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二 ふたたび日本共産党の「政党支持自由論」の非階級性・ブルジョア性について(後半)
     ブルジョア民主主義から一歩もでない日本共産党の「階級」観
 われわれはさきの「批判」で労働組合の社会主義政党支持は憲法違反であるという日本共産党の議論が、いかに非階級的であり、階級的立場の放棄であるかを再度論証した。
 これにたいして荒堀氏はつぎのようにのべる
 「戦前、『資本および資本家政府』を『支持する自由』はあっても、共産党を公然と『支持する自由』はなかった。つまり結社の自由とともに同党を支持するかしないかという政党支持の自由、“選択”の自由が絶対主義的天皇制によって不当にもうばわれていたのである」。したがって、「この憲法に保障された思想、信条の自由、“選択”の自由を擁護することこそ真に階級的立場ではなかろうか」。
 これはわれわれの批判になんらこたえていないばかりか、じゅうらいの非階級性、ブルジョア性をいっそう露骨にくりかえしたにすぎない。さきの「批判」であきらかにしたように、荒堀氏はまえの論文で、ブルジョア政党もふくめた政党一般を支持する自由を「断固として擁護する」ことが「階級的」立場であり、逆に資本家階級とたたかうために労働組合と社会主義政党との支持協力関係の樹立をうったえるわれわれの立場を「階級的立場の放棄」だという、おどろくべき本末転倒の暴論を展開した。こんどの「再反論」でも、氏はあいかわらず、ブルジョア憲法の形式的自由を「擁護することこそ真に階級的立場」であるというじゅうらいの主張をくりかえしている。このように、「階級的」とはなにかということすらまったくわかっていない諸君とマルクス・レーニン主義的に論争しようとしたわれわれが、どうやらまちがっていたようだ。諸君にいま必要なことは、政党と労働組合の関係にかんするレーニン的原則以前の問題として、「真の階級的立場」とはなにかということを、イロハから説ききかせることである。
 戦前の軍国主義的ファシズムのもとでは、たしかに社会主義政党を「支持する自由」は不当にもうばわれていた。戦後現憲法が制定され、その「自由」は保障された。しかしそれは、ブルジョア民主主義が確立されたということであって、それ以上のものではありえない。ブルジョア民主主義は、それがどんなに民主主義的であっても、ブルジョア階級独裁の一形態にすぎない。労働者にも形式的には「自由」があたえられている。しかし資本家に労働者を搾取する「自由」が保障されている以上、労働者には搾取される「自由」しかありえない。資本家に、首切り「合理化」をおこなう「自由」がある以上、労働者には首を切られ、生活をうばわれる 「自由」しかありえない。資本家に公害をばらまく「自由」がある以上、労働者には生命と生活を破壊される「自由」しかありえない。かくして、憲法に規定されている「健康で文化的な−−生活を営む権利」は形式的規定にとどまらざるをえない。すなわち、ブルジョア民主主義のもとでは、国民に形式的にあたえられているものが、資本の搾取・支配のもとにおかれている労働者階級のばあい、実質的にはうばわれている。かくして労働者階級は資本家階級とたたかうことによって生活と権利をまもらなければならず、したがって、ブルジョア民主主義のもとでは階級闘争が必然的となる。
 このように労働者階級が現憲法のもとで追求しなければならぬ真の「自由」とは、現憲法が保障している労働者の団結権と団体行動権に依拠して資本家階級とたたかう「自由」であり、階級闘争をおこなう「自由」である。ブルジョア憲法が保障する形式的「自由」の立場からすれば、労働者には資本家とたたかう「自由」もあるし、たたかわない「自由」もある。労働組合を分裂させる「自由」もあるし、独占資本の政党を「支持する自由」もある。ありとあらゆる「自由」が形式的には保障されている。しかし、政党支持問題にかんする労働者の「真の階級的立場」とは、独占資本の政党を「支持しない自由」の確立であり、これとたたかい、打倒するために社会主義政党を積極的に「支持する自由」の確立である。ところが日本共産党の諸君は、こともあろうにわれわれがこの「階級的立場」を主張すると、それは憲法違反であり、逆に「階級的立場の放棄」だと非難する。
