一 前史
社会主義という言葉は、明治初年にすでに日本に伝えられている。しかし.多少とも社会主義の研究がはじめられたのは、一八九八(明治三一年)に成立した「社会主義研究会」であった。それは、社会主義者のみの集団ではなかったが、約二年間つづいた。一九〇〇(明治三三)年になるとこの研究会は「社会主義協会」と名称をあらためて、社会主義者のみの組織となって、社会主義運動への姿勢がとられた。
一九〇一(明治三四)年には、社会主義協会は、たんなる思想運動を脱皮しようとて「社会民主党」の創立となるが、即時政府によって解散を命ぜられた。
一九〇三(明治三六)年日露の風雲急なるものがあるにいたつて、「万朝報」に拠って戦争反対の態度を持していた幸徳伝次郎(秋水)と堺利彦(枯川)は「万朝報」社をやめて、平民社をおこし、週刊「平民新聞」を、この年一一月一五日に創刊して、戦争反対を主張しつづけた。しかし、一九〇五(明治三八)年一月二九日、第六四号を終刊号として「平民新聞」は、官憲の弾圧によってたおれた。
平民社の運動は、日本の社会主義運動史上、あたらしい時期を画したものである。社会主義運動は、ここにはじまったということができる。平民社の運動が戦争反対を旗印として開始されたことは、こんにちのわれわれに、ふかい印象をとどめている。
一九〇六(明治三九)年一月、堺利彦らは.日本社会党の結社を届けでて、機関紙『日刊平民新聞』を発刊した。
一九一〇(明治四三)年、幸徳事件(「大逆事件」)がおこり幸徳秋水ら一一名が死刑となり、他の一二名は無期懲役に、他の二名は長期の刑に処せられて、日本における社会主義運動の暗黒時代がはじまる。堺利彦、山川均、荒畑勝三(寒村)らは、これよりさき、一九〇八(明治四一)年赤旗事件で検挙されていたために、残酷な「大逆事件」から免かれた、と信ぜられる。
二 「労農」派
日本の社会主義運動のなかで、マルクス主義の理論的伝統をはぐくんできたのは、堺利彦であった。彼は.そのころ各国でおこなわれたように、ドイツ社会民主党に学んだ。一八九〇(明治三〇)年代のかれの活動が、すでにこれをしめしている。堺利彦は、幸徳秋水とともに、一九〇四(明治三七)年にマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」を訳出しただけではない。一九〇六〔明治三九)年に刊行した雑誌『社会主義研究』には、エンゲルスの『空想的社会主義から科学的社会主義へ』を翻訳しており、ドイツ社会民主党の諸文献や活動状況を報告している。
一九一〇(明治四三)年の幸徳事件は、日本の社会主義運動に壊滅的打撃をあたえたが、そのもとに社会主義を守りつづけたのは、やはり、堺利彦を中心としたきわめて少数の人びとであった。
一九一四(大正三)年には第一次世界大戦が勃(ボッ)発した。翌一九一五(大正四)年、かれは雑誌「新社会」を発行したが、この雑誌は、まさに当時の日本におけるマルクス主義の中心となった。このころになると、社会主義運動のなかで、堺利彦、山川均および荒畑寒村が主たる役割を演ずるようになり、マルクス主義の火が、少しずつひろがった。
一九二二(大正一一)年、山川均はその「方向転換論」で当時存した少数の社会主義者の集団が労働者大衆のなかで活動するために、労働者の組織とむすびつかなければならないことをあきらかにした。そのころ社会主義運動のなかには、雑多な種類の社会主義思想が包含されていたが、しだいにマルクス主義が、主導的な理論として、確立される。
一九二二(大正一一)年には、はじめて日本共産党が結成された。そのころ、労働者や農民の大衆政党の必要がとなえられはじめたが、一九二三(大正三)年九月の大震災によって、一時さてつした。しかし、一九二五(大正一四)年三月には、普通選挙法案が議会を通過し、各地に「無産政党」運動がおこった。同時に反動的独占ブルジョアジーは、労働者農民の勢力の台頭にたいして、治安維持法を公布(同年四月)して、社会主義政党弾圧のかまえをしめした。かくして「無産政党」問題が具体的な解決を要求した。マルクス主義者のあいだに、分立している大衆的無産政党にどのように対処すべきかの問題がおこった。そして重大な意見の相違があらわれた。
