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第三節 国家権力の平和的移行

−−日本におけ
る社会主義革命の形態−−

一 社会主義政権とはなにか

 日本労働者階級の当面する歴史的使命は、日本に社会主義社会を実現することである。社会主義革命の第一段階は、革命的社会主義政権の樹立である。いいかえると国家権力を独占資本にひきいられる支配階級の手から、労働者階級を主導力とする勤労回民の手に奪取することである。
 支配階級が支配階級でありうるのは、かれらのみが生産手段を所有し、あるいはこれを自由に処理しうるからである。したがって、革命的社会主義政権が、ただちに、あるばあいにはじょじょに、開始しなければならぬことは、つきのような諸任務である。革命的社会主義政権は、現行憲法を改正する。そして、生産手段を、原則として国有または公有にし、生産、交通、通信および商業・金融機関を国営または公営にする。

 みずからの額に汗して働く農民の所有する土地を、ただちに国有または公有にすることはない。
 いっさいの消費手段を国有または公有にすることは、みとおしうるいかなる社会においても、原則としてはない。

 また革命的社会主義政権は、ただちに、行政、司法、教育および軍事などの諸機関を掌握し、あるいは廃棄しなければならない。これら機関の官僚主義は徹底的に破壊され、あたらしい民主主義に立脚した諸制度が導入され、労働者階級および一般勤労国民の生活と文化の発達を保障するあたらしい社会秩序が確立されなければならない。この任務を遂行するためにはこれらの機構で活動する労働者の組合組織が不可欠である。したがって、これらの組織の社会主義政党による的確な有機的指導が、欠くべからざるものとなる。
 成立した社会主義政権が、ただちに民主主義的警察をもつことは、とうぜんである。それは、労働者階級や農民や小経営者、知識階級によって構成される民主主義的な社会秩序を防衛するためのもであって、額に汗して働く国民を弾圧する機関ではなくなる。このような社会で民主主義的軍隊が必要であるかどうかは、そのときの国内的、国際的事情に規定されるものであって、こんにちこれを決定するのは、尚早である。

 革命的な社会主義政権は、新聞、雑誌、出版、放送などの機構を、新しい社会秩序にそって、指導しなければならない。この指導の形態が、国営または公営であるか、その他の方法であるかは、そのときの社会的条件によって決定される。これらの機構は、あたらしい社会秩序を維持し、発展させるために欠くことのできない意義をもっている。ここでも、これらの機構で働く労働者の組織の重要性をわすれることはできない。

 以上のような任務をはたしうる革命的社会主義政権は、プロレタリア独裁である。この独裁は、ブルジョア民主主義という形態でおこなわれる少数者のブルジョア独裁よりも、はるかに広範に拡充された民主主義である。人口の圧倒的多数の民主主義であるからである。ここで、民主主義を実質的に充実させる社会的条件がうまれ、民主主義は、形式的にも実質的にも拡大され、深化される。社会主義的民主主義、すなわち社会主義が実現される。

 革命的社会主義政権のもとで、単独の政党のみ存在するか複数の政党が存在するかは、レーニンがいうように、その国の内外の歴史的条件によることであって、社会主義革命の一般的条件ではない。だが、独占資本のみの利害をまもる政党の存在はありえない。
 このようにして、社会発展を規定する物質的生産力は、その基本的な桎梏をとりのぞかれ、あたらしい社会秩序のなかで生じうる矛盾を、意識的計画的に解決しつつ、革命を必要としない社会発展を必然的にする。このような社会秩序を士台としてのみ、意識的計画的に、人間の経済生活と文化は、無限なる発展の展望をうる。高度なる知性と徳性の展開が期待される。国家権力はじょじょに死滅し、マルクスが「各人は能力におうじて働き、必要におうじてあたえられる」といった、「よりたかい共産主義」の段階にちかづく。