 ブルジョア憲法は、それがどんなに民主主義的であり、「自由」を保障していても、プロレタリアートの「階級的立場」にたって規定されたものではけっしてない。労働者にも形式的には自由一般、民主主義一般があたえられるが、ブルジョアジーの実質的支配は確保される。それはブルジョアジーの階級支配の形態であり、その本質はブルジョア階級のための民主主義である。それがいかにブルジョアジーの「階級的立場」にたって規定されたものであるかは、私有財産不可侵の規定がもっともつよくしめしている。したがって諸君が、現憲法の形式的自由を擁護することが「真の階級的立場」だと主張するばあい、その「真の階級的立場」とは、じつはほんらいブルジョアジーの「階級的立場」にほかならぬことになる。だから、諸君はブルジョアジーの「階級的立場」にたって労働組合に「政党支持自由」というブルジョア的原則をおしつけ、逆に労働組合が社会主義政党との緊密な支持協力関係という「真の階級的立場」を確立しようとすると、それは「階級的立場の放棄」だといって非難しているのだ。つまり、諸君はブルジョア的な「階級的立場」からプロレタリアートの「階級的立場」を非難する。すくなくとも客観的にはそういうことにならざるをえないことを、諸君は理解できないでいる。このように、現憲法はブルジョア憲法であるがゆえに、これをたんに擁護するだけならば、社会主義者だけでなく、ブルジョア民主主義者、自由主義者もこれを擁護することができる。プロレタリアートの「階級的立場」にたっていない小ブルジョア中間階級をも、これを擁護する戦線に動員することができる。アメリカ占領軍も終戦直後には現憲法の制定に参加し、これをリードした。したがって諸君がいうように、現憲法を擁護するものは、すべて「真の階級的立場」にたっているのなら、アメリカ帝国主義の軍隊もこの時期には「真の階級的立場」にたっていたことになる。アメリカ占領軍は、まさに「解放軍」であった!諸君はなぜ、コミンフォルムの批判にあうや、あわてて「アメリカ占領軍=解放軍」規定をとり消したのか。
 このように、日本共産党の「世界観」は、荒堀氏の主張をみるかぎりブルジョア民主主義の限界を一歩もでていない。
 だがわれわれは、日本共産党がそのイデオロギーにおいてこのようにブルジョア民主主義的な政党でしかないことを知っても、独占資本の政党とは明確に区別する。そして諸君のようなブルジョア民主主義者とも手をくんで、改憲阻止の広範な統一戦線を樹立しなければならないと考える。それは今日、わが国の労働者階級にとって最大の政治的課題が現憲法の擁護であることを、明確に把握しているからだ。
 さきにものべたように、ブルジョア憲法はほんらいブルジョア階級独裁の一形態にすぎぬとはいえ、今日、ますます矛盾をふかめる独占資本の支配を維持するために、このブルジョア民主主義すら、不便なものとなってきている。憲法改悪が独占資本とその政府にとって重大な政治的目標となっているのはそのためであり、したがって社会主義政党にひきいられる労働者階級が先頭にたってこのブルジョア憲法をまもりぬかねばならないところに現代の最大の問題がある。
 われわれが現憲法を擁護するのは、むろんわれわれがプロレタリアートの「階級的立場」を「放棄」しだからではない。社会主義者が現憲法を擁護するのは、第一に、階級闘争の自由と条件を確保すること、つまり政党支持にかんしていえば、ブルジョア憲法が保障する形式的自由に依拠して、社会主義政党を公然と「支持する自由」をうちたて、「平和革命」の条件をまもりぬくためである。第二に、現在のわが国の条件のもとでは、現憲法を擁護する広範な反独占、民主主義擁護、帝国主義戦争反対の統一戦線の構築をつうじてのみ、社会主義革命の主体的条件が準備されるからである。
 すなわち、改憲阻止のたたかいをつうじてのみ、わが国では社会主義革命への道をきりひらくことができるからであって、憲法擁護の立場にたつことは、けっしてブルジョア憲法そのものの立場にたつことではない。憲法の民主的条項に依拠して、独占資本を孤立化させるためのたたかいを強化することが必要であるが、しかしこれは労働者の「階級的立場」をブルジョア民主主義のなかに解消させてしまうことではない。したがってもっとも重要なことは、この憲法擁護のたたかいは、独占資本とその政府にむけられた闘争だということである。憲法改悪をおしすすめているのは、まさに独占資本とその政府・自民党である。われわれはいまやブルジョア憲法の形式的自由をまもりぬくためにも、自民党政府を敵としてたたかわなければならない。憲法に保障された政党支持の自由をまもりぬき、その形式的自由に依拠して社会主義政党を公然と「支持する自由」をうちたてるためにも、自民党政府に反対し、これを「支持しない自由」を労働組合に確立しなければならない。だから日本共産党のように、自民党もふくめた政党支持の自由を労働組合の原則にまで高め、その制限は憲法違反になるというブルジョア的形式論理をふりまわしていては、いまやこの憲法すらまもりぬけない情勢にあるのだ。
 このように、荒堀氏の「再反論」によって、日本共産党の議論の非階級性とブルジョア性がいっそうくっきりとうかびあがった。しかし氏はそんなことにはおかまいなく、つぎのような問いをわれわれになげかける。