一方は、現存するあらゆる反ブルジョア階級および社会層をふくむ無産政党合同の必要を主張する人びと。他方は、政党は共産党一つでなければならぬと主張する人びとである。そしてこの主張は、各国における革命政党とその革命闘争の形態を、ロシアのボルシェビのそれ以外に存しないとする理論にたっていた。革命のあり方、したがって革命政党のあり方は、すべて一定の型があるではないとする山川均を中心とした考え方と、はげしく対立した。
この対立は、日本の歴史的条件にたいする認識の相違によって、ますます激烈なものとなった。日本共産党は、日本の社会を支配するものは、封建的・絶対主義であって、資本家階級は、まだ支配階級ではないと考えた。したがって、労働者階級の当面する革命闘争の日標は、絶対主義である。ちようどロシアの二月革命のように絶対主義を打倒したあとに、ブルジョアジーの支配がはじまり.社会主義革命が必然的となる。しかも、革命は目前にせまりつつあって、日本は、革命の前夜にあるというのである。したがってまた、日本のプロレタリアートは、急速に主体を確立しなければならない。純粋なる共産主義者を、他の雑多なおくれた労働者に支えられる社会主義の各派から分離して、結合しなければならない。このようにして、反ブルジョア的、大衆的な政治団体、労働組合、その他の文化団体のなかでも、急速に日本共産党による計画的な分離結合の過程が進行した。あらゆる労働者農民の大衆団体が分裂する。このように分裂を意識的に推進する時代が生まれた。
これにたいして、山川均を中心とするマルクス主義者たちはしだいに集団を結成して、対抗し、論戦し、闘争した。この人びとの主張はだいたいつぎのようなものであった。日本資本主義は、一八九七〜一九一〇(明治三〇〜明治末)年のころに確立した。第一次世界大戦の好景気のなかで資本の集中は急激に進行して、独占資本の支配する帝国主義国となっている。日本の独占ブルジョジーの寡頭支配は、本来ブルジョアジーが絶対主義とたたかって実現しなければならない民主主義を、かえって圧殺することによって、自己の確立をはかりつつある。天皇制は、独占資本支配の防衛と安定の壁として神秘の霧につつまれながら、維持されている。したがって、労働者階級の正面の階級的な敵は、日本を支配する独占ブルジョアジーでなければならない。労働者階級を中心とする一般勤労大衆の民主主義諸要求は、これらの階級や社会層を、大衆的な無産政党やその他の集団に結集させる。これら勤労国民の民主主義的闘争のなかで、マルクス主義者は、かれらの歴史的目標にたっするための強力な革命政党に成長し、その周囲に農民および一般勤労大衆を結集して、膨大な社会主義革命達成の勢力をつくりあげることに成功しなければならない。
この民主主義的闘争のなかで、鍛(タン)練されて、社会主義革命の主体が成立する。したがって日本におけるマルクス主義者の当面の任務は「結合の前の分離」という理論で、大衆的無産政党と大衆団体とを分裂させることではなく.大衆的無産政党を拡充し、あらゆる大衆団体のなかにあって、その団体の性格にしたがって、これを進歩的方向に指導することである。
と、このように主張し、一九二七(昭和二)年十二月から、雑誌『労農』を、同志とともに発行した。この創刊号にのせた山川均の「政治的統一戦線へ!」は「方向転換論」にもまして、大きな政治的意味をもっている。それは、雑誌『太陽』所載の猪俣津南雄「日本ブルジョアジーの政治的地位」とともに「労農」派の理論的基礎をしめした。
そのご、日本共産党系統の理論家たちによって『日本資本主義発達史講座』が発行されて、共産党の理論の正当化がおこなわれるとともに「労農」派も、これに論難をくわえはじめ、一九三五(昭和和一〇)
年からは、本格的に論戦を開始した。これは、日本における労働者階級の戦略の土台を構築するものでるからはげしい論争であった。しかし、一九三七(昭和三)年一二月、いわゆる「人民戦線事件」で労農派がいっせいに検挙されることによって、このいわゆる「資本主義論争」は、いわば緒戦をまじえただけで、ファシズムに圧殺されてしまった。
三 社会主義協会の成立と発展
一九四五(昭和二〇)年に第二次世界大戦が、日本の惨たんたる敗北をもっておわるとともに、われわれにふたたび自由がおとずれた。戦争中、すべての進歩的団体とおなじく「労農」派も、四散した。終戦とともに、散りぢりになった同志の連絡が回復しはじめた。
