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ある〈歴史家〉の誕生―戦時下の山川菊栄
(山川菊栄連続学習会第四回2
 
   林 葉子
 
  私は、政治思想史専攻の大学院生です。山川菊栄についての既発表の論文(「〈生活〉と〈歴史〉を結ぶもの―山川菊栄論」『同志社法学』二六二号、一九九九年)を、今日は資料の一部として使わせて下さい。
 
  今日の報告にあたって、山川菊栄から直接教えを受けた、あるいはかなり長く研究してきた方々を前にして、まだ数年しか学んでいない私が話していいものかと迷いました。私にとって山川菊栄という人は全くの歴史上の人物です。書物からしか学べないという限界があるわけですが、残念ながらこれから先はそうなっていきます。とすれば、文献からしか〈山川菊栄〉を学べない世代の者が彼女を直接に知っている方々からご指導いただける機会はいつまでもあるわけではないと思い、今日の報告を引き受けさせていただくことにしました。
 
●一、はじめに
 私たち若い世代がどのように山川菊栄にアクセスしていくかと言えば、入手しやすい岩波文庫の『山川菊栄評論集』『わが住む村』『武家の女性』『覚書 幕末の水戸藩』あたりから読み始めるのではないでしょうか。そしてある程度山川菊栄のイメージができたところで、図書館等で『山川菊栄集』等を調べ始めることになるわけです。
  私自身の経験では、調べるほどに、彼女についてどう考えていいのか分からなくなる感じがありました。岩波文庫に収められた作品を読む限りでは「歴史家」として彼女のイメージを受け止めていたのですが、研究文献ではもっぱら「理論家」と言われているのです。しかし「理論」と「歴史」というのは理念型としては対極にあるもの、つまり「理論」というのは上からこう下げてくる感じで、「歴史」は一つ一つの事象から帰納的に一つの抽象的なものへ高めてゆくものという感じがします。山川菊栄は「理論家」なのか、それとも「歴史家」なのか。そういう疑問が私のなかで生まれてきました。そしてそのことは「戦時下の山川菊栄」というテーマと密接に関連しています。
 
  例えば、山川菊栄の著作集としていまのところ最も大部なものである『山川菊栄集』は、どれくらい彼女の「戦時下」の作品を拾っているか。山川は一九一六年くらいから活躍しはじめましたが、戦前を一九四五年までとして、その間は約三〇年。本日「戦時下」として扱うのは一九三〇年代からですが、単純に時間的にいって、一九三〇年で、戦前期の彼女の活動のちょうど中間点ということになります。『山川菊栄集』では、その前半すなわち一九三〇年までに書かれたものが第一巻から第五巻までの五冊分収録されていますが、後半すなわち一九三一年からの一五年間については、第六巻のたった一冊分しかない。かりに第一〇巻(『武家の女性』と『わが住む村』)を後半期の作品としてカウントしても、前半期対後半期は、分量的に五対二となります。しかし著作目録(外崎光広・岡部雅子編『山川菊栄の航跡―「私の運動史」と著作目録』ドメス出版、一九七九年)に当たると、後半期である「戦時下」の作品の方が、実は前半期よりも数的には多い、ということに気づくわけです。著作目録の頁数で言うと、一九三〇年までが九九頁から一二八頁、一九三〇年代・四〇年代前半は一二八頁から一六四頁なのです。
 
  このように、『山川菊栄集』に「戦時下」の作品が占める比率が低いのは、これまで山川菊栄の「戦時下」の思想が非常に消極的にとらえられてきたということの表れではないか。私は、この時期の山川菊栄に、もっと積極的な意味を見出したいと考えました。そしてそれが、本日のタイトルでもある「〈歴史家・山川菊栄〉の誕生」ということなのです。
  今日「戦時下」を論ずるということは、どういうことか。例えば上野千鶴子さんが『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)という著作を九八年に出されましたが、これは「戦時下」の女性をめぐる問題を扱ったものであり、方法の`新しさaを前面に出したものです。しかしこれには鈴木裕子さんの反批判もあり、いまだ結論めいたものが出たわけではありません。「戦時下」というのは、いま、かなりホットな話題だと思うのです。「戦時下の山川菊栄」を論ずるということは、単に山川菊栄の評価だけに関わる問題ではなくて、「女性と戦争」とか、より広く「女性と暴力」といった問題をめぐる「歴史の方法」について、望むと望まざるとに関わらず、何らかの見解を出すことを意味します。
 
