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第一章 日本における社会主義と社会党の任務       
 
 
 一 社会主義革命の必然性
       −われわれは何故社会主義を選ぶか−
 
   (1) 現代は資本主義から社会主義への移行の時代でで(ママ)ある
 一九一七年のソ連の社会主義革命によって、世界の歴史上にはじめて社会主義国家が樹立されたが、それいらい四十数カ年を経た今日においては、東欧、中国、蒙古、朝鮮、北ヴェトナムを加えて、十三カ国、世界人口の三五%が社会主義体制を確立するに至った。これらの国々は、遅れた農業国と破かいされた戦争の廃墟の中から急速度にその生産力を復興、発展させ、今は資本主義諸国に追いつき、追い越すことを日程にのせる程の平和的競争の段階にまで成長している。そしてこれらの社会主義体制は、その内部に新たな課題を生みその解決を追られているとはいえ、国内における民主化の進展、飛躍的な生産力の増大、新たな科学文化の発展によって、ますます優位性を示しつつある。
  また、戦後の民族独立、解放闘争はアジア、アフリカ、ラテンアメリカにおいて、嵐のような勢いで進行している。帝国主義列強は植民地を放棄し、後退につぐ後退をせまられた。この闘争は、完全独立、外国権益の接収、新植民地主義反対、経済的自立への闘いとして続いている。アジア・アフリカの一部の地域で、帝国主義は現地のカイライ軍事独裁政権を援助し、軍隊を駐留させ、その支配を維持しようと狂奔しているが、反帝反植民地主義の根強い抵抗によって一歩一歩と後退を余儀なくされている。
  さらに、南北問題と呼ばれる今日の世界史的課題の登場は、帝国主義の支配に対しては勿論、資本主義制度そのものに対しても根本的な批判を提起し、国内体制のあり方としても、社会主義の方向に大きく傾斜せざるを得なくなっていることも否定できない。
  このような世界の中で、資本主義諸国は、国内体制強化と共に、各種の軍事的、経済的国際連帯を作り上げ、その体制維持のために狂奔しているが、国内的には、幾多の基本的矛盾を累積拡大する過程で、反独占に結集した労働者階級を中核とし労農提携を中心とする勤労諸階層の抵抗と体制変革を求める根強い闘争によって、その足もとを堀りくずされ、対外的には、社会主義諸国の平和的競争の圧力、新興諸国家を中心とする反帝国主義、反植民地主義の闘争、更には資本主義諸国家間の利害対立によって、その国際的地位は著しく低下し、今や資本主義体制は、世界史的に見てその歴史的使命を終り、社会主義体制にその席を譲らざるを得ない段階にきているということである。
  しかしながら、社会主義体制の中で、その国の革命前における資本主義の発展段階や民主主義の定着の度合によって、或いはまた、その国の革命後の社会社義建設の発展の差によって、革命の方式や国内的課題にそれぞれの特色を持ち、かつての如きソ連を中心とする一枚岩的な世界体制から、社会主義の原則は貫きながらも、社会主義革命の多様性とその上に立った新たな国際連帯が生れつつあることも注目すべきである。
 
   (2) 日本の国家独占資本主義と矛盾の拡大
  史上かつてないほどの急速な発展をとげた日本の国家独占資本主義は、同時に資本主義の基本的矛盾が最高度に発展している独占資本主義であって、この意味で国家独占資本主義は資本主義最後の段階であり、社会主義の前夜であるということができる。
 
