社会主義協会第七回定期全国大会文書
*社会主義協会の歴史上はじめてマルクス・レーニン主義を協会の根本思想と規定した第七回大会の諸文書。1966年2月26日〜28日の三日間京都会館で開催。「社会主義」1966年5月号掲載。長文のため三ページに分けて掲載。マルクス・レーニン主義の意義については同号掲載の水原輝雄「マルクス・レーニン主義の旗のもとに−社会主義協会第七回大会と今後の課題」に詳しいが個人署名文章のため省略。画像はあいさつする向坂逸郎。後方右は水原輝雄事務局長。
●一九六五年度一般経過報告
 一九六一年(昭和三六年)夏の第三回全国総会で、安保・三池以降のきびしい階級闘争に対処するため、社会主義協会が思想団体から運動体へ、同人制から組織へと脱皮する方向を決議して以来、すでに四年有半の歳月が流れた。協会の第七回定期全国大会を迎えた今日、協会はほぼこの脱皮をなしとげ、本大会を契機に、運動体、組織体としての本格的な組織的活動を展開する出発点に立っていることを確認することができる。 協会は第三回全国総会以来、協会の組織的活動の中心目標を一貫して日本の社会主義運動、労働組合運動、青年運動の右傾化を阻止することに置き、とくに社会党、社青同、労働組合のなかに浸透しはじめた日本的構造改革論との理論的・実践的対決をおしすすめてきた。日本的構造改革論が、安保・三池以降の運動を右傾化させる理論的な水先案内の役を務めたからである。
 雑誌「社会主義」を中心とする日本的構造改革論批判と、運動内部における実践的な対決、とくに反合理化闘争における実績をつうじて、日本的構造改革論の右翼改良主義的本質が暴露された、 協会の運動の右傾化を阻止する闘いは、日本的構造改革論の批判にとどまることはできなかった。日本的構造改革論の右翼改良主義的思想を受け入れる、今日の労働運動の体質、日本社会党の体質の改善を問題にせざるをえなかった。日本の労働組合運動における、いわゆる「民同的体質」の克服と、日本社会党の労働運動に対する指導性の欠如、その原因である社会党の労組機関依存からの脱皮を、協会の思想的、実践的課題としてとりあげるところまで、協会の右傾化阻止の闘いは進められてきた。また、国際金属労連日本協議会(IMF・JC)問題がクローズ・アップされるにしたがい、目本の労働運動に対する国際的な背景をもつ右傾化の働きかけと闘うことの必要も、いよいよ明らかとなってきた。
 一方、六四年の春闘における四・一七ストライキの中止を契機に、社青同の内部に極左的傾向が東京を中心に醸成された。これにさきだつ六三年の暮頃から、東京社研(東京のオール左派)の専従者・オルグ団の一部に、国家権力の平和的移行を否定する極左的な動きが生まれ、この底流が社青同内の一部極左分子と結びつき、さらに同盟内の反協会派として三多摩を中心とする第四インター・トロツキストとも手を結ぶにいたった。 協会は関東支局青対委を中心に、「新情報」を活用して「極左主義批判」を行ない、トロツキスト批判の文言を発行した。また、社会党東京都本部の六五年の大会において、その偏向を是正するための修正案を提出し、都本部中執にも積極的に協会員を送りこみ、極左変更を是正する闘いをつづけてきた。
 日本的構造改革論が、労働運動の民同的体質に迎合し、追随する理論であるとすれば、この極左潮流は、民同同的体質とこれに追随する社会党指導に対する機械的反発である。ここに協会の右傾化阻止と極左的潮流を克服する闘いが、日本労働運動、社会主義運動の体質的な弱点の克服にまで深く鍬を入れなければならない理由がある。 協会が運動の右傾化阻止を中心に、右翼改良主義と極左潮流とに対して理論的、実践的対決を進めてきた過程は、同時に、協会内部の思想的・理論的な意志統一を進める過程でもあった。旧左社綱領を、現段階の戦略・戦術として、どのように発展的に継承していくか、国家権力の平和移行を闘いとる戦略的展望のなかに、労働組合運動をはじめとする大衆運動をどのように位置づけ、関連づけるかという討議が、六二年の一月段階から開始された。第一次、第二次の草案を経て、本大会で「勝利の展望」(草案)を討論し、決定するところまで、協会内の理論討議はすすんでいる。
二 協会が運動体としてのたくましさを、組織的に身につけなければならないということが、この四年有半の組織的活動のなかで一貫して追及されてきた。今日の社会党の組織的体質を改善するためにも運動の右傾化を阻止するためにも、このことが不可欠であると判断されたからである。
