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第一章 日本における社会主義革命の条件と形態
 
第一節 世界情勢の基本的特徴

一 現代は社会主義革命の時代

 二〇世紀の主な特徴は、人類が社会主義革命の時代に生きているといることである。資本主義が発させた物質的生産力は、資本主義そのものの社会体制を破壊し、あたらしい時代を出現させることなしては、みずからを解放しえなくなった。
 資本主義の独占段階への発展は、物質的生産力と社会体制の矛盾を解決することができなかったばりでなく、その矛盾をいっそ激化した。第一次世界大戦は、この矛盾の爆発であった。この爆発があとにのこしたものは、ロシアにおけるソビエト社会主義共和国連邦の成立であった。

 一〇月革命の成功は、資本主義諸国にふける被抑圧階級のたたかいをはげまし、その革命階級としての成熟をうながした。同時に、地球上の各地で、帝国主義諸国に搾取され、抑圧されている植民地、半植民地の民族もみずからの解放のためにたちあがるにいたった。帝国主義的支配国の足もとがゆらぎはじめた。それ以来、世界資本主義は一般的危機の時代にはいった。
 旧内外の反革命を克服したソ連共産党と人民は、帝国主義列強の包囲のなかで、重工業の建設拡大と農業の集団化を二つの基本政策として、あらゆる困難をのりこえて、一国社会主義の建設をおしすすめ、それに成功した。一九二八(昭和三)年から開始された三回にわたる五ヵ年計画は、急速にソ連社会主義の力をつよめた。

 他方、帝国主義諸国は、大戦後の混乱と革命的高揚の時期をのりこえ、一時相対的安定期にはいったかにみえたが、一九二九(昭和四)年、ついに未曽有の世界大恐慌におそわれた。帝国主義諸国の支配階級は、資本主義体制そのものが必然的にうみだした恐慌に、しばしほどこすすべを知らなかった。各国内における階級矛盾と帝国主義どうしの相互対立は、いちじるしく尖(セン)鋭化した。日本、ドイツ、イタリアの独占ブルジョアジーは国内では、敵対する労働者階級にたいしてもっとも野蛮な暴力的支配体制であるファシズムによって対処し、対外的にはアメリカ、イギリス、フランスなどの「持てる」帝国主義国にたいしてあらわな領土的野心をしめしながら、武力によって世界再分別を要求した。このため、一九三九(昭和一四)年、ついに第二次世界大戦が勃(ボ ッ)発した。

 第二次世界大戦は、日独伊帝国主義列強と米英仏帝国主義列強のあいだに、領土と勢力圏をうばいあう帝国主義戦争として開始された。日独伊にくらべて民主主義の伝統と、それを支える勤労者大衆の権利擁護闘争が存在していた米英仏は、ファシズムに反対し自由と民主主義を守ることを、この戦争の旗じるしにすることができた。
 一九四一(昭和一六)年になると、ドイツ軍は、ソ連への侵入を開始した。そのため社会主義国ソ連は、米英仏などの連合軍と腕をくんで、反ファシズムのたたかいに参加することになった。さらに、日独伊の占領下におかれた中国、東南アジア、ヨーロッパの諸民族も、それぞれ民族の独立と目的のために、ファシストにたいするはげしいたたかいを展開した。このたたかいは、第二次大戦の重要な構成要素となった。こうして帝国主義戦争として開始された第二次世界大戦は、その後半には反ファシズム戦争の性格を顕著におびることになった。