二 平和的移行の必然性
 こんにち、社会主義の世界体制は、全地球の四分の一を蔽(オオ)うている。その生産力、その経済生活の発展は、まもなく帝国主義諸国の最高水準をこえるであろう。数百年にわたって搾取され、収奪された被抑圧民族には、第一次、第二次世界大戦のなかから、数多くの独立国家がうまれた。まだ独立をかちえない被抑圧民族においても、独立の運動が澎湃(ホウハイ)としておこっている。植民地体制は崩壊し、帝国主義諸国の土台が掘りくずされている。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカではつねに国内の政治経済に動揺がある。帝国主義諸国内部でもたとえばアメリカ合衆国においてさえ、失業問題と黒人問題が結合して、さらにベトナム反戦運動にしめされるように、国内的な動揺がつづいている。
 第二次世界大戦後とくに一九五〇年代後半をさかいとして、社会主義の世界体制は、政治的経済的にも、軍事的にも帝国主義にたいする優位件を確保し、植民地の独立および独立のための運動は、帝国主義体制の崩壊を決定的にしている。

 資本主義的生産諸関係は、そのあまりにも高度に発達した生産力を、自力では制御できないことを、国家独占資本主義の体制とその下で頻度と深度をくわえる恐慌によってばくろしている。さらに、ポンド・ドル危機は、この矛盾を深刻に露呈(ロテイ)して、帝国主義諸国の心胆を寒からしめている。
 このようにして、帝国主義体制の根底をゆるがす矛盾の激化は、革命的勢力としての労働者階級の成長をうながしてやまない。
 帝国主義の戦争政策は、社会主義の世界体制と植民地の独立および独立のための運動の力により、また、帝国主義国内における労働者階級の組織された力の強化により、制約されて、その貫徹を阻まれている。戦争が不可避的であった時代から、これを阻止することもできる時代に移った。とくに熱核兵器の出現が人類を破滅にみちびくような戦争へと、その性格を一変させるにいたった。こんにちの段階では、戦争に反対し平和をねがう世界の平和愛好勢力が、ますます強力となりつつある。いまや自分のつくりだした武器によって、戦争をひきおこしたいかなる帝国主義国も、滅亡の打撃をうける。

 異なった社会制度をもつ国ぐにとの平和共存の政策は、こんにちでは、階級闘争の一形態として、社会主義諸国が積極的に展開する平和外交である。主権の尊重、内政不干渉、外国の基地撤去などの主張をともなって、世界平和の保障をますます強化しつつある。平和共存の政策は、現段階の帝国主義の国内的国際的な矛盾の尖鋭化がつくりだした、結集し、訓練された、物質的、精神的、組織的力によって支えられている。平和共存とそのためのたたかいは、各国の平和運動の拡大強化とともに、その進展におうじて、各国における国家権力の平和的移行に、具体的な力をかすものとなる。それは、各国における労働者階級の階級闘争を有利にみちびき、社会主義革命の弾圧に武力を用いることを阻む力に転化するからである。
 かくして、社会主義の世界体制の強化、発展、帝国主義諸国における労働者階級のインターナショナリズムの成長、アメリカの経済的、政治的威力の退潮、世界における平和運動の拡大強化、このような国際間係の発展は、各国における社会主義の実現を容易にし、わが国における国家権力の平和的な移行の一般的な条件となる。

 わが国の平和的な権力移行を規定する条件は、国際的な諸情勢だけではない。わが国の歴史的運命を究極的に決定するものは、国内の歴史的条件である。
 敗戦によって日本の軍部ファシストは、みずからまねいた事態のために崩壊し、民主主義は、現憲法によって制度化され、国家権力は、国民を代表する国会に集中している。民主主義の精神は、いくたび障害を乗りこえて、国民の間に浸透している。こんにちの憲法が、ブルジョア憲法であることは、なんのうたがいもない。したがって、この憲法は私有制を基礎とし、そのどこにも、階級対立は否定されていない。とうぜんに実質上、差別と不自由が存在する。しかし、この憲法が保障している形式的な自由と民主主義は、労働者階級を中核とする一般勤労国民の組織された力の最大限の成長をゆるす。

