第五章 20世紀の社会主義体制
−ソ連・東欧社会主義崩壊の総括と現存社会主義国
はじめに 社会主義の必然性
社会主義とは働く者を主人公とする社会である。そのためにはまず労働者階級と勤労国民が国家権力を掌握しなければならない。そして、主要な生産手段を社会的所有に移し人間の人間による搾取をなくすとともに、資本主義が残した諸関係から出発しながら、経済を意識的・計画的につくりあげる努力をしなければならない。社会主義の必然性は、ソ連・東欧社会主義体制の崩壊があったとしても、生産手段の私的所有にもとづく資本主義の基本矛盾がある限り、不変である。
第一節 ロシア革命と社会主義体制の成立
1 ロシア革命の歴史的位置
二〇世紀はソ連をはじめとする社会主義体制とアメリカを盟主とする資本主義体制との体制間対立の時代であった。後にさまざまな逆流が生じたとはいえ、一九二七年のロシア革命を起点に二つの体制が互いに対立し合い競い合ったことの歴史的意義ははかりしれない。
一九一七年一〇月のロシア革命とその後の社会建設は多大な成果とともに数多くの問題も生み出したが、人類が初めて意識的・組織的に社会を建設する、しかも実際に生産を担う労働者や農民を基盤にした社会をめざすという新しい時代の幕開けを世界に示した。
ロシアでの新社会の建設では、八時間労働制の実現、男女平等などの普通選挙権、教育や医療の無料化の着手、貧農への土地の分配や主要な生産手段の国有化などが進められ、労働者と貧農を基盤とする民主的で搾取のない新しい社会建設の方向が世界の人々に示された。それは資本主義体制にも影響し、自らの体制内の労働者勢力の台頭や世界的な社会主義運動の強まりに対して、政治的には社会権や生存権の認知、社会経済的には戦後のいわゆる「福祉国家」の模索へという形での対応を余儀なくされた。
2 社会主義建設の模索
しかし、人類が初めて直面した社会主義社会の建設には前例がなく、試行錯誤のなかで少なからぬ行きすぎなどが生まれた。当時のロシアは社会主義革命論が想定していた高度に発達した資本主義ではなく後進的な国であったこと、そうした国で社会主義社会が建設され維持されるには発達した資本主義諸国での社会主義革命が必要条件であるとされたにもかかわらず実現しなかったことなどは、ロシアでの社会主義建設に複雑に作用した。
前者では資本主義体制のもとで進められているはずであった国の工業化などが新体制の課題となった。封建的色彩の濃い土地所有の改革もまた同様であった。後者では資本主義体制による包囲下での一国社会主義建設という悪条件がロシア−ソ連に与えられた。複雑な条件下で、いかなる体制を建設するかについてさまざまな議論や試行錯誤がおこなわれた。
革命後の「戦時共産主義」期には生産手段の徹底的国有化、農民からの食糧徴発や消費財の配給制、貨幣の事実上の廃止などが進められ、当時のボリシェビキたちはこれらこそ共産主義であるとみなした。しかしその急進性がさまざまな社会的軋轢(アツレキ)を生みだしたこともあって、一九二〇年代初頭から貨幣と市場の復活や生産手段の再私有化、外国資本の導入などを容認するネップ(新経済政策)へと転換した。ネップは、労働者と貧農を基盤とする政権と小生産者的意識をもつ農民その他の階層との緊急避難的「妥協」、すなわち一時的後退として位置づけられた。それゆえ、一九二〇年代後半からの工業の再国有化、農業の強制的集団化や急速な重工業化計画、市場関係の再否定などの「上からの革命」への政策転換は多くのボリシェビキたちに肯定的に受け入れられ、いわゆるスターリン体制が成立した。
スターリン体制は強権的社会建設と異端の排除・粛清を特徴的な手法とし、農業を中心とする経済構造から重工業を中心とする経済構造への急速な転換を課題としていた。民主主義的手法を犠牲にして旧ロシアから残された経済的課題の遂行を進めた結果は、生産力の急速な上昇であった。国民生活も六〇年代までは急速に豊かになっていった。資本家のいない社会でも、非資本主義的方法でも経済が発展しうることを世界に示した。
