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歴史的法則について(2)

 しかしながら、平和的な社会変革とはなんであろうか? 「平和裡に新社会」に成長していくというのはどういうことであろうか? 平和的な社会革命の展望は存する、というばあいにおける「平和的」とはいかなることを意味するのであろうか? ここにまた二つの問題がある。

 私はさきに階級闘争には、工場の湯呑場を改善する要求から、武装蜂起、武装的内乱まで、哲学的論争から賃金値上げの要求にいたるまで、あらゆる形態の存することをのべた。この最低度の階級闘争から最高度のそれにいたるあいだにおいて、いかなる形態をもって、平和的な闘争といい、非平和的な闘争と区別するのであろうか?闘争という概念がすでに平和的という概念を排除してはいないだろうか?

 

 われわれは平和という言葉をよく使用する。しかし、その意味をつねにはっきりと考えてはいっていない。家庭の平和を攪乱(カクラン)するというが、これはかならずしも夫婦のなぐりあいを意味していない。世界平和が維持されているといって、各国間に経済的、領土的紛争がおこなわれているのを不思議に思わない。「関税戦争」がおこなわれていても世界平和と考えられうる。国際会議にはげしい意見の対立抗争があっても、平和の時代であってさしつかえない。

 このように平和的とは相対的な概念であって、世界に、社会に、絶対的な静止状態を考えることはできない。二階級のあいだに勢力の均衡が存するばあい、いわゆる社会平和の状態が考えられるが、これも絶対的均衡状態ではない。階級闘争のあらゆる形態が闘争である以上、かならず要求、反駁、示威、抗争など各種の摩擦状態のないものはない。絶対的な意味にのみとるならば、平和的な闘争とは言葉の矛盾である。しかし、われわれは実際に平和的な革命というものを考えている。階級闘争のあらゆる形態のうち、どのへんから「平和的」と考えるのであろうか?

 武装蜂起や武装内乱はあきらかに「平和的」とは考えられていない。しかし、人民大衆の圧力を背景にして政治的権力の階級的移行を惹起(ジャッキ)するとなると、その形態のいかんによっては「平和的」と考えられることともなり、あるいは平和的と考えられないばあいもあるであろう。

 

 明治維新における政権の移行は、薩長土その他の武装兵力の強圧のもとにおこなわれたと考えられる。これは従来、日本の歴史家によって「平和的」革命と考えられているようである。事実はこれが平和的であったかどうか問題にするにたるものであろう。平和的と非平和的の限界付近にあるかも知れない。

 レーニンは『標語(スローガン)について』という論文のなかでこういっている。「その当時には、権力は動揺状態にあった。臨時政府とソヴェトが、相互の自発的な協定にもとづいて、権力を分かちあっていた。ソヴェトは、自由な、すなわちどのような外部からの暴力もうけない、武装した労働者と兵士の大衆の代表であった。武器が人民の手にあり、外部から人民にくわえられる暴力がなかったこと−−まさにこの点に問題の核心があった。全革命の平和的な発展の道をひらき、また保障していたのは、まさにこのことであった。『全権力をソヴェトにうつせ』というスローガンは、この平和的な発展の道をすすむつぎの一歩、すぐに実行できる一歩をあらわすスローガンであった。これは、革命の平和的発展のスローガンであった。この平和的発展は、二月二七日から七月四日までは可能であったし、また、もちろん、もっとも望ましいものであったが、いまではそれは絶対に不可能である」(『レーニン全集』、大月版、第二五巻、一九九−二OO頁)。

 二月二七日は一九一七年二月二七日でロシヤにおける民主主義革命の日であり、七月四日は、ケレンスキー(注6)によってレニングラードの革命的示威運動が破砕され、労働者、兵士の武装が解除された日である。

 ここでは、ロシヤ革命の前進発展における平和的な途を開き、さらにこれを確保する条件が示されてある。それは、やはり強力を背後にもっている人民のソビエトであって、これに権力が集中されることである。権力の所在が動揺しているばあいに、かくして、さしたる抵抗なしに権力が移行するのみならず、人民のソビエト内部における諸階級、諸党派の抗争も平和的に推移するというのである(前掲書、二〇〇頁参照)。

 

 これは、膨大なる軍隊と官僚制度と警察力とをもっていたロシヤにおける革命の推移中のある期間のことであって、この期間にもし権力が人民のソビエトに移行したならば、その移行そのものが、平和的におこなわれただけでなく、その後の革命の推移も「もっとも平和的に、もっとも苦痛なしに」「諸階級や諸党派の闘争が行なわれたであろう」(レーニン、前掲書二〇〇頁)というのである。