 (イ) 勤労大衆の貧困
   資本家階級が、労働者階級から労働力を商品として買いとり、利潤の獲得を至上の目的として生産が営まれる資本主義社会においては、労働者階級はもちろん、すべての勤労諸階層を貧困から終局的に解放することはできない。
  過去における低賃金、失業、恐慌、そして戦争の歴史をふりかえるまでもなく、現代の高度に発達した生産力を近代的に組みたてているかに見える社会においてさえ、この原則は厳しく貫かれている。
  北九州の中小炭坑に働いていた数万の失業者、妻や子が探し求めている農村からの出稼人夫、山谷や釜ケ崎のスラム街に絶望的な生活をつづけている貧困者たち、そして今なお一、〇〇〇万人に及ぶ低所得階層の存在は、高度経済成長をとげた現代日本にも、はなはだしい窮乏状態が依然として存在していることを、雄弁に物語っている。
  もとより、工業化の促進や社会保障制度等の若干の進歩によって、若年労働者の初任給は引き上げられ、雇用率も高まり、生活保護制度も失業保険も存在し、また一般的に消費水準も高まっていることを否定するのではないが、しかしこのことは、資本家がなるべく安い賃金でなるべく少数の労働者を雇い入れ、最高の利潤を上げようとする基本的な考え方が変ったことを意味するものではない。労働者階級は組合を作り、労働条件を改善するために例年激しい闘争を繰りかえしているが、附加価値の労働者への分配率が漸く横ばいを維持しているに過ぎないことを考えれば、資本の要求が如何に無慈悲に作用しつづけているかが明らかである。
  しかも現代においては、「繁栄のなかの窮乏」という新しい貧困が勤労諸階層の生活を堪えがたいものにしている。日本の社会経済の特色をなし、それがあるが故に急速かつ高度の経済成長が可能であったとも云える二重構造の存在は、繁栄の陰に、おびただしい数にのぼる中小企業者や農漁民や労働者がその犠牲となっていることを証明している。農村と都市、農業と工業、低所得と高所得といった、地域間、業種間、所得問の格差の拡大もいよいよ社会的不平等を増大していることを忘れてはならない。農村に働く人たちの前途に対する不安、中小企業の倒産の恐怖、完全雇用も最賃制を確立していないために安定した職場の保障されていない労働者の不安等、いずれを見ても、生業や生活の基礎は確立されていないのである。
  こうした二重構造や社会的不平等や生活基盤の動揺の上に、繁栄ムードの圧力が、勤労諸階層の日々の生活のなかにまで入り込んで、人為的に作り出した欲望と消費は、「高い消費と苦しい生活」を強要し、機械化とオートメ化は、労働者の肉体をすりへらすだけではなく、精神的にも、焦燥と不安と自己疎外の深淵に追いたてていくのである。
  世界的に類例を見ない程の急速の資本蓄積が行なわれているにもかかわらず、国民のための社会資本の投下が著しく立遅れているのも特筆すべきことである。住むに家なく、入るに学校のない社会、上・下水道や清掃が整備されず子供に遊び場の与えられていない大都市、交通事故、公害、工場、鉱山・農村の災害で人命の損傷が日常化した世の中、これらすべては、日本的特色であると同時に、儲ける施設は作り、儲けのない施設は作らないという資本主義社会特有のものであることもまた否定できない。
 