●二、先行研究における「戦時下の山川菊栄」
  これまで「戦時下の山川菊栄」はどのように論じられてきたのか。お手元のレジュメでは、エッセイから論文まで、先行研究を一〇編とりあげてみました。これらの発表時期には三つの山があり、山川菊栄が亡くなった直後一九八一年から一九八二年にかけての第一の山、生誕一〇〇年の九〇年から九二年ぐらいが第二の山、そして最近では、山川菊栄に限定した話ではなくて、「戦時下の女性知識人」という切り口から彼女についても言及されるというかたちです。
 
  まず最初に、鈴木裕子さんが山川菊栄の戦時下をどうとらえているか。鈴木さんは、いまから約一〇年前、一九九〇年五月に、本日と同じ「戦時下」の山川菊栄というテーマで講演されています(その記録は、山川菊栄生誕百年を記念する会編『現代フェミニズムと山川菊栄』大和書房、一九九〇年、所収)。鈴木さんの出した「戦時下の山川菊栄」像というのは、ずばりその講演のタイトルの「暗い谷間の時代・戦時下を生きる―山川菊栄の抵抗の姿」に表れています。そしてそのイメージは現在、一般的に「戦時下の山川菊栄」といって思い浮かべられる彼女のイメージと重なっていると思うのです。といいますのも、この連続学習会のテキストでもある岩波文庫の『山川菊栄評論集』は、かなり普及しているものと思われますが、その(鈴木さんの編集された)『評論集』でも、目次のタイトルにみられるように、山川の作品は「戦時下の抵抗」として並べられているからです。
 
  その鈴木さんの呈示する「戦時下の山川菊栄」のイメージに真っ向から対立しているのが、外崎光広さんの「山川菊栄の日中戦争期婦人論」(『松山大学四〇周年記念論文集』一九九〇年一二月)で、外崎さんは、山川菊栄は日中戦争を是認していたのだという結論を出しています。しかし、私には、内容的にかなり強引に思える論理展開です。ただし、外崎さんも鈴木さんも、両者とも山川菊栄が書いた文章を根拠として、それぞれの全く異なる結論を出しています。不思議なことに、鈴木さんが用いられている史料を外崎さんは使わないし、外崎さんが使っている史料について鈴木さんは言及しない。それぞれ別の史料を用いて説明されています。
 
  鈴木さんは前述の講演のなかで、「戦時中のものを読む時気をつけねばならないことは、発禁処分になると損害が大きいので、発禁されないような工夫をしていることです……表面上の文章を追っただけで戦争を肯定したとか反対したとか、あとになって腑分けするのは、すこし当を失しているのではないかと、わたくしは思います」とおっしゃっていて、それはまったく、その通りです。ただ私には、そのようにおっしゃる鈴木さんも、山川菊栄の戦時下の発言を`構造aとしてとらえるというよりは「表面上の文章を追っ」ているのではないかという印象を受ける部分もあり、その点については山川の歴史作品とのからみで後に述べますが、鈴木さんの出した結論、すなわち山川菊栄は「民衆の立場、生活者の立場に視点を置き、戦争否定の姿勢を貫いた」という結論は正しいと私も思います。
  しかし鈴木さんの解釈のなかで、これは違うのではないか、と思う点もあります。それは講演のなかの次のような部分、「山川菊栄が『支那事変』に直面した時、まず頭にひらめいたのは何か。それは生活するものの立場から見ると、どうなのか、ということだったと思います」―すなわち、山川菊栄の生活者としての立場は支那事変に直面したときにひらめいたものであるという鈴木さんの解釈。そしてまた「評論活動としては、だいたい一九四二年ぐらいまでが限界で、それ以降は、直接、時局にわたるような発言がしにくくなる。そこで『避難所』として入っていった世界が民俗学の世界だった」と鈴木さんはおっしゃっているのですが、この「避難所」という消極的な評価。これらの鈴木さんの解釈はまちがっていると思います。このことについては、後に詳しく述べます。
 
