘争を全国から追求してきた同志たちの結論であった。資本への責任追及のたたかいを強めるために、仲間と結びつき、仲間と共に反合理化闘争を労働組合の機関としてたたかっていく努力を強化していくことを意志統一しあった。
そのためにも、自分自身の怒りをはっきりさせ、仲間と結びついていける同盟員の主体性が強く要請されていることも明らかとなった。そのことを大会議案の基調では次のように提起された。「資本、仲間、古典の三つの先生に統一的にまなぶことが必要である。労働者の権利意識を確立し、もう一人の仲間をつくりつづけたたかいつづけていく同盟員と仲間の成長をかちとっていくためには、どの一つが欠けてもだめである。三つの先生に統一的にまなんでいく相互討論、相互批判を組織的に展開していく班活動を確立しよう」と。奪われる生命と権利の実態を取り上げ、反合理化闘争として組織していくためには、資本への怒りはどうか、仲間のことがつかまれているか、たたかいの展望(法則への確信)がどうかという三つの先生に統一的にまなんでいくことがないとたたかいは組織できにくいし、たたかいつづけていけないということであった。
八七年十月にロシア革命七O周年を記念して開催された全国交流集会では全ての職場に「仕事優先」が強制され、そのもとで現職死亡や自殺、健康破壊など、生命と権利が奪われつづけていることが共通して報告された。そのなかでたたかいをつくりだしていくには再度、働かされ様や扱われ方にこだわり、労働者は労働力を売っても、生命と権利、健康までは売っていないとの労働者の物の見方、考え方をはっきりさせ、仲間との共通認識をつくり上げなから、資本への責任追及のたたかいを強化していくことの大切さをまなびあった。人間らしく健康で働きつづけ生きつづけるために、班と職場の往復運動を積み上げながら、具体的に反合理化闘争を組織していく社青同の主体性の強化を意志統一した。
国際活動では八七年八月にロシア革命七〇周年記念訪ソ団(一〇七名)を派遣し、その後の国際友好文化センター結成(八八年六月)の基礎を築いた。
(47)八六年に人って、失業者は三%を越えた。円高不良のもとで、産業構造の再編成という国家ぐるみでおしすすめる体制的合理化は大量首切り(失業)と低賃金労働を労働者階級におしつける。国内での産業構造の再編合理化にとどまらずに、海外への資本輸出を行い、国内外の労働者階級からの搾取を強めてきた。八時間労働制の崩壊や労働時間の弾力的運用による長時間労働の強制を合法化する労働基準法改悪が四○年ぶりに強行された。そのもとで労働者の生命と権利が奪われ、人間として健康で働きつづける条件が増々困難となっている。労働者階級の反抗の増大は必然である。
独占資本は体制的合理化を労働者階級の抵抗を抑えて遂行するためにこそ、この十数年間、周到な準備と組織づくりによって、労資協調路線の全民労連を育成し、援助してきたのである。
しかし、資本主義の根本的矛盾である「失業の不可避性」は労資協調そのものの基盤を崩さざるをえない。現に八七春闘全体としては、ストなし低額回答におさえこまれたが、私鉄一畑やプリマをはじめ中小民間の職場では、第二組合を含めてストライキに立ち上がらざるをえなくなっている。また、国鉄の清算事業団のなかて、反首切り闘争に立ち上がっている国労の仲間は不安と動揺を学習と交流、家族ぐるみをつうじて克服し、たたかいつづけている。国鉄闘争を軸とする反首切り反「行革」統一闘争も全国で組織されている。われわれは、資本主義社会の「失業の不可避性」という客観的条件と、そのもとで労働者階級は資本とたたかわないかぎり、人間らしく生きていけないという自覚が労働者のなかに広がらざるをえないという科学的社会主義の路線に確信をもたなければならない、そのことを見定めて、組合員大衆が苦しんでいる首切り、出向、配転、賃下げ、労働強化、諸権利の破壊など、奪われる生命と権利の問題を具体的に取り上げ、反合理化闘争として組織していくことが強く求められている。このたたかいを通して、階級対立を自覚し、社会主義社会を実現するしかないという階級的意識をもった青年労働者を大量に育成していくことが社青同の任務である。