 協会は三七年秋の第四回全国総会(箱根)以来、年間運動方針を決定し、反合理化闘争、憲法闘争、さらに社会党、社青同、労働組合の階級的強化の任務を明らかにした。これらの諸課題に組織的にとりくんだところは、学習サークル的体質を脱皮して、運動体へのたくましい前進を示している。協会の第六回全国総会は、会費制を確立したが、当面する諸課題にとりくんでいる支部では、会費制は比較的スムーズに実践され、会員も増大した。しかし、学習サークル的性格にとどまっているところでは、一般に組織的停滞がおこり、とくに支局の確立されていない東北・信越等では、末だこの傾向が克服されるまでに至っていない。 このことは、協会が運動体として発展するためには、当面する政治課題、運動課題との組織的なとりくみが不可欠の要件であることを示している。社会党の一般的な弱点である、政治情勢の変動に対する敏感さの欠如、それにもとづく積極的な実践的姿勢の弱さは、協会の組織にも反映しており、「マルクス・レーニン主義」における「理論と実践の統一」の立場から、目的意識的に当面する諸課題へのとりくみがなされなければならない。
 同時に、協会の同人から組織への発展は、中央および地方の指導体制の確立を要求しており、その必要と要望は年ごとに高まっている。一昨年十月末の第六回全国総会で「新情報」の“新聞化”が決定されたのも、刻々の情勢の変動に機敏に対応しうる協会指導の確立をめざすものであった。この決定が実行に移されなかった最大の原因は、中央の指導体制が刻々の情勢に対する政治指導を行なうまでに強化されなかったところにある。また協会の支部、班段階での活動が、“余暇の活動”から、“協会をよりどころとする活動”に十分に移行しえていない弱さの反映でもある。 むろん、このような方向に向かって努力が払われたことは事実である。当面する国民運動に対する中央委の方針決定や、日韓闘争に対する中央常任委の主張の発表(雑誌「社会主義」一九六五年十一月、一九六六年一月号)、各支局段階の常任委員会での当面の問題に対するとりくみの前進(とくに憲法闘争について)等、中央・地方の指導性確立にむかって努力が行なわれた。また、社青同グループ、理論戦線グループの結成をうけて、本年五月末には、党・労組グループの結成が予定されているが、これらのグループの活動と討議をつうじて、「勝利の展望」にもとづく各分野での協会路線の確立が進められれば、中央委員会の指導性を補佐し、全体として協会の思想と理論がイデオロギーと大衆運動の分野で浸透していくことを助けるに違いない。
 協会組織のもう一つの弱点は、協会活動を強力におしすすめる″協会活動家〃が少いことである。協会の理論で武装され、大衆運動の指導においてもたくましい力量をもつ中核がまだきわめて少数である。この中核が多数育成されなければ、協会の思想・理論は職場、地域の運動に浸透していくことはできず、協会が一まわり大きい政治勢力に発展していくことも、それをつうじて社会党の体質を改善することもできない。 社会主義協会は過去四年有半の組織的活動をつうじて、マルクス・レーニン主義の旗を公然とかかげ、社会党内の前衛的役割を自らの使命とするとこころまで前進した。社会主義協会の性格と任務が何であるかが、この四年有半の活動によって明らかにされた。社会主義協会の創立十五周年を目前にして、協会は本格的な運動体としての出発点に立っているということができる。
三 以上の観点に立って考えるとき、六四年十月末の第六回総会から今日までの一年四カ月の活動は、協会がマルクス・レーニン主義にもとづく日本革命の戦略・戦術で意志統一し、同人制のルーズな惰性を一掃して運動体としての内容を充実する総仕上げの段階であったとみることができよう。そしてその背景には、協会が指導権をもつ社青同運動の躍進が要請され、総評と社会党の危機が深刻化していったのである。 六四年十月末の第六回総会直後に、社青同の第五回定期大会があり、大会では「改憲阻止一反合理化」の基調が再確認され、協会系指導部の勢力は、二月の四回大会に比較して伸長した。同年十二月に開催された社会党第二四回定期大会では、社会主義理論委報告を討議した分科会で、日本的構造改革論が日本社会党の正規の理論から排除されたことが明確となり、党内の反構造改革派の指導権が確立した。