  鈴木さんについて、その歴史の方法を中心に批判したのが、上野千鶴子さんの『ナショナリズムとジェンダー』です。「鈴木の女性史が…しばしば『告発』史観と呼ばれているのは、このいわば歴史の真空地帯に足場を置くような超越的な判断基準のせいにほかならない…鈴木は同時代を生きながら戦争協力という『過ち』を犯さなかった個人を例に挙げることで、避けえたかもしれない『過ち』の『任意性』を強調する」と述べています。このようなところだけ読むと、上野さんは鈴木さんとは全く違う方法を取っているかのような印象を受けます。
 
  では上野さんは、その異なる方法によって異なる山川菊栄像を出しているのでしょうか。言うまでもなく、山川菊栄は鈴木さんが例に挙げるところの「戦争協力という『過ち』を犯さなかった個人」の代表的人物です。しかし、上野さんが具体的に山川菊栄について論じている内容を見ますと、それは、むしろ鈴木さんが出した「戦時下の山川菊栄」のイメージをほとんどそのまま踏襲しているものといえます。上野さんは、べス・カッツォフさん(当時、コロンビア大学大学院博士課程在学)という方の最近の研究を引いて、山川菊栄が戦時下で「勢力的な書き手」であったとしていますが、しかしこのこと自体は決して新しい発見ではなく、二〇年以上も前に出された著作目録から、山川菊栄に多少なりとも関心を持つものならば誰もが知っていたことです。また柳田國男との関係についても、山川菊栄自身が『山川菊栄集』に収められた文章のなかでちゃんと詳しく書いています。上野さんが、総論、概論として出したはずの`新しさaは、少なくとも山川菊栄に関していえば、各論にまで降りてきていない。そして、このことは「あげ足取り」的に申し上げることではなくて、致命的な点なのです。というのも、上野さんがこの著書のなかで批判する鈴木さんという人は、山川菊栄研究をベースに置いて、そこを出発点として研究している方なのですから、その山川菊栄についてわざわざ上野さんが言及するのであれば、総論として出した新しい方法にしたがって、ちゃんと新しい像を出すべきだったからです。
  とくに、柳田と山川の関係について。上野さんは山川の作品を「時局に無関係な原稿」ととらえているけれど、これは鈴木さんが「避難所」ととらえたのと同じ発想です。そして皮肉なことに、上野さんが出した`新しいaはずの視点、例えばオーラル・ヒストリーをどう取り入れるかということや、ミクロな権力関係について歴史にどう反映させるかといった点も、実はこの柳田との関係にからんで、一九四〇年代の山川菊栄がすでに出している視点なのです。
 
  重要であると思われる三人の説を紹介しましたが、鈴木さんと外崎さんの意見の対立、方法をめぐっての鈴木さんと上野さんの対立があるように見えながら、しかし三者とも、基本的な枠組み自体は、外崎さんが一九八一年の「山川菊栄論」で出したものと変わってはいない。その枠組みとは、つまり「一五年戦争突入以降言論統制の強化がますますすすむとともに、菊栄の言論活動は質量ともに制約を受けた。彼女は敗戦直前まで執筆を続けたが、もはや大正期のような光彩はなかった」(外崎光広「山川菊栄論」『季刊女子教育もんだい』一九八一年秋号)というものであり、すなわち、大正期の菊栄は良かったけれども戦時下の山川菊栄は冴えない、というような菊栄観です。`冴えない菊栄aを、時代が悪かったから仕方がなかったと見るか、転向とまで言ってしまうかという違いはあるにしても、消極的な評価しか与えないという一点においては共通しているのです。
 