 これはロシヤの一例である。そして、レーニンはこれを全革命の「平和的な発展の途」と考えているのである。民主主義諸制度がもっと完成されている一国に権力の階級的移行がおこるばあいにおいては、これよりはるかに「平和的な」仕方でおこなわれることも予想しうる。民主主義諸制度によって、すでに国民の代表機関に権力が集中されているばあいに、右の一例について推測された以上に「平和的」推移を考えることは少しも不合理ではない。また少しも安価なる希望でもない。そして、われわれは階級闘争のほぼいかなる形態から「平和的」闘争を考え、「平和的」革命を理解しているかを知るのである。

 

 かくして、われわれは相対的意味において、平和的な闘争という言葉の矛盾を、事実においては理解しうるのである。しかし、いずれにしても、それが闘争であり、権力の移行であるのを忘れてはいけない。相敵対せる階級間に権力の移行があるのである。なんらのショックのない、なんらの強力的作用のない、そしてなんらの恐怖と抵抗のないばあいを考えることはできない。そして、これらのショックや強力な作用や恐怖や抵抗やが大であるか小であるかは、民主主義制度がその国にどの程度に確立されており、したがって、その国の支配階級がどの程度に他国の経験から学ぶことを知っているかいなか、また、彼らにどの程度に聡明さと見通しと、歴史的法則への理解が与えられているかにかかるところも大きい。

 マルクスは『資本論』第一版の序文のなかで、「一国民は他の国民から学ぶべきものであるし、また学びうるものである。一社会がその運動の自然法則を究知しえたとしても−−そして近代社会の経済的運動法則を闡明(センメイ)することがこの著作の最後の究極目的である−−、この社会は、自然の発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取除くこともできない。しかしながら、社会はその生みの苦しみを短くし、緩和することはできる」(『資本論』岩波文庫版、第一分冊、一六頁)といっている。この言葉は偏狭固陋(コロウ)にして識見狭小なるわが国の支配階級のために書かれているのではあるまいか?

 だが、暗愚にして小胆なるわが国の支配階級は、この必然的な歴史法則から学ぶことを知らないであろう。祖国のために「もっとも望ましき」道、民主主義の確立すら、勤労大衆の肩にかけられている。それは本来、近代ブルジョアジーの歴史的使命であったのである。

 

 社会革命は、このようにして、平和的におこなわれうるものであるとしたならば、いわゆる無産階級の独裁制といかなる関係にたつであろうか?

 無産階級の独裁とは、いうまでもなく、ある個人または徒党の独裁でなくして、近代プロレタリアートを中心とする勤労大衆の独裁である。それは階級の独裁なのである。それはあらたに支配階級となった無産階級のブルジョア階級にたいする「強力支配」なのである。それは「特にミリタリズムと官僚政治の存在に起因する」ものであるにほかならない。かかる支配形態は、無産階級がその建設した社会主義社会を、内外の旧社会にたいして守るために必然的に成立するものであると考えられている。いっきょにして社会主義計画経済は確立されえない。この社会の外には古い社会がなお存し、この社会の内部には旧社会の残滓がある。それらの存在は、たえず社会主義社会の確立を妨げ、あるいは旧社会への復帰をはかることがありえよう。かくして、このような状態のもとでは、新たに支配階級となった階級は、権力を行使するのやむなき地位におかれる。これが、無産階級の独裁と呼ばれる政治的支配形態である。

 ただ新たなる支配階級は、旧支配階級が旧社会の少数者であったのと反対に、新社会の圧倒的多数者である。無産階級の独裁は旧支配階級にたいする「強力支配」であって、旧支配階級の権利を制限するが、新たなる支配階級となった勤労大衆にたいして、政治的に経済的に不平等を撤去することを原則的に承認せるものである。

 