 現憲法のもとで、国民はその歴史的な運命を自由に論議しうる。国民は、きたるべき革命の性質やその具体的な形態について、自由に語り、社会主義社会の実現を使命とする政党を合法的に組織することができる。したがって、こんにち国会はたんなる「おしゃべり」の場所ではなく、国民が欲しさえすれば、そしてその意思を組織された力に転化することに成功しさえすれば、行政官僚や自衛隊・警察や、裁判所にたいして、国民主権の存在として、その実力をしめすことができる。労働者階級を中核とする一般勤労国民の使命は、この実力を確立することである。
 現憲法のもとでは、国民は、少しも憲法に違反することなく、戦争反対の意志を大衆行動をもって直接的に示威することができる。また、労働者階級は、経済的、政治的要求をつらぬくために、ストライキをおこなうことができる。こんにち労働者階級が、そのような力に成長する障害となっているものは、主として労働者階級の階級的自覚の不足によるものであって、現憲法そのものの問題ではない。公務員・公共企業体労働者の労働組合にたいする争議権の制限があっても、それらは違憲立法として、労働者階級の力いかんによっては骨抜きにし、あるいはこれを改廃することができる。労働者階級が、社会主義政党と労働組合の強大な力を結集し、これらの組織が労働者の階級的自覚と社会主義者の革命的精神をもって横溢(オウイツ)する場合には、こんにちの社会における民主主義と自由を守る不抜の力となるであろう。

 これらの事実は「国民代表がいっさいの権力をその手に集中しているような、また人々が、その背後に国民の多数を有する場合には、いつでも、憲法にもとづいて思うままのことができるような諸国において、旧社会が平和裡に新社会に成長していくものと考えることができる」とエンゲルスがのべている事態は、こんにちの国際・国内情勢のもとでは、一定の程度にわが国に存在していることをしめしている。
 もちろん、現憲法のもとで、革命的主体の強化が現実となりうるがゆえに、支配階級は、現憲法の改悪を意図している。しかし、憲法改悪の不可能な現状のもとでは、憲法の条項を無視し、国家の暴力装置の強化、行政権の立法権への優位件、地方自治体の中央集権化、民主主義的権利の形式的、実質的制限などをつうじて「なくしずし改憲」の体制を強化しようとしている。しかし、「なしくずし改憲」は、労働者階級の組織的力に対応する支配階級の攻撃のあらわれかたをしめすものであり、それは、われわれの力を逆に証明しているものである。また、それは、労働者階級が、憲法条項を楯にとって、支配階級にたいする攻撃を強化する条件ともなりいる。このような条件は、第二次大戦後の国際情勢下における帝国主義諸国においては、労働者階級が、ブルジョア民主主義を全面的に否定するファシズムの成立を阻みうる力量を備えている証拠ともなっている。

 こんにちの国内情勢のもとでは、われわれが、労働者階級の経済的、政治的な日常の利益のために献身し、憲法改悪反対闘争を中心とする原水禁その他の平和と民主主義と自由のためのいっさいの運動に全力をあげるならば、独占資本を孤立化させ、社会主義のための「政治的軍隊」をつくりあげることができる。国会における社会主義革命を遂行しようとする政党が、国会外のこの「政治的軍隊」と有機的にむすびつき、広範な国民大衆の支持をえているばあいには、社会主義革命、いいかえると、労働者階級への国家権力の移行は、国会をつうじて武装蜂起なしに、平和的に遂行される。だが、われわれは、この社会主義革命が、いつ成功するかを予言することはできない。それは、ときの主体的条件と客観的条件との有機的な関係によって決定されるものだからである。したがって、われわれが、社会主義革命の「青写真」をつくることはまちがいである。
 こんにちの国際的情勢が、戦争を阻止し、平和共存のたたかいがますます有利に展開する現実的な可能性をもっており、さらに、わが国のように、一定の民主主義的条件を、労働者階級を中心とした勤労大衆の結集した力によって支えるるところでは、革命的社会主義政党は、労働者階級の組織を主導的な力として、一般勤労大衆の結集に成功しているばあいには、国家権力の平和的移行を実現する。このような歴史的条件のあるところでは、国家権力の平和移行は、内的法則性をもち歴史的必然となっている。

 あたえられた客観的条件の必然を、主体的な革命行動に、平和的に、いいかえると内乱をもってではなく、転化させることができる。社会主義革命に、万国共通の一定不変の型があるのではない。歴史的、客観的な条件は、武力革命であるか組織的な行動による革命であるかを決定する。武装蜂起によるか、組織力を土台とするかは、われわれの希望や懇意にしたがって決定されるものではない。国家権力の平和的移行をたんなる可能性と考える理論からは、相手の出方しだいであるという結論しかない。この考え方は、革命的社会主義政党が、社会主義運動のどこに主力をそそぐべきかを明らかにすることはできない。武力の結集と日常の武力的訓練のない武装蜂起がナンセンスであるように、労働者階級を中核として勤労階級の一定の組織力の成長を予想しない国家権力の平和的移行はありえない。革命行動の必然は、手をこまねいていても、社会主義社会がくるということではない。歴史的発展の内的法則性を、主体的行動に転化することである。