だが、その際に採られた非民主的で強権的・暴力的手法は後まで残存するとともに、ソ連のみならず世界の社会主義運動にも浸透し否定的な影響を与えつづけた。スターリン時代の社会主義については、功罪両面を統一的に把握しさらに批判的に検討することが求められている。
3 社会主義世界体制の成立
ソ連は急速に築き上げた国力と体制を守る国民の意思を背景に第二次大戦期の侵略に耐え、東欧諸国などの解放と社会主義建設に多大な力を発揮した。
東欧諸国の多くでは反ファシズム運動の経験から人民民主主義国家が樹立された。中国や朝鮮半島北部、ベトナム北部でも社会主義社会建設が志向され始めた。かくして、ソ連だけの一国社会主義建設の時代は終わり、壮大な社会主義世界体制が築き上げられた。
当初はそれぞれの国の歴史的条件を踏まえてそれぞれの社会主義社会をめざす方向が存在したが、冷戦が始まり体制間対立が深まると、社会主義への多様な道や社会主義の多様なあり方は社会主義世界体制の護持の名のもとに事実上否定された。社会や国家に対する党の指導性や中央集権的計画経済、異端の排除など、ソ連型と呼ばれた社会主義のあり方が多くの国々に持ち込まれた。冷戦下でのこととはいえ、条件の異なる諸国の多くが一つの型に集約されたことはさまざまな問題を生みだし、その後の改革の流れをもたらす要因となった。
第二節 六〇年代改革の必然性と意義
第二次大戦後、復興と社会主義建設を進めたソ連は、一九五〇年代後半から六〇年代初頭にかけて経済成長率の鈍化と売れ残り商品の滞貨などの問題に直面した。東欧諸国も同様で、六五年のソ連のコスイギン改革をはじめとして、各国で相次いで経済改革が試みられた。この六〇年代改革は、生産力の高まりに応じて経済を外延的・量的成長から内包的・質的成長に転化することによって、生産と消費の調和、国民生活の向上とより成熟した社会主義経済体制の確立をめざしたものであった。
経済改革では、量的成長に適合した集権的・指令的な計画・管理制度に代わる分権的・経済的な計画・管理制度の導入が図られた。その特徴は、義務的・指令的な計画指標を削減ないしは廃止し、企業活動の評価指標を従来の生産高(量的)指標から販売高や利潤などの生産の質を重視した指標に変更したことにある。さらに企業に一定の自立性を与え、利潤を財源とした企業基金の創出とそれにともなう生産財利用の有償化、生産財の割当配分制から卸売商業への漸次的移行が模索された。
六〇年代改革は経済指標の改善などの短期的成果はあげた。しかし改革は経済計算制による企業の物質的関心を高めることにも、計画化の機動性を高めることにも、十分な成果をあげるに至らなかった。六〇年代改革は一方では社会主義における商品・貨幣、利潤などの利用に関する理論的未成熟によって、他方では国家経済管理機関の官僚主義や企業の不適切な利潤極大化行動などにより歪められ、中途半端のまま短命に終わった。
また、チェコスロバキア改革は当初、社会主義の枠内での改革をめざしたものであったが、経済改革が政治改革につながると、社会主義体制のあり方をめぐる考え方の相違が顕在化し、ワルシャワ条約機構(WTO)諸国は、六八年に同国へ軍事介入した。その後、ソ連・東欧での改革機運は急速に衰えていった。WTOは後の八九年、軍事介入を自己批判した。
第三節 七〇年代以降の停滞から体制崩壊へ
1 ソ連における経済停滞と危機の深化
一九七〇年代に入るとソ連は「停滞の時代」と呼ばれる下降期に入った。従来の量的経済成長を支えた条件である天然資源と労働力の供給余力は失われ、体制間対立を背景とした軍事費の負担も重石となった。ソ連の経済成長率は八○年代前半にはほぼゼロにまで落ち込み、質的な面での改善・革新にも困難が生じた。七〇年代後半からの合理化運動により生産力の発展をはかった先進資本主義国との経済格差は拡大した。
その間、部分的経済改革の試みはあったものの、六〇年代改革がめざした計画・管理制度への転換は進まなかった。党・国家官僚の抵抗は大きく、七〇年代以降、実質的な旧制度への回帰が進んだ。しかし、従来の計画・管理制度がさらなる生産力の発展の桎梏となっているのは明らかであった。改革の必要性も提起されるようになり、ソ連では八○年代初めになるといくつかの改革実験が始められるようになった。
