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ドイツ、EUを語る
          
ハンス・モドロウ
 
 
2005年5月日本を訪問した元東ドイツ首相ハンス・モドロウさんが労働者運動資料室主催講演会でおこなった講演の記録。質疑応答は次ページ。このほか、長野・北海道などでも講演がおこなわれた。写真は長野講演会のもの。
 この場で昔からの旧友に会えたことをうれしく思います。これはドイツ民主共和国が日本でまだ忘れられていないことを反映しているように思います。今日は時間が限られていますのでドイツの現況と、ヨーロッパ情勢についても述べてみたいと思います。
この講演会を始める時に山崎さんが世界のいたるところで労働運動が停滞をし、後退してしまったと言われました。これは日本だけだなく、世界の出来事です。
 もう一つ大きな変化としてはドイツ民主共和国がドイツ連邦共和国に加盟してから十五年がたってしまいました。この十五年というのは、今日のように時が早く流れる時代にあっても非常に重要な歴史的期間であったと思います。ドイツ民主共和国の崩壊は当然、現実の社会主義の崩壊あるいはソビエトの崩壊とまったく似通った、同時進行した出来事だと思います。私たちのドイツ民主共和国は一九四九年に生まれました。その時から常に、ソビエトという国がなかったとしたらドイツ民主共和国は存在しえなかった国であろうと思います。ソビエト連邦が崩壊していく過程ですでにドイツ民主共和国も崩壊せざるをえないのかという事態になってしまいました。ドイツ民主共和国は四十周年を迎えましたからその間は存在したわけです。しかし四一周年目を迎えることはすでにできなかったわけです。
 
  一九八九年の暮れから九十年の初期にかけて私はドイツ民主共和国に対して大きな責任を持つ任務に就きました。一九九○年の一月の段階で私は、ドイツ民主共和国は場合によっては存続できないのではないかと感じました。そう私は感じながら、しかし反面ではドイツ民主共和国の国民が損をしないように、彼らの権利を守るための法律をたくさんつくりました。私が首相でいたドイツ民主共和国はまだ社会主義体制であって国民のための努力ができましたが、私の後任であるミセアー氏が四月に入って政権の座に就きますと、完全に東西ドイツの統合の期間が始まっていきます。具体的に四月以降のミセアー政権のもとでは当然ドイツ連邦共和国、西ドイツの法律、あるいは政治、そして資本の利害というものが東ドイツにも広がっていく時期になります。非常に危険な基本方針が、実際には有効になります。基本的には社会の安定よりは資産の民営化、私営化が進んでいった時期です。それは同時にドイツ民主共和国、東ドイツ地域における非工業化の時代でもあったわけです。
 その結果、生産力が五十%、あるいは四九%まで低下をしていきます。それから一九九○年七月一日に通貨改革が行なわれましたが、その結果としてドイツ民主共和国の経済体制は、経済相互援助会議、コメコンから排除されることになります。現実の社会主義という体制から資本主義のドイツ連邦共和国に加盟をしていく過程は、ドイツ民主共和国の市場を西ドイツの資本に開放する過程でもあったわけです。その当時の西ドイツの首相がコール首相でした。そのコール首相がドイツ再統一の首相と言われるようになります。しかしその本当の中身は、アメリカの影響のもとで確定されていったと私は考えています。そのもっとも大きな利害は、ドイツ連邦共和国の利害と一致したものです。東西ドイツの統一ということでややもすると、ヨーロッパの両方の軍事同盟から抜き出して中立的なものができるかもしれないと考える人もいましたが現実にはそうではなくて、一方の軍事同盟に一緒に入るということになります。西ドイツがライン川を中心にした資本主義であったと言われますが、それがベルリンを中心にした資本主義の社会へと変化をしていきます。
 