 「われわれは問いたい。共産党員やその支持者が、職場で資本の権利攻撃にたいして共産党を公然と支持する自由、思想、信条の自由をまもり拡大するために日夜、戦闘的にたたかっていることは、『ブルジョア憲法に規定された形式的自由にすがりつく』『階級的立場の放棄』であり、逆に組合機関決定の名をもって組合員である共産党員やその支持者に『社会党一党支持』を押しつけ、事実上資本と同じように“選択”の自由をうばうことが『階級的』立場なのかと」。
 これによると、共産党員やその支持者は「共産党を公然と支持する自由、思想、信条の自由をまもり拡大するために日夜、戦闘的にかたかっている」という。もしほんとうに諸君が「共産党を公然と支持する自由」の確立を労働組合によびかけ、そのために日夜努力しているのなら、もちろんこれは正しい態度である。われわれはさきの「批判」で、「共産党の諸君が、本気でマルクス・レーニン主義者たろうとするならレーニンがいうように、党と組合との『緊密な接近』を『唯一の正しい原則』とするがよい。多くの労働組合が社会党と協力関係をもつことをきめていることが気にくわないのなら、どうして共産党の支持を公然とよびかけないのだ。それを公然とできない事情があるのなら、すくなくとも、自民党を支持しないという階級的原則を労働組合内に確立するよう努力すべきである。ところが諸君は、自民党をふくめた政党一般を支持する自由を労働組合の原則にまでたかめる。そしてこの原則のもとに拝脆し、労働組合の組織的闘争を否定し、ひいては労働組合そのものの存在をすら否定する」と指摘した。
 くりかえすが、もし諸君が「共産党を公然と支持する自由」をよびかけているのなら、われわれはこの態度を非階級的といって批判はしない。これにたいしてわれわれもまた、社会党支持をうったえるだろう。そうなると諸君とのあいだには、社会主義政党と労働組合の関係にかんする議論とは別の次元の、どちらが真に、労働者階級の利益を代表するかという、党の路線、政策などをめぐる論争がたたかわされることになる。われわれは、そのほうがよほど日本の階級闘争の前進にとって生産的だと考える。ところが諸君は、労働組合が社会主義政党支持を機関できめること自体がまちかいだといって、敵前武装解除をすすめる。そればかりか、その根拠として組合員の「思想・信条」、「政治的信条」にかかわる問題は機関決定すべきでないというブルジョア的なりくつまでもちだして、労働組合に階級闘争の放棄をすすめ、労働組合運動の、事実上の否定をすらおしつける。われわれは、この諸君の利敵行為にたいして激しい批判をくわえているのだ。
 さらに荒堀氏は、この問いのなかで、「組合機関決定の名をもって組合員である共産党員やその支持者に『社会党一党支持』をおしつけ、事実上資本と同じように“選択”の自由をうばうことが『階級的』立場なのか」とのべ、またもやおどろく独善主義を暴露した。これによると、労働組合が社会党支持をきめることは、「資本と同じように」組合員から日本共産党を“選択”する自由を「うばう」ことになるというのだ。こうして、社会党支持をきめることも、「資本の権利攻撃」も、日本共産党にとってはまったく『同じ』ことである。戦前の「絶対主義的天皇制」も、共産党選択の自由を「うば」っている点で、社会党支持決定と「同じ」である。その自由を「うば」っていないのは現憲法のみである。だから、現憲法の立場にたつことが、日本共産党にとって、「真の階級的立場」ということになる。
 まさに、「日本共産党にたいする態度」こそがすべての基準である。われわれはさきの「批判」で、正しい運動かどうかは、「日本共産党にたいする態度」を「最大の試金石」としてきめられるという六中総決議を引用し、日本共産党の議論をつらぬく独善主義的論法を暴露したが、この度しがたい独善主義が、荒堀氏の「再反論」でも随所ににじみでている。
 こうして、なにが「階級的」労働戦線統一かをきめる「最大の試金石」も、「日本共産党にたいする態度」ということになる。総評の階級闘争路線と同盟の階級協調路線とのあいだの対立など、日本共産党にとっては副次的なものでしかない。「階級的」労働戦線統一を妨げる「最大の障害」は、総評は社会党一党支持、同盟は民社党一党支持というかたちで、目本共産党を“選択”する自由を「うばって」(?)いることになる。したがって、日本共産党のいう「階級的」民主的労働戦線統一実現の「大前提」は、労資協調の右翼的再編成を克服することにあるのではなく、この「特定政党支持」をはずさせ、「政党支持の自由」というブルジョア的原則を日本の労働運動のなかに確立させることである。しかも、この「階級的」の内容たるや、ブルジョア民主主義の形式的自由の立場から一歩もでるものではなく、「真の階級的立場」とはまったく無縁なのである。
(『社会主義』一九七三年三月号掲載)
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