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第二節 国内情勢の基調

一 戦前の日本資本主義の特徴

 明治維新は不徹底なブルジョア革命であった。しかしこの時代はすでに資本主義世界は、イギリスを中軸とした産業資本が最高の発展段階にたっし、さらにドイツ、アメリカなどにおける資本主義の成長とともに、漸次帝国主義段階へと移行しようとする時期であった。
 こうした世界的情勢のなかで、先進資本主義諸国に対抗しつつ国内の資本蓄積を促進せねばならなかった日本は、積極的に先進諸国から法・政治制度を移入して、近代国家としての形式をととのえ、さらには貨幣・信用制度の移植、技術導入、外資導入などをつうじて、強行的に資本主義の成長をはかった。

 一部の工業においては国家の強力な育成策と、株式制度、機関銀行などを軸とした急速な成長がみられたが、しかし他面、従来の中小零細工業は停滞し、また農業においてはひろく零細な小経営が残存し農民層の階級分解はおくれ、またこれらの部面は、産業の発展にとって豊富低廉(テイレン)な労働力の供給源となったのである。こうした日本資本主義の成立期における特殊性はまた、強力な国家権力を不可避とさせた。天皇制成立の基盤はここにあった。それは対外先進国の進入に対処するための強力な国内統一を達成しまた国内資本蓄積の強行と階級抑圧をはかる機関としての役割をはたしたのであって、絶対主義的な外皮にもかかわらず、本質的にはブルジョア的権力にほかならなかった。
 こうして成長をはじめた日本資本主義は、日清、日露の戦争をへて急速に金融独占資本主義に転化していくことになる。すなわち国営による重工業、持株支配による財閥の成立によって独占資本は成長する。しかしその反面、中小零細企業、農業は、直接に独占資本の収奪のもとにおかれ、その存立基盤はほりくずされ、独占資本との対立をふかめる。一方、労働者階級にあっては、独占企業に雇われれる労働者と中小企業労働者とのあいだに、労働条件、賃金の格差が生じ、大企業の労働者においては、年功序列型賃金体系、各種手当制度、恩給制度などをとおし、企業意識のうえこみ、企業内封鎖がはかられ階級意識の高揚がおさえられる一方、未組織の中小企業労働者は、劣悪な労働条件と低賃金のもとではげしい不満を醸成(ジョウセイ)しつつも、組織的抵抗を実現しえなかった。天皇制権力を自己の階級支配の手段として利用した独占資本は、国体擁護の名のもとに、治安警察法、治安維持法によって、私有制を守り、労働、農民運動を、さらに社会主義思想・運動をはげしく弾圧した。

 こうした状況のもとで、一九二九(昭和四)年の世界大恐慌とそのごの深刻な不況につきおとされた日本資本主義は、体制的危機にみまわれたのであるが、その過程で急速にファシズムが台頭し、日本資本主義を軍国主義と戦争の深淵へつきおとしていった。ファシズムは、ブルジョア議会制度の形式さえも暴力的に否定することにより、急迫した資本主義体制崩壊の危機を支えるぎりぎりの手段であった。
 こうしたファシズムの台頭を阻止しえなかったのは、不十分な民主主義的政治体制のもとで、国家権力によって労働運動、社会主義運動がはげしく弾圧され、労働者階級の窮乏と失業、中小企業者、農民の深刻な社会不安から生じた社会的動揺と不満を、社会主義政党が有効に組織化し、統一しえなかったからであった。だがファシズムによる体制的危機回避策の帰結は、経済の軍事化と対外侵略戦争でしかありえず、それは日本経済と、国民生活、文化の破壊でしかありえなかった。

二 日本資本主義の再編過程

1 占領軍の民主化政策とその転換

 第二次大戦の結果敗戦国ドイツ、イタリア、日本は、国内の富を破壊され.生産力も壊滅に瀕(ヒン)した。戦勝国イギリス、フランスも、戦争によって甚大な被害をこうむった。ひとりアメリカ帝国主義だけが、戦争の直接的被害をうけることなく、また連合軍の兵器廠(ショウ)を一手に引受け、その生産力を急激にたかめた。資本主義体制の維持は、アメリカ帝国主義の経済的、軍事的力によってしか支えられなかった。
 極東における唯一の帝国主義国日本は、敗戦によってまさに壊滅の危機に瀕した。植民地はことごとく喪失し、国内の富、生産力は破壊され、生活資料は欠乏して、国民は餓死的状況においこまれ、国家財政も戦債などの莫大な債務をかかえ破産の状態であった。独占資本と国家は、自己の体制を維持する自信も能力もほとんど喪失するばかりであった。かかる日本資本主義の崩壊の危機を救い、資本主義体制を支えた力は、アメリカ帝国主義による経済的、軍事的援助であった。日本の独占資本と国家は、アメリカ帝国主義へ直接的に従属することによって、自己の体制維持をはかったのである。

