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ハンス・モドロウさん講演会<質疑応答>
 
質問1 PDS(民主社会主義党)の中にはいろいろなグループがあると聞いていますが、どういうふうにグループ分けができるのか。マルクス・レーニン主義者のグループがあるのですか
 
回答 PDSは、東ドイツで誕生した政党で、SED(ドイツ社会主義統一党)の後継といわれています。この政党は、単一思想の政党ではありません。実際の活動のあり方としては、労働組合、それから地方、農村の問題、婦人、外交というふうに各専門部ごとに作業班的なグループを構成します。もう一つは政治的な結集という意味でのグループ化です。いま質問されたことに該当するグループがあります。一つは共産主義プラットホームといいます。これは一九九○年に構成、編成をされたグループです。反面で同じ時期に社民主義グループが生まれました。こっちの方は活動を停止しています。それに対して一九九八年以降マルクス主義グループができています。共産主義プラットホームにはいろいろな階層の人、それから共産主義を志向するいろいろなグループに人たちが結集しているのに対して、マルクス主義プラットホームの中にはマルクス主義を信奉する、志向する研究者が中心に集まっています。双方ともマルクス・レーニン主義グループとは言いません。マルクス・レーニン主義というと、それはドクマの思想であるというふうに一応理解されています。その種のドクマ的な思想というのはPDSの中では代表することができないという考え方に立っています。創造的なマルクス主義者であるが、ドクマ的なマルクス主義ではないということです。私自身もマルクス主義をより創造的に発展させていくグループに与したいというふうに考えています。いままで言われてきたようなドクマ的なマルクス主義者であり続けたくないと思います。
 
質問2 DDRが崩壊をした原因のうち、存在をしたと言われる党内の官僚主義の問題は大きな原因として挙げることができるのでしょうか。
 
回答 ドイツ民主共和国の崩壊の過程で官僚主義というものがどういう役割を果たしたのかということです。非常に苦い経験であるわけですけれども、私たちが理解できる範囲でつくってきたのが現実の社会主義だと思います。そうなりますと官僚主義だけの問題ではなくて、私たちがつくりだした現実の社会主義の経済制度というのは、非常に効率が悪くて私たちが発展をさせていきたいと思った福祉を十分にカバーできる法律を持たなかったということです。それからもう一つ、官僚主義を制約するだけの力のある民主主義というものがなかったということです。ある種の民主集中、民主がなくなって集中制がややもすると官僚主義を再生していたということです。勤労者が国の業績というものを突き上げる、刺激を与えるような制度がやはり充実をしていなかった。私たちドイツ民主共和国だけでなく、同じような現象がポーランドでもハンガリーでも発生していたのだろうと思います。
 
質問3 一九八九年夏のハンガリーの動きから十二月のベルリンの壁にいたるまでの動きは非常に危険だと私は考えていました。それは社会主義を破壊するものであってけっして自由化や民主化ではないと思っていました。そういう意味で、いまお話を聞いて労働者の権利の破壊、それからヨーロッパの今後のことを考えるとあれは反革命でなかったのかと考えるんです。あの頃のドイツの党と労働者階級がどのように捉えていたかをお聞きしたいと思います。
 
回答 一九九八年の夏から一九九○年にかけて進行した出来事を、私は革命だとは考えません。私の国のことだけとりあえず例で述べてみますと、基本的には私たちの国の政策に対して国民が離脱をしていく、それに同調できなくなっていくということでしょう。それと私たちの国とっても悲劇的なことは、二つのドイツ国家があったということです。このドイツ民主共和国に誕生の歴史を辿ってみますと、ソビエトがファシズムを打倒してドイツ国民をファシズムから解放した、その落とし子がドイツ民主共和国であった。ですから親許であるソビエトがだんだんとそうではなくなっていく過程では、ドイツ民主共和国も一緒になくなっていく宿命を負っていたということです。そういうわけで、さきほど述べたように一九八九年から一九九○年にかけてドイツ民主共和国の政策なり、現実の社会主義の政権に対して国民が離脱をしていって崩壊してしまうわけですけれども、離脱をした国民の人たちがいまの社会を見て「昔の方か良かった」あるいは「あの時の判断が間違っていたのか」と言い始めているのではないかと思います。そういう意味ではいまになって当時のドイツ民主共和国あるいは現実の社会主義であったドイツ民主共和国の国民が、自らのアイデンティティを言い出しつつあるということなのかもしれません。いま指摘された時期に私も、非常に重要な役割を果たさなくてはならない立場にありました。ですからきわめて個人的にも私の意見があります。私たちのところでは、時代に変化の上手に移り変わっていく人たちを転向者という言い方をします。クワツネスキーだとか、ミュラーというポーランドでその当時、ある意味では転向して政権の座についた人たちを個人的にもよく知っています。おそらくご存じでしょうけれども、その当時のポーランド勤労者党幹部の一人であったわけです。その人たちがいまはアメリカの協力者、あるいは仲間という状態になってしまっています。ごく最近私はグッゼーヌススキー氏に会った時にこんな会話をやりとりしました。「アレキサンダー、君が新しい友人に囲まれているということは私もよく理解できるよ。しかし、その当時、昔の仲間に背を向けたということは必ずしもすばらしい出来事ではなかったよね」。要するに、あの転換期、難しい時期に革命家ではあり続けられなかったのでしょう。その種の似通った出来事というのはあの時代には非常にたくさんの人たちの中に多少なりとも含まれていたわけです。
 
