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二 ふたたび日本共産党の「政党支持自由論」の非階級性・ブルジョア性について−荒堀広氏の「再反論」にこたえる−   後半へ
 わが社会主義協会は、七二年八月、総評大会にむけて、パンフレット『労働組合はなぜ社会主義政党を支持するか』を発行した。これにたいして、日本共産党は雑誌『労働・農民運動』一二月号と党機関紙『赤旗』一一月二三日号に、日本共産党中央委員会労働組合部長荒堀広氏の「『特定政党支持』義務づけの誤りを合理化する反共攻撃に反論する」という長文の論文を掲載し、反論をおこなってきたのは周知のとおりである。
 前記パンフレッ卜発行後三ヵ月をへて総選挙闘争の時期に日本共産党があわただしく反論をおこなったその意図が、総選挙闘争において、総評傘下のたくさんの仲間が社会党を支持して積極的にたたかっていることにたいする妨害をねらったものであることは明白であり、したがって、われわれはこの攻撃を社会党・総評にたいする、重大な挑戦とうけとめ、ただちに『日本共産党の独善的批判にこたえる』という小冊子を発行し、これにたいする一定の回答をあたえた(『社会主義』七三年」月号掲載−−以下「批判」とよぶ)。ところが荒堀氏は、これにたいしても『赤旗』一二月八日号で「再び『社会主義協会』の非難にこたえる」という論文を発表し、再反論をおこなった(以下「再反論」とよぶ)。
 一方『社会主義』一二月増刊号の「労働戦線統一をめぐる民社、公明、共産の態度」という佐藤保論文のなかにも、日本共産党の「政党支持自由」論の誤りが指摘されていたのにたいして、『前衛』二月号の「協会派の労働組合運動論」という論文のなかで小森良夫氏が反論をくわえている。しかしこの小森氏の反論は、わが佐藤論文が前記パンフレットとおなじ観点からの「政党支持自由」論批判であったこともあり、荒堀論文の域をでるものではない。
 したがって、以下、荒堀氏の「再反論」を中心に、日本共産党の議論の非階級性、ブルジョア性をふたたびあきらかにしつつ、われわれの見解をのべることにする。
  いっそう鮮明になった階級闘争否定論
 『赤旗』の「再反論」はまず、われわれの「批判」の誤りは、「第二に、労働組合が積極的に政治闘争にとりくむかどうかの問題と、労働組合を特定の政党の支持団体化することが正しいかという、まったく別個の二つの問題を混同していることである。第二に、わが党が世界観や理念にかんする問題として提起している『政治的信条』の問題と、政治的諸課題の問題とを混同していることである」という。そして、「政治課題については、たとえ『政治的信条』が違っても機関決定で行動を統一することができる。たとえば多くの労働組合がそうであるように、労働者個人の『政治的信条』が違っても安保条約廃棄という課題では機関決定によって行動を統一している。まさか論文の執筆者たちも、社会民主主義を『政治的信条』にしている者だけが安保条約廃棄をかかげているのだとはいえまい」とのべている。
 われわれがいままでおこなってきた論争のなかで、これほど、何一つとしてまともにこたえていない、「反論」にせっしたのははじめてである。われわれは、「社会民主主義者だけが安保条約廃棄をかかげている」とか、そういった馬鹿げたことをのべたことは一度もない。われわれがまず問題にしたのは、日本共産党が「政治活動、政党支持の問題のような労働者の政治的信条にかかわる問題は機関決定すべきでない」ということを、その「政党支持自由」論の最大の論拠としている点である。そして、さきの「批判」では、まず最初に、「組合員の『政治的信条』にかかわる政治的な問題で機関決定をすることができないことになると、けっきょく労働組合は何一つ政治闘争に機関で方針をきめてとりくめないことになる」。だから日本共産党の論理は「『政治的中立』どころか政治闘争そのものの否定」であり、それは「けっきょく経済闘争の放棄にもつながる」ことを指摘した。
 そこで荒堀氏は、あわてて労働組合は政治的諸課題、たとえば安保廃棄の課題では「たとえ『政治的信条』が違っても機関決定で行動を統一することができる」という。
 「政治的信条」うんぬんの議論についてはあとでふたたび問題にするが、とにかく、氏がここで安保廃棄などの政治的課題では、労働組合が「機関決定で行動を統一することができる」ことを認めたことは、かえって「政党支持自由」論の破綻を子供にもわかるかたちで、うきぼりにした。日本共産党は、労働組合が政党支持の問題で機関決定することを「義務づけ」「おしつけ」「私物化」などといった、あらんかぎりのことばで非難するが、さすがに政治闘争については、機関で決定してとりくむことの必要を認めないわけにはいかぬとみえる。しかしお気の毒だが、このあたりまえのことを認めることによって、氏はみずからをいっそう窮地においこんだことにお気づきか。
