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■林葉子報告(続き 山川菊栄連続学習会第四回3)

四、山川における戦時下抵抗と歴史研究のつながり

 次に、「時局に無関係な」山川菊栄の歴史作品、という見方は間違っているということを、史料から確認したいと思います。
 新聞に出たエッセイ「男の一生―困苦に堪へる訓練」(『読売新聞』一九三七年一二月二〇日)で、山川は次のように述べています。水戸にお墓参りに行った時のことです。

 「私の祖父は常々『男の子はいつ戦争にでるか分らぬ。そんな時、こんなものは食へぬ、あんなものは嫌ひだといふやうなことでは役に立たぬ。何でも食べ、どんなことにも堪へるやうに心身を練ることが必要だ』といつて女の子よりも男の子に厳しく、身のまはりのことに人手を借らず、食物に好悪を云はぬやうにしつけたことを聞いてゐる。それは内外共に多難な幕末のことで、外には外国との間にいつ事を構へるか知れず、内は諸藩共に尊攘佐幕の対立に湧き立ち、昨日の大臣が今日は獄門になり、今日の罪人が明日は大臣になるといふ有様。殊に祖父の属した水戸藩は、政争が内乱にまで発展して、親戚知己に犠牲者も多く、祖父自身も再三罪を蒙ったので一層さういふ気持がつよかつたものと見える。私は八十を超えた母と水戸へ墓参の序に祖父の一家が家屋敷も禄も奪はれて五年間蟄居したあばら家のあとを訪ねた。家は変り、あるじも見知らぬ人ではあつたが、あたりの様子は七十年の昔に変らず、老木の梅にも、繁つた竹藪にも、幼い日の思ひ出をもつ母は、懐旧の涙にくれた」。

 山川菊栄は、自分の歴史研究と戦時下的時局とに関係があると明言まではしませんが、しかしそれでも、彼女のなかでそれらが重なり合っているということを、ここにはっきりと読み取ることができます。「七十年の昔に変ら」ぬ水戸を訪ねて、時局と歴史とを重ね合わせて見ているのです。
 また『武家の女性』のなかには、次のような表現があります。

 「勤労の習慣と技能の習得によって、額に汗して衣食の資を得ていた下層武士の階級は、政治に、産業に、教育に、指導的な役割を演ずることになりました。(中略)ともかくも女たちが家庭で得た多少の教養や技術は、この大きな変革期の荒波を漕ぎぬけて、自分を救い、家族を救う上にも役立てば、新しい時代を育てる教育者の任務を果たす上にも、大きな力となったのでありました」。

 ここでは先程言った「生活」の問題こそが「政治」の基礎となっているというテーゼが「武家の女性」を歴史として描くなかに現れています。
 また、歴史を書くこと自体が、山川にとって非常に「政治」的な行為であったことが、例えば、戦後すぐに書かれた「水戸藩の農民騒動」(『新歴史』一九四六年六月号)を読むと、わかります。

 「〔生瀬の農民騒動という〕同じ事件が藩士の中にいひ伝えられたのと、村民の中にいひ伝えられたものとの間に著しい相違のあることも偶然とばかりは思はれない。…農民の中のいひ伝えの方が事実に近かつたらうと思はれる。藩士の中にいひ伝えられた話はこの虐殺事件が、余りにもむごいので、世評を憚かつて、農民の責任を重くし、藩の行為を正当化するために粉飾されたものではあるまいかといふ気がする。それはいつの世の中でも専制政府の好んで用ゐる手であることは周知の事実であり、三百年の昔といはず、つい此頃でも日本の『臣民』にはおなじみの手口なのだから」。

 これは、かつて水戸藩で農民がたくさん殺された「生瀬の農民騒動」について、藩が書き残したものと農民が言い伝えている内容とがかなり異なるという事例を挙げて、歴史を書くことそれ自体が、ただ「事実」を書き記すというようなものではなく、どの史実を取りあげ強調するか、それがまさに「政治」である、ということを述べているのです。「歴史」がそのように「政治」的な場であることを山川がはっきり意識していたということが、このような部分から分かります。支配者側に立たない普通の人びとの間の「いひ伝え」をどのように拾っていくかという問い、オーラル・ヒストリーをどのように取り入れてゆくかという問いと、彼女がしっかりと向き合っていたことが、このようなところから読み取れるのです。