鈴木茂三郎を中心とした人びとは、一九四五(昭和二〇)年二月以来社会党の成立発展に力をつくした。山川均を中心とした人びとは「労農」派の見解を新しい事態のもとで発展させる理論的任務についた。このようにして、一方では社会党ができ、他方では、歴史的条件の変化のもとに、あたらしい革命理論創造の急務がみとめられた。社会主義革命には一定不変の型はないというマルクスの言葉が、このさい回想され、マルクスもエンゲルスもレーニンも「平和的な道程で社会主義に到達できる」とのべていることも思いだされ、そのような歴史的条件はなんであるかが調べられた。
このようにして、一九四六(昭和二一)年山川均と向坂逸郎の論議の結果、一致した見解として.向坂逸郎は雑誌『世界文化』に「歴史的法則について−社会革命の展望」を書いた。
この展望にしたがってわれわれの社会主義論が、装いを新たにして各方面に浸透しはじめた。山川均は、その年の一月「民主人民戦線」を提唱していた。われわれの理論の具体的な展開のためには、運動の中核となる集団と理論雑誌が必要であるということになったのは、とうぜんの成行である。一九四七(昭和二一)年七月、山川均と向坂逸郎とが編集委員代表になって、雑誌『前進』が創刊された。その中心的メンバーは、山川均、荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、岡崎三郎、向坂逸郎らであった。しかし、この雑誌は経営者板垣の都合と、内部に意見の対立がおこったことでやめることになった。
意見の対立というのは.つぎのようなものであった。朝鮮戦争がおこり、日本の自衛権を強調したマッカーサー声明がおこなわれるとともに、再軍備可否の問題がおこった。同時に講和が具体的となり、全面講和か単独講和かの議論がはじまった。そして再軍備問題とからんで、ソ連は社会主義社会であるかどうかという珍妙な議論がむすびついた。
この論争は主として、小堀甚二と向坂逸郎とのあいだに、対立をひきおこした。向坂は、全面講和という社会党の主張を支持し、再軍備不要をとなえ、ソ連は社会主義国であることを主張した。一九五〇
(昭和二五)年山川均、荒畑寒村、岡崎三郎、稲村順三、小掘甚二、向坂逸郎の六人に板垣武男が集まって、討論した。議論は主として小堀と向坂の間でおこなわれた。そしてけっきょく、小堀をのぞいて全員、向坂の主張を支持した。板垣は書店主として、どちらの主張にも賛否をのべなかった。小堀をのぞいて、山川、岡崎、稲村、向坂は、社会主義協会をつくることにした。高橋正雄は、この座にはいなかったが、社会主義協会にくわわった。荒畑はいずれにも属しない独立の行動をとった。
このようにして、社会主義協会が発足した。そしてまもなく、一九五一(昭和二六)年六月、雑誌『社会主義』が創刊された。社会主義協会の主要メンバーは、山川均、大内兵衛、大田薫、岩井章、高野実、清水慎三、岡崎三郎、高橋正雄、向坂逸郎らである。このうち、高野実、清水慎三、高橋正雄、大田薫は、こんにち社会主義協会員ではない。
社会主義協会は、つねに発展してやまず、設立当時とは比較にならぬ数のメンバー、しかも、社会党や労働組合の活動家を擁している。したがってその理論的、実践的影響力は創立当時とは隔世の感がある。
社会主義協会は、創立以来、つねに、極左翼とたたかい、社会党の右傾化、改良主義化に抵抗して、成果をおさめてきた。総評の健全なる発展に貢献するところも少なくない。
このような業績をもたらすのに、こんにち、社会主義協会に結集している数多くの思想家、学者の功績もみのがすことができない。社会主義協会に集まる学者、思想家の活動も強力となりつつある。協会の学者、思想家は、マルクシズムの理論が、実践とのかかわりのない観念的なものでないことを、理論としてだけでなく、実践活動への参加によって、はだで理解している。わが学者、思想家は、社会主義協会の「理論戦線」に結集している。これら学者、思想家の活動の場として、理論誌『唯物史観』が生まれた。
