U 日本共産党への反批判一 日本共産党の独善的批判にこたえる
(後半)
ブルジョア憲法の立場にたつ日本共産党
共産党は労働組合の組織的特徴について、「要求にもとづいてたたかう大衆組織」と規定している。これにたいして、わがパンフレットは、この規定はあまりにも抽象的すぎるとして、正確には「要求で団結し、その要求の実現のために資本および資本家政府とたたかう組織」といわねばならぬと指摘した。ところが「論文」はこのわれわれの指摘にたいして「いったい文書(パンフレットのこと-筆者)の執筆者たちは、『たたかう大衆組織』と『資本および資本家政府とたたかう組織』とのことばのもつ意味に本質的な相違があるとでもいうのだろうか。いまだかつてわれわれは、このような“迷論”に接したことはない。これこそ中傷を目的とした中傷以外のなにものでもない」とのべている。
さてここで、共産党の諸君が階級闘争をいかに理解していないかがふたたび暴露された。この二つのことぱのもつ意味には「本質的な相違」がある。労働組合は大衆組織ではあるが、そのもっとも重要な「本質」は、階級闘争の組織だということである。階級闘争の組織である以上、どの敵とたたかうかを明確にしなければならない。われわれが「資本および資本家階級」とたたかうとのべたことの意味はそこにある。ということはまた、労働組合の内部では敵を「支持しない自由」を確立しなければならないということである。よろしいか。これがわれわれの規定のもつ「本質的」な意味なのである。そしてまた、このことが敵、すなわち「資本家政府」の政党をふくめたあらゆる政党を「支持する自由を保障」せねばならないと主張する諸君と、「資本および資本家政府」を「支持しない自由」を確立することが労働者階級にとって真の政党支持の「自由」を確立する唯一の道であると主張するわれわれとのあいだの、「本質的な相違」なのである。諸君は、このわれわれの規定を、“迷論”とおどろくことによってみずから非階級的「本質」を完全に暴露した。だがもともと階級闘争の何たるかを理解していない諸君に、この二つの規定の「本質的な相違」が理解できぬのも無理はない。
諸君は組合員の「政党支持の自由」は基本的人権であり、労働組合の社会主義政党支持は、憲法違反になるという。だが、現憲法が労働者階級に保障している自由は、われわれ労働者階級の立場からすれば労働者の政治代表を支持する自由であり、資本家階級の政治代表を積極的に支持しない自由である。このように現憲法に保障されているブルジョア的自由はわれわれがそれによって資本家階級とたかうことができるという意味でわれわれにとって意味がある。われわれが現憲法によって保障されている労働者の団結権と団体行動権など労働組合の基本的権利をまもるためにたたかうのは、まさに階級闘争の自由を確保し、労働者階級の利益を擁護することができるためであって、これが労働者階級にとって現憲法を擁護することの本質的な意義である。したがって労働者階級が現憲法のもとで追求しなければならぬ自由は、ブルジョア的な形式的自由の擁護だけではなく、その形式的自由に依拠して田中内閣を打倒する自由であり、そのために社会主義政党を支持する自由である。
この観点から、わがパンフレットは、共産党のように「階級対立という資本主義の現実を無視し、資本主義憲法に規定されている形式的自由にすがりつくことは、階級的立場を放棄し、ブルジョア憲法の立場にたつものといわねばなりません」とのべたのである。ところが、「論文」は、この「文書によれば、現行憲法の民主的条項を擁護するものはすべて『階級的な立場を放棄』するものだということになる。これは驚くべき暴論である」という。わがパンフレットは、「ブルジョア憲法に規定されている形式的自由にすがりつくこと卜が「階級的立場の放棄だ」とはのべたが「憲法の民主的条項を擁護する」ことが「階級的立場の放棄」だといった覚えはない。このようにわれわれの文章を故意にねじまげるこの論文のやり方こそ「中傷を目的とした中傷以外のなにものでもない」。