三 統一戦線の性格(一)
 わが国をもふくめて、高度に発達した帝国主義諸国における現代の民主主義運動は、独占資本家にむけられ、これをいっさいの他の国民大衆から孤立させる使命をもっている。したがって、この運動は、資本主義そのものを変革する社会主義革命を、直接に目的とはしていない。
 わが国の経済と政治を支配するものは、独占資本である。それは、いっさいの勤労国民大衆の労働搾取のうえにたっているばかりでなく、中小資本家階級の搾取した労働を、横取りする。国家権力は、独占資本の委員会、その憲兵として、勤労国民大衆の搾取、収奪、抑圧の機関となっている。いまや独占資本は、広範な国民大衆、いいかえると労働者階級、農民、知識人はいうまでもなく、中小零細資本家とすら対立する。ここに広範な独占資本支配に反対する統一戦線成立の必然性がある。先にのべたように、労働者階級は、それなくして資本主義そのものが存在しえない基本的要素であって、独占資本にたいして徹底的に敵対的である。農民層や零細企業者層、知識人は、プロレタリア的要素をふくむ社会層であるが、中小企業者層は、歴史的に本質的に社会主義的な社会層ではない。しかし、独占資本の抑圧は、これらの層をも反独占的にする。

 したがって、労働者階級は、直接にその歴史的使命を実現する運動に、これらの社会層を動員することはできなくとも、独占資本支配の非民主主義的性格と戦争政策を攻撃する戦線に加えることはできる。
 したがって、このたたかいは、反独占、民主主義脚的、反帝国主義戦争の統一戦線である。広範な勤労大衆の利益を守る共通性をもつものであって、この限度において、戦線に結合できるかぎりを収容する。この闘争を外にして、独占資本を孤立化させるとともに、ここに結集した国民大衆の利益を実現する方法はない。かくて、この戦線は、資本主義の限度内において、独占資本が放棄し、抑圧する民主主義と自由をとりかえし、拡充する力に成長することができる。この民主主義運動は、資本主義の一般的危機の激化によって生ずる歴史的法則性に、労働者階級がたくみに適応する主体的運動なのである。

 この運動の推進的な中核となる勢力は、社会主義的革命政党の指導する労働者階級である。しかし、各階級、各階層の帝国主義的独占資本にたいする対立関係の性質と、その深浅は、かならずしも同一ではない。労働者階級は、独占ブルジョアジーにたいして徹底的な敵対関係にある。他の諸階級、諸階層は、それぞれの歴史的地位におうじて、対立の強度を異にする。しかし、帝国主義的独占ブルジョアジーによって、搾取され、抑圧されていることにおいては、同一である。ここに反独占、民主主義擁護、反帝国主義闘争の統一戦線成立の根拠がある。
 この運動が、一定の客観的情勢のもとで、これに有機的に対応することに成功するならば、反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線政府を樹立することができる。これらの諸階級や諸階層は、この政府の弾力性に富んだ闘争のなかで社会主義社会においてうしなうべきものは少なくあたえられるものが多大であることを知る。このようにして国家権力の社会主義社会への平和的移行が実現される。

 このような過程について、東欧人民民主主義革命はわれわれに多くの教訓をのこした。ヨーロッパの人民民主主義諸国では、ナチスの壊滅とともに、最初にうまれた人民権力は、反ファシズム・民主主義の権力であった。それは広範な民主主義統一戦線に支えられた。それが一定の歴史的条件のもとで革命的社会主義政権に移行したのである。第二次大戦後の西欧の帝国主義国における国際社会主義運動の経験もまた、わが国の現代民主主義運動と社会主義革命との関連を追求するにあたって示唆をあたえている。