 安保廃棄の課題を達成するためには、自民党政府を打倒しなければならない。そのためにはまた、労働組合は安保廃棄をめざす政党と、一体となってたたかいをくまなければならない。これは子供にもわかるりくつである。したがって、組合員が安保廃棄の必要性をほんとうに理解したということは、そのために自民党政府とたたかうことの必要をも理解したことになる。というより、そこまで組合員に理解させ、自民党政府とたたかう方針をきめるのでなければ、真の安保廃棄の方針を確立したことにはならない。
 ところが日本共産党は、安保廃棄の課題では、労働組合が「機関決定で行動を統一」することの必要を認める。「再反論」でそこまでは明確に認めた。にもかかわらず、それをたたかいとるために、どの政党を支持し、どの政党に反対してたたかうかという点になると、機関できめることは絶対に反対する。
 そこでふたたび問おう。
 組合員が安保廃棄との関連で、社会主義政党と協力関係をむすんで、自民党政府とたたかう必要を理解したとき、それでもなお諸君は、社会主義政党との支持協力関係を機関できめることは絶対にまちがいだというのか。労働組合が機関で徹底的に大衆討議し、社会主義政党との「かたいむすびつき」をきめて、安保廃棄をかちとるために、政府・独占資本にたいしてたたかう体制を確立したのであれば、社会主義政党はその決定を労働組合の階級的成長として歓迎するのがとうぜんではないのか。それでもなお諸君は、その決定を「憲法違反」だといいはるのか。
 諸君は、われわれの「批判」の誤りは、「第一に、労働組合が積極的に政治闘争にとりくむかどうかの問題と、労働組合を特定の政党の支持団体化することが正しいかどうかという、まったく別個の二つの問題を混同していること」だという。労働組合が社会主義政党と支持協力関係をむすんでたたかうことを、「支持団体化」などとよぶのは諸君の勝手である。だが、いったい労働組合が「積極的に政治闘争にとりくむ」ことと、その政治闘争をすすめるにあたって社会主義政党との支持協力関係をむすぶことが、どうして「まったく別個の二つの問題」なのか。
 さきの例でいえば、安保廃棄を達成することと、そのために社会主義政党を支持して自民党政府とたたかうこととは、「まったく別個の二つの問題」ではけっしてない。ところが日本共産党は、この子供にもわかるかんたんな道理を頑強に否定する。そうでないと、その「政党支持自由」論がなりたたなくなるからである。
 さらに荒堀氏が、「政党支持自由」論をまもりぬくためのさいごの論拠としてもちだしたのが、政党支持の問題は、組合員の「世界観や理念にかんする問題」だから機関決定すべきでないというりくつである。さきにのべたように、われわれはさきの「批判」で、組合員の「政治的信条」にかかわる問題は機関決定してはならないという日本共産党の論点をまずとりあげ、「こんにちの階級的矛盾の発展段階では、経済闘争であれ政治闘争であれ、個人の『政治的信条』にかかわらないような闘争は何一つとしてありえない」こと、したがって、日本共産党の諸君のように、「個人の『政治的信条』にかかわる問題については機関決定すべきでないというのなら、政治闘争であれ経済闘争であれ、労働組合は何一つとして、真にたたかう方針を機関できめることはできず、したがって労働組合の組織的運動もできなくなる」。これは「労働組合の事実上の否定以外の何物でも」なく、「労働組合に闘争そのものの放棄をすすめ、労働組合運動の事実上の否定をするおしつけ」にほかならぬことを論証した。
 そこで荒堀氏は、日本共産党は「政治的信条」の問題を「世界観や理念にかんする問題として提起している」と弁解する。つまり日本共産党のいう「政治的信条」とは「世界観や理念にかんする問題」だという、苦しい定義をあきらかにした。しかし、「政治的信条」を「世界観や理念」といいかえても、問題の本質になんらかわりはない。
 労働組合がたとえば安保廃棄の課題を達成するために、反自民の方針を確立したとすれば、それはあきらかに組合員の「世界観や理念」にかかわる問題となる。そもそも安保に反対か否か、戦争に反対かどうかということはけっして「世界観」に無関係の問題ではありえない。