 (ロ) 恐慌、浪費、国際的対立
  恐慌や浪費や国際的対立の課題も、資本主義社会の特有のものであり、利潤追求の生産とそれによっておこる生産の無政府性が解消しないかぎり、この課題は最終的に解決されることはない。
  もとより戦後、独占資本の回復の過程で、生産、流通、消費、価格、貿易等の中へ、国家があらゆる手段を通じて介入し、景気循環の形態にさまざまな変化を生じていることは否定できない。
  特に管理通貨制度をほしいままに利用する通貨の供給と金利政策面での独占の優遇と資本蓄積の促進、財政面での軍需の増大や公共投資や社会保障による需要の造出維持などは、景気の変動を調節し、とくに過剰生産、恐慌を防止することに向けられており、戦後数回の不況を最小限に食いとめるために作用したことは明らかである。しかしこのことによって資本主義に内在する基本的矛盾、絶えず恐慌の原因を生み出して行く資本主義を変えることはできない。特に貿易、資本の自由化が進み資本主義世界が単一の市場化するに従って、国際的な経済変動の影響によって一国内の国家の調整機能がいよいよ制約されて行くことは明らかである。
  独占資本とその政府は、内在する過剰生産の圧力から自らを守るために、管理通貨制度の下でインフレ政策をとり、或いはとらざるを得ない破目に落ち入り、それは最近の物価騰貴に示されているように、大衆の生活をいちじるしく圧迫している。また浪費を制度化するために、軍備が拡大され、軍事的、政治的な対外援助や賠償がおしげもなく放出され、大企業の存立のために、中小企業の設備が急速にスクラップ化されつつあることも、広告、宣伝費の膨張と共に、国民経済の莫大な浪費といわざるを得ない。かくして恐慌の可能性は常に資本主義の矛盾として存在している。
  資本主義諸国の対立も、こうした経済の仕組みと決して無縁ではない。IMF(国際通貨基金)、その他各種の国際機構を通じて、資本主義陣営はさらにその体制維持の努力を続けるであろうが、そのために資本主義諸国間の対立が解消するものとは考えられない。現にIMF総会に現れたアメリカと西欧の通貨の流動性をめぐっての対立、EEC(欧州共同市場)に関する独、英、仏の対立、日本とアメリカの貿易制限その他の対立を見れば、自由化の陰に各国の独占資本が過剰生産のはけ口を求め、さらに市場支配の確立のために常にきびしく対立していることを物語っている。新植民地政策もまたこうした条件の中から根強く台頭し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ等に見られるように、戦争の危険が依然として存在することも忘れてはならぬことである。
 
 (ハ) 戦争の不安
  特にこの際、日本の支配階級が、アメリカと軍事同盟を締結していることを強調する必要がある。
  安保条約は当初、主としてアメリカの軍事目的のため強要されたものだったが、岸内閣による改定は明らかに日本の独占資本の積極的意志が加わって行なわれたものである。日本の独占資本は戦争と戦後の占領政策によって致命的な打撃を受けたが、その後のアメリカの極東政策の変化と対日援助により、また日本政府の強力なテコ入れによって急速に回復し、昭和三十年代の初期においては、その復活を早くも完了している。そして、今は、戦前と比較し、対内的にも対外的にも多くの制約があるとはいえ、帝国主義が漸次復活しつつあることも否定できない。こうした日本の独占資本の成長と安保改定とは、密接不可分に結びついているのである。
  かくして日本の勤労大衆は、平和憲法を持ちながら、外国軍隊を日本及び日本の周辺に駐留させ、自衛隊という違憲の軍隊を持ち、軍事支出を負担し、主権の制約と政治経済上の干渉をアメリカから受け、さらにアジア諸国から孤立するだけでなく、不断に戦争にまき込まれる危険にさらされているのである。
  日本の国民が、こうした不安から脱却するために、日本独占資本の海外侵出や支配の野望を断ち切り、日米軍事同盟を破棄し、日本の再武装や核兵器持ち込みに反対して、平和憲法に則った非武装中立の日本を実現するために、政府を倒す闘いに参加するのも当然といわなければならない。独占資本を守るはずの軍事同盟は、自らを倒す反対物に転化する可能性を持っている。
 