  このライン川資本主義は、市場経済を中心にしたものです。それは、ドイツ民主共和国が別にあるために一応福祉国家を志向しなければならない社会でした。しかし統一をすると隣の国ドイツ民主共和国がなくなってしまいますから、福祉国家の必要性というのはそんなに強くないわけです。その福祉国家の削減がコール首相の晩年に導入をされて、それがさらにいまシュレーダー政権のもとで進められています。一九九八年から二○○二年までドイツ社会民主党、緑の党の連立政権のもとで福祉の改革が始まっていきますが、現実には二○○二年以降、極端な福祉削減の時代がドイツで始まっていきます。そういうわけで失業者の数も四五○万人と高まっていきます。この失業率は西ドイツでこそ九%程度ですが、東ドイツでは十八%が平均になっています。本来十九世紀の末、一八○○年代に末にドイツにおいては労働運動が起こって社会福祉、社会保障制度ができあがってきましたが、それが変化をしようとしています。一八○○年代、十九世紀の後半にできあがったドイツの社会保障制度は、企業と被保険者が折半して保障制度をつくるということでした。その原則が、いま崩されつつあります。とくに医療、保険制度が、企業家に有利になり被保険者の負担がより大きくなる事態になっています。さらに社会保障の分野を除いても教育だとか文化の面でも削減がさらに進んでいます。
 東ドイツの状態の改善が緊急を要する課題になっていて、そのために東ドイツの再開発は首相の中心的課題だと言われますが、しかしややもするとそれが重視されなくて、一つのドイツありながら、社会は二つに分かれていると言えます。そのことは例えば社会給付での東西格差、それから所得、賃金の格差にも反映をしています。とくに東ドイツの人たちが戦後果たしてきた、挙げてきた業績が十分に考慮されないでいると言えます。同時に東ドイツで業績をあげた学者、研究者、あるいは労働者が、なかなか十分に認められない社会がいま存在しています。
 
 二○○二年にドイツ社会民主党がもう一度再選されて政権の座に就きました。そこで採択された新しい政策は、しかし花が開かないでいます。一九八五年、ドイツ民主共和国が存在した時代に私はドレスデンにいましたが、シュレーダー氏がドレスデンを訪問して、その時からシュレーダー氏と話をするようになります。二○○三年には私たちの党の協力を得るために私のところに出かけてきました。彼が私たちを説得しようという要点は、彼の政策を通して社会的な飛躍というのを実現したいということです。彼の説明では二○○四年の段階でドイツ経済は底をついて、だいたい二年くらいの時間をかけて国民が底の経験に慣れて、若干の政策上の是正をしながらさらに年数をかけて経済の上昇、世界の安定が深まっていって二○○六年には再選が可能だと説明していました。ところがここ数日の結果は、逆のことを示しています。
 先週末にドイツ連邦共和国の中では最大の州であるノルトライン=ヴェストファーレン州で州議会の選挙が行なわれました。その選挙結果、得票の結果はドイツ社会民主党にとっては、一つの天災に近い被害ともいえます。このノルトライン=ヴェストファーレン州は、三十年来ドイツ社会民主党の単独政権が維持されてきた州です。ところがそこでキリスト教民主同盟の得票率が四四・八%、ドイツ社会民主党の得票率が三七・六%です。自由民主党が六・二%、その結果、ドイツには選挙制度で五%の足切りがありますから六・二%で自由民主党が州議会に議席を持つことになります。その結果このノルトライン=ヴェストファーレン州の色で言いますと、黒、黄色系統の政権が樹立されたことになります。緑の党も六・二%の得票率を得たわけで議会に議席を持ちますが、ドイツ社会民主党の惨敗をカバーするにはいたりません。
 
 ドイツ社会民主党は、場合によってはこのような惨敗を喫するのではないかと前もって予測をしていたのではないかと思われます。この選挙結果が発表された直後、ドイツ連邦共和国の首相であるシュレーダー氏とドイツ社会民主党の党首であるフランツ・ミュンテフェリンク氏は、総選挙の一年前倒しを発表しました。
 この場合戦術が大きな役割を果たしそうです。シュレーダー氏はこの一年前倒しの総選挙を通して、次のようなことを期待していると思います。一つはいままでやってきた社会福祉の削減が中断されます。この選挙運動の中でドイツ社会民主党は、仮にドイツ社会民主党が政権の座から追われると、キリスト教民主同盟の政権は福祉削減をもっと強化するぞと宣伝をすると思います。簡単に言えば、ドイツ社会民主党が政権の座にいれば社会福祉の削減も小幅ですむはずだと宣伝をしようとするでしょう。そのこと自体は、社会民主主義としてあまり意味のある運動にはなかなかなりません。二つ目にシュレーダーさんの考えでは、キリスト教民主同盟が選挙の前倒しをするという予測をしていなかったようで、選挙準備はドイツ社会民主党の方が先にいっていると考えているよ うです。簡単に言いますと、いままで政権を維持してきた政権ですから、その政権の閣僚たちを使って次の政権はこうなるよという説明がしやすくなります。それに対してキリスト教民主同盟の方は、連邦首相に誰を立てるのかという議論を始めなくてはならなくなります。本来キリスト教民主同盟は次の総選挙で誰を首相候補にするのかという議論を、二○○六年の初頭から始めようと予定していました。
 