総評解体の危機が深まるなかで、労働者の組織がどうなるのかという不安、動揺も深まってくる情勢ではあるが、今日の運動の後退が、労働者階級の焦眉の課題である首切りや賃下げ、奪われる生命と権利の問題を反合理化闘争として組織できなくなってきたところにあるとすれば、ここでの運動の再構築をおいて、有効な反撃はないはずである。
社青同は、あくまでも科学的社会主義の学習と反合理化闘争を土台に、資本主義社会への根本的批判の思想をもって、右傾化と断固としてたたかい、全民労連に反対し、反独占政治的統一戦線の中心的勢力である総評労働運動の階級的強化をおしすすめることを意志統一し奮闘した。
(48)社会党は八八年一月の第五三回大会で「新宣言」にもとづく「組織改革」(協力党員制度の導入と民主集中性の放棄を内容とする)を決定した。安保、自衛隊、原発、「韓」国問題などの基本政策の変更を狙った攻撃も執拗に繰り返されてきた。
総評は、同年三月の拡大評議会に、前年の第七七回大会で決定していた「九〇年秋の総評解体」を一年早めて、「八九年全的統一して、総評解体」を提案した。
全民労連を主導とする労働運動の右翼的再編成によって、いよいよ総評が解体されることが必至となった。国労、全港湾、新聞労連をはじめとする全民労連に参加していない民間単産は総評が実質上、春闘を放棄したなかで「八八春闘懇談会」(三〇単産二十五万人)を発足させ春闘の発展・継承をめざした。また、労研センターは、総評解体を想定して全民労連に反対する全ての労働者、労働組合の結集をめざす連絡・共闘組織として「全国労働組合連絡協議会」を提唱した(八八年六月)。
また、総評解体の流れのなかで、これまで総評・社会党ブロックのなかで発展してきた反独占青年運動も、大きな影響を受けざるをえなくなった。その具体的現われとして、八八年の第二一回全国青年団結集会の開催要綱(講師)に対して、総評から見解が出され、実行団体(単産青年部)の不一致が生まれた。これは団結集会だけの問題にとどまらずに、他の青年共闘にも波及する。これまでの形態での青年共闘の維持が全民労連の発足と総評の解体によって、困難になってきたのである。全民労連は青年組織委員会を発足させて、青年部活動に着手しはじめた。そうした状況を受けて、反独占青年運動の路線と組織をどのように維持し、前進させていくかが問われた。
右傾化が資本との闘争の解体(資本への協力)をつくり出しているなかで、青年運動を強化していくには、青年の実態からの論争とたたかいを職場、地域から強化しなければならなかった。全民労連の青年活動方針には、反独占の具体的たたかいと運動をもって対決していくしかない。同盟のようにボランティア運動と富士政治大学の取り組みなど、青年運動といえないような状況があるなかで、「行革」合理化による首切り、賃下げ、労災・職業病など青年労働者の切実な闘争課題を取り上げ企業を越えた交流を組織し、これを大幅賃上げ、反合理化統一闘争にしていくことをめざした。
青年の共闘運動は春闘や反首切り、反合理化闘争を中心とする闘争課題による企業を越えた青年の統一闘争にとどまらずに、そのたたかいをつうじて、資本主義社会を打倒し、社会主義社会をめざしてたたかう青年の階級的自覚と団結を構築していくことにあった。七七年以降の青年の共闘運動の破壊攻撃の狙いも、この闘争路線と組織を解体することにあった。社青同はそうした認識の上にたって、運動の基調を大事にしながら大衆運動を背景にしてその運動と組織を守ってきた。そのたびに鍛えられ成長してきた。