●五、おわりに―`歴史における女性aをめぐる方法の問題
 山川菊栄を「歴史家」として読むうえで残念なことは、彼女自身は、歴史の方法について、まとまった論文などを書き残していないということです。おそらく山川菊栄という人は、非常に謙虚な人だったのでしょう。不言実行で、方法論は出さないが、実際に歴史作品として出す。そのようなかたちで、彼女の思想を表現したのだと思います。

 その彼女の歴史の方法は、「生活」を描くとそこに自ずと女性も登場してくるし、そして自ずと政治や社会が描き出される、というものです。その方法は、いわゆる「女性史」とはまた少し違うのかも知れないけれども、歴史に女性を登場させ、その社会的役割を高く評価するという点では共通しています。「生活」を書けば女性が自ずと出てきて、その役割の重要さも自ずと見えてくる。そういう方法を取ったということは、非常にラディカルな転換だったと思うのです。これが、例えば高群逸枝が自ら「女性史」と言って書いた歴史の方法とどう違うのかということに、いま、私は非常に興味を持っています。しかし、それは私自身のこれからの課題ということで、今日は問題提起的な部分しか出せなかったのですが、これで報告を終わります。


■討論 戦時下に意見表明する難しさ

加納 どうもありがとうございました。積極的な意味を持つ読み直しが提起されたと思います。
 司会の特権で私から発言させていただきます。山川さんが大衆を「愚民」視したという、これはそう簡単に書いたつもりはないのですが、山川さんのほかの文章と重ね合わせて見るとやはり私のとらえ方は一面的だったと思います。しっかり働いて生きている庶民の女性にたいして、山川さんは最大の敬意を持っていますね。

 具体的に一つ紹介します。戦後の文章ですが「結婚・財産・家名」というのがあります。山川さんが村岡村でうずら飼いを始める時に鎌倉の市役所で順番を待ちながら聞くともなく聞いていたら、商家のおかみさんが、夫と一緒になって必死に働いて家を建てそれを彼女の名義にしたら、夫からの贈与ということでたっぷり贈与税を取られるのはとても納得できないと言っていたのです。

 「やはり自分が何十年の間、なくてはならぬ夫の片腕として働き続けてきた実力、実績の自信が言わせるのであろう。町の人らしく理屈ばらず落ち着いて冷静に説明しながら一歩も譲らず、主婦層一般を代表しているようなその堂々たる論旨に私は感じ入りその言い分は正当であり久しい年月にわたる妻の協力に一銭の価値も認めぬ法律の冷酷さを思わずにはいられなかった」。

「配給統制」推進の真意は如何に
 山川さんの配給統制要求についていえば、結果論ですが、一つはそれによって徴兵忌避が国内において不可能になったということがあります。山中恒さんと対談をした時に、配給通帳を持っていないかぎり食べることができないという、一億総草の根統合だったという話になりました。
 山川さんがあえて国家統制を要求するような発言をしたのは、国家社会主義の影響があったのかなと考えてみたりしました。国家統制して、必要なものを全員に平等に分配するという配給統制の理念自体は社会主義的な発想なわけですから。

 もう一つ山川さんは、女性たちに公意識をしっかり持ってもらいたかったのではないか。女性たちは厳しい物不足のなかで工夫を重ねて生活を維持していることは公的意義のあることであり、まさに現在のアンペイドワーク論につながることなのですが、それを女性自身が認識していない。配給統制というかたちで直接国家と台所のつながりが目に見えるようになれば、女性たちも私生活の公的意義を自覚するようになる、それを願って要求したのではないかと考えたりもしますが…。

(会場からの発言) 文化大革命の時に中国に行きましたが、平等に分けるということにたいする情熱というのはすごいです。乏しいところを平等にするという生活の問題だからだろうと思いますが、山川さんの場合も二面あったのではと思いました。