 アメリカを主体とする占領軍は、好戦的なファシズムのきばをぬくことをおもな目的として、まず軍隊、軍事機構の解体、戦争犯罪人の逮捕、ファシスト団体の解散、治安維持法の廃止などによる非軍事化政策を指令し、さらに警察制度の民主化、労働組合結成の奨励、経済、政治、教育、婦人の地位の民主化を要求した。こうした占領軍の指令のもとに、婦人参政権をみとめた選挙法改正が実施され、また総司令部の案によった新憲法が制定された。ここに明治憲法は廃棄され、基本的人権尊重、国民主権、平和を基本原理とする現行憲法が誕生した。新憲法の制定にともない、国家機構、行政組織、地方自治制度、教育制度、司法制度の民主化が実施された。
 経済の分野においては、財閥解体による財閥の封鎖的一族支配体制の解体、独占禁止法、過度経済力集中排除法による独占力の排除がおこなわれ、さらに労働組合法、労働関係調整法、労働基準法が制定され、労働者の基本的人権が容認されるとともに、農地調整法改正、自作農創設特別措置法によって農地解放と自作農創設がおこなわれた。

 かかる占領軍の民主化政策は、直接的には軍国主義ファシズムの排除をねらいとしたものであるが、いうまでもなくその本質は、ブルジョア民主主義の育成による非好戦的な資本主義の再興をはかるものであった。労働組合運動、農民運動、政党活動の合法化も、資本主義の枠内で労働者、農民に一定の譲歩をすることによって、運動の激化による体制転覆の危機を回避せんとするものであった。しかし、これによって、労働者、農民は、その組織力を合法的に拡大し、政党をつうじて国権の最高機関たる国会にその要求を示威することが可能となった。
 占領軍の政策は、かくして戦後日本資本主義再生のためのいわば大手術であったのであるが、なお、生産設備の破壊、食糧、原材料の欠乏などにより生産再開が軌道にのらぬうちは、それは独占資本にとっては大きな打撃であった。独占資本は直接にはできるかぎり民主化の実行をさぼりつつ、安易な復興をはかった。すなわち戦時債務支払、企業への補助金支出、鉄、石炭産業の傾斜生産方式、さらに復興金融公庫設立によるインフレ政策がそれである。こうしたインフレーションによって旧来の債権、債務関係はなしくずし的に処理され、資本の強行的蓄積が再開されはじめた。インフレーションによって実質賃金は切下げられ、低米価供出強制によって農民の搾取が強化された。政府の財政支出、融資による基幹産業復興策は、労働者、農民の大きな犠牲のうえで強行された。

 占領軍による民主化政策とインフレーションによる経済的混乱は、急激に労働運動を高揚させた。一九四六(昭和二一)年五月の「食料メーデー」、産別の「一〇月攻勢」計画、その後の「冬期攻勢」への拡大などにより、当時の吉田内閣打倒という政治的色彩が濃厚となり、ついに一九四七(昭和二二)二月の「二・一スト」に発展していく。これは総司令部の禁止令により挫折したが、そのご「全国労働組合連絡会議」の結成がすすみ、四月の総選挙で社会党が第一党となり、六月、社会党を首班とする民主、協同三党連立の片山内閣が成立した。
 社会的動揺などによって、社会主義勢力の急速な発展の情勢が存在していた。しかし、片山内閣の実行した政策は、占領軍の指令に拘束され、保守党との政策協定にしばられ、妥協的な方策でしかなかった。それは労働運動の高揚を組織的に統一し、これを政治運動に結合させえなかった主体的条件の欠如のゆえでもあった。そのため、その資本主義維持の妥協的方策にたいして労働者階級の反発をまねき、内閣は短期にして倒壊した。