経済危機の深化とともに政治的・社会的危機も高まった。党・政府への信頼は薄れ、ヤミ経済が広がった。労働規律は弛緩し、アルコール・麻薬中毒や犯罪が増加した。環境破壊も国民の離反を促進した。これらは後に「危機前状況」と表現されるほどであり、改革の必要性は誰からも認識されるようになった。
2 ペレストロイカからソ連解体ヘ
一九八五年にゴルバチョフが党書記長に就任し、ソ連の政治・経済の建て直し(ペレストロイカ)が始まった。当初、機械工業に力点を置いた「加速化戦略」が取られたが、それが限界に逢着すると、翌年以降経済改革は次第に急進化した。個人副業の拡大、協同組合企業の承認、完全独立採算制をめざした国有企業法の採択などがおこなわれた。
公開制(グラスノスチ)がゴルバチョフ改革のもう一つの柱となり、スターリン時代の暗黒面(農民の抑圧や飢饉、指導者の粛清、バルト三国の併合など)をはじめ、ソ連社会の否定的側面も率直に議論されるようになった。
ゴルバチョフは経済改革の遅れの原因が政治体制の保守性にあると考え、八七年以降ペレストロイカの重点を政治改革に置いた。政治改革は次第に重要性を増し、議会制度の復権や党・国家の機能分離がはかられた。市民運動、独立労働組合、民族共和国での人民戦線などの運動も生まれた。弱い政府機構を補っていた党機構が政治の舞台から退ぞくとともに、市場経済の導入と社会主義連邦制の維持をめぐる党内外での対立も激化した。対立は九〇年のバルト三国独立、憲法からの「共産党の指導性」の削除などにより決定的段階を迎え、九一年には党内「保守派」のクーデターが起こったが、大衆の反対などにより失敗した。
その後、社会の中核であったソ連共産党の解党が宣言された。さらに、九一年一二月のウクライナ、ベラルーシでの独立をめぐる国民投票後、ロシアは先の二国と独立国家共同体(CIS)を形成し、ソ連を構成していた中央アジア諸国もそれに加わった。その結果、ソ連は解体し、社会主義体制は終焉を迎えるにいたった。
ゴルバチョフは外交面では「新思考」を掲げ、外交・安全保障の重点を軍事から政治に移した。米ソ間の緊張緩和や核軍縮が進み、アフガニスタンからの軍の撤退もはかられた。また、東欧社会主義国の主権を制限していた「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄し、より対等な関係に改めた。長年の中ソ対立も解消した。外交面では、ゴルバチョフ改革は軍縮などの積極面をもっていたと同時に、両独問題などで経済力に規定された西側との妥協を強いられた。
ペレストロイカで追求された経済改革の課題は六〇年代改革が積み残したものであり、必要な改革であった。しかし、社会主義における商品・貨幣関係の利用や国有企業の管理方式など多くの改革構想が未整理であり、ソ連経済の再生をはかることはできなかった。また、改革は主として上からの改革で、労働者、農民の積極的参加を得ることはできなかった。経済基盤の強化を欠いた政治改革はいっそうの混乱を拡大した。
しかし、ソ連・東欧社会主義体制崩壊の主原因は、ペレストロイカそのものというより、六〇年代改革で追求された課題が未達成で温存され、七〇年代後半以降に経済的、政治的、社会的矛盾が蓄積したことにあった。生産力の高まりに応じた社会主義的経済計画・管理制度はついに構築されず、経済の内包的・質的成長への転換は実現されなかった。ソ連・東欧諸国は経済的には八○年代前半に機能不全に陥っていたのであり、その経済的矛盾の拡大の上に八九〜九一年の政治的、社会的矛盾の爆発があった。ペレストロイカの過程でおかされた誤りは社会主義体制の崩壊をいっそう促進した。また、指令経済と民主主義の欠如の下で、崩壊を押しとどめ、社会主義を担う主体も育っていなかった。
その後のロシアは、経済危機や混乱、福祉制度の解体、貧富の差の拡大、犯罪の激増、不安定な政局など、社会主義時代の安定した生活は失われ国民にとって痛みの多い体制転換を経験した。CIS諸国でも経済的自立は困難で、政治的混迷の度は深い。とくに中央アジア諸国では貧困と失業を背景に民族対立・紛争が勃発している。総じて、ロシア・CIS諸国は社会主義から資本主義に逆流する無秩序で混乱した過渡期にあると言えよう。