 翌六五年の二月中旬に開催された協会第二回中央委員会は、協会の六五年度の行動目標(@××××名の会員獲得と協会費の完全納入、「勝利への展望」による理論武装の強化、A雑誌「社会主義」五割拡大と誌代前納制の確立。B協会の支部、班の日常活動の確立。C党活動の強化と党員の拡大)を決定するとともに、「資本主義的合理化に反対する闘い」について集中的な討議を行なった。本部より提起した問題点は、@国家独占資本主義下の反合理化闘争において果すべき社会主義政党の役割、A三池闘争から学ぶべきものを、どのように一般化するか、B職場活動と産業別統一闘争との関連など……五点にわたっていた。二日にわたる熱心な討議の結果@社会党が反合理化闘争の指導にとりくみうるように、社会主義協会や社青同、労働組合内の協会員が努力しなければならないこと、A三池労組の「長期抵抗路線」にたつ実践から、「長期抵抗」という思想性を学び取り、これを一般化する必要があること、B職場活動と産業別統一闘争の関連を明らかにするため、討議をつづけること等で、意見の一致をみた。「体制的合理化」をどう把握するか、平和革命の路線のなかで反合理化闘争をどう位置づけるか等の問題は、今後の課題として討議をつづけることになった。この論議の報告は、印刷され、協会員全員に配布され、奥田中央委員の「反合理化の理論と戦略」(社会問題研究所発行)とあわせて、「勝利への展望」の一章として討議していくこととなった。 二月下旬には、社会党京都府本部の大会が開催されたが、協会京都府支部は、参院選の候補者決定の問題をとらえて、構改派と対決し、党の体質改善に努め、成果をあげた。四月初句には東京都本部の大会に対し、関東支局は一部の極左的傾向を克服するため修正案を提出し、全面的にこれを容れさせ、構改派等の反撃を封じた。
 四月末には、ソビエトのマルクス・レーニン主義研究所の招待により、向坂代表を団長として六名が訪ソし、東ドイツ等を廻って六月十七日帰国した。 この間、春闘、日韓、ベトナム反戦、参院選と、協会員は当面する運動できわめて多忙であり、協会本部の財政も逼迫した。協会中央常任委は活動資金のカンパを訴え、全国の同志の努力により、その目標はほぼ達成された。 七月十一、十二日の第三回中央委では、二回中央委以降の活動について、つぎのように報告した。 「会員の拡大については、関東、関西の両支局が相当程度の実績をあげたが、他の支部では拡大の数字的な面では、これまでの中央委における新会員の承認の数字とほぼ同じ程度にとどまった、……」 「会費納入は約六割の支部、準備会、班で納入体制を確立した。しかし、このうちの大半が二〜三ヵ月のおくれを示しており、少くともその月の会費はその月のうちに納入できるようにしなければならない。……」 「雑誌拡大のとりくみは、札幌、小樽、旭川、青森、中野、杉並、千代田、東京北部、埼玉、相模原、大阪、京都、神戸、名古屋、三重、下関、熊本等の支部、準備会と本都直轄班のなかの四つの班がとくにすすんでいる。しかし、これらの先進的な支部は、全体のなかでは二割強の比率にすぎない。」 「協会の支部活動の状況については、社会党内の前衛的な役割をもつ協会の任務を理解し、党内闘争を展開している支部が、あらゆる面ですぐれた活動をしている。こうした支部とそうでない支部との間では、支部活動のズレが拡大しつつある、……」と。
 第三回中央委では、このような協会の組織的活動をふまえて、「社会党強化の方途」と「当面する国民運動・・・とくに平和運動について」の二つの方針を決定した。前者では、協会の運動が「戦術」を必要とすること、したがって「さまざまな複雑な条件のからみあっている現実の運動の条件をみきわめ、マルクス・レーーニン主義を創造的に適用」する必要を強調し、政治と教育学の混同をいましめた。後者では、統一戦線と当面する統一行動について、日本共産党の「安保共闘再開」の誤りを指摘し、改憲阻止の統一戦線をめざすべきことを明らかにするとともに、大衆運動の展開にあたっては、実行委員会を単位として、独自の運動をつよめ、当面する段階で共闘の条件があり、そのことが大衆的に納得されうる限り、共闘を行なうことを辞すべきではないこと等を明らかにした。
 このあと、下田で、協会テーゼ起草小委員会が開催された。ここで、「勝利への展望」に対する協会労大班の意見書、鎌倉中央委員の意見書、並びに本部事務局の意見(メモ)等を参照しつつ、「勝利への展望」の全体の構成、内外情勢分析の視点等が討議され、執筆担当者を決定、八月いっぱいに書き上げること等を決定した。しかし、執筆者の多忙等で原稿の集約はかなりおくれ、このため十月末発表の予定を十二月に延期せざるを得なかった。
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