ブルジョア憲法が保障する形式的自由の立場からすれば、労働者には資本家とたたかう自由もあるし、たたかわない自由もある。労働組合を分裂させる自由もあるし、独占資本の政党を支持する自由もある。ありとあらゆる自由一般が形式的には「保障」されている。しかし、労働者にとって「階級的立場」とは、独占資本の政党を支持せず、これとかたかい打倒する自由をわがものとすることである。ところが共産党によると、独占資本の政党をふくめたあらゆる政党を「支持する自由」を、「労働者の固有の権利」として断固として「保障」せねばならぬというのだ。そして、労働者が自民党をふくめたあらゆる政党を「支持する自由」から一歩でて積極的に社会主義政党を支持する自由を確立しようとすると憲法違反であるという。このように「ブルジョア憲法に規定されている形式的自由にすがりつく」ことによって労働者階級の階級的立場にたとうとする努力を否定する立場こそ、「ブルジョア憲法の立場にたつ」ものであり「階級的立場の放棄」以外の何物でもないのである。
ところが「論文」はおどろいたことに、逆にブルジョア憲法の立場にたつことが「階級的立場」であると強弁してつぎのようにのべる。
「この問題にかんして『階級的』立場とは、なによりもまず政冶的信条にかんする労働者の固有の権利を断固として擁護するかどうかということでなければならないし、逆にこのことを否定する文書の立場こそ、反動勢力の側からの権利攻撃をたすける『階級的立場の放棄』ではなかろうか」。
これはまったくおどろくべきことだ。階級対立の現実をおおいかくすブルジョア憲法の形式的規定にすがりつき、それを「断固として擁護する」ことが「階級的」立場であり、この規定に依拠して資本家階級とたたかうために労働組合と社会主義政党の協力をうったえるわれわれの立場が「階級的立場の放棄」だというのだ。これはまったく「驚くべき暴論」である。労働者の「階級的」立場とは、いうまでもなくたんに憲法の民主的条項をまもるだけでなく、この条項にしたがって資本家階級とたたかうことだ。ところがこともあろうにマルクス・レーニン主義の党と自称する共産党がこのかんたんな論理を理解できない。そして労働組合の社会主義政党支持に反対する論拠をさがしもとめて、ついにブルジョア的論理にすがりつくことを「階級的」だといいくるめ、まさに眩目すべき“迷論”を考案するにいたった。日本独占資本を主敵とすることのできない日本共産党の諸君にとって「階級的」ということの真の意味はついに理解できぬことであるらしい。
「手前かってなレーニンの利用」
「論文」は、われわれのパンフレットが「党と組合のあいだに、より緊密な、そしてより永続的な関係がむすばれなければならない」と提起したシュツットガルト決議とこれを支持したレーニンの見地に依拠して共産党の「政党支持の自由」論を批判したのにたいして、「手前かってなレーニンの利用」ときめつけて、つぎのようにのべている。
「たしかに、レーニンはシュツットガルト決議を支持し、労働組合の『中立性』に反対し、党と労働組合の『緊密な接近』を強調した。しかしレーニンは、同時に労働組合の本質的性格をじゅうりんする『特定政党支持』の義務づけといった方法や形態をつよくいましめてつぎのようにのべている。
『組合と党とのより緊密な接近――これが唯一の原則である。組合と党とを接近させむすびつける努力−−これがわれわれの政策でなければならないし、そのさい、これを実行するには、たんなる“承認”を追いもとめるものではなく、まちがった考えをもつものを労働組合から追い出すのではなく、われわれの宣伝、扇動および組織活動全体のなかでうまずたゆまず根気づよくやらなければならないのである』(レーニン、『論集十二年間の序文』)」。
「論文」はこのレーニンのことばをひきあいにだすことによって、かえってみずからの誤りを鮮明にした。よろしいか。レーニンは「組合とのより緊密な接近−―−これが唯一の正しい原則である」とはっきりとのべている。そして「組合と党とのより緊密な接近」こそ唯一の原則であると明確におさえたうえで、その実行にあたって労働組合の大衆的性格を十分に考慮する必要があるという観点から、レーニンは「たんなる『承認』を追いもとめるのではなく」、「宣伝、扇動および組織活動全体のなかで、うまずたゆまず根気づよくやらなければならない」とのべているのである。このどこにも労働組合が社会主義政党との協力を機関で決定してはいけないなどとはのべていない。ましてや共産党のように、プルジョア政党をも支持する自由を組合員の「固有の権利」として断固「保障」すべきだなどといった迷論はかけらほどものべられていない。ところが「論文」は、レーニンのこのことばをつぎのようにすりかえてわれわれを攻撃する。「このようにレーニンは、党と労働組合との『接近』はたんなる『承認』をおいもとめる方法、つまり機関で党の支持を決議するようなやり方ではなく、組合内における党員の大衆を政治的に統一するためのうまずたゆまず根気づよい活動をつうしてのみ達成されることを強調している」と。
