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V『赤旗』の荒堀広論文−−その批判と紹介
批判と紹介そのI
「特定政党支持」義務づけの誤りを合理化する
反共主義に反論する−−「社会主義協会」のパンフレットについて
 社会主義協会が、一九七二年夏の総評大会直前に発行したパンフレット『労働組合はなぜ社会主義政党を支持するか』は、労働組合と社会主義政党の協力関係をつよめ、日本における労働組合運動、社会主義運動の前進をねがう多くの労働組合の幹部、活動家のみなさんに読まれ、全国各地の学習会のテキストとして活用されることになった。それは、このパンフレットの内容が、今日まで日本社会党を支持してともにたたかってきた総評を中心とするたたかう日本の労働者につよい確信を与え、労働組合と社会主義政党をきりはなそうとする日本共産党や太田薫氏に代表される総評内の日和見主義グループに、大きな打撃をあたえるものであったからである。このパンフレットの影響のひろがりにおそれおののいた日本共産党は、七二年末におこなわれた総選挙中に、機関紙『赤旗』(一一月二三日付)で「“特定政党支持”義務づけの誤りを合理化する反共主義に反論する−“社会主義協会”のパンフレットについて−」(荒堀広氏、党中央委員会労働組合部長)と題する長文の批判を加えてきた。これにたいして、われわれは、緊急に『日本共産党の独善的批判にこたえる−労働組合の政治闘争すら否定せざるをえない「政党支持自由論」の誤り−』というパンフレットを発行し、完膚なきまでに反論した(本書所収)。ところが『赤旗』(七二年一二月八日付)は、性懲りもなく「再び『社会主義協会』の非難にこたえる」(荒堀広氏)という再批判を試みてきた。
 年があけると、日本共産党の社会主義協会攻撃はいっそうはげしくなり、『前衛』二月号では「革新統一戦線か反共主義か」という特集まで企画しての協会攻撃に血道をあげてきたのである。これにたいして、われわれは、雑誌『社会主義』三月号の「特集 日本革命を担うものはだれか」で、全面的に『前衛』二月号の特集と、「政党支持問題」の理論的混迷をますますふかめた前記『赤旗』の第二論文についての反批判(「ふたたび日本共産党の『政党支持自由論』の非階級性、ブルジョア性について−荒堀広氏の『再反論』にこたえる−」〈本書所収〉)をおこなったところである。
 以上が、昨年末から今日までの日本共産党との論争の経過である。日本共産党の「政党支持自由論」をなんとか正当化しようとする苦心の論理展開は、われわれの二度にわたる反批判で論破しつくされていることはいうまでもない。しかし、『赤旗』をほとんど手にすることのない多くの活動家のみなさんのために、『赤旗』の二論文の主な内容を紹介しておくことも、彼らの理論的誤りとその独善的な体質を理解していただくために幾分なりとも役にたつであろう。論争を実りあるものとするためには、おたがいの見解を正確に読みとり、理解することがまず最低のモラルであるから、ここでは『赤旗』掲載の論文の要旨を紹介できるかぎり忠実にすることに重点をおきながら、批判を加えたい。
 まず、「『特定政党支持』義務づけの誤りを合理化する反共主義に反論する」(以下、第一論文と略称)から検討していくことにする。
 第一論文は、「はじめに」の項で、社会主義協会を「社会党の一派閥」ときめつけ、パンフレットが、「労働戦線の真の統一に重大な挑戦」をしているという立場から批判を展開している。このこと自体、社会主義協会がなんであるかをまったく理解していない、かつ独善的な発想にほかならないが、それはさておき、第一論文は、まず「政党支持の自由は“政治的中立”ではない」という、彼らのふるびた理論をもちだすことからはじまる。(以下、小活字の個所は引用文)。
 文書は、まずシュトゥットガルト決議(一九〇七年の第二インターナショナル第七回大会)やレーニンの諸論文を引き合いにだして「政党支持の自由」を主張するわが党が、あたかも労働組合の「中立性」の立場にたっているかのように非難してつぎのようにのべている。(中略、本書二七〜八頁参照) この議論の誤りは第一に、わが党の労働組合と政党との関係についての方針を故意にわい曲していることである。 わが党の方針は、政党と労働組合との原則的関係についてつぎのようにのべている。 「労働組合が、労働者の共通の要求にもとづいて経済闘争や政治闘争をすすめるにあたって、労働者の階級的要求を反映している政党と協力関係をもつのは、当然のことである。