 初期占領政策の推進した民主化政策は、しかしわずか二年たらずのうちに転換をとげ、日本資本主義の急速な再建がおしすすめられていく。一九四九(昭和二四)年までにほぼ完了した東欧社会主義革命の成功、さらに中華人民共和国の成立は、米ソの対立をひきおこし、アメリカは一九四七(昭和二二)年にマーシャル・プランにもとづき西欧資本主義への援助を開始し、一九四九(昭和二四)年にはNATOを結成して反共体制を固めた。これを反映し、直接には中国にたいする防波堤として、アメリカは日本資本主義再建をいそぐ。西欧にたいするマーシャル援助に対応し、ガリオア(占領地救済資金)援助のほか、さらにエロア(経済復興援助資金)による援助がおこなわれ、食糧、工業原材料が「貸与」された。それと同時に労働運動の抑圧が開始された。一九四七(昭和二二)年の「二・一スト」禁止を手はじめとして、「政令二〇一号」(芦田内閣当時)によって公務員労働者の団交権の否定、争議行為禁止が発令され、これをうけて国家公務員法改正がおこなわれ、また公共企業体等労働関係法が制定されて、公企体労働組合から争議権がうばわれた。「二・一スト」禁止後急激にたかまった労働運動は、生産管理職術をとるにいたっていたが、それとともに占領軍による抑圧政策もいちじるしく目だった。これが日本の支配層をいっそう勇気づけ、さらに各府県でも相ついで公安条例が制定された。新憲法はその成立後まもなく、まさにその起草者の手によって空洞化されはじめた。

 一九四九(昭和二四)年に実施されたドッジ・ラインは超均衡予算により、インフレーションの収束をはかるものであり、これによって戦後の混乱を安定させ、あらたな発展を準備するものであった。しかし、また同時に、これは、一ドル=三六〇円という単一為替レートを設定し、ドルによる世界なかに日本経済を編成させようとするものであった。しかしドッジ・ラインによるインフレ収束は政府的に膨張していた企業をいっきょに整理し、とくに中小企業の倒産は激増した。単一為替レートによる国際市場への門戸解放は、なお貿易管理、為替統制により保護されていたとはいえ、日本の企業にたいしてきびしい合理化を強制するものであった。この過程をとおして、弱体企業の整理と独占資本への集中化が進行し、独占資本のあらたなる発展が準備された。
 いうまでもなく、こうしたドラスチックな経済の合理化は労働者の失業を激増させ、その貧困化をまねき、はげしい社会的動揺をひきおこしたが、これにたいして政府は団体等規正令をだし、レッドパージ、重要産業のスト制限を実施し、あるいは追放解除をおこない、反動的色彩をこくしていった。


2 朝鮮戦争と日本資本主義の復活

 ドッジ安定恐慌は、日本経済にかなり深刻な合理化を強要したが、しかし一九五〇(昭和二五)年六月に開始された朝鮮戦争は、合理化を徹底させぬまま、急激な生産拡大をひきおこした。朝鮮戦争によるアメリカの特需は、軍需物資の需要をつうじて、生産を拡大させたばかりか、これによって工業原料、機械の輸入を可能にし、独占資本の再建に大きく役だった。この時期以降、政府の財政政策も積極化し、公共事業支出を急増させるとともに、開発銀行、輸出入銀行(一九五〇(昭和二五)年)の設立により、重工業部門への設備資金の融資をはかり、さらに輸出拡大をはかった。さらに設備資金は融資によって加速され、銀行融資は日銀信用創造を背景としておこなわれた。設備資金融資にもとずく生産拡大が開始された。こうして、旧財閥系銀行の系列融資を中心とした独占資本の再編成がすすみ、その生産集中度もほぼ戦前水準に復帰した。
 朝鮮戦争特需の漸減と輸入急増によって、一九五三(昭和二八)年には金融引締めがおこなわれ、ふたたび不況にみまわれると、独占的大企業は一方で独禁法を大幅に改正し、不況カルテル、合理化カルテルの結成によってこれに対処するとともに、鉄鋼、電機、海運、綿紡などの部門では、独占的大企業による原料生産下語加工部門あるいは関連部門の系列化がすすみ、また商事部門中心に企業合同も活発化した。こうして日本独占資本の再建はほぼ達成されたのである。