 日本の労働者階級が当面する反独占、民主主義擁護、帝国主義戦争反対の統一戦線の結成は、憲法改悪阻止の統一戦線をつうじて具体化される。
 日本の国家独占資本主義が当面する矛盾の尖鋭化は、独占資本と労働者階級とのはげしい階級闘争をともなわずにはおかない。独占資本は、この矛盾を克服するために、強力な体制的合理化をおしすすめるほかに方法をもたない。それは、体制的合理化に反対する労働者階級の強力な抵抗に遭遇する。広範な反独占給一戦線結成の中心的、基本的運動が反合理化闘争である所以である。生産点における反合理化闘争によって強化された労働者階級の組織された力なくして、この統一戦線の成立と成長はない。労働者階級が広範な統一闘争のもっとも誠実で闘争的な指導勢力である。日本の独占資本とその政府は、労働者階級の組織の破壊のために、広範で多様な思想攻撃をくわだてている。治安立法ならびに抑圧の暴力装置を強化している。敗戦後、日本の民主主義が拡充され、民主主義的憲法が成立したにもかかわらず、支配階級は、つねにこの憲法の規定する基本的人権、政治的自由を制限する違憲立法体制を強化する。

 また、日本帝国主義とそれに対応する日米軍事同盟の発展もまた、憲法の破壊である。日米安保条約にしめされた軍事同盟は、アジアにおけるアメリカ帝国主義の極東戦略体制に積極的に協力し、日本帝国主義が国際的帝国主義戦線の一翼を担うことを意味している。日米安保条約による自衛力の強化は、日本国憲法の非軍事化、平和主義の否定である。
 いまや、「憲法改悪」は、日本の独占資本とその政府の最大の政治的課題である。こんにち、勤労国民の力は、明文憲法改悪の全面的遂行をおさえている。支配階級は「なしくずし改憲」の攻撃をつうじて、憲法改悪反対闘争の主体の弱化をはかっている。かくして、独占資本の利益を代表する反動的勢と民主主義勢力との憲法闘争をめぐる対決は、直接には、教育、地方自治、労働基本権などをめぐる「なしくずし改憲」にたいする職場や地域における具体的なたたかいとなってあらわれる。
 さらに、ベトナムをめぐるアメリカ帝国主義の戦争、日韓条約批准にしめされた日米帝国主義の陰謀は、アジアにおける戦争の危険を拡大しつつ、日本の核武装を要請している。労働者階級は、日本の核武装阻止の旗のもとに、アメリカ原子力艦船の寄港、自衛隊の強化に反対する、広範な平和運動を組織する課題を担っている。このたたかいは平和共存の国際的要求のための闘争であるとともに、日本国憲法の平和主義を擁護するたたかいでもある。

 労働者階級を中心とした広範な憲法改悪阻止の統一戦線は職場や地域の日常のたたかいをつうじて組織されなければならない。
 このような組織された労働者階級の力を中心として結成された憲法改悪阻止統一戦線は、現憲法の体制に矛盾する日米安保条約破棄の闘争と結合される。労働者階級の反独占、民主主義擁護のたたかいなくして、日米安保条約破棄の課題を遂行することはできない。民族の独立と自由のための闘争にのみ力点をおくことは誤りである。アメリカからの完全独立をたたかいとり、アメリカの政治的、経済的影響力を、アジアから一掃することは、世界戦争の危険を抑制し、世界平和に貢献する所以( ユエン)である。しかし、このたたかいは、独占資本の搾取強化の方策にたいする闘争の戦線強化に、重点をおくことなくして、真の組織された力となることはできない。われわれは、反独占、民主主義擁護統一戦線の結成にむけて当面の課題を改憲阻止のための国民会議の確立強化におく。この組織化は、われわれの社会主義革命への道にとって、基本的なたたかいである。
 日本の独占資本が国際的金融独占資本と結合し、反共十字軍の役割をはたす国際的軍事同盟に参加している現状のもとでは、反独占、民主主義擁護の統一戦線が、国際的帝国主義戦線に反対する反帝国主義戦争の課題を担っているということは、いうまでもない。