 第二次世界大戦は、一九四五(昭和二〇)年日独伊ファシズム諸国の敗北でおわった。これは米英仏独占ブルジョアジーの日独伊帝国主義にたいする勝利ではあったが、より以上に世界反ファシズム勢力ぜんたいの勝利であり、なかんずく社会主義の勝利であった。ヒトラー・ドイツを粉砕するたたかいで中心的役割をはたしたソ連の世界的威望は、いちじるしくたかめられた。
 東ヨーロッパ各国では、ソ連軍がドイツ占領軍を撃破し、これらの諸国をドイツの占領から解放した。そしてそのあとに、チェコ・スロバキア、ポーランド、ドイツ東部、ハンガリーなどに人民民主主義国家が誕生した。また中国では、日本帝国主義とのたたかいで大きな役割をはたした中国共産党が、ひきつづいて中国国民党を打破って、反帝・反封建の新民主主義革命を達成し、すすんで社会主義中国を建設した。ながいあいだ日本やフランスの帝国主義的支配下にあった朝鮮半島の北部やベトナムの北部にも、社会主義社会がきずきあげられた。かくて帝国主義の包囲のなかでつねに危機にさらされていたソ連の一国社会主義の時代がおわり、壮大な社会主義世界体制が確立された。

 また、第二次世界大戦における日独伊ファシズムの敗北、英仏帝国主義の弱体化、社会主義陣営の強大化は、植民地、半植民地、従属国の人民に民族自決の意識を覚醒(カクセイ)させ、民族独立運動がアジア、アフリカ、ラテン・アメリカに火をふきはじめた。かつて欧米帝国主義の巨大な超過利潤の源泉であった被抑圧諸民族は、そのほとんどが政治的独立を達成し、かつての植民地休制は、いまやその崩壊過程の最終段階をむかえようとしている。
 一九一九(大正八)年、地球面積のなかで社会主義国のしめる比重はわすかに一六%であったが一九六四(昭和三九)年には二六%となり、世界総人口にしめる比重も七・八%から三五%へと増大した。一九一九(大正八)年に、地球面積の七七・二%が植民地、半植民地、自治領であったが、一九六四(昭和三九)年には六・八%にへり、世界総人口にしめる比重も、六九・二%からわずか一・四%、約四、五〇〇万人に激減した。それにひきかえ、一九六四(昭和二九)年に、帝国主義諸国とその植民地がしめる比重は、面積で一〇・六%、人口で一六・一%となった。

 地球の面積と人口にしめる社会主義体制と新興民族国家の比重が圧倒的にたかくなり、帝国主義体制が大きく後退したのである。

 このように、第二次世界大戦を契機にして、世界帝国主義ブルジョアジーにたいする反帝国主義勢力全体の力関係は、社会主義世界休制の力を中心として大きく変化した。世界資本主義の一般的危機はいっそう深化した。
 米英仏の独占ブルジョアジーは、第二次世界大戦をつうじてかれらの競争者である日独伊の独占ブルジョアジーの勢力範囲をうばいとり、同時に社会主義国ソ連をも弱体化して、全世界にわたる覇権を確立することを夢みた。しかし、世界史の必然的法則は、この野望をゆるさなかった。帝国主義ブルジァジーの墓穴を掘る力が、第一に社会主義世界体制の確立として、第二に、資本主義諸国における労働者階級の政治的成熟として、第三に民族独立運動の発展として、巨人のようにたちあらわれ、その結果、帝国主義世界体制の力が大きく後退したからである。

 こうして第一次世界大戦とロシア革命の歴史的事実は、われわれの時代が、相対立する二つの世界体制の闘争の時代であり、社会主義革命の時代であり、民放解放革命の時代であること、帝国主義が崩壊し、植民地体制が一掃され、社会主義と共産主義が、全世界的規模で勝利する時代であることを具体的にしめしている。
 社会主義世界体制が人類社会発展の決定的要因となりつつあること、資本主義諸国における社会主義勢力と諸民族の独立闘争とが、人類社会発展の方向を決定するおもな要因となりつつあることにたいして、こんにち、帝国主義勢力の反撃は、とりわけアジアにおいてはげしくなっている。しかし、帝国主義のどのようなあがきも、世界史の発展をおしとどめることはできない。社会主義の完全な勝利を阻止することはできない。われわれはいいままさにそのような時代に生きている。