 今日、自民党政府とたたかわないですむような政治闘争は一つとしてありえない。さらにいえば、さきの「批判」でも指摘したように、国家独占資本主義の現段階では、政治と経済のむすびつきがますます密接になっており、したがって、労働組合は経済闘争をすすめるにあたっても、つねに自民党政府反対の政治的態度を明確にしないと真にたたかう方針を確立することができない。大型インフレを推進し、「日本列島改造」の名のもとに日本列島総合理化、総公害をおしすすめる田中内閣と政治的に対決せずして、労働組合はどうして労働者のいのちとくらしをまもることができるのか。
 このように、政治的にも経済的にも、独占資本がつねに自民党政府と一体となって労働者階級への攻撃をかけ、搾取をつよめている現状のもとでは、労働者階級も社会主義政党、労働組合が一体となってたたかいをくまなければ対抗できないのはまったくあきらかである。したがって、この社会主義政党と、一体となって自民党政府とにたかうという組合の方針が、かりに自民党支持の組合員の「世界観」に反したとしても、「うまずたゆまず根気づよい」(レーニン)活動と学習活動によって、組合員の「世界観」をすくなくとも自民党反対、さらに一歩すすめて社会主義政党支持の立場にたかめつつ、たたかいを組織するのでなければ、労働組合は組合員のいのちとくらし、平和と民主主義をまもることはできない。
 このようなねばりづよい努力と、徹底した大衆討議の結果として、組合員が階級的な「世界観」にめざめ、社会主義政党との「より緊密な、そしてより永続的な関係」(シュツットガルト決議)をむすぶことを機関決定したとき、いったい、そのどこにまちがいがあるというのか。
 そもそも、組合員の「世界観」をたえす階級的にたかめる努力なしに、労働組合は階級的な方針をきめ、階級的にたたかうことはできない。したがって諸君のように組合員の「世界観や理念」「政治的信条」を絶対視し、それにかかわる問題は機関決定すべきでないというのなら、労働組合は、何一つとして機関として階級的な方針をきめ、階級的なたたかいをおこなうことができなくなる。これはさきの「批判」でも指摘したように、階級闘争の否定以外のなにものでもない。
 諸君は、労働組合が一致する要求や政策にもとづいて、政党と「協力共同関係」をもつことは認める。しかし、社会主義政党のかかげる要求や政策は、つねに、階級的、科学的な「世界観」にもとづいて提起されるものである。諸君自身、こんどの選挙で日本共産党が伸びた原因の一つが、「わが党の他党を圧倒するすぐれた政策とそれをうらづける党の明確な理念であったこと」をあきらかにしている(『月刊学習』一月号、三頁)。
 日本共産党の政策が、はたして、「他党を圧倒するすぐれた」ものであるかどうかはべつとして、諸君自身、党の政策には、それをうらづける党の「理念」がなければならぬことを認めている。そのとおり、社会主義政党は、労働組合にたいしても、自党のかかげる政策が科学的、階級的な「世観観」にうらづけられた科学的、階級的な政策であること、それとは逆に、自民党のかかげる政策がブルジョア的な「世界観」にねざす反労働者的なものであることをたえずあきらかにすることによって社会主義政党と労働組合とのあいだに「より緊密な、そしてより永続的な関係」がうちたてられるようつねに努力しなければならない。
 この「より緊密な、そしてより永続的な関係」、つまりレーニンが「唯一の正しい原則」としたシュツットガルト決議にもとづくこの関係は、そのときどきの即物的、物とり的な要求の一致にもとづいてむすばれる、たんなる「協力共同」の関係ではなくて、階級的な「世界観」にうらづけられた階級的なむすびつきである。
 組合員の「世界観」が階級的に向上し、その支持政党も反自民、社会主義政党支持にたかまればたかまるほど、ますます「より緊密な、そしてより永続的な関係」に発展する「かたいむすびつき」である。したがってそれは、組合員のもつさまざまな「世界観や理念」に迎合し、自民党をふくめた「政党支持の自由の保障」を「原則」にまでたかめる諸君の立場とは、あきらかに矛盾する。
 われわれはこの観点から、日本共産党の主張する「政党支持自由」の原則が、いかに社会主義政党と労働組合の関係にか(ママ“は”の誤植か)んするかをくりかえし、あきらかにしてきた。ところが荒堀氏は、このわれわれの批判を、「手前かってなレーニンの利用」といって非難する。そこでわれわれはさきの「批判」で、荒堀氏の論文の方がよっぽど「手前かってなレーニンの利用」にほかならぬことを論証した。すると氏はこんどは、われわれにたいして「レーニンの名をかたるペテン」という悪罵をなげつける。われわれは読者に、このレーニンの見地に依拠しておこなったわれわれの批判と荒堀氏の反批判、さらにこれをめぐる批判と反批判について、この部分だけでももう一度読みくらべられることをおすすめする。そうすると日本共産党が自分の都合のわるいことには何一つまともにこたえないでいかにすりかえと罵倒、レッテルはりだけですますか、その一つの典型をみいだされるであろう。