四 統一戦線の性格(二)
 われわれのめざす憲法改悪阻止のための国民会議は、広範な、反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線の確立を目的とする。われわれは、日本社会党をして、憲法改悪阻止の国民会議、または共闘会議の発展によって広大にして不動の統一戦線を形成することに、全力をそそがしめなければならない。しかし、いうまでもなく、憲法改悪阻止の国民会議という名称にこだわってはならない。またこのような会議の加入方式に、いま個人加盟か団体加盟かというような一律の固定した規定をもつ必要はない。それとともに、われわれはつねに社会党の外ではなく、なかでたたかうものであることをわすれてはならない。
 この組織化にあたって、労働者階級は、労働組合運動における統一行動を組織するという、重大な課題をはたさなければならない。統一戦線の中核となる労働戦線の分裂は、帝国主義国における独占の支配の強化を意味しているからである。この成否は、低賃金の打破、職場における民主主義的権利、労働基本権の防衛、教育権の擁護、地方自治の防衛、などのたたかいをつうじて、統一行動の組織化に成功するかどうかにかかっている。これらのたたかいは、独占資本の体制的合理化攻撃と対決する、いわゆる「反合理化闘争」という共通の課題に支えられることなくして、真の総一行動に発展させることはできない。日本社会党はこのたたかいのなかで、指導的な力に成長しなければならない。

 この戦線の結成にとって、自治体闘争が重要な役割を減ずることを忘れてはならない。国家独占資本主義の攻撃は、生産点における労働者階級のはげしい搾取にあらわれるだけでなく、地域におけるわれわれの生活と権利をもおびやかすからである。独占資本は、地方自治体を中央権力の下請け機関化しつつ、産業基盤育成などの美名のもとに、かれらの従属物たらしめようとしている。そのことは、地方自治がめざす地域社会における社会福祉行政を犠牲にし、地域社会が独占資本の搾取と収奪の体制にくみいれられることを意味する。したがって、この支配形態に対応した地域における生活と権利を防衛するたたかいが不可避となる。地方自治防衛の闘争を組織することが、改憲阻止の地域組織を強化する主体の形成にとってきわめて重要なたたかいとなるのである。
 労働者階級の生産点におけるたたかいを基軸として、そのたたかいと地域におけるたたかいとを結合することによって職場・地域での広範な勤労国民をふくむ階層別、要求別統一戦線機関を、全国的につくりあげねばならない。これらの統一戦線機関は、強大な日本社会党の指導のもとに改憲阻止のための国民会議に組織されることが必要である。したがって改憲阻止のための国民会議は、いわゆる「安保共闘」のようなものであってはならない。共産党の戦略目標が、民族独立、いいかえると反米帝闘争に力点をおくことからくるのであるが、「安保共闘」には、労働者階級の反合理化闘争、反独占闘争を土台として、闘争の中核をつくりあげる理論と、これをつらぬく努力がなかった。われわれ改憲の阻止のたたかいは、労働者組織の日常活動、反合理化闘争を土台にして、革命的社会主義政党に指導される労働者階級の強力な成長によって確立されるものである。

 このような統一戦線運動にむかっての展望にたって、われわれがこんにちなさねばならないことは、統一戦線を観念的に叫ぶことではない。統一戦線のための主体性を確立することである。日本社会党を統一戦線の主体となるように強化することである。日本社会党の強化に、社会主義協会の任務がある。

五 社会主義政権の樹立へ
 日本の労働者階級が反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の戦線強化の過程で当面するであろう政権は、いうまでもなく統一戦線を基盤とする。社会主義政党の戦線と労働戦線の分裂せる現状のもとでは、それらの統一なしに権力奪取はありえない。このような政権は、たとえば、改憲阻止闘争に勝利した結果、またはこの闘争の過程でうまれるであろう。
 このような政権の本質は、特別な事態のもとで、社会主義的革命政府であることもありうるが、一般的には、このような政府に、二つのばあいがある。その一つは、一定の革命的客観的情勢の成熟のもとに、広範な統一戦線政府が樹立され、その施策と闘争の結果、革命的社会主義政権の樹立に発展するばあいである。このばあいは、客観的条件と主体的条件との結合がきわめて重要であることはあきらかである。しかし、第二にわれわれの主体的条件が未成熟のためか、闘争の不十分なため、中途で退却せざるをえないばあいもおこりうる。