二 社会主義世界体制の発展

 第二次世界大戦後、社会主義世界体制は着実な前進をしめしている。それはかつての資本主義にかわり、世界史の発展の積極的担い手となりつつある。

 社会主義革命を達成してはやくも半世紀を経過したソ連は社会主義世界体制の要(カナメ)として強力な政治・経済体制をつくりあげた。第二次大戦後ただちに着手された第四次計画(一九四六−五〇(昭和二一〜二五)年)ではやくも工業生産を戦前水準にまで回復し、つづく第五次計画(一九五一−五五(昭和二六〜三〇)年)で本格的な技術革新の段階にはいった。この二つの五ヵ年計画によってもたらされた物質的生産力の発展は、さらに七カ年計画(一九五九三−六五(昭和三四〜四〇)年)によっていっそう促進されたが、それと同時に、ソ連経済はこの時期からようやくあらたな段階に到達しつつある。物質的生産力の発展は、高度な社会主義社会の建設にとって不可欠の基礎的条件である。革命以降、電力、鉄鋼などの基礎的生産財の生産から、工作機械などの生産手段を車点的に拡充する段階を通過したソ連は、新五ヵ年計画において民主集中の原則にもとづきつつ、国民経済のすべての分野の調和をたもちながら、いかにして生産力を発展させるかという課題にたちむかっている。ソ連をはじめ、東欧社会主義諸国家に生じているあらたな工業管理体制や価格体系の変革などの一連の新経済政策は、こんにち物質的生産力のたかい発展水準に適応しつつ、より成熟した社会主義経済体制の確立を目ざしてとりいられた方策であった。社会主義経済体制は、いまや生産力と工業管理体制、生産と消費、国民的利益と個別企業の利益、技術進歩と労働者の消費水準、これがすべて調和されるようなより高度な段階に到達しつつあるのである。このような傾向は、ただ一国の経済体制の問題としてのみではなく、社会主義諸国の国際協力の場である経済相互援助会議(セフ)においてもあらわれつつある。社会主義諸国家はそれぞれのおかれている国際的環境と経済発展の水準のもとでの具体的条件をふまえ、相互の立場と主権を尊重しつつ、社会主義的国際分業の成果をあげつつある。総じて社会主義の発展過程においては、国内的にも国際的にもこの段階に特有の矛盾を生みだすことはさけられない。しかしこの矛盾は資本主義社会における矛盾とは異なり、かならず解決しうるものであるし、またこの解決をとおして社会主義世界体制はいっそう発展する。

 七億の人口を擁する中国は、第二次五カ年計画(一九五八−六二(昭和二三〜二七)年)において「総路線、大躍進、人民公社」といういわゆる三面紅旗政策を展開したが、一九六〇(昭和三五)年にいたって重大な経済危機に直面するにいたった。そして、一九六一(昭和三六)年以降の人民公社の再整理、物質的刺激政策の導入などによってようやく困難は回避されるかにみえたものの、この路線と人民公社方式の強化と精神的刺激を基軸とする大躍進路線との対立、調整とが表面化している。
 「文化大革命」は、この対立と混乱のなかから生じた。「文化大革命」はその当初における紅衛兵の過激な行為、きょくたんな精神主義的色彩によって良識あるマルクス主義者からつよい批判をうけるにいたった。もとより社会主義建設は、たんなる精神主義で実現しうるものではない。ソビエト社会主義の歴史は、その生きた教訓である。物質的生産力の発展を基盤としないいかなる社会主義もありえない。たかい物質的生産力を基盤として、はじめて真の社会主義的生産関係も確立する。豊かな生活水準とたかい道徳心に満ちた社会が確立する。これが社会主義建設の原則である。