 (ニ) 民主主義の破壊
  ブルジョアジーは封建制を一掃する過程で、民主主義の担い手であった。また独占段階に移行した後でも、生産の高度化と大衆支配の必要から一定限度の民主主義的装いを取らざるを得なかった、[ママ]彼らは現実の国家があたかも階級のない国民の共同体であるかのごとき幻想を国民大衆に与えつつ、資本家階級の政府がいかにも国民大衆の支持をえているような形をとるために、議会制民主主義を勤労大衆を抑圧、支配する道具に使っている。しかし、それにもかかわらず、議会制民主主義は、彼等の譲り得る最後の政治形態である。そして、資本主義の矛盾が累積拡大するにつれて、この民主主義さえ資本の支配によって深刻な桎梏になり、彼らはついにこれを空洞化し、あるいはこれを反動化することに努力せざるを得なくなった。
  戦後日本に平和と民主主義の憲法およびこれにもとずく諸制度が採用された後においても、彼らが選挙制度の改悪や犯罪的手段を通じて、「正当に選ぶ」権利をいかに妨害してきたか、多数の横暴を通じていかに正当な意見がじゅうりんされたか、請願権や公聴会制度を形式化して、いかに国民の意志が無視されたか、さらに教育委員の公選制の廃止、警察制度の改悪、スト規制法、公務員の政治活動の禁止、破防法の制定等の歴史から今日に至って、ついに基本的人権と平和の原則を中心に憲法を改悪しようとしている独占資本とその政府を見る時、勤労大衆が民主主義を守る闘いに強く立ち上らざるを得ないことは、必然といわなければならない。
 
 (ホ) 人間性の破壊と道徳文化の退廃
  人間の労働は、本来、動物とは追って、生産手段をもって自然に働きかけ、人類全体の繁栄と幸福を追求する生産的な生意活動であり、この人間的労働こそが人間存在を基礎づけるものといわなければならない。この生産的労働が真に解放された時、正しい健康な科学、技術、芸術、そして共同社会の秩序とモラルが生まれるのである。
  しかるに、資本主義は、自由な契約関係という擬制の下に、労働の生産物を労働者からとりあげて、最低限度の生活手段しか労働者に与えない。安い商品として売られる労働力は、人間存在を高めて行く本来の意義を失ない、労働者にとって苦痛となり、嫌悪すべき強制と感じさせる。幸福と感じられない労働によって自由な人間のエネルギーは発揮されず、肉体は消耗し、精神は退廃する。
  しかも、貨幣を物神化し、金もうけ、利潤獲得を最高道徳とする爛熟した独占資本主義の世界では、巧みに人の労働の成果をかすめ取り、神聖な労働によってではなく、労せずして得た財産によってぜい沢をすることが人生最高の理想となる。
  こうした価値観の転倒した社会に、犯罪、非行、道徳的退廃が充満し、利己主義、出世主義、さてはニヒリズムが横行するのは当然であって、ましてや、芸術や文化が正当に評価され、学問や科学が人類幸福のために開花発展しようはずはない。それ故にわれわれは、人間性破壊の社会を変革して、人間解放の上に、新しい道徳と秩序をうちたて、学問と科学を伸長させ、新しい文化を創造する社会主義社会を作らねばならぬのである。
 
(3) 福祉国家論批判
 以上のような資本主義社会の諸矛盾をあたかも解決するかの如き装いのもとに、「福祉国家論」とその政策が打ち出されているが、それが独占資本とその政府の側から出るにせよ、また民主社会主義者の側から出るにせよ、その本質にかわるところがない。
 福祉国家の思想とその政策は、ますます余儀なくされている社会主義体制との平和的競争において、国民の選択を社会主義におもむかせないために、社会保障や所得配分等の部分的改善を通じて一定の譲歩を行ない、社会的緊張を緩和しながらなおも国民の同意を資本主義体制の枠の中に留めておくための、資本の延命策に外ならない。それはまた大衆運動の要求や圧力に対応しながら、他方では、恐慌の回避や資本の蓄積助成のために国家の機能を活用するという、現代資本主義がその体制を維持していくための安全装置でもある。
 もとよりわれわれは彼らに譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさらに前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的な生産関係における労働者の民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層の革命的エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。とくにわが国の場合には、福祉国家論が独占の改憲戦略の一翼を担い、「公共の福祉」の美名にかくれて国民の基本的権利の制限や、反動的ナショナリズム、人づくり論と一体のもとに打ち出されていることは注目すべきことである。
 したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。

 
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