 しかしこのような日本独占資本の再建は、アメリカ帝国主義への従属体制のもとでおこなわれた。アメリカからの救済資金、復興資金の援助によって戦後の混乱を克服し、さらにドッジ.ラインによってアメリカへの経済的依存関係を確立した日本経済は、アメリカからの原料、技術、機械の輸入、アメリカへの商品輸出の拡大なくしては、発展しえぬ関係におかれた。中国あるいは東南アジアへの軽工業製品の輸出拡大にかわって、直接に帝国主義国アメリカへの輸出拡大こそが日本経済発展の条件となった。このことからとうぜんに高度な生産力をほこるアメリカの電化学工業との競合関係にたたされた日本独占資本は、アメリカから高度な技術導入をはかり、それ自身重化学工業化をすすめねばならなかった。そして、そのための設備資金の不足は、アメリカからの特需収入、MSA協定による余剰農産物見返資金受入れ、あるいはアメリカ市銀、世界銀行からの借款(シャッカン)によっておぎなわざるをえなかった。アメリカ経済への従属は、日本独占資本再建の不可避的な道であった。

 アメリカ経済への従属体制を背景に、さらに日本独占資本と政府は、朝鮮戦争以降、社会主義諸国の勢力に大きな脅威を感じ、それに対抗する軍事的保障を必要とした。政府は、一九五〇(昭和二五)年八月警察予備隊を創設し、海上保安庁の増員を実施して、公然と再軍備をすすめるとともに、みずからアメリカの軍事基地設置をもとめ、アメリカの軍事力を自己の体制維持のための安全保障と考えたのである。こうして政府は、占領政策の終息と政治、外交、経済における自主権の回復を要望しながら、同時にアメリカとの単独講和の早期締結をもとめた。アメリカ帝国主義は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争などによるアジア情勢の急迫のもとで、日本資本主義をアジアにおける強力な軍事基地、兵站(ヘイタン)基地とすることにより、反共防波堤の戦略的拠点としようとした。こうして、全面講和、申立堅持、軍事基地反対、再軍備反対をかかげる全民主勢力の要求を拒否して、一九五一(昭和二六)年、ソ連、中国などをのぞく米英四八ヵ国とのあいだで講和条約が締結、調印され、同時に日米安保条約が締結され、日米行政協定が成立した。これによって日本は占領の時期を脱し、政治的には独立を達成したが、しかし同時にアメリカとの従属的同盟関係は、ここに体制的に確立された。すなわち講和条約自体、すべての戦勝国によって保障されない不完全なものであり.またこれに必然的にともなう日米安保条約、同行政協定は、アメリカの沖縄、小笠原の占領、アメリカによる軍事基地設定と軍隊の駐留、およびこれへの特権の付与と国内法による保障を承認したものであって、これらはあきらかに日本の統治権と裁判権を制限するものであり、日本の国家主権を侵害した規定といわねばならない。しかも「急迫した脅威」に際しては、日本の共同防衛義務が課されており、まさに日本の独立は違憲の体制として成立したものであった。しかし日本政府、独占資本は、みずからすすんで王権を制限し、アメリカへの軍事的従属をもとめたのであり、かれらはこれによって自己の権力的基盤を補強し、同時に自己自身の軍事力増強への足がかりとしたのである。一方、アメリカ帝国主義は、日本独占資本再建とともに不安定な占領政策にかえて、日本国家による国内的主権をみとめるとともに、その責任と義務において、日本を反共世界戦略体制に従属せしめたのである。

 講和締結後、日本独占資本とその政府は、アメリカの軍事力による補強のうえに、さらに占領権力にかわるみずからの権力装置の強化にのりだす。すなわち、破壊活動防止法、ストライキ規制法の制定によって治安体制をかため、さらに警察予備隊の保安隊への改組・拡充、海上警備隊の新設、MSA協定締結と保安隊・海上警備隊の自衛隊への改称およびその統轄機構としての防衛庁の設置、あるいは新警察法による警察制度の中央集権化、讐職法改悪による治安対策の強化などがおこなわれ、国家の暴力装置強化がはかられた。また、教育二法(「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」、「教育公務員特例法の一部改正」)によって教育への権力介入が公然とおこなわれ、平和教育の弾圧、教師の思想調査などによる教育反動化が開始された。こうして政府、独占資本は違憲立法体制を着着と強化した。一九五四(昭和二九)年までに警察、治安立法などの国家の権力機構は、ほぼ整備された。