加納 配給制度が導入されるとき、「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」というスローガンがかかげられました。

菅谷 戦時中、国家社会主義的なものがあったが、山川先生は反対していたのです。山川さんの考えは恐らく「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」という立場から、お金のない貧しい者に配給、安い価格で買えるようにという立場だったと思います。
 山川先生と均先生とが結婚なさった時、一番先に約束なさったことは「生活のための原稿は書かないことでした」とおっしゃっていました。戦時下というのは本当に想像がつかないような厳しい言論統制があったわけです。何かといえばすぐに憲兵が来たりして糧道を断つような、それでみんな説を曲げてしまうわけです。それで山川先生はうずら園を経営されたと思います。

 もう一つ非常に残念だと思うのは、井上清氏、外崎さんら共産党がなぜあれほど山川先生を排除しなければならないのかということです。犬丸義一さんから直接聞きましたが、共産党では「田中寿美子までは認めていいけれど山川菊栄は絶対にいけない」と言われているそうです。戦前の労農派と講座派の論争から来ていると思いますが…。

加納 鈴木さんは外崎氏と上野さんの両方に絡んで言及されましたがいかがですか。

鈴木 戦後、山川菊栄は政治的に解釈されてきたと思います。わたくしは共産党でも社会党でもないので比較的フェアーに見てきたつもりです。犬丸さんは山川菊栄を評価するときにマルクス主義を一つの基準にして評価しました。共産党系研究者(その後の離党者も含む)の大方の評価は、山川は日本における最初の社会主義女性論の唱導者だった。しかし、戦後は国際女性デーに反対するなど(これは事実ではないのですが)、よくなかった。こういった類いの評価がよくみられましたね。

『山川菊栄集』を編集した立場から
鈴木 『山川菊栄集』が発行されてからほぼ二〇年経ちます。そこで、少し裏話めいたことをお話しします。これも一つの歴史です。あの時わたくしはまだ三一、二歳でたいへん若かった。まだジェンダーという言葉が一般化されていない時代、わたくしもジェンダーという言葉には馴染みが薄かったのですが、いまから考えますと、やはりジェンダーの視点を山川菊栄から発見したように思います。最初の第一巻のサブタイトルに「女の立場から」をつけたのは、いま、申し上げたような気持ちがこめられていたと思います。それほど初期山川女性論にはジェンダーの視点がよく出ています。前々回の学習会でセクシュアリティ論を取りあげた時に山川さんのジェンダー視点がよく表れていましたね。

 先の山川選集の出版計画が岩波書店内で本格化したのが、刊行される前の一年前で、当初は、女性論・評論に絞って三巻本くらいで出したいというのを、粘りに粘って七巻にしてもらい、それにプラス三巻、プラス別巻一巻を加えで全一一巻にしてもらったわけです。その間には、岩波の編集担当者の尽力も大きかったのです。もう一つ、わたくしもそのころ、女性の、戦争被害者の面だけでなく、加害者としての側面もきちんと追うべきと思っていましたので、山川さんの戦時下の著作もぜひ入れたいと思ったのです。

 編集は名目上は田中寿美子先生と山川振作先生でしたが、実質的にはわたくしがやることになりました。もとより、お二人とも大変サポートしてくださいました。とくに振作先生はさまざまな点でサポートしてくださいました。ただ一つ戦時下のことに関しては正直言って先生はあまり取り上げて欲しくなかったのです。つまり中途半端なかたちで出すと正しく理解されないのではないかという恐れが先生にはありました。戦時中、確かに山川さんはそれなりによくお書きになっているのです。それはわたくしもよく分かっていたのですが、出版社の意向やご遺族の気持ちとの絡みがありまして、入れたいと思うものの五分の一も収められなかった。その意味で『山川菊栄集』もある種の歴史的産物です。

 山川さんには、民とともにあって民とともに学ぶという姿勢は戦前戦後一貫してあったと思うのです。それは今日も来ておられる中大路満喜子さんや菅谷直子さんとか実際に山川さんに接してこられた方々が、実感として感じられてきたと思います。山川さん自身はまぎれもなくエリートなのですが、でもその目線は低い。その意味ではわたくしどもも非常に親しみが持てる。今日はそういう山川さんの面を掘り下げてくださって感銘を受けました。