しかし労働組合と政党では、基本的性格を異にし、相互に自主性をもった別個の組織であって、両者の協力関係は、あくまで、@組合員の政党支持と政治活動の自由を保障し、A相互の立場を尊重しながら、共通の要求の見地から正しく協力し共同しあう という原則のうえにおかれなければならない」(第十回党大会第六回中央委員会総会決議) このようにわが党は、組合員の政党支持、政治活動の自由を保障し、労働組合と政党の正しい協力共同の関係の確立を強調し、米日支配層への屈服の道である労働組合の「中立性」などの立場にたってはいない。文書の執筆者たちは、いったいこのわが党の方針のどこに労働組合の「中立性」の主張を見出すというのであろうか。 もともと、組合員の政党支持、政治活動の自由の保障とは、労働組合にあっては、労働組合が労働者階級の基本的大衆組織であるという本質的性格にかんする問題である。また労働組合が「中立性」の立場ではなく、労働者の階級的要求を反映している民主政党と協力共同の立場にたつということは、もちろん階級的組織としての労働組合の本質的性格に根ざすものであるが、それは自分たちのかかげる経済的、政治的要求を真に実現する見地にたつかどうかという労働組合の階級的任務にかんする問題である。 だからこそ、わが党は組合員の政党支持、政治活動の自由を保障し、労働者の階級的要求を反映している民主的政党との正しい協力共同の関係の確立を強調しているのである。それは、現在、日本のおかれている条件のもとで、労働組合が共産党、社会党をふくむすべての民主勢力の統一戦線の結成をめざして積極的な役割を果たさなければならないという見地からいっても当然のことである。 文書の執筆者たちは、労働組合の本質的性格と階級的任務という二つの問題の区別と関連を理解することができず、これを混同させてわが党の労働組合政策を「中立性」などとわい曲しているのである。これは文書の執筆者たちの無知をみずからさらけだしているものにすぎない。
 すでに本書の〈I〉〈U〉をお読みいただいた読者のみなさんには、いったいどちらが「無知をみずからさらけだしている」か、おわかりであろう。
 つづいて第一論文は、「手前かってなレーニンの利用」と題して、つぎのようにのべる。これまたどっちが「手前かって」なのか、そのままこのことばを荒堀氏に返上したい内容であることは一読すれば明白である。
 この議論の誤りは第二に、「社会党一党支持」の義務づけが「党と組合とのあいだにはより緊密な、そしてより永続的な関係が結ばれなければならない」と提起したシュトゥットガルト決議やこれを支持したレーニンの見地のわが国における具体的な実践的形態だと断定していることである。(正確には、シュトゥットガルト決議は『労働組合と党組織との関係が緊密であればあるほどプロレタリアートの闘争はそれだけ効果的になり有利になるだろう』−筆者) たしかにレーニンは、シュトゥットガルト決議を支持し、労働組合の「中立性」に反対し、党と労働組合の「緊密な接近」を強調した。しかしレーニンは、同時に労働組合の本質的性格をじゅうりんする「特定政党支持」の義務づけといった方法や形態をもつよくいましめてつぎのようにのべている。 「組合と党とのより緊密な接近―これが唯一の正しい原則である。組合と党とを接近させむすびつける努力−−これがわれわれの政策でなければならない、そのさいこれを実行するには、たんなる『承認』を追いもとめるのではなく、まちがった考えをもつものを労働組合から追い出すのでもなく、われわれの宣伝、扇動および組織活動全体のなかでうまずたゆまず根気づよくやらなければならないのである」(レーニン『論集「十二年間」の序文』) このようにレーニンは労働者階級の党が労働組合に「接近」する方法として、たんなる「承認」をおいもとめるようなやり方、つまり組合機関で党の支持を決議し組合員に義務づけるようなやり方ではなく、組合内における党員が労働者大衆を政治的に統一するためのうまずたゆまず根気づよい活動をつうじてのみ達成されることを強調している。当時のロシアでは労働者を主要な基盤とする政党が労働者階級の党、社会民主党(注・現在の共産党)ただ一つであったこと、しかも社会民主党も労働組合もともにツァー政府のもとで非合法におかれていたこと、こうした特殊な条件のもとで労働者階級の党と労働組合との原則的な関係を明確にしていく過程でもあった。そうしたなかでレーニンは党と労働組合の「接近」の問題でたんなる「承認」をおいもとめるようなやり方をきびしくいましめているのである。 それは、レーニンが労働組合の「中立性」、「無党派性」に断固として反対するとともに、一方、「労働組合員にはけっして一定の政治的見解をもつようにもとめてはならない。