3 高度成長と独占支配の確立
 独占資本の再建、国家の主権回復と権力機構の再編成を基礎に、一九五五(昭和三〇)年には保守合同によって保守安定政権が実現し、経済的にも急速な発展が開始され、いわゆる高度成長(一九五五−六一(昭和三〇−三六)年)にはいった。
 この過程は、鉄鋼、機械、石油化字など重化学工業における設備投資の拡大によって主導され、産業部門の技術的連関をとおして、いわゆる投資が投資をよぶといる設備投資ブームをひきおこした。工業生産力は急速に増大し、一九六一(昭和三六)年には、アメリカ、西ドイツ、イギリスにつぐ高度な生産力水準を達成した。戦争による資本価値破壊によって重化学工業の新技術の導入が容易であったこと、また財閥解体によって独占資本間のはげしい競争が存在していたことが、高度成長の背景にあったが、しかし高度成長をもたらした最大の要因は中小企業、農業における潜在的過剰人口を基盤とした豊富、低廉な労働力の存在であり、これが独占資本の高利潤と、対外的競争力の基礎となった。さらに国家財政支出による産業基盤整備拡充は、独占資本の流通諸経費を節減し、特別償却などによる租税特別措置、さらに政府金融機関からの低利融資、日銀信用膨張を背景とした銀行資金貸付は、独占資本の設備資金を供給して設備投資を促進させた。この過程で、系列外銀行からの協調融資を積極的に拡大しつつ石油化学などの新産業においては、生産過程の技術的関連にもとづく独占資本間の結合関係がすすみ、また鉄鋼、機械、化学、電機産業さらに商社などにおいて、下請企業の系列化が進行した。

 また、同時にアメリカからの資金借入れ、貿易関係がいっそう拡大した。アメリカの資金は、主に電力、鉄鋼、船舶、石油、公営企業の設備投資にまわった。一方アメリカとの貿易関係においては、日本からは繊維、雑貨など軽工業製品ばかりでなく、金属製品、鉄鋼二次製品、機械など重工業製品の輸出も拡大し、他方アメリカから世銀借款にともなう大型工作機械、さらには工業原料、農産物の輸入が増加した。アメリカにたいする金融的従属、貿易依存関係は、日本の独占資本を支える条件となった。アメリカ民間資本の進出も、資本間の競争の激化をとおし、高度成長を加速させる一要因として作用した。
 保守合同による強力な安定政権を達成した政府は.この過程でその反動化を合法化するために、憲法の空洞化を促進しその改悪にのりだした。鳩山内閣は一九五六(昭和二一)年「憲法調査会法」を成立させ、改悪の方向を明確化したが、明文改憲が国民の拒否にあうとともに、その後の保守政権はろこつな党利党略の小選挙区法および警職法改悪の提案、教育行政制度の中央集権化としての新教育委員会法成立、教育への権力介入としての勤評、教育課程改悪、教科書の統制などによって、なしくずし的に改憲をすすめた。
 さらに国家権力機構の確立と反動体制の強化、一方では行政機能の増大と上層官僚の地位の強化、他方ではその金融独占資本との融合をもたらし、議会制民主主義を無力化し、形骸(ガイ)化させる傾向をつくりだした。各種の審議会、委員会が設置され、ブルジョア独裁体制を補填(ホテン)、強化している。対米従属下において、とくに軍事、外交面に関しては、国会無視の傾向がいよいよ拡大した。

 こうして政府は独占資本支配力の強化を背景にして、一方で独占資本の合理化を体制的におしすすめながら、外にむかって勢力拡太にのりだした。岸内閣は国連中心、自由陣営との協調、アジアの一員いう外交二原則をかかげ、中国敵視政策、東南アジア市場進出への路線を明確化した。
 一九六〇(昭和三五)年五月、はげしい国民の反対闘争の嵐のなかで、岸内閣は新安保条約を強行採決し、白然承認にもちこんだ。新安保条約は、いぜんとしてアメリカ帝国主義の極東戦略体制への従属を前提とした軍事同盟条約であるが、旧安保条約の片務性があらためられ、日本が独自の軍事力を強化し、アメリカの極東戦略体制に自主的に協力することを約束したものであり、独占資本の強化を基礎とするアメリカ帝国主義とのあらたなる協力関係を確定するものであった。アメリカの世界的地位の相対的低下、ドル防衛による対外援助の削減は、アメリカ帝国主義自体にとっても、極東における反共と民族抑圧の尖兵としての日本の地位を利用し、その軍事力増強と対外援助の肩がわりによって、自己の反共体制の強化確立をおこなう必要性をつよめた。その意味で、新安保締結は、日本が独自の帝国主義として、資本主義世界体制の一翼を担う位置への復帰をつげる政治的指標であった。