 さて、上野さんのわたくしにたいする批判ですが、そもそも上野さんとわたくしとでは立脚点が違うのです。山川評価に限って申し上げても彼女は山川さんの著作そのものをきちんと読んでいるわけではないのですね。これは林さんが指摘された通りです。上野さんの手法は、もっぱら歴史家がどう解釈するかをメタヒストリーとして追っているのにすぎない。それでは同じ土俵に立っての話し合いにはならないのです。
 わたくしたちにとっていまも課題として残されている問題は、先程加納さんがお名前を挙げてくださった女性指導者たちが陥った、いわゆる女性本質主義です。女性本質主義は市川房枝さんらの軌跡がまさにそうであったように、戦時下においては「産めよ殖やせよ」の人口政策に回収されていく可能性が強かったわけです。事実、そういう道を彼女たちはたどりました。

 また市川さんら女性参政権運動家の場合は参加―解放という「論理」がありましたが、一つの信念体系・思想体系はなかったので、山川さんが危惧したように時局のなかに絡め取られていってしまう危うさを帯びていたのですね。
 市川さんは婦選会館でわたくしもよくお目にかかりましたが大変いい方という印象があります。それだけに善意の人、まじめな人が絡めとられてしまうという怖さをとくに感じるのです。

 高群逸枝は、柳条湖事件の頃のものを読みますと、ある種のシニシズムの立場に立っていたと思うのです。どうせそんなものよと見ているきらいがある。シニシズムの立場が意外とすっと体制に吸収されていってしまう姿を高群逸枝のなかに見い出せるといったら過言でしょうか。少し単純化しているきらいがありますが、そう思います。
 山川菊栄の場合は「フェミニズムの検討」を一九二八年の『女人芸術』創刊号に書きました。あれは柳条湖事件の前の山東出兵(一九二七―二八年)、これは中国にたいする侵略戦争の第一段階だと見るべきだと思いますけれども、それにたいする見事な批判です。女性イコール平和主義者とアプリオリにみる本質主義批判を行なっている注目すべき論文です。山川菊栄のそういう見方は、民族差別、階級差別、ジェンダーの問題、その三つを構造的に見つめているからこそきちっと出せてきたのではないかと思うのです。

 ただ、一番の問題は、こういった彼女の正しい指摘や認識がなぜその当時の日本社会に影響力を持ちそして実践と結びつかなかったのだろうかということです。
 林さんのお話の前段で、戦時下をめぐって非常にホットな問題がありますと言われました。わたくしはホットと言うより、今日、背筋にぞくっと冷たいものを感じる、いわば見えないかたちで戦時下が進行しているのではなかろうかと思うのです。新ガイドライン、日の丸・君が代法等々の法案が通過した、先の通常国会で男女共同参画社会基本法が通りました。あれは読みようによっては女性の戦争協力法になりかねないと思います。そういう極めて厳しい境界線をいまわたくしたちは生きている。

 もう一つわたくしに寄せられている批判として、先程、林さんが言及された「告発史観」だという批判があります。これは九六年『歴史評論』という雑誌で、米田佐代子さんがわたくしの史観を「告発型」と断じられたのですね。上野さんは、どうやらこれに着想を得ているようですね。
 逆説的にいうと、戦後日本の女性史研究の主流は、「告発」しなすぎたのですね。言葉を変えて言うなら日本近・現代女性史研究が、「一国主義」視点を超えられなかった、ジェンダー、民族差別・植民地支配、戦争責任の視点、そういうものをきちんととらえてこなかった、と言えるのではないでしょうか。だから、平塚らいてうなどの天皇翼賛の思想などもすぽんと落とされてきたといえましょう。市川さんの戦争協力の問題についてもそうです。