この意味では、宗教にたいする態度の問題の場合と同様に労働組合は無党派的でなければならない」(一九一二年、ロシア共産党(ボ)中央委員会)として、労働者階級の基本的大衆組織としての労働組合の性格をきわめて重視したからである。ましてや今日のわが国は当時のロシアとは違い労働者を主要な基盤とする政党が複数で存在し、一方干数百万におよぶ組織労働者が存在する。 いったい文書の執筆者たちは、選挙にあたっては、特定候補の選挙活動や選挙資金をおしつけ、労働組合の団結の基礎であり、組合員の基本的権利でもある政党支持、政治活動の自由をじゅうりんし、あまつさえ、これを批判したり、信ずる政党のための活動をしたからという理由で統制処分にしたりする「特定政党支持」の義務づけが、レーニンの原則的見地だとでも思っているのだろうか。 こうしてみると、もともとマルクス・レーニン主義党でもない社会党の人びとがレーニンの文章まで引き合いにだして「特定政党支持」の義務づけの誤りを合理化しようとすること自体、無理がある。
 さらに第一論文は、われわれが、「党の責任を労組へ転嫁」しているという批判をおこなっている。ここでは、「組合機関の統制によって党の政策、方針を支持させること、投票や募金を組合をとおして強制する」などといっているが、われわれの主張のどこを読めば、こういう理解になるのだろうか。
 さらに、文書は他の個所で「社会党一党支持」の義務づけという形態がわが国の条件のもとでの党と労働組合の「接近」の正しい方法だとして日本とヨーロッパとの条作の相違点なるものをあげている。しかしこれも、かれらの誤りをいっそう明瞭にするだけのものとなっている。文書は、ヨーロッパの労働組合が政党からの「自主性」をうたっている原因として、労働組合が政党のことで「頭」を痛める必要がないこと、労働組合内にたくさんの「社会主義政党員」がいることなどをあげたうえでつぎのようにのべている。(中略、本書四七頁参照) たしかに、日本とヨーロッパとでは、労働運動についての発展過程には相違がある。しかし、ヨーロッパ、とくにフランスやイタリアで普遍的原則になっている「政党支持の自由」が、日本にあてはまらない理由として、組合内に政党員が少なかったり、組合員の政治意識の程度を問題にするのは、本末転倒もはなはだしいといわなければならない。 本来、労働者階級の党はその綱領にもとづいて党員がすくなかろうと、多かろうと政党の独自の任務として労働者を階級的、政治的に高め、労働組合の階級的前進のために援助しなければならないのであって、この政党の独自の機能、役割を労働組合に肩がわりさせたりしてはならないものである。もしそうでなければ、一方では階級全体を代表し、階級の政治的代表者として行動するという政党の役割を低め、他方では大衆組織としての労働組合の本質的性格を損じ、広範な労働者階級を組織するという労働組合の積極的な役割を低めるからである。わが党はこうした原則的見地から、正しい政策と方針にもとづいて組合のなかで献身的に組合員の利益をまもるために活動し、そのことによって組合員の支持をうるよう努力している。組合機関の統制によって党の政策・方針を支持させるとか、投票や募金を組合をとおして強制するなどの方法はすこしもとってはいない。 したがって文書のように、組合内に政党員−社会党員がすくないからといって、「社会党一党支持」の義務づけを合理化する立場は、社会党自身の責任に属する問題を大衆組織である労働組合へ転嫁し、政党のためには労働組合の本質的性格をじゅうりんしてもやむをえないとする極端な労働組合私物化の告白以外のなにものでもない。ここには、労働者階級の党がとっている原則的立場とは、およそ似ても似つかぬ、社会民主主義政党の本質的な体質があらわれている。
 第一論文のつぎの批判は、「憲法の民主的条項と“階級的”立場」と題して、日本共産党が「政党支持自由論」の最大の根拠としている憲法との関係についてのべている。このなかでは、政党支持を労働組合の機関できめることは、「政治的信条にかんする固有の権利」を犯すから決定してはいけないという、労働組合が政治闘争をなに一つできなくなる主張を展開していることだけを指摘しておいて、つぎの引用をお読みいただこう。