3 東欧諸国の体制転換
一九七〇年代後半以降のソ連経済の停滞は東欧経済にもマイナスに作用した。東欧諸国は、ソ連からの石油・原材料輸入とソ連への製品輸出によりコメコン(経済相互援助会議)分業体制に深く組み込まれていたからである。ハンガリーなどで部分的な経済改革は継続されたが、チェコ事件を契機に六〇年代改革は総じて終焉させられた。さらに西側諸国からの借款は、それによる設備投資が輸出拡大に結びつかず、八○年代の資本主義世界の不況と高金利政策とあいまって、東欧諸国の累積債務問題を深刻化させた。また、七五年のヘルシンキ全欧安保協力会議を前後して、政治の非民主性に異議を唱える人権・環境団体などの異端派運動が生まれた。
こうして、ソ連と共通する経済危機の深化、政治体制の非民主性、ソ連のペレストロイカの影響は、東欧の体制転換の主要因となった。一九八九年から九〇年にかけて東欧の社会主義政権は雪崩をうって崩壊した。体制転換は、ルーマニアを除けばおおむね平和裏におこなわれ、ドイツでは九〇年一〇月に事実上西が東を吸収合併する形で東西統一が実現した。
東欧諸国は体制転換によって経済の市場化と民営化、複数政党制による政権交代という新しい時代を迎えた。しかし、物価の高騰、大量の失業、福祉の後退とそれにともなう社会不安の増大など、新たな問題に直面している。こうした国民の不満を背景に一部の国では社会民主党などと党名変更した旧共産党が政権に復帰している。
しかし、総じてポーランド、チェコ、ハンガリーは資本主義への移行を終えつつある。九九年にはNATO加盟を果たしEU加盟も日程にのぼっている。しかし、ブルガリア、ルーマニアなど南東欧諸国の発展は遅れている。
脱社会主義化は民族主義の台頭ももたらした。チェコスロバキアは九三年に二国に分離し、ルーマニアのハンガリー人など少数民族問題を抱える国も少なくない。旧ユーゴスラビア諸国では、解体の過程で深刻な民族対立が発生し、NATO諸国の介入を招いた。
資本主義への移行は中東欧諸国でも複雑である。
第四節 現存社会主義国−中国、朝鮮、ベトナム、キューバ
現在、世界には中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム社会主義共和国、キューバ共和国の四つの社会主義国が存在している。それらに共通する特徴は、建国の初期に一九三〇年代ソ連で確立したスターリン体制と同一の社会主義体制を確立したことである。
1 中国の社会主義
中華人民共和国は一九四九年に成立した後、五〇年代中期に社会主義体制が確立した。中国共産党は五八年以降生産財の急激な集団化・国有化をおこない、ソ連などの六〇年代改革を強く否定した。毛沢東に対する個人崇拝も強まった。六六年から始まる文化大革命は、その帰結であった。一〇年間の破壊と停滞を経て文化大革命が七六年に終結した後、七八年末の共産党一一期三中全会で経済建設と改革開放が共産党の新たな路線となった。
文革後の中国社会主義は、大きく三つの段階に分けることができる。
第一段階は、計画経済を堅持しつつ、市場メカニズムを補助とした時期である。七九年以後まず農村で自留地、自由市場や生産の家庭請負制などの改革が進んだ。
第二段階は、一九八四年一〇月の共産党一二期三中全会で市場メカニズムを計画経済と並列させる計画的商品経済が提起されて以後である。これは、五〇年代以来の計画経済を基本とする経済政策の重要な変更であった。八七年の共産党一三回大会では社会主義の初期段階論が打ち出され、二一世紀半ばまで現在の政策が続くことが確認された。
第三段階は、一九九二年に社会主義市場経済が提起されて以後である。八九年の天安門事件直後は経済引き締め政策がとられたが、九二年初めに前年のソ連崩壊の影響などで改革開放が再び強調され、同年一〇月の中国共産党一四回大会では新たに社会主義市場経済が打ち出された。