 (注)報告当日に配布したレジュメでは、口頭で言及したもののほかに、次の五つを紹介した。
  永井道雄「『武家の女性』と『わが住む村』」(『山川菊栄集10』月報、一九八一年一二月)、犬丸義一「日本におけるマルクス主義婦人論の歩み」(女性史総合研究会編『日本女性史5』、東京大学出版会、一九八二年)、鈴木裕子『山川菊栄集6』解題(一九八二年)、鶴見俊輔『山川菊栄集9』解題(一九八二年)、ケイト・ワイルドマン・ナカイ「戦時下の著『武家の女性』に見る思想家山川菊栄の横顔」(『日本における女性』名著刊行会、一九九二年)。
  これらのうち、とりわけ示唆深いのは、鶴見俊輔の山川菊栄論である。鶴見は山川の水戸史研究を彼女の「思想上の土台」と位置づけ、それを日本の軍国主義政府の立場と距離を持つことを可能にした要素として重視している。
 
●三、〈歴史家・山川菊栄〉の誕生
  なぜ、「戦時下の山川菊栄」がこれまで消極的にとらえられてきたか。一九三〇年代・四〇年代前半という時代は発言しにくかったので仕方ない、ということがよく言われます。確かに発言しにくい時代であったに違いない、と私も思います。しかし、そのことと、思想性の浅い・深いということとは、別個に考えるべきです。例えば山川菊栄が活躍していた一九二〇年代と現在とを比べてみて、現在のほうが発言の制限は少ないわけですが、しかしいま、私たちが山川菊栄と同じぐらい深く思考できているかといえば、そうとも限らない。そして、それだからこそ、〈山川菊栄〉を学ぶ連続学習会が今ここに開催されることに意味があるのですね。決して「発言することの難しさ」イコール「思想性の浅さ」ではない。発言しにくいなかでも山川菊栄の思想が深まっているということを、もっと積極的にとらえていくべきだと思うのです。
 
 歴史意識の変化  山川菊栄を歴史家として見るということで言えば、彼女は一九三〇年代に入ってからいきなり歴史に飛びついたのではなく、二〇年代にすでにその素地はあります。戦時下、急に「避難所」的に歴史の世界に入っていったのではないのです。そのことを、一九一九年の『婦人の勝利』と一九二五年の『婦人問題と婦人運動』を比較するかたちで、みてみたいと思います。いずれの作品も彼女の代表的な著作として知られていて、外崎光広さんや犬丸義一さんはこれらを戦前の山川菊栄の最高傑作だとほめています。
 
  山川菊栄自身が『婦人問題と婦人運動』のはしがきで、『婦人の勝利』のかなりの部分が『婦人問題と婦人運動』に受け継がれているように書いていますが、しかし、それらのなかに見られる歴史意識はかなり異なります。『婦人の勝利』で彼女は「日本の女にとつては、未来が一切である。過去も現在も語るに足りない、寧ろ語るに忍びない。私共を救ふものは唯だ未来である。然り私共を救ふものは、唯だ未来に対する希望、未来に対する信念、そして未来の為に闘ふ勇気あるのみである」と述べ、「未来」を強調しています。ところが『婦人問題と婦人運動』では「そこで婦人問題の実際の意義を明らかにすることは、無産階級運動の進展の上に極めて重要なことであるが、現代の婦人問題は、社会の歴史的発展の結果である以上、吾々は先づその発展の経路を尋ねなければならぬ。そしてその発展の経路を尋ねるには、勢ひ人類の原始的な社会生活にまで遡つて、婦人の地位の歴史的変遷を探らなければならぬこととなるのである」と書いている。このように「歴史」を強調するわけです。「歴史」をどうとらえるかということについての関心が、一九二〇年代に出てきたと見ていいのではないかと思います。
 