 しかし「文化大革命」の出発時における異常性をもって、この原則にたいする挑戦とみなすのは性急にすぎるであろう。われわれがみなければならぬのは、「文化大革命」という異常な手段がとられざるをえなかったその客観的条件である。いわゆる「実権派」が、一定程度の生産力の回復と発展に成功した後に失脚したという事実は、かれらの政策が、社会主義建設の原則に忠実であろうとしたにもかかわらず、その政策の実現にさいして、中国のおかれている特殊な国際的、国内的条件を十分にふまえていなかったためとみるほかはない。「文化大革命」は、本質的にはこのような「実権派」の欠陥にたいするつよい反省を要求している。「文化大革命」の惹起(ジャッキ)した混乱は、やがて社会主義的社会体制としての中国の正常な形態での発展というかたちで収束されることになるであろう。「文化大革命」が、たんなる精神主義的立場からの物質主義批判というかたちで社会主義建設の原則からふみはずれるならば、その運動は、大衆からみはなされ、瓦解(ガカイ)するほかはない。
 このような中国内部の諸問題も、中国のおかれている国際的環境およびその社会主義建設の発展段階に規定されて生じた矛盾とみるべきであり、長期的展望のもとではかならず発展的に解決されるべき問題であるとみることができる。

 朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設も成功をおさめており、南朝鮮の貧困と混乱にたいして社会主義の優位をみごとに証明している。ベトナム民主共和国は、アメリカ帝国主義のゆるすべからざる恥知らずな侵略にたいして敢然とたちむかいながら、その困難な状況にもかかわらず、社会主義建設の道をすすんでいる。カリブ海の小島キューバも、アメリカ帝国主義の干渉を排除しながら、社会主義建設をすすめつつあり、ラテン・アメリカの諸国人民にたいする大きなはげましとなっている。

三 資本主義世界体制の危機の激化

 第二次世界大戦によって、日本、ドイツ、イタリアなどの戦敗国はもちろん、イギリス、フランスなどの戦勝国をふくめて、アメリカをのぞく帝国主義諸国の力は、大きく後退した。戦争によって生産を拡大し、国土にたいする直接的な被害をうけなかったアメリカの世界帝国主義における比重は、たかまった。アメリカは資本主義世界体制を支配し、世界帝国主義の憲兵たる役割をひきうけた。
 第二次世界太戦後数年ならずして、資本主義諸国は、アメリカの指導のもとに世界に軍事同盟の網をはりめぐらした。この軍事同盟は、世界資本主義体制の土台をおびやかす力をもつにいたった社会主義体制を包囲し、封じこめることを主たる目的として結成されたが、同時にそれは、各国における社会的変革を防止する反革命の同盟であり、またアメリカが他の加盟諸国を支配する不平等同盟でもあった。

 アメリカのマーシャル・プランにもとづく援助によって、イギリスやフランスは、経済復興の力をあたえられた。日本や西ドイツは、長期にわたる占領下にありながら、同じくアメリカの経済力に庇護されて、資本主義的復活をとげた。これらの諸国は、アメリカを中心とする帝国主義同盟に参加し、アメリカが指導する共同行動に参加することによって、はじめてみずからの利益を追求することができた。
 そのため、かつての帝国主義列強は、いずれも多かれ少なかれ、アメリカによって、国家主権を制約され、アメリカに従属する地位にたつほかはなかった。こうして、アメリカのねらいであった資本主義世界をアメリカの市場とし、反共帝国主義同盟を確立するという方針は、一定の成果をあげることができた。
 だが、戦後の復興がいちおう終了するとともに、アメリカの支配体制が内包する矛盾がしだいに顕在化し、アメリカが思いのままに他の資本主義国を支配する時代はすぎた。
 アメリカの援助によって独占資本主義体制を確立した西ドイツ、フランス、イタリアは、ベネルックス三国とともに欧州共同市場(EEC)を結成し、工業生産、域内貿易を急速に発展させ、こんにちではすでにアメリカの競争国となっている。

 一九六二(昭和二八)年一月、アメリカの後おしによってすすめられたイギリスのEEC加盟は失敗に帰し、EECにたいして門戸開放をせまるアメリカとEECの対立は、たとえば、化学、電機、石油産業におけるアメリカ巨大独占のヨーロッパ進出にたいして、フランスが、外資法によってその進出を制限し、国家の手によってアメリカ独占の進出に対抗する企業連合結成、企業合併などを推進していることにみられるように、しだいにはげしくなってきている。
 EEC内部においても、フランスとその他の諸国のあいだの対立が、農業問題やEECの政治統合をどうするかについての意見の対立、NATO内部における核戦略構想のくいちがい、さらにフランスのNATO脱退の動きなどのかたらであらわになってきている。  アメリカは、みずからの帝国主義的侵略と、対社会主義軍事戦略休制の拠点を維持するために、膨大な海外経済援助と軍事支出をおこなってきた。