これによると、「たんなる『承認』をおいもとめる方法」と、「機関で党の支持を決議」する方法とが完全にイコールの関係におかれている。したがって「論文」によると、その機関の決議が、どんなに「宣伝、扇動および組織活動全体のなかでうまずたゆまず根気づよく」組合員活動家の努力の結果としてかちとられたものであっても、そんなことにはかかわりなく、機関で決議すること自体が「義務づけ」になり、「おしつけ」になり、「私物化」になり、あげくのはては、レーニンがいましめた「たんなる『承認』をおいもとめる」のとおなじことになるというのだ。すりかえとこしつけもここまでくるとあいた口がふさがらない。「手前かってなレーニンの利用」をしているのはまさに諸君の方ではないか。
共産党の諸君が、本気でマルクス・レーニン主義者たろうとするなら、レーニンがいうように、党と組合との、「緊密な接近」を「唯一の正しい原則」とするがよい。多くの労働組合か社会党と協力関係をもつことをきめていることが気にくわないのなら、どうして共産党の支持を公然とよびかけないのだ。共産党一党支持を公然とよびかけることができない事情があるのなら、すくなくとも自民党を支持しないという階級的原則を労働組合内に確立するよう努力すべきである。ところが諸君は、自民党をふくめた政党一般を支持する自由を労働組合の原則にまでたかめる。そしてこの原則のもとに拝脆し労働組合の組織的闘争を否定し、ひいては労働組合そのものの存在をすら否定する、これではもちろんやっていけない。そこで諸君は、最近この原則とならんでもう一つの原則、「労働組合と政党の正しい協力共同の関係」を強調するようになった。そして、「論文」は、この二つの原則は「一貫したわが党の方針である」とのべている。
しかし政党支持の自由を原則にしている以上、どんなに二つの原則をならべてみても、それは両立しえない。すでにわれわれが十分に証明したとおりである。ところが、諸君はこの二つの原則を並列的にならべて、われわれが「この二つの問題の区別と関連を理解することができず、これを混同させて」いるといって非難する。諸君には悪いが、われわれはこの二つの「区別」はわかるが「関連」などとうてい理解できない。われわれが理解できるのは、党と組合との「より緊密な接近」を「唯一の正しい原則」とするレーニン的見解のみである。諸君がふりまわすブルジョア的形式論理と「手前かってなレーニンの利用」を理解できないのは、われわれにとってむしろ誇りである。
労働戦線統一の障害と「反共主義」
以上のように日本共産党は、マルクス・レーニン主義の名のもとに、マルクス・レーニン主義とは無縁の、ブルジョア的形式論理をふりまわす、世にも珍しい政党である。それだけでなく、さきにふれたように、政党支持自由一般のような、ブルジョア的形式的自由を「労働者固有の権利」として「断固として擁護」することが「階級的」立場であり、それに反対するのは 「階級的立場の放棄」だというような逆立ちした論理を考案する、世界にも例をみない「共産党」である。
この逆立ちした論理が彼らの労働戦線統一論に適用されると、とうぜんすべての労働組合に政党支持自由を保障させることが、「階級的」労働戦線統一の「大前提」だという理論となってあらわれる。したがって「階級的」労戦統一を妨げる「最大の障害」は、労資協調の右翼的再編成にあるのではなく、「特定政党支持の義務づけ」ということになる。だから「論文」でも「すべての労働組合が『特定政党支持』の義務づけや『特定政党排除』の誤りを克服することこそ労働戦線の階級的統一の大前提である」(傍点は筆者)ということがいたるところで強調される。これは政党支持自由論のような非階級的な原則を労働運動のなかに確立することが 「階級的」労働運動の構築だとする彼らの逆立ちした発想から必然的にでてくる結論である。