 日本共産党の諸君が、本気でレーニンに学ぼうとするのならレーニンとおなじく党と組合との「緊密な接近」を「唯一の正しい原則」とすべきである。ところが諸君は、自民党までをふくめた政党一般を支持するブルジョア的自由の保障を労働組合の「原則」にまでたかめる。つまり、労働組合が大衆組織であってもあくまでその本質は階級的組織であり、したがってそこに必要なのは階級的原則であることを否定する。そして、このブルジョア的原則に拝脆し、労働組合の階級闘争を否定し、ひいては労働組合そのものの存在をすら否定する。もちろん諸君も、口さきでレーニンの名をだす以上、「政党支持自由」の原則一本ではわれわれの批判に対抗しえぬことに気づかざるをえない。
 そこで、最近との原則とならべてもう一つの原則、党と労働組合との「協力共同関係」を強調するようになった。しかし、この「協力共同関係」なるものが、多少ともレーニン的原則にもとづいて提起されたものであるならば、すでにのべたように、どんなに二つの原則をならべてみても、それは両立しえぬ関係にある。われわれは、いままでこの二つの原則がいかにあい矛盾する関係にあるかをたびたび指摘してきた。『社会主義』一九七二年一二月増刊号の佐藤保論文もこの点にふれ、それが「『政党支持自由』論をひっこめないかぎり解決できない矛盾である」ことを指摘した。
 ところが『前衛』二月号の小森論文は、この「協力共同の関係」は「組合員の『政党支持の自由』の保障とはなんら矛盾するはずがない」とのべ、「佐藤氏の議論は、政党と労働組合との協力共同という問題と、『特定政党支持』義務づけという問題との、こうした本質的相違についての初歩的知識さえもちあわせていないことをみずから告白したものにすぎない」と非難する。
 われわれは正直に「告白」しよう。諸君のいう「協力共同関係」が、じつは、レーニン的原則とはまったく無縁のものであった、という「初歩的な知識さえもちあわせて」いなかったことを・・・。
 「政党支持自由」の原則と「矛盾するはずがない」「協力共同の関係」は、組合員の「政治的信条」、「世界観や理念」、「政党支持の自由」などの絶対的保障を前提に、それとは矛盾しないかたちでむすばれる「協力共同関係」であるがゆえに、レーニン的原則とはあきらかに無縁である。それは階級的「世界観」ぬきの「協力共同関係」であるゆえに、たんなる即物的、物とり的な要求の一致にもとづいて、ばあいによってはブルジョア政党ともむすぶことのできる非階級的な関係でしかない。現に労働組合は、目さきの利益とそのときどきの利害関係の一致にもとづいてブルジョア政党とも「協力共同関係」をむすんできた歴史がある。
 今日でもアメリカの労働組合は、ブルジョア二大政党・民主党と共和党のどちらかと、そのときどきに利用できるほうとの「協力共同」によって、その物とり的な要求をみたしている。その関係がいかに反階級的な「世界観」にうらづけられたものであるかは、アメリカの労働組合が、ブルジョア政党のすすめるベトナム侵略政策を支持していること一つをみても、あきらかである。このような非階級的な「協力共同関係」と、われわれのいう「支持協力関係」とのあいだには諸君が指摘するまでもなく、とうぜん「本質的相違」がある。
 われわれはどんなに困難であっても、労働組合内における社会主義政党員のねばりづよい日常闘争と教育・学習活動の推進によって組合員を階級的にたかめ、さらに徹底した大衆討議にもとづいて労働組合と社会主義政党とが「支持協力関係」をむすぶいがいに、レーニンが「唯一の正しい原則」とした「より緊密な、そしてより永続的な関係」を樹立する方法はないこと、またそのことをねばりづよく追求するいがいに労働者階級の階級闘争を前進させ、労働者階級の解放を達成する道はないことをつねにあきらかにしてきた。われわれはこの関係を「支持協力関係」とよんでいるが、もとより名前にこだわるつもりはない。しかし、諸君のいう「協力共同関係」の本質的内容があきらかになった以上、両者のあいだに「本質的相違」があることについておたがいに確認できたことをわれわれは大いによろこびたい。
 このように諸君のいう要求の一致にもとづく、「協力共同関係」は、階級的「世界観」ぬきの関係である。したがってそれがマルクス・レーニン主義とは無縁のものであることはいうまでもないが、それ以前に、諸君とわれわれとのあいだには、「階級的」ということばのとらえ方、そのものに「本質的相違」がある。それは荒堀氏のつぎの議論によって、いっそう鮮明になった。
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