質問4 社会民主党のさきほどおっしゃった福祉の後退的の政策との関係の中で、労働組合としてどのように対応しているのか、つまり社会民主党とあるいは民主社会主義党との政策と労働組合との関係はどういう状況ですか。
 
回答 ドイツ社会民主党とドイツ労働総同盟の関係について。ドイツ社会民主党が福祉削減の政策を取り入れて、進めていったこと自体はドイツでは労働組合幹部、役員を非常な窮地に追い込んでいます。ご存じのようにドイツ労働総同盟の幹部の大半はドイツ社会民主党の党員です。この数ヶ月ドイツ労働総同盟の議長のトーマス氏は、ドイツ社会民主党の政策に表面から反対する第一人者になっています。その他の単産でも、ベルディとか金属労組というのがやはりドイツ社会民主党の政権党に対して反対の立場を明らかにしています。その結果、さきほど述べてきたノルトライン=ヴェストファーレン州での選挙結果というのは、ドイツ社会民主党に労働組合がおそらく投票を拒否したのだと思います。そいうふうに見ますと、ドイツ社会民主党は、選挙のあたってこのドイツ労働総同盟との協力を再現しなければ選挙にはまったく勝つ余地がないと言えるでしょう。反面でもう一つ私たちの民主社会主義党、PDSとの関係を見ますと、私たちPDS、民主社会主義党というのが東ドイツ地域においてだいたい二五%の得票率を得ています。東西ドイツと地域別にして見た時に労働組合組織なり、運動は東ドイツ地域で非常に弱体化をしてしまっています。そういうわけで、本来であれば私たちの政党が東ドイツにおける労働組合運動によって支援されるべきですが、支援するような労働組合運動が東側にはありません。西側にはそのような労働組合運動の基盤がありますが、私たちの党に投票する組合員は十分にいません。
 
質問6 欧州連合の動きに対してヨーロッパ労連は、どういう対応をしているのですか。
 
回答 欧州連合に対する欧州労連に対する対応を述べてみます。欧州労連のあり方というのが非常に弱いのではないかと思います。非常に悲劇的なことは、この欧州連合の中の動きに影響を与える新しい十カ国加盟国に労働組合組織がほとんどないに等しいことです。非常に残念なことながら、当時の現実の社会主義諸国の崩壊に伴ってそこにあった労働組合がほとんど全滅をしています。しかもそれに加えて西側諸国、本来の欧州連合十五カ国の労働組合が中欧、東欧諸国の労働組合に対して必ずしも十分に連帯をしていないことです。ですからこの欧州労連の動きが、早急に変更され新しい力を得ていかないと欧州労連は非常な窮地に追い込まれてしまうと思います。非常に難しいことですが、西欧諸国の労働組合が、中欧、東欧諸国における労働者の賃金引き上げに協力をしないと産業基盤が西ヨーロッパから東ヨーロッパに移りますから、労働条件は西側でさらに悪化をします。そういうふうに考えますと、十五プラス十の国の労働組合の協力がさらに強まらないといけません。それに成功しないと、場合によっては労働組合というものがまったくその意義なり重要性を失ってしまう危険性を含んでいます。
 
質問7 アメリカとイギリスのイラクへの侵略戦争に対してドイツはこれには介入しない態度をとってきました。対米政策についてドイツなりヨーロッパ連合は、日本ではアメリカとの関係に一線を画したと言われていますが、実際のところはどういうことを考えているのですか。
 
回答 最後になりましたけれどもイラク戦争の問題です。イラク戦争はドイツ独自の戦争ではありません。仮に他の国々がドイツに同調しなかったとしたら、シュレーダー首相がドイツだけをイラク戦争の反対の側に立たせることはできなかったでしょう。要するにシュレーダー氏が、その反対の側に回れた大きな理由というのは、パリ、ベルリン、モスクワという連携があったからだと思います。ですからシラク、シュレーダー、プーチンの間柄というのが非常に大きな役割を果たしたと思います。本来、最初の段階では、ワルシャワもおそらく同調するだろうと観測をしていたようです。ところがワルシャワはアメリカ側に移ります。しかもポーランドは、イラクに一定の占領地区を設けてそこにポーランド軍を配置することに同意しました。
 
 このシュレーダー氏の対イラク戦争への対応には二つの側面があると思います。ちょうど総選挙の直前にありました。シュレーダー首相が、このイラク戦争に賛成をしてしまうと選挙で勝てないということです。要するに国民、有権者の中で、イラク戦争に賛成する割合というのは非常に低かったわけです。キリスト教民主同盟に僅差ながらも勝つためには、イラク戦争に反対せざるをえなかった。さらにシュレーダー首相が、もともとドイツ社会民主党のユーゾーという青年成年同盟の活動をしてきた人ですから、平和と戦争というものについて彼なりの意見というものは当然あると思います。むしろ緑の党の党首であり、外相をやっているフィッシャーの方が本来は街頭闘争、カンパニアで非常に左を行った人ですが、その人が実際に政権の座について大きく変化をした、それを抑えるためにもシュレーダー首相は、イラク戦争に反対せざるをえなかったと私は見ています。
 
〔文責 労働者運動資料室

 
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