 くわうるに一九六五(昭和四〇)年以降急速化したアメリカの国際競争力の弱体化、巨大な資本流出は、こんにち戦後最大のドル危機をアメリカにもたらしている。とくに一九六七(昭和四三)年末のポンド切下げをきっかけとして、アメリカのドル危機は決定的段階に突入した。これまでのガイド・ポスト(誘導指標方式)、金利平衡税などの諸措置よりはるかに強力なドル防衛強化策がうちだされた。対外民間投資は、自発的規制から法的規制にきりかえられ、とくに西ヨーロッパへの新規投資は禁止された。アメリカ金融機関による対外融資もきびしく規制された。同時に同盟諸国にたいしてアメリカ製兵器や中期債券の購入、駐留費分担、防衛費、対外援助費の肩がわりが要請された。これらドル防衛策にたいする同盟諸国の反応は、つめたくかつきびしい。とくに帝国主義的自立を完了した西ヨーロッパ諸国は、それぞれの利益と打算の限度においてしか、ドル防衛に協力しないばかりか、アメリカのドル危機に乗じて、IMFその他国際金融機関を自己の指導下におこうとしてひしめきあっている。かつてはアメリカ独占資本が世界資本主義に君臨する場であったIMFも、いまや帝国主義諸国の取引きと対立の場に転化している。

 アジアにおいても、日本独占資本がその工業生産力を高度に発展させると同時に、みずからの帝国主義的海外進出をおこなうまでにいたっている。西欧の帝国主義諸国にくらべて、アメリカとの政治的、軍事的絆(キズナ)のよりつよい日本独占資本すら、アメリカの独占ブルジョアジーとは相対的に独自の利益を追求しはじめている。
 ドル危機は、アメリカ帝国主義の世界資本主義における相対的地位の低下を意味すると同時に、凶悪な国際憲兵としての威力喪失を象徴している。それはベトナム戦争遂行に鉄の枷(カセ)をはめ、反共軍事体制の土台を大きくゆるがしている。しかもドル危機の進行を抑制しうるものはなにもない。かくしてドル危機のいきつくところそれは世界資本主義のはてしない動揺と混乱である。

 かくして、アメリカを中心とする帝国主義諸国家は、一方においてはますます強力化する社会主義世界体制への対抗上、政治的・軍事的に協調体制をとらざるをえない立場にありながら、他力においては、戦後の経済復興を完了すると同時に商品、資本の輸出をめぐる競争をめぐって経済的対立が尖(セン)鋭化しつつある。かつてのように、経済的対立が帝国主義戦争にまで発展する可能性はとぼしい。発展する社会主義体制をまえにしての帝国主義戦争は、世界資本主義体制の破滅を意味するからである。しかし、帝国主義諸国間に存在する資本と資本の矛盾はつねに存在し、たえず増大する。この矛盾は社会主義諸国間の矛盾と異なり、これを発展的に解決することは不可能である。