その論争は資本の「不況・赤字」攻撃、「行革」攻撃で、企業主義に立つ合理化協力路線が総評労働運動に浸透してくるなかで、これまで通りの主張と運動をつづけようとする運動とのぶつかりであった。「生産に協力し企業再建することが雇用を守る」という「雇用確保」路線と青年の共闘運動はぶつかった。共闘の問題でありながら反合理化闘争そのものが、議論となった。
反合理化闘争による労働者の階級的統一と、社会主義をめざしてまなびたたかう青年同盟としての闘争路線が問われたのである。
この青年の共闘をめぐる論争は、たんに社青同の路線・主張だけの問題ではない。各職場の労働者一人ひとりと労働組合の態度が問われているのであり、資本の攻撃にたたかって生命と権利を守るのか、すりよって守るのかの厳しい討論である。労働組合とは何か、何のために誰と共闘するのかなど、組合民主主義に立った大衆的討論が求められた。厳しくともその論争はさけられない。
それはとくに国鉄闘争への連帯で鋭く問われた。社会党・総評が、たたかう国労への支援・連帯を明らかにせず、むしろ「雇用確保」路線でおさえこもうとする動きが強まった。そういう妨害をはねのけて、社青同は国鉄闘争の強化に全力を上げ支援連帯活動を全国で組織した。団結集会運動は四二都道府県・三〇〇地区で組織され、その参加者は六〜七割が同盟員以外の青年である。
そして、反合理化闘争と同時に、政治闘争でも積極的に闘争をもちこみ=共闘の内実を、作る努力を始めた。八二年広島から始まった反核平和の火リレーは八八年平和友好祭(日本実行委員会)のなかで三四県に広がり三万人の青年が行動に参加するようになった。平和友好祭でのアンケート活動、あるいは青年部としての三宅島訪問、また反基地・反自衛隊闘争の継続的取り組みが開始され強化された。
社会党・総評ブロックの解体がすすめられるなかで、これまで通りの路線を守り、運動を作り、たたかいを呼びかけ、仲間を組織しつづけている意義は大きい。そこには科学的社会主義の学習を土台に育成された労組幹部・活動家が多数配置され、日常的な五人組活動、家族ぐるみ、学習会、職場反合理化闘争など三池の長期抵抗統一路線に立った二十年余りの運動の積み上げがある。この実践にまなぶことである。攻撃の厳しさだけで総評労働運動が解体したのではない。大衆闘争路線の実践の不十分さが今日の事態を招いたのである。労働運動と社会党の強化の展望は、自分の職場から科学的社会主義の学習と職場闘争を粘り強く積み上げながら、もう一人の仲間作りをすすめ、春闘や反合理化闘争を再構築していくことである。そのことを抜きに新しいことを考えたり幹部批判だけでは一歩も進まない。
一人ひとりの労働者、労働組合、社会党に問いかけて、労働者の切実な闘争課題を反独占大衆運動として組織し、全体のものにすることを通して、反独占青年運動の解体を阻止することに全力を上げる時である。この先、青年の共闘の形態がどうなるかは分らない。右傾化した労組のなかで青年部組織すらない例が多い。
しかし、奪われる生活、権利の実態が広がっているなかで、広範な青年がたたかうことを求めている。科学的社会主義の学習と反合理化職場闘争を粘り強く組織し、労組青年部運動の再構築をめざしながら、反独占のたたかいを呼びかけていけばいつの時代も青年は無限の力を発揮する。「この階級へのそれとともにまた政党へのプロレタリアの組織化は、労働者自身の間の競争によってたえず繰り返しうちくだかれる。だが、それはいつも、一層強力な、一層強固な、一層有力なものとなって復活する」(共産党宣言)
総評解体という事態を受けて、われわれが意思統一すべきことは、社会主義革命にむけた強固な主体性を不断の学習と大衆闘争をつうじて再構築していくことである。