 しかし、一九六一(昭和二六)年後半以降、高度成長をもたらした要因が、成長を破綻させる要因に転化し、日本経済は、きわめて深刻な恐慌状態に直面することになった。独占資本間の無政府的過当競争によって急速に達成された新鋭設備による高度な生産力は、たちまち生産過剰をひきおこした。新技術の導入により資本の有機的組成が高度化するとともに、低下の傾向をはらんでいた利潤率は、設備資金調達において急増した借入金にたいする利子負担がかさみ、さらに若年低賃金労働力の大企業による吸収によって、若年労働力不足と賃金上昇が生じ、これによってはげしく低下した。そのうえ、ドル防衛にともない、アメリカの対日輸入制限が強化され、また利子平衡税によってアメリカの長期資本流出が制限され、さらに貿易、為替の自由化に上って、欧米の商品が日本市場に進出を開始したこともくわわって、国際的にも日本経済はきびしい環境にたたされた。
 ことに中小企業は、はげしい生産過剰および独占資本によるしわよせをこうむり、全面的に恐慌におそわれるにいたった。
 このような深刻な恐慌現象のなかで、独占資本は相互にカルテルをむすび、生産を調節して独占価格を維持し、独占利潤を確保するとともに、高度成長の過程でのびきった系列支配関係を整理再編し、独占組織の内部結束をかため、他系列企業を吸収合併して、独占体制の再編、強化をはかっている。さらに独占資本は、下請中小企業の整理、統合にのりだし、比較的上層の、効率のよい下請企業を完全に系列化するとともに、多数の中小下請企業の切捨てを強行している。独立的中小企業も、大資本の中小企業分野への進出、外国系資本の進出によって市場からしめ出され、転業、再生をくりかえしつつ、漸次(ゼンジ)没落させられている。農業においても貧農切捨てによって選択的拡大がはかられ、多くの農民はほとんとプロレタリア化させられ、農業危機がふかまっている。他方、独占体制の強化にともない、企業の合併、整理の進行は、労働者の配転をひきおこし、中高年齢層の整理、労働強化、賃上げ抑制による合理化が強行され、労働運動の分裂政策がはげしくおこなわれている。設備過剰のうえでの合理化は、直接的に労働者階級にたいしてくわえられており、それだけ階級対立を激化させている。

 政府は、こうした独占資本の経済的危機を、日銀をつうずる救済融資、企業減税の拡大によって、さらに赤字公債発行によるインフレーション政策によってきりぬけようとするとともに、興銀、長銀、開銀をつうじた体制金融、行政指導によって独占体制の強化をはかり、国家権力を介した体制的合理化をすすめている。しかも他方国内独占体の矛盾を対外的進出によって処理するために、東南アジアへの援助をおこない、あるいは日韓会談の妥結を強行し、アメリカ帝国主義の核の傘のもとで、後進国への帝国主義的侵略を開始しはじめた。さらに一九六四(昭和三九)年にアメリカからの無償の軍事援助がうちきられるとともに、政府は防衛計画を拡大し、自前の軍事力増強にのりだし、階級抑圧の、そして海外進出の基盤を着着と確立しつつある。
 さらに政府は福祉国家論や労働憲章の思想によって階級協調、共同体的連帯意識をひろめ、労働者に体制保持の責任を分担せることによって、階級矛盾をおしかくし、「人づくり」運動や大国意識、防衛意識の鼓吹(コスイ)によって労働者、国民の思想再編成をはかり、国民運動、労働運軌の体制内化をはかっている。かかる反動的政治体制、再軍備の強化のいわば規範的集約として憲法を改悪し、国内体制の全面的反動化をくわだてている。