したがってわがパンフレットが、労働戦線統一問題の基本は、労働組合が階級闘争路線を堅持するのか、それともマル生運動をはじめとする生産性向上運動協力といった労資協調路線での右翼的再編成論にたつのかということであり、政党支持のちがいもその一つのあらわれであること、「したがって戦線統一をさまたげているものは、けっして政党支持のちがいではなくして、日常的な労働組合運動の原則、それを物質的な力とする運動論の問題だといえます」とのべたのにたいして、「論文」は、「労働戦線の統一をさまたげているのは『運動論』の違いだというのは、まったく本末転倒した議論」であるといって批判する。共産党の「本末転倒」した頭からみれば、われわれの方が「本末転倒」にみえるのも無理はない。
運動論に眼を向けない共産党にとっては、階級闘争路線の立場にたつ総評と労資協調路線にたつ同盟とのあいだに本質的なちがいはもちろんない。それはともに「反共」を前提とした社会民主主義者が、総評は社会党支持、同盟は民社党一党支持というように、特定の社会民主主義政党を機関決定の名をもって組合員におしつけ、組合を「私物化」しているという点でおなじである。かくして両者はともに、「反共主義」であり、「社民」であるとしてあっさりとかたづけられてしまう。しかも、この「反共主義」とは、六中総決議でつぎのように定義されている。
「わが国で、ある組織や勢力が、反共主義、分裂主義の立場にたっているのか、それとも真に民主勢力の団結をめざす統一の立場にたっているのかをきめる最大の試金石は日本共産党にたいする態度」である、と。
この論法でいくと、わが国でまちがった運動か正しい運動かは、階級闘争か労資協調かのあいだにあるのではなく、「日本共産党にたいする態度」を「最大の試金石」としてきめられるということになる。まさに共産党こそ地球であり、他はすべてその衛星であるという、まことに度しがたい独善主義というほかはない。
この論法によってわがパンフレットはついに「反共攻撃」の文書にされてしまった。いわく「『社会主義協会』の人びとが、反共主義とそれにもとづく『特定政党支持』の義務づけに固執していることは、労働者階級と国民の団結の利益に背を向けるものとして、きわめて重視しなければならない。とくにこれらの人びとの態度は、レーニンの言葉などを引用してあたかもマルクス・レーニン主義的立場にたっているかのように装いながら、反共主義をつよめ労働者を欺隔しようとしている点でもっとも悪質なものといわざるをえない」。
われわれは、日本共産党と、日本革命に関する意見を異にする。その意味でしばしば「反日共」である。しかしそのことは日本共産党が反社会党であるというほどの意味であって、それ以上でも以下でもない。「反日共」が反共産主義だなどというのは日本共産党が勝手につくりあげた神話であって、まともな思考力をもっている人間にはまったく通用しない題目である。
ところがかれらは、日本共産党の非マルクス・レーニン主義的見地を批判すると、ただちに「反共主義」というレッテルをはって、問題点を糊塗しようとする。これは、マルクス・レーニン主義とはまさに逆の方法であって、マルクスやエングルスやレーニンが、日本共産党から「反共主義」のレッテルをはられないのが不思議なくらいである。
このように日本共産党は、自分に反対したり、批判したりするのは、すべて「反共主表」とか「反共分裂活動」などときめつける独善主義的論法によって、つねに自己の立場を正当化する。宮本委員長は五〇周年記念講演のさいに日本共産党は無謬主義ではないといささか余裕のありそうな態度をしめしたが、「論文」をみるかぎり、コミンテルン第六回大会時代の独善主義に逆もどりしているというほかはないのである。わがパンフレットは、「総評はなぜ日本社会党を支持し日本共産党を支持してこなかったか」について、日本共産党の労働運動における誤りとその右顧左眄ぶりを批判したが、これにたいする「論文」の反論にもこの独善主義的論法がつかわれている。もっとも五一年綱領の問題や四・一七スト問題のように、だれかみてもその誤りが明白であり、日本共産党もすでに一定の自己批判(?)ずみの問題については、論文でもじゃっかんの自己批判がみられるが、その他はすべて日本共産党はつねに正しく、誤りはすべて「反共主義者の反共分裂活動」にあったという独善的論理で一貫されている。まことに気楽なものというほかはない。 (『社会主義』一九七三年一月号掲載)