 非常にシンプルに言えば、女性史研究が、ある種、政治的立場によってなされてきた面と重なっている。正当な山川菊栄評価が戦後、ずっと女性史学界のなかで行なわれてこなかったのも、まさに、いま申し上げたような政治的事情が反映されていたと思うのです。
 いまは、昔のように治安維持法や治安警察法はありません。でも現実的に、例えば加納さんやわたくしどものように、反天皇制を前面に押し立てていけば、いまの主要なメディアのなかにはなかなか参入できない現実があります。マス・メディアに参入しようという人たちは、天皇制問題などは手を触れないことがいいということになるでしょう。「慰安婦」問題もそうなりつつあります。そういう厳しい状況のなかで、女性史研究はどうあるべきかが問われているのではないかという気が最近します。どうも失礼いたしました。

戦時下の女性労働がもつ二面性
重藤 前回のテーマとも絡むのですけれども、戦時下の女性労働、かなり強制的な女性労働について、どう私たちが評価するか、山川さんはどう見ていたか、配給制の問題とも絡むことかと思い発言させていただきます。
 戦時下の女性の労働について、山川さんは婦人問題懇話会の労働部会でこのようにおっしゃったのです。「いい悪いは別として、欧米で女性が労働に定着して進出をするのは、産業革命期を除くと第一次世界大戦の時です。その次が第二次大戦だったわけです。そういうふうに進んでいくのです」と。その時は数人の集まりでしたから誤解を恐れずにご紹介しますと、「また戦争を起こして男を少し殺しますか」(笑)と言われました。戦争を肯定してそのような発言をされたわけではもちろんありません。

 ナチスがフランスに攻め入った時に、フランス軍が自国内を南下して逃げるわけです。その時に、あらん限りの略奪・暴行を働きつつ、自分の食べるものを自国内で確保しつつ逃げるということがあって、ナチスの占領下にいたって、やっと治安が維持されてほっとしたということだってあるのです。戦争というのはそういうもので、自分の国の軍隊が自分たちを守ると思ったら大間違いで、またそういうなかで女性も職場に進出をする。そういう非常に多面的なものとして教えてくださいました。歴史観というか、ものの見方というか、そういうものとして私のなかに降り積もっているのです。
 先程から引用されている「女は働いてゐる」という戦時下の文章の最後は、「女は働いてゐる。女は働いてゐる」と繰り返して、非常に力強く女が働いていることを主張して締めくくっていらっしゃる。それを読んだ時に、はてな、この肯定はいったい何だろうと。戦争に協力して女が働いていることを肯定して、検閲に引っかからないような文章になっているのか、それとも…と。しかし山川先生のお話を何遍か聞くなかで、実際に女が働いていて力を持つようになり始めていること、働かされていること、それが同時進行で進んでいくという事態をじっと見ていられたということかと感じたことでした。プラスかマイナスかということではなくて、これはいったいどういう側面を持ち、どういう要素がどういう次のモメントになり得るのかという見方を教えていただいた気がするのです。

駒野 「男を少し殺しますか」を聞いた一人です(笑)。時々そういう警句をおっしゃるのです。私は実際に働いている女として接触して、本当に初歩的なことから教えてもらったのです。山川さんは生活とか歴史的な事実にとても敏感な方だと思っていたけれども、マルクス主義的な思想のなかで、弁証法的に歴史を見てきたなかで身に着いたのかと、その時、素人ながらに思いました。理論家と歴史家としての彼女というのは、本当に微妙にうまく絡み合っていると思う。

林 山川菊栄の取り上げられ方にもその時々の時代的制約があって、研究者が出したいものがそのまま出てくるわけではない、「ああ、そうだったのだな」と今回お話を聞いて分かりました。
 そういうことも踏まえつつ、山川菊栄ってどういう人だったかということをひたすらに、一次史料から見るということが大切なのではないかと私は思いました。二次文献からだけであっても、とにかくも取り上げること自体が「政治的」なのだという意見も分かるんだけれども、やはり言及する以上は「本当の姿は何だったのか」ということを追及していく姿勢が求められるのではないか。一次史料を読み込むことによってしか見えないこともあるのではないか。