 つぎに文書は、「政党支持の自由」のじゅうりんは憲法の民主的条項にも違反するというわが党の主張にたいして、それは「階級的立場を放棄し、ブルジョア憲法の立場に立つものだ」と非難してつぎのようにのべている。 「労働者にとっての政治活動の自由、政党支持の自由とは、一、労働者階級からさまざまの自由を奪いとっている独占資本の政党を支持しないこと、二、労働者の自由を拡大するために努力している政党と協力し、これといっしょにたたかうこと、であるといわなければなりません。階級対立という資本主義の現実を無視し、資本主義憲法に規定されている形式的自由にすがりつくことは、階級的立場を放棄し、ブルジョア憲法の立場にたつものといわなければなりません」 この文書によれば、現行憲法の民主的条項を擁護するものは、「形式的自由」に「すがりつく」ものであり、階級的立場を放棄するものだということになる。これは驚くべき暴論である。 憲法で保障された労働者の政党支持の自由を守るということは、「独占資本の政党を支持しないこと」や「労働者の自由を拡大するために努力している政党と協力」するといったせまい意味のものではない。この文書のいう問題はむしろ「労働者の自由」を拡大するうえでの労働組合の階級的任務の問題である。本来、政党支持の自由とは、文書がいう「労働者の自由」そのもの、つまり個々の労働者にあっては政治的信条にかんする固有の権利の問題である。しかも憲法の民主的条項を活用してこの労働者の固有の権利を擁護することは、「形式的自由」にすがりつく「階級的立場の放棄」どころか、今日、職場に軍国主義的反動体制を確立しようとしている独占資本、政府とのもっとも重要な政治的対決の一つとなっている。 事実、「職場に憲法がない」といわれているように独占資本や自民党政府は、労働者にたいして民主的政党とりわけ反動勢力と真に対決している共産党を公然と支持する自由、すなわち何党を支持するか、何党を“選択”するかという政治的信条にかんする労働者の自由と権利をうばうためさまざまな手段と方法をとっている。あらゆる産業や企業のなかで、共産党員や民青同盟員にたいして“転向”を強要したり、「赤旗」読者にたいして「購読をやめよ」と脅迫したりしているのは、その典型的な例である。それは今日、反動勢力の労働者と労働組合にたいする権利攻撃の焦点ともなっている。 したがってこの問題にかんして「階級的」立場とは、なによりもまず政治的信条にかんする労働者固有の権利を断固として擁護することでなければならないし、逆にこのことを否定する文書の立場こそ、反動勢力の側からの労働者への権利攻撃をたすける「階級的立場の放棄」ではなかろうか。 ところで文書は、「特定政党支持」の義務づけが憲法違反だというなら、かつて共産党は「社・共両党支持」を「過渡的」なものとして主張したことがあるが、「社・共両党支持」なら憲法違反にならないのかとひらきなおっている。そしてこれは「社会党一党支持」さえなくせば、労働組合の民主的統一がすすむと考えた上での共産党の「セクトの理論」だとさえ主張している。しかし、これもまったく的はずれの非難である。 わが党の方針をよくよめばわかるように、かつてわが党が、「社共両党支持」ということに「過渡的」意義を認めてきたのは、けっして憲法に保障されている政党支持の自由をじゅうりんする「特定政党支持」を義務づける見地からだしたものではない。それは、多くの労働組合が「社会党一党支持」を組合員に強要しているという条件のもとで、組合員の政党支持、政治活動の自由を保障する見地から、さらに国の政治の中心問題である安保をともにたたかった共産党、社会党との正しい協力共同の関係を確立する見地からだされたものである。だからこそ「社・共両党支持」を絶対化したり固定化したりせず「過渡的」なものとして位置づけているのである。  「わが党が『社・共両党支持』ということに過渡的意義を認めてきたのは、特定政党支持を義務づける見地からでているのではなくて特定政党支持として社会党支持が強要されている状態に反対するものであり、安保闘争をともにたたかった政党と労働組合の協力という見地からだされたものであって、これを政党支持の自由の原則からはなれて絶対化したりすることは正しくない」(第八回党大会第四回中央委員会決議) こうしたわが党の見地を「社・共両党支持」の義務づけを主張し、民主的権利をじゅうりんしているかのようにわい曲すること自体、「社会党一党支持」の義務づけがもつセクト的党派主義の誤りをみずから証明しているものである。
 第一論文のつぎの批判点は、「労働戦線統一の障害は何か」ということで、「社会党一党支持」が労働組合の団結を破壊するものであるとのべ、したがってわれわれの主張が「分裂主義者の論理」であるという独善的、セクト的な主張のくりかえしである。本書の読者にはもうすこしご辛抱ねがわねばならない。
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