三 日本帝国主義の復活

 現段階の資本主義各国は、いずれもすでに独占資本の復活を完了させ、国内生産力の過剰をかかえて、対外進出への強烈な動機をもっている。しかし、社会主義国への戦争挑発が、平和共存によって制限され、また、公然たる植民地侵略が植民地の独立および社会主義国の援助によって制約されている情勢のもとでは、それだけ帝国主義国相互間の直接的対立をひきおこさざるをえない。国際的な貿易、資本の自由化は、現段階では、まさに帝国主義諸国間の特殊な市場争奪のための必死の闘争手段である。しかも、輸入削減、輸出促進、ドル流出防止というアメリカ帝国主義の自己防衛策は、帝国主義諸国間の経済的抗争を激化させずにはおかない。
 もちろん、こうした帝国主義間の経済的対立が、そのままかつてのような帝国主義戦争に発展するということはできない。強大な社会主義体制の存在が、これをさまたげている。むしろ帝国主義諸国は、アメリカ帝国主義の反共戦略に自主的に協力しつつ、資本主義世界体制を維持せんとする。こうして帝国主義各国の独自の軍事力による反共戦線は、むしろ強化される。だが、政治的、軍事的な反共戦線線への結集は、その経済的対立を緩和するどころか、ますます激化せしめずにはおかないであろう。社会主義に対抗する軍事力は、帝国主義内における進出への権力的基盤でもあるからである。
 現代帝国主義体制は、外的に反共といる共通目的のもとで結集しつつ、内にはげしい対立を内包している。それはまさに直接的な帝国主義間の対立としてあらわれる。これに対処する帝国主義各国の体制維持のための手段は、けっきょく国内労働者階級、中小企業へのはげしい搾取と抑圧の強化でしかありえない。

 日本資本主義は、現在その金融独占資本体制の再建を完了し、しかも過剰資本をかかえ、対外的な資本輸出を開始しはじめ、まさに帝国主義として復活をとげている。一九六〇(昭和三五)年の安保改定は、日本帝国主義の復活と帝田主義世界体制への復帰をつげる政治的表示であった。こうして日本帝国主義は、内には反動体制の完成をいそぎ、官僚機構、軍隊など自己の権力基盤を強化しつつ、独自な帝国主義体制を構築し、対外的にはアメリカ帝国主義に軍事的に従属しつつ、その反共戦略により強力な協力関係をおしすすめ、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に、軍需物資を供給し、軍事基地を提供し、さらに原子力艦船の寄港をみとめ、それ自身帝国主義の一員たる性格をろこつにあらわしている。しかし、アメリカ帝国主義への従属体制のもとで復活した日本帝国主義は、いぜんとしてアメリカ軍事力を自己の体制維持の安全保障とすることにおいて、これに従属しながら、積極的にアメリカ帝国主義の対外援助の片捧をかつぐことによって、韓国、台湾、東南アジア市場への独自な進出を企てている。東南アジア諸国への賠償支払にはじまり、さらに日韓条約締結、東南アジア開発銀行の設立、東南アジア閣僚会議の開催など、そのあらわれであり、現に一九六一(昭和三六)年以降、東南アジア、韓国への資本輸出は急速に増大しつつある。しかし、当面、アメリカの核の傘のもとでおこなわれる資本輸出は、その権益保護の必要上やがてかならず日本帝国主義独自の政治的権力の基盤たる軍事力の増強をひきおこさざるをえないだろう。政治的な動揺と経済的な不安定のもとにおかれ、さらにまた帝国主義各国による市場競争のもとにおかれている後進諸国への日本の帝国主義的進出は、きわめて困難な状況にある。そしてかかる状況下にある日本帝国主義は、それだけに直接に帝国主義諸国への輸出拡大に、主として従来より経済的依存関係のふかいアメリカへの輸出拡大に狂奔(キョウホン)せざるをえないのであり、しかも重化学工業化を推進した日本独占資本は、その部門におけるアメリカをはじめ帝国主義諸国とのはげしい対外競争戦にはいらざるをえないのである。こうして植民地を喪失し、しかもEECのような工業国間の一定の分業体制を実現しえない日本帝国主義は、アメリカ帝国主義に追従しつつ、東南アジア市場への独自な進出を試みながら、当面はアメリカ、あるいはEEC諸国への経済的進出をはかるしかない。貿易・為替の自由化、さらに資本の自由化による開放体制は、アメリカおよび西欧帝国主義諸国に日本市場の門戸を開放すると同時に、これによってそこへまさに死活を賭して、進出を試みんとする日本帝国主義の苦肉の策でもある。しかし、こうした先進帝国主義諸国との直接的な市場争奪戦にたいして日本帝国主義が対処する手段としては、けっきょく国内独占体制の強化と、合理化強行によるコスト・ダウンであり、したがって国内労働者階級を中心とする全国民にたいするはげしい搾取・収奪・抑圧でしかありえない。だが、これは必然的に国内における階級矛盾を深化させ、日本帝国主義没落をそれ自身準備するものとなる。まさに日本帝国主義の歴史的性格をあらわにしているといえよう。
 
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