 このような過渡期の政権の任務は、徹底的な民主主義の拡充である。このたたかいのみが、第一のばあいには、革命的社会主義政権の樹立、国家権力の平和的移行を遂行しうる。第二のばあいでも、この政府のはたした民主主義の拡充によってあらたなる進撃の準備を、敵陣のなかに構築された橋頭堡(キョウトウホ)をもつことになる。
 いずれにせよ、われわれがめざす過渡期の統一戦線政府の樹立は、支配階級がもはや大衆の反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の闘争に対抗できる状態にないような、政治的危機の条件のもとでなければならない。一定の、特殊な客観的危機の前提が存在することのみが、政治的に必要欠くべからざる任務として、その政府を組織する課題を日程にのぼらせるということを自覚しなければならない。

 こんにち、われわれの周囲に、反独占、民主主義擁護、反帝国主義戦争の統一戦線を主体的に強化しさえすれば、革命的社会主義政権の樹立に成功するという考え方がある。この考え方は正しくない。

 一般的危機の時代が、資本主義から社会主義に移行する時代であることにまちがいはない。しかしこのことは、現代が一般的に社会主義革命の時代であることをしめしたものであって、具体的にわが国にいつでも革命の生起する条件があることをしめすものではない。わが国における社会主義革命は、一般的危機だけではなく、特殊的に社会的危機が、客観的に存するかどうか、また革命を遂行する主体的条件が、その時、わが国にそなわっているかどうかにかかっている。この二つの条件は、相互に有機的関係をもち、交互作用をもってむすびついている、しかし、つねに客観的条件が規定的である。
 このことの認識がわれわれの革命理論を科学的にしている。主体的条件も、客観的条件の発展とともに、このことによって条件づけられながら、成熟する。資本主義下におけるわれわれの日常的なたたかいは、主として、一定の事態のもとで可能なる主体的条件の成長のためのものである。それは、いかなる客観的条件の変化にたいしても適応できる主体的条件の訓練であり、革命条件の成熟を見誤ることなく、社会主義革命を遂行しうる能力をもつ主体の形成への努力である。

 客観的条件とは、資本主義の基本的矛盾から発現するすべての社会的条件である。だから、たとえば戦争がこんにちまで民族独立革命や社会主義革命の重大な客観的条件であった。こんにち、世界大戦はさけうるとはいえ、局地的には戦争はおこっている。周期的恐慌は、ひんぱんにおそいかかっている。その振幅や深度とともに、頻度(ヒンド)の点で、現在異常な危険感をもたらしている。このようなひんぱんな恐慌は、国家の権力および資本力をもってする介入によって.克服されるようにみえるが、それはきわめて表面的で、一時を糊塗(コト)するにすぎない。このようなひんばんな恐慌の集積が、深刻無比な大恐慌や慢性的な腐蝕的な未曽有(ミゾウ)の恐慌とならないという保証はない。こんにちの生産力、ことにオートメーションによるその発展は、国家独占資本主義のいかなる国においても.「合理化」を強制するが、この「合理化」の進行から、支配階級がいかんともなしえない失業者群がうまれて、資本主義体制の危機を醸成することは、必然的である。また、社会主義世界体制が、経済的に文化的に躍進し、国家独占資本主義の諸国に特別な不安と動揺をあたえることも、必至である。

 要するに、わが国の労働者階級にあたえられた客観的条件の発展が、支配階級のなかに混乱と不安と絶望とを生み、かれらに支配の自信を喪失させることなくして、国家権力の平和的移行といえども、成功することはない。また広範な国民大衆が、その危機に社会主義政党を全面的に支持することなくして成功することはない。
 社会主義革命を、主体的条件のみによるとする思想は、極左冒険主義と右翼日和見主義の苗床である。

 われわれがめざす過渡期の統一戦線政府とその革命的社会主義政権への移行も客観的条件と主体的条件との結合を不可欠としているのである。
 したがって、革命的情勢が、客観的にも、主体的にも、不十分であっても、たとえばブルジョア政党の腐敗が特別な事件でばくろされた結果、社会党が国会で第一党ではあるが、過半数の議席はしめていない、しかし、政府はひきうけねばならない、という事態がおこりうる。このようなばあい、客観的情勢の分析のないまま、政権獲得に早急に努力することが、かえって、革命的情勢を遠ざける役割をはたさないかどうかをみさだめねばならない。
 
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