 山川における「生活」の問題
  また、山川菊栄の思想のなかで、「生活」者としての立場をとるということもまた、「戦時下」になって突然出てきたものではありません。彼女が「生活」の問題を強く意識したのは、一九二三年の関東大震災の時です。震災と戦争とでは違うところもあるけれど、生活者として「非常時」とどう向き合うかという点では共通するものがあるのかもしれません。関東大震災のあとに山川菊栄が書いた「大試練を経た婦人の使命」(『大正一三年婦人宝鑑』一九二四年、『山川菊栄集3』所収)のなかで、彼女は次のように述べています。
 
  「人間の幸福を営利の犠牲として省みないのは資本主義文明の特徴であって、あながち日本に限り、東京に限ったことではない。ただ今回の大震災のような非常の場合に際しては、その特徴的な欠陥が特に顕著に、痛切に、深刻に人々の目に映ずるにすぎないのである…今回の災変は、これらのことを婦人解放の理論上の問題ではなく、眼前直接の生活上の問題とした」(傍点山川)。
 
  この震災を契機に山川菊栄は「生活」という言葉を要所に用いるようになり、生活者の立場から時局・時事問題をどうとらえるかという思考パターンで発言してゆきます。
  それは婦人部論争のときの「いかにして婦人の運動を起すべきか」(『無産者新聞』一九二六年九月二五日)という文章のなかにも見られます。
 
  「政治行動にせよ、経済行動にせよ或無産団体が一つの行動を起こす時には…此事が婦人自身の地位乃至生活に直接又は間接的にいかなる関係を持つかを十分に徹底させた上で積極的に此運動に参加させることに努めたならば、是は極めて有効な政治教育の発端となり自発的な活動の誘因となることは確である。…参政権といひ、結社権といひ、すべて婦人の政治的、社会的権利の獲得に対する要求は、労働婦人の生活に縁遠い読物や講義を通じてよりも、斯ような実際的運動に参加することによつて目覚まさるべきである」。
 
  自分の「生活」の場にちゃんと根を下ろして、そこから「政治」なり「公」なりを考えるという姿勢です。
  さらに「フェミニズムの検討」(『女人芸術』一九二八年七月創刊号、『山川菊栄集5』所収)では次のように述べています。
 
  「現在の社会を動かしているものは、表面、権利を代表している男子であっても、事実においては、その男子の意思を動かすところの社会的条件こそ、基礎的、根本的な力である。だから婦人―そして同時に全人類―の解放を目がけるものは、闘争の対象を男性に求めるのではなく、その意思を支配している社会的条件に対して向けねばならぬ。その社会的条件が変わらないかぎりは、女子が男子の地位に立って政治を、経済を運用したところで、同じ社会的条件の支配するところにより、同じ結果を生み出すにすぎない」。
 
  女性が本質的に平和主義的であるなどととらえるのではなくて、人びとの意思の奥にある構造的なもの、山川の言うところの「社会的条件」を「力」として、「権力」として見ることをしています。
  そして、山川菊栄の思想における「政治」の意味の転回は、「総選挙を前にして」(『読売新聞』一九三七年四月二九日)という戦時下の作品では、もっと、はっきりと出てくるのです。
 
  「『滅私奉公』といふやうな、取付きにくい、語呂の悪い言葉は、誰が考へ出したのか知らないが、こんな大衆の心理に縁遠い標語を選ぶだけでも、現内閣の迂遠さがわかる。…人民の生活問題は『私』で、内閣の利害は『公』とでもいうのだらうか。大衆の生活問題こそは、個人の私的な問題ではなくて、最も公共的な問題である」。
 