 帝国主義諸国間の政治的・軍事的協調は、その必要性にもかかわらず、つねに資本主義世界体制のもつ矛盾によって阻害され、足並みを乱さずにはおれない。たとえば、東南アジアとりわけベトナム問題にたいするアメリカとフランスの意見の対立、中国承認をめぐるアメリカとイギリス、フランスの態度のちがいなどにこれをみることができ、アメリカが中心となってつくりあげた対社会主義軍事同盟であるNATO、CENTOが所期の任務を障害なく遂行するうえに、重大な困難をあたえている。
 このような一般的危機の現段階において、帝国主義諸国は例外なく国家独占資本主義の体制をもってふかまりゆく矛盾にたいおうしようとしている。戦後の総済復興の段階をへて、一九六〇年代にはいると、資本主義諸国はその急速な生産力の発展がもたらした生産と消費の不均衡、ねづよい物価騰貴にみまわれることになった。各国の市場争奪戦も激化し、この結果、国家独占資本主義体制はそれぞれの国でいっそう強化されるにいたった。こんにち、アメリカではインフレーションとドル危機に対処するために、フランスでは国内経済体制の再編強化と国際競争力の強化のために、こんにちでは西ドイツにおいても市場経済機構の後退とともに、国家の経済にたいする介入の度合がいちじるしくつよめられている。そのさい、たとえば一九六五〔昭和三〇〕年の鉄鋼価格値上げ問題をめぐるアメリカ政府と鉄鋼独占の対立にみられるように、本来独占の利益をまもる立場にある政府と独占資本がまっこうから対立するかたちをとることがあるが、それは政府が超階級的機関であることをしめすものではまったくない。価格値上げによる輸出価格の上昇が国際競争力をよわめ、その結果、国際収支が悪化することをおそれたアメリカ政府が、総資本の立場から私的独占の利益を一時的におさえたものにすぎないのである。まさにこれこそ、帝国主義諸国間の競争が激化するなかでの国家独占資本主義のこんにち的態様なのである。そればかりでなく、アメリカのドル危機が、社会主義体制と民族独立運動の発展に対処するための従属国にたいする膨大な海外経済援助と軍事支出に起因するところ大であり、そのドル危機がアメリカの国家独占資本主義体制を強化させているということは、こんにちの国家独占資本主義体制が第一次大戦後の一般的危機の深化の必然的産物であることを端的にしめしている。IMF、EECなどの国際的な国家独占資本主義的諸機構も、こんにちでは帝団主義諸国独占資本が、相互に経済競争を展開する舞台となっている。

 資本主義諸国のブルジョアジーとその国家は、ふかまる一般的危機と資本主義的矛盾の激化にたいおうして、独占利潤を維持し拡大するために、国家独占資本主義体制のもとで、労働者階級にたいする搾取と収奪をいっそう強化している。インフレーションによる物価騰貴、所得政策、過重な税金、技術の高度化、労働組合にたいする思想攻撃と弾圧などにそれがあらわれている。これらの諸政策によって、労働者の生活水準は低下し、首切り、賃下げ、労働強化、労働災害、職業病、神経障害、過労が、労働者の肩におもくのしかかっている。労働組合の自由やストライキの権利が制限され、労働運動の発展が阻害されている。
 かれらは、労働者の階級的な反撃を回避するために、買収や差別支配、温情主義といった伝統的な方法とならんで、あたらしい思想攻撃である「経営者革命論」「人民資本主義論」「混合経済論」「福祉国家論」などの理論を、国際的に連携しながらつよく宣伝している。労働者の階級闘争が大きく燃えあがろうとするときには、国家の社会政策によって労働者にアメをあたえることを忘れない。階級闘争の意欲をにぶらせるために独占資本とその国家がおこなう思想攻撃と懐柔政策は、国家独占資本主義的支配の重要な特徴である。

 しかし、独占資本のこれらのこころみは、ヨーロッパやアメリカの労働運動の一部に成果をおさめているが、ほとんどの地域でこんにち失敗に帰している。資本主義諸国の労働者は、多かれ少なかれ、賃上げ、労働時間短縮、社会保障の拡充、失業反対、完全雇用、労働組合権確立、労働災害反対、個個の重要産業の国有化、国有企業の経営の民主化、軍事予算の削減、生活条件の改善、住宅建設などの諸要求をかかげて、広範かつ強力なストライキや大衆行動を組織してたたかいをすすめている。とくに、フランス、イタリア、日本の労働者は、これらの諸闘争を戦争反対、平和擁護、帝国主義反対、植民地化反対の政治闘争に結合し、広範な統一行動の先頭にたっている。アメリカにおける黒人のたたかいや平和闘争も急速な発展をみせている。資本主義の危機の深化を反映して、階級闘争が資本主義国全体にわたり、すべての大陸で激化してきている。帝国主義支配体制の弱体化がだれの目にもあきらかになってきている。