 山川菊栄という人は実際に戦時中、最も時局的なものに流されやすい時代に、熱心に、人びとの生の声に耳を傾けた人だったと思うのです。そうやって彼女が「歴史家」として在った、ということ自体が、彼女の戦争にたいする抵抗であったことを思えば、そしていま、鈴木さんがおっしゃるように「戦時下」的状況が密かに進行しているのだとしたら、それにわれわれが抵抗する手立ては、歴史上の生の声を拾ってゆく、そして「政治」の意味をずらしてゆく、ということにあるのではないか。私自身は、一次史料をしっかり読むということをしたいと思うのです。

加納 重藤さん、駒野さんがおっしゃったように、山川さんのなかに歴史を多面的に見ることとか、弁証法的な見方というのがしっかりあると思います。
 外崎氏が、山川さんは日中戦争を肯定したということで批判をしていますが、事実としてはこうだということで、肯定しているという話ではないわけです。歴史のこちらから見れば、西欧の帝国主義者が進出・占有しているという事実は事実としてある。それは評価とか価値判断とは別に、客観的にそういう見方もあるという歴史の多面性への冴えた眼差しによるものではないでしょうか。

現代に生きる山川菊栄の思想
(会場からの発言) 加納さんが最後に付け加えられた、明治民法で「妻の座の安定」の話みたいなところをもう少し…。

加納 明治民法では、女性は嫁すれば夫の家に入って夫の氏を名乗ると決められているわけですし、財産の相続権も原則としてないわけです。戸主権というものが強く立てられて、戸主というのは基本的には長男子が相続する。それから親権も父親ですね。

(会場からの発言) 明治憲法で一夫一婦制というのがキリスト教で入ってきて固定化したために、明治民法での家制度、庶民にはなかった武家の伝統の正妻を確立させたというようなものがあります。

駒野 福沢諭吉は民法をかなり評価しているのです。私は、かえってそのために女は不自由になったとか、武家の道徳を庶民に押しつけられてたまるかと思ったのですが、法的な正統性みたいなものを確立したとしていました。
 だけど山川さんは、別にそういうつもりで言っていたのではないでしょう。江戸時代には町人や何かの妻のほうが良かったということを、それこそ雑談のなかで聞いたことがあります。

加納 『武家の女性』で山川さんは「明治三十二年民法の制定によって、妻の地位が在来よりはるかに安定し、みだりに離婚ができなくなってから」離婚率が「急に低くなっております」と書いています。極端な早婚がなくなった、離婚が減ったということで、明治民法を評価しているということですね。

(会場からの発言) 日中戦争のさなかに「戦死者と内縁の妻」という文章を書いています。内縁の妻が戦死者にたいする扶助料が受けられないのは非常に不本意だと言っていますから、私はやはり本質的には家制度批判の立場にあったと思います。

加納 今回林さんが「ある歴史家の誕生」として、山川さんのいままでと違った面に光を当てられました。それで思ったのですが、なぜ『武家の女性』を書かれたのか。幕末から明治維新にかけての変革期に水戸藩の男たちはお互いに血で血を洗うような殺しあいをしている。そのなかで女は黙々と家族をささえ、変革の時代を生き抜いている。それを山川さんは書いたわけです。ということは、このとき山川さんには来るべき敗戦、それに伴う時代の転換ということが頭にあったのではないか。だから、七〇年前の明治維新の変革を生き抜いた女性たちのことを、これから生きる女性たちに伝えたい。来るべき変革を頭に置きながら、かつての変革期を女性に焦点を合わせて振り返ったのではないかと思うのです。
 それからいうと、山川さんがこれを構想された時から七〇年近くたっています。どちらに向かってどう変革するのか。私たちもまたそういう危うい変革期に立っています。だからこそ山川さんがこの時に書かれたものをいま読み直し、ともに考える意味は大きいと思います。

菅谷 山川先生は本当に謙虚な方でした。だから私は、ものを書くのにもその姿勢が表れていると思います。戦争中のことうんぬん、字づらだけではなく、山川先生の人柄や思想とその時の情勢というのを勘案しながら読まないと真意は理解できない。発禁になったりすると出版社のほうに大変迷惑をかけたというのです。それを考えながらお書きになったということを言ってらっしゃいました。