  現在、フェミニズムについて語られる時、「個人的なものが政治的なものだ」というテーゼがまるで輸入物であるかのように言われることがありますが、山川菊栄はこのように一貫して「生活」の問題を、「個人的なものが政治的なものだ」ということを言い続けた人だと思います。「性」を本質としてとらえるのではなく、構造としてとらえる。つまりジェンダーとしてとらえることを山川菊栄はすでに戦前にやっていたということがこういう文章を読むとよく分かります。
  そして、その山川菊栄の思想性、すなわちジェンダーとして男女間の関係をとらえる、そして個人的なものが政治的なのだというミクロポリティクスをきちんととらえているということが、実は、山川の歴史の作品にもしっかりと出てきている。私はそこに一九四〇年代の山川菊栄の素晴らしさを感じるわけです。
 
 「大衆」観の変化  山川菊栄がどうやって歴史を書くにいたったかということについては、彼女の「大衆」観の変化が大きく関係しています。その点については、時間の関係から、私の論文を引用させてください。
 
  そのような菊栄が「歴史」へ向かうのには、偶然の力によるところも大きい。一九二九年に始まる大恐慌、一九三一年の満州事変の影響は人々の暮らしを直撃し、こうした社会情勢の変化が、山川一家の日常にも大きな変化をもたらさずにはいなかった。菊栄はこの頃のことを後に振り返って、こう記している。
 
  「五・一五が起り、ファッショ風がふきつのって、言論の自由は狭くなる一方でした。山川均はもともと原稿を生活の手段としたくない、できれば他の方法で生活し、書くことは自分の自由にしたい、という望みでしたが、無資本で、病床でできる仕事はむつかしいので、不本意ながら原稿を書いてきたわけですが、それがむつかしくなったこの際、ほかに生業を求めようと思い立ちました。(中略)そのころ鶏卵は暴落して養鶏業者はしょうぎ倒しになるさわぎでしたが、うずらの方は有望だといって人にすすめられ、昭和七、八年ころから着手しました。がそれには住宅地の鎌倉より農村の方が便利なので、村岡村に土地を借り、九坪の禽舎二棟、孵化育雛用の建物一棟、孵卵器二台、育雛器三台をおき、孵化育雛は山川園主の受け持ちで、湘南うずら園の看板をかけ、手伝いのじいさんをおいて玉子屋をはじめたのが昭和十一年の五月、二・二六のあとでした」。
 
  このようにして始まる村岡村での暮らしは、菊栄に重大な変化をもたらした。それは、やむなく始まったものであったかもしれないが、彼女に、現実の「大衆」の日常に自ら入り込む機会を与えたのである。
  菊栄は、村岡村へ移ってからのことを、次のように記している。
 
  「こういう農村の生活は初めてのことではあり、殊にあたりに旧い知人が一人もなく、全く土着の農家ばかりの中で暮すようになったことは、偶然ながら私にとってまことに貴い経験でした。近処のお百姓のおじさんから、『勉強になりますからやってごらんなさい』と教えられて初めてジャガ薯を作りましたが、ジャガ薯作りだけでなく、生活全体が、私にとってはいい勉強でした。追々に私は知る知らぬを問わず、誰でも彼でも勝手に先生に見立てて、知りたいこと、分からないことは片はしから教わることにしました。村の人たちはみな親切な良い先生でした。近処の人たちはもちろんのこと、道ばたで孫のお守をしているお婆さんでも、畑のへりで煙草休みしているお爺さんでも、相手かまわず、奇問愚問を発しましたが、厭な顔をする人はひとりもなく、迷子の子供に道を教えるように親切によく話してくれました」。
 