 この意味では、独裁は実質的に旧社会におけるより、より広範な民主主義の支配形態であるということができる。なぜかというに、旧社会においては、全社会成員にたいして形式上広範なる民主主義が承認されているが、経済上実質的には奪い取られているからである。この意味においては、もっとも広範な民主主義すら、それがブルジョア社会形態の民主主義に関するかぎり、ブルジョア独裁であるといわなければならぬ。すなわち、ブルジョア民主主義はブルジョア独裁であり、プロレタリア独裁はプロレタリア民主主義であるという逆の表現が可能となる。階級社会にはかならず国家があり、国家権力は支配階級に所属し、他階級にたいする抑圧機関である。この意味でレーニンの言葉を借りると、「ブルジョア国家の形態はきわめて多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への過渡は、もちろん、おどろくべく豊富で多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ−−プロレタリアートの独裁であろう」(『国家と革命』、岩波文庫版、五四頁)。

 このように、無産階級の独裁は歴史上の一定段階に必然的に発生するものであると考えられている。マルクスは一八五二年三月ワイデマイヤーあての手紙のなかでこうのべている。

 「ぼくについていえば、近代社会における諸階級の存在やその階級間の闘争を発見したという功績は、ぼくのものではない。ぼくよりずっと前に、ブルジョア歴史家たちはこの階級闘争の歴史的発展を叙述し、ブルジョア経済学者たちは階級の経済的分析をなしていた。ぼくが新たになしたことは、一、階級の存在は生産の特定の歴史的発展段階に結ばれているにすぎないこと、二、階級闘争は必然的にプロレタリア階級の独裁に導くこと、三、この独裁それ自身はいっさいの階級の廃止への、階級のない社会への過渡をなすにすぎないことを証明したことである」 (マルクス「ヨーゼフ・ワイデマイヤーヘの手紙」一八五二年三月五日。『マルクス・エンゲルス選集』第四巻、新潮社、四〇頁)。

 

 この一文を読むと、無産階級の独裁という思想は、マルクスみずから「新しくやったこと」と信じているものであり、この意味で、彼の政治思想の本質的部分をなすものと考えていると推測される。

 この思想はマルクス、エンゲルスの一生をつうじてかわらなかったもののように考えられる。マルクスは一八八三年、エンゲルスは一八九五年に「考えることをやめた」。たとえば、マルクスは一八七五年、ゴータ綱領を批判してこういっている(一八九一年、エンゲルスはこれを『ノイェ・ツァイト』第九年第一巻、第一八号に公表した)。

 「資本主義社会と共産主義社会の間には、前者の後者への革命的変革の過程が横たわる。それにはまた政治上の一過渡期が対応するが、この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外の何物でもありえない」(「ゴータ綱領批判」、マルクス・エンゲルス選集、新潮社版、第九巻、一五三頁)。このマルクスの一文は、一八七五年に書かれたものであって、彼の死の八年前である。

 

 しかして、エンゲルスは一八九一年、エルフルト綱領草案を批判するばあいにはこのようにのべている。「多少とも確定していることがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級とは、民主主義的共和国の形態のもとにおいて、ただ支配を握るほかないということ、これである。この民主主義的共和国は、すでにフランス大革命が示したように、無産階級独裁のための特殊なる形態ですらある」(『マルクス・エンゲルス選集』、新潮社版、第九巻、一六四頁)。このエンゲルスの文章は一八九一年彼の晩年、死の四年前に書かれたものであった。

 そこで問題は、無産階級の独裁に関するこのようなマルクス、エンゲルス、レーニンの考え方は彼らの平和的な革命についてのべている思想と調和しえないものであるかどうかということである。社会発展の基本的な法則について、気まぐれから発言することは彼らについてはありえない。

 

 それはこのことからもいいうる。一八五二年(ワイデマイヤーあて手紙)に歴史的法則の本質的領分と考えたと思われる思想を表白したあとで、一八七二年アムステルダムで、さきにのべたようなアメリカ、イギリス、オランダについて平和的な革命の可能をのべ、さらに一八七五年にゴータ綱領批判のなかで、ふたたび明確に無産階級の革命的独裁の思想を展開している。そして最後にエンゲルスは、一八九一年にエルフルト綱領草案に関する忠言のなかで、アメリカ、フランス、イギリスなどについて平和的革命の展望をのべ、同じ文書のすぐあとの個所で、無産階級独裁の思想を保持していることを明白にして、民主主義的共和国も、無産階級独裁のための特殊なる形態であることを示している。

 彼らのこのような言説があり、しかも、一定の条件のもとでは、社会革命が平和的に遂行されうると考えられているとすれば、この二つの思想は、これらの思想的巨人の頭脳のなかで調和していたものと考えるほかないことになる。すなわち「無産階級の革命的独裁」と平和的な社会変革の可能とが調和しうるという思想でなければならぬ。

 

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