一九七八年末に改革開放路線が打ち出された時、中国共産党が現在の社会主義市場経済体制への到達まで想定していたかは、疑わしい。中国共産党指導部内には計画経済を重視する「保守派」が存在しており、物価の高騰など改革が暴走した時には経済引き締め政策が実行された。そのため、中国の経済改革は漸進的なものとなった。しかし、文革を経て共産党の権威は大きく低下し、国民の支持を共産党につなぎとめるには経済を成長させるしかなく、改革開放路線は、曲折はありながら着実に進んだ。七九年以後二〇〇〇年まで平均成長率九パーセントという高い経済成長が続き、勤労者の生活水準も大きく引き上げられた。
中国共産党は一方で共産党の指導性や社会主義の道の堅持を強調しつづけ、政治体制改革はほとんど進まなかった。経済体制は社会主義市場経済、政治体制は事実上の一党独裁という中国の現状は、所得格差の拡大、拝金主義や共産党幹部の腐敗などさまざまな矛盾を生み出し、アジア各国の「開発独裁」と酷似した状況が生まれている。中国はプロレタリア独裁の政治体制をもち、憲法には社会主義国であることと共産党の指導性が明記され、基幹産業は現在も国有企業であり、現段階で社会主義国であることは間違いない。しかし、中国社会主義の将来は中国それ自体の発展とは別に予断を許さない。
2 その他の現存社会主義国
朝鮮は一九四五年以後米ソ対立により南北に分断された。北の朝鮮民主主義人民共和国は朝鮮労働党の指導のもとで、六〇年代には韓国を上回る経済成長を示したが、その過程で指導者の金日成に対する個人崇拝がしだいに強まった。九四年の金日成の死去後は、子息の金正日が新たな首脳となった。長期にわたって北朝鮮は実質的な鎖国政策を取り、経済の危機が伝えられたが、二〇〇〇年六月の南北首脳会談以後は経済改革と対外開放が実行され始めている。
ベトナムも第二次世界大戦後に南北に分断されたが、一九七五年にベトナム民主共和国側が世界の民主勢力の支援を受けアメリカに勝利し、南北統一が実現した。しかし、統一後の急進的な社会主義化政策により南部から大量の難民が発生し、ベトナム全体もカンボジア出兵などで深刻な経済危機に陥った。八〇年代中期よりドイモイ(刷新)政策を実行し経済は比較的順調に発展しているが、党幹部の汚職の広がりなど中国と同様の問題が指摘されている。
一九七五年にはカンボジア、ラオスでも社会主義政権が誕生した。カンボジアはポル・ポト政権による極端な集団化政策により大量の死者が生じ、ベトナムの支援を得て一九七九年に新たな社会主義政権が誕生したが、内戦を経て九一年に社会主義放棄が宣言され、九E年に王政が復活した。ラオスも九一年制定憲法では自らを社会主義とは規定してはいないが、政権党であるラオス人民革命党は社会主義志向を放棄していない。
キューバは一九五九年にカストロらにより革命が勝利し、六一年に社会主義を宣言した。一九九一年より経済改革を実施している。長期にわたるアメリカの経済封鎖で経済建設の困難がつづいているが、逆に国民の共産党への支持は強い。
第五節 今後も引きつづき研究を
二〇世紀は社会主義の生成、発展、崩壊を目撃した世紀であった。ソ連・東欧社会主義体制の崩壊は、「社会主義世界体制は着実な前進をしめしている」という現「提言」の認識との落差を明らかにし、社会主義の理論と実践に対して大きな課題を残した。われわれはこの壮大な歴史的経験をふまえて、科学的社会主義の古典とソ連・東欧社会主義崩壊の教訓の双方からわれわれの社会主義論を豊富化しなければならない。
崩壊の原因をめぐっては、さまざまな論議、見解がある。社会主義における政治・経済体制、思想・文化、国際関係のあり方などを含め、今後も引きつづき理論研究課題として追究しなければならない。
また、現存社会主義国はいずれも貧しい農業国から出発し、試行錯誤がつづいている。ソ連・東欧社会主義体制の崩壊後、経済的・政治的ないしは精神的後ろ盾を失い、困難は増している。概して、体制間対立をつくり出す力は失われている。しかし、問題の存在ゆえに一面的に各国の社会主義を否定するのではなく、その否定的側面からも教訓を学びとるという姿勢が必要であろう。同時に、現存社会主義国の多くが過度に市場経済に傾斜していくのは、日本など資本主義国での社会主義運動が弱く、資本主義の「繁栄」を許している側面があることも、忘れるべきではないだろう。