社会主義協会の主張する、ブルジョア国家権力の労働者階級への平和的移行とは、支配階級を政策でなっとくさせることではなく、支配階級から、議会内外の組織された勤労大衆の力をもって、国家権力を奪取して生産手段を原則として国有にし、その土台のうえに勤労大衆の精神的、物質的福祉を増進してやむことのない計画的な社会をつくることなのである。組織された民主主義的な社会勢力は、武装蜂起なしに、社会主義革命を達成するのであるから、平和的な権力移行なのである。それが階級闘争の頂点としての社会革命であることには、少しもかわりはない。資本主義の基本的矛盾の発展が、このような社会主義革命の形態をつくりだしたのである。
このような社会主義革命のあり方を認識して、社会主義革命に到達する党と、労働組合.その他一般労働大衆の日常の改良闘争のなかに、すべての組織力を強化することが、われわれのこんにち担わなければならぬ主たる任務である。
社会主義協会は、マルクス・レーニン主義を、日本の歴史に具体的に適用し、日本における社会主義革命を達成することを、その使命と考えていた。したがって、たとえば、社会主義協会の中心的メンバーの一人であった稲村順二を綱領委員長としてできたいわゆる「左社綱領」(一九五四<昭和二九>年一月)は、このような社会主義協会の理論が、はじめて社会主義政党の綱領に具現したものであった。 社会主義協会は、とくに三池炭鉱労働組合とつよいむすびつきをもっていた。一九五九〜一九六〇(昭和三四〜三五)年の三池闘争には、社会主義協会の総力をあげて参加した。こんにちもなお三池炭鉱労働組合にたいする社会主義協会の協力は、なんのおとろえもみせていない。さらに、社会主義協会は、三池闘争を安保闘争と結合することに全力をささげたことも、忘れてはならない。
このような事態のもとに、一九六一(昭和三六)年八月の社会主義協会第三回全国総会は、社会主義協会が、その創立の目標としてかかげた日本におけるマルクス主義の理論と実践の統一を具体化するために、実践的課題にこたえるための理論闘争を展開する組織に成長しなければならぬことを宣明した。これは、社会主義協会の大きな前進を意味した。したがって、社会主義協会員が社会党内にありて、社会党強化の使命を担うことはとうぜんであり、この意味において社会主義青年同盟の質的、量的な成長を支えることも、わが協会のとうぜんの義務である。社会党と社会主義青年同盟の一部に影響をもちはじめたいわゆる「構造改革論」をつよく批判し、理論的、実践的に、これを克服する努力に全力をあげた理由も、ここにある。同時に、社会主義運動内に巣食う極左主義者とのたたかいも、ゆるがせにすべきものでないことを自覚している。
これら理論的、実践的要請にこたえるために、社会主義協会は、あらたに協会の理論と実践に関する基本要綱である「社会主義協会テーゼ」と新規的、組織方針をもつことになった。
急速な世界および日本の情勢の変転は、こんにち「左社綱領」の理論を、そのままわれわれの指針とすることを許さない。社会主義協会は「左社綱領」の理論を、発展した情勢に適応した行動の指針につくりかえなければならない。「社会主義協会テーゼ」は、このような社会変革の道におけるあたらしい理論的・実践的指針として作成されたのである。
協会テーゼ、新規約、組織方針が提案された一九六七(昭和四三)年六月の社会主義協会第八回定期全国大会は、規約第二条の修正にともなう社会主義協会代表向坂逸郎の代表辞退をきっかけとして休会にはいった。規約第二条の修正は、社会主義協会を党内派閥化、あるいは別党化させようとする一部組織破壊分子の策謀によるものであり、社会主義協会の伝統を否定し、社会主義協会の正しい発展を妨げるものであった。したがって、われわれの統一のための努力もついに結実せず、八月にいたって社会主義協会は分裂のやむなきにいたったのである。しかし、この分裂によって、われわれはマルクス・レーニン主義の理論の重要性を忘却し、社会主義協会の伝統に反する分子を除去することに成功した。
一九六七(昭和四二〕年一一月四、五両日、社会主義協会再建大会が箱根で開催され、社会主義協会はあたらしく出発した。そしてこんにち、社会主義協会は全国的に再建を完了するとともにあらたな発展にむかって着々と前進している。
われわれは、機関誌として『社会主義』と『唯物史観』とを、大内兵衛、向坂逸郎両人の編集で、発行している。ほかに労働大学発行の『まなぶ』および『月刊労働組合』と、同大学出版局に支持と協力をあたえている。