  また、この時期の菊栄の心境は、列車の中で偶然乗り合わせた一人の女性労働者との会話について語った次のような文章の中にも表れている。
 
  「この婦人との会話は、私を心ひそかに驚嘆させずにはおかなかつた。(中略)その風采がいかにも平凡な、疲れた裏町のおかみさんにすぎないにもかかはらず、話の内容が要領よく、豊富だつたことに対する私の感銘は、いつまでも変らなかつた。そして私は私の多く接するその人と同年輩のインテリ層の婦人との比較を考へぬ訳には行かなかつた。それ等の婦人は幾種類もの新聞も読めば、雑誌にも目を通す。けれどもその服装や生活が上品で気がきいてゐるにもかかはらず、話の内容は、子供と家庭を中心とした自分自身の直接の個人的利害より一歩も出ない。一時間一緒にゐても、一日ゐても、一週間ゐても、一層広い社会生活については全く触れることもなく、彼女達から新しい刺激や啓発をうけることはまづ望まれない。二十歳のころも三十のころも、五十のころも、頭脳の内容にあまり変りはないといつてよい。どう見ても遥かに教育程度の高いはずのこの層の人々の中に、あの農民出の裏町のおかみさんだけの、生きた知識、生きた観察が求められないのはなぜだらう。私が車中で出会つたのは例外的に頭のよい婦人だつたかも知れない。しかし一般に私が話して見て、農民や小商人の妻や職業婦人の方が、比較的教育程度も高く、生活も楽な、いはゆるインテリ層の婦人よりも、一般的に興味のある社会的事実を話してくれることが多い。つまりそれだけ下積になつてゐる階級の婦人は、生活の問題が痛切であり、生活から直接学ぶ機会が多いのであらうと思はれる」。
 
  これは『女は働いてゐる』と題された菊栄の評論集からの引用である。ここで描かれた女性労働者は、いかにも「平凡」で「疲れ」ているが、それでもなお、彼女たちが「働いてゐる」ことは一つの希望である。教育制度のもとでの学習から得たインテリの狭義の知識は、「働いてゐる」労働者たちが「生活」から得たものと比較すれば取るに足りないのだ、と菊栄はいう。ここで描かれた「農民出の裏町のおかみさん」の姿を、かつて彼女自身が救世軍のボランティア活動の経験をもとに描いた「みじめな」労働者像(これは彼女の出発点として知られる文章―引用者)と比較するとき、われわれは、菊栄の「大衆」観が実際いかに変化したかを理解できるのである。
 
  村岡村で農村の「生活」に入り込み、直接農民たちに接するなかで、山川菊栄はようやく、普通の働く人々の生活の内にさえ社会変革の契機を見いだし得るという確信を得たのだ。もはや人々は、二項対立的に「前衛」に対置させられるところの「大衆」でさえなくなってしまって、菊栄の前で自らの「生活」と村の歴史とを語り始める(それを聞き書きとして後にまとめたのが山川菊栄の『わが住む村』である。)ここに至って、「理論」から「生活」へという彼女の主張は、もはや観念的な理想として「未来」に思い描くまでもなく、普通の人々の内に実例を見いだしうるものとして示されるのである。「理論」の学習に頼らずとも、平凡な「生活」のなかで行われる「訓練」が、人々を私的「個人的利害」の世界から公的な「一層広い社会生活」へと連れ出し、人間を社会的な存在にすることができる―そのような一つの可能性への信頼が、山川菊栄の関心を、「未来」から、いかにして「訓練」は行われ得るのかという問題意識に基づく「過去」の分析へと転回させたのである。
 
  加納実紀代さんは「わがあこがれの顛末」という文章のなかで、山川菊栄の「大衆」観について「彼女にとって、いうならば大衆は、つねに指導・教育さるべき〈愚民〉である」とされていますが、私は、そのような見方は違うと思います。『わが住む村』では、「愚民」として見るどころか、「人々」を「先生に見立てて」いる。そしてその、普通の「人々」から聞き書きしたのが、彼女の歴史作品なのです。
 柳田國男との出会い ところで、彼女の歴史作品の成立過程には、柳田國男との出会いが大きく関係しているのですが、その部分についても発表済みの論文から引用させていただきます。
 