鈴木 少し補足させていただきます。例えば山川菊栄が一九三三年に出した『女性五十講』は最初発禁になりました。発禁処分になる前に単行本に収録するさい、初出にあった表現のヤバイ所は全部削除ないし部分削除、伏字などの処置を行なっている。それでも発禁になってしまう。
 わたくしはもう一つ、菅谷さんとは違う言い方を振作先生からお聞きしたことがあります。「母は依頼原稿は原則的に全部引き受けました」とおっしゃっていました。四三年、四四年の当時どれだけ依頼原稿があったかどうか分かりませんが。民俗学のほうにいったということも、やはり彼女の一つの選択だったと思うのです。そういう意味では一つの抵抗と言ってもいいでしょう。

 それにしても山川菊栄という人の存在が、二〇年たって薄れるどころか、非常にリアルになったという感じがします。林さんのような、若い気鋭の研究者が出てきてくれまして、本当に楽しみです。

菅谷 私は、『武家の女性』や何かは、先生がご自分で積極的に進んで、お書きになったとは考えていないのです。というのはあのころは非常に生活が困っていた時です。柳田さんからお話があって、山川先生はとても助かったとどこかで書いています。

鈴木 『おんな二代の記』でですね。三七年に夫の山川均が人民戦線事件で捕まって、あちこちたらい回しにされて、重病に陥ります。あの時すごく生活に苦労した。これは全く非公開ですけれども、わずかに虫食い的に残されている山川さんの日記のなかに、その当時のことを書いてありまして、「暗澹たる思い」という言葉にぶつかります。そういう言葉を山川さんが吐くのはごくわずかだったのではないでしょうか。あとからはいろいろ言えますけれども、菅谷さんがおっしゃるようにその時の状況も勘案しながら見ていかないと…。

浅倉 林さんの報告のなかで、生活の視点というのを明確に出していただいて、すごく学ぶことが多かったのです。私は法律が専門なのですけれども、大学でも、法律とか政治の分野でかなりジェンダー論が興味の対象になっています。男性でジェンダー論をやるという人も非常に増えていて、それはすごく好ましいと思う反面、生活からの帰納的方法ではなくて、国家論とか政治論とか、そういう上からの演繹的な方法で総合的な学問としてやる人がすごく増えてきたように思うのです。フェミニズムが一番大事にしてきた、個人的なものは政治的であるという、そこのところが理論としてだけとらえられて、研究者のなかに根づいていかない。ただそれをテーゼとしてそれに即して理論化していくという研究が非常に増えているような気がするのです。

 男女共同参画社会基本法というのは、私は出るべくして出てきた法律だと思うのですけれども、そこでは対抗的な価値観が衝突しているのだと思うのです。枠組みだけ作っていて、具体的なことを盛り込まない。東京都の条例づくりにはこのところ一生懸命力を割いてきたのですけれども、結局最後はむなしいという印象を持つのはやはりそこなのです。生活の視点というのは女性の経験が持っている価値と言ったらいいのでしょうか、それが法律や条例の枠組みのなかに入っていかなかったというのが限界だと思うのです。
 だから、今日のご報告は私の問題意識ともすごく一致していて、ありがたかったと思いますが、これから大変だと思う気持ちもあります。

加納 まさに現在的な、私たち一人一人の問題なのだということを確認できたのではないかと思います。今日はどうもありがとうございました。

[パネリスト略歴]
加納 実紀代 [かのう みきよ]
 一九四〇年生。山川菊栄記念会選考委員。著書に『まだ「フェミニズム」がなかったころ』『女たちの〈銃後〉増補新版』(ともにインパクト出版会、一九九四年/一九九五年)、『越えられなかった海峡 女性飛行士・朴敬元の生涯』(時事通信社、一九九四年)など多数。

林 葉子 [はやし ようこ]
 一九七三年生。同志社大学法学部政治学科卒。学習会当時、同志社大学大学院法学研究科博士後期課程三回生、日本政治思想史専攻。〇四年現在、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在学中。山川菊栄は、思想家あるいは歴史家として、思想史上、もっと高く評価されるべきだと思います。
 
 
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