  このように内的に変化しつつあった菊栄に、柳田國男(一八七五ー一九六二)との出会いは決定的影響を与えた。昔の女たちの刀自としてのありかたに「文字こそ知らないが一番正確なる意味に於ける学者」の姿をみる柳田と、「理論」に拠らない「生活」の中での「訓練」について模索する菊栄とは、思想的に響きあう点があったのだろう。「保守主義者」柳田國男に師事する「社会主義者」山川菊栄、という一見奇妙な取り合わせは、「社会主義者」という言葉の持つイメージにとらわれずに菊栄の思想をたどってみれば、きわめて自然な帰結であったとさえ言える。
  菊栄の回想によれば、柳田と菊栄が初めて顔をあわせたのは、一九四〇年九月、雑誌『新女苑』の対談の時だった(掲載は一一月号)。この「主婦の歴史」と題された対談は、柳田と菊栄の関係を考える上で興味深いものである。菊栄と柳田とは女性に関する認識において相違点も多かったが、対談における柳田の「吾々の生活も亦歴史だといふことを考へて」というアドバイスを、菊栄は重く受けとめたに違いない。そして単に思想的影響を与えるに留まらず、実際に菊栄に「生活」の歴史を書かせる手配をしたのもまた、柳田である。菊栄の『武家の女性』と『わが住む村』は、柳田監修の「女性叢書」のなかに加えられることになったが、この二冊の出版許可を得ることは容易でなく(均は既に一九三七年に執筆禁止)、柳田は何度も情報局に足を運んだようである。「女性叢書」には他に、柳田自身の『小さき者の声』、宮本常一『家郷の訓』『村里を行く』、瀬川清子『海女記』『販女』、江馬三枝子『飛騨の女たち』『白川村の大家族』、今和次郎『幕らしと住居』、能田多代子『村の女性』などの作品が収められているが、菊栄以外の著者には民俗学を専門とするものが多く、その中で彼女は異色な経歴を持つ者であったと言えよう。
 
  菊栄は、柳田との出会いの場である対談の中で、柳田の『木綿以前の事』に賛辞を寄せている。そして、柳田が彼女に与えた影響の大きさは、菊栄の「女性叢書」の二冊が、この『木綿以前の事』で柳田が提唱する方法に寄りそっていることからも裏付けられるのである。柳田は次のように述べている。
 
  「文化批評という言葉は響きが好いために誰にでも共鳴せられるが今日まで行われているものは主として演繹的のものであった。私はそれとともに他の一方から、一つ一つの問題について、今までの生活ぶりの拙劣さ、長い眼で見て賢くなかった点を、反省する機会を作らねばならぬと考える」。
 
  菊栄がかつて「婦人部論争」で模索していたのもまた、「演繹的のもの」を克服する「他の一方」であったのだが、そのような彼女が『木綿以前の事』に「私たちは、自分自分の疑惑から出発する研究を、すこしも手前勝手とは考えておらぬのみか、むしろ手前には何の用もないことを、人だけに説いて聴かせようとする職業を軽蔑しているのであります」という一文を見出したときの共鳴は、想像するに難くない。
  次章に述べるように、菊栄の『武家の女性』と『わが住む村』は、柳田の言う「実地の史学」なのである。彼女の聞き書きという手法も、『木綿以前の事』で既に柳田によって「ただ勉強して本を読み、本に教えてもらおうとしても失望する。書物はたいていが男の手に成り、彼等に合点の行くことまでしか書いていないからである」と指摘されたことに対応したものと見ることができるだろう。そして菊栄は、次のような柳田の言葉を見逃さなかったに違いないのである。
 
  「政治上のいつでも大きな問題は、結局は貧乏物語に帰着する。貧の原因は複雑を極めていて、その根本の法則というものを、突き詰めたところに持って行こうとする人もすでに多い。それはかりに疑いのないことだとしても、なおそのたった一つの原因を除き去ることによって、貧を絶滅することができるとは思えないわけは、これを取り巻いて今はまだ茫漠たる未知の歴史があるからである」。
 
  かくして、様々な要因―思想の表現方法を極度に制限した戦時下の言論統制、農村生活の体験を経た彼女の内なる「大衆」観の変化、そして柳田國男との出会い―が相俟って、菊栄は歴史へと向かい、「社会史家」としてあらわれるのである。
 
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