 このノルトライン=ヴェストファーレン州の選挙で、新たな政党が生まれています。福祉選択党というようなものです。選択というのは、二者択一の選択という意味です。つまり福祉を選択した政党です。労働組合員とか、他の左翼の勢力で、社会福祉を何とか前進させようという人たちが集まった政党です。この政党がさきほど述べたノルトライン=ヴェストファーレン州議会の選挙で、二・二%の得票を得ています。私たちの民主社会主義党は、この西側のノルトライン=ヴェストファーレン州の選挙で、得票率が○・九%でした。そういうことで選挙の前倒しにあたって、さきほど述べた福祉選択党と、○・九%しか取れなかった私たちの党とを合併して選挙の臨もうという考えが生まれています。もう一つ、ご存じのように数年前にドイツ社会民主党の党首なり、大蔵大臣の席をなげうったラ・フォンテーヌという政治家がいて、この人がこの左翼の連合と政党のトップに立とうと考えています。二・二%の得票率を得た福祉選択党と、○・九%の民主社会主義党のトップにドイツ社会民主党を離脱しようとするラ・フォンテーヌと、それからもともと民主社会主義党で著名な政治家であるグレゴール・ギズィーという政治家の二頭立てで選挙に臨もうということです。私には具体的に個人の特徴なり、名声が選挙の中でどの程度の役割を果たすのかについてよくわかりません。ただしラ・フォンテーヌもギズィーも、新しい政党をつくって選挙に臨むにあたっての党綱領なりプログラムをまだ提起していません。私の考えとしては左翼政党として選挙に出ようとしたらプログラム、綱領が必要であろうと思います。
 
   ドイツ社会民主党がノルトライン=ヴェストファーレン州で惨敗をしたことは、単にドイツだけの問題ではなくて、ヨーロッパの社民主義者にとってやはり大きな打撃になります。ヨーロッパ連合の中には欧州議会というのがあります。昨年行なわれた欧州議会の選挙では保守派が躍進をしているわけです。イギリスで労働党という社民的な政党が一定の選挙の成果を挙げていますが、反面で欧州連合に入ってきた中欧、あるいは東欧諸国では、社民政党が非常な危機に直面しています。スペインとかポルトガルでは社会民主党が勝ちました。しかしチェコ、ポーランド、スロバキアでは、逆に社民党の勢力が非常に危機にさらされる状態にあります。そうしますと欧州連合の中にある社民主義政党の力は、ドイツの社会民主党の力が衰退するという条件のもとでは、大きな役割は果たせなくなってしまいます。ということで私の説明の中心を欧州連合の方に移していきます。
 この欧州連合は、二○○四年五月一日に十五カ国から二五カ国の連合体に変化をしました。それからルーマニアとブルガリアが二○○七年には、この欧州連合の中に入ってくることが決まっています。このように振り返ってみますと、この過去六年の間に欧州連合の中でも非常に大きな変化があったわけです。新規に加盟した国々の中身を見てみますと、一部は昔のソ連邦諸国あるいは東欧諸国の国々です。この中欧なり東欧諸国は、加盟する希望だけではなくて加盟する資格があるかどうかが試されてきました。その交渉の過程では、非常に多様な作業がなされました。欧州連合に加盟するために中欧、東欧諸国がまずやらなくてはならなかったことは、市場経済を国内に一般化することです。二つ目には、欧州連合の中で一般的な、西側ヨーロッパ諸国で適用されている法律が、中欧なり東欧諸国でも使われるようにならなくてはならない、その準備が必要です。私自身、欧州議会の議員としてチェコの議会と合同の欧州連合の加盟する手続きのための交渉委員会に席を置いてきました。ここでの手続きなり交渉は、きわめて官僚主義的な大量の事務量を必要する過程です。欧州連合、チェコの国民の利害が、本当に正しく吸収される委員会ではなくて、具体的には双方で約十万ページの文書の交換が行なわれました。チェコの国会では、約一万件の法律の訂正が必要になります。そういう過程を通して二○○四年五月一日以降、欧州連合の加盟国になっています。
 
  この新しく欧州連合に加盟した国々の経済成長は、年率三ないし五%の成長率を達成しています。この成長率自体は、西側の以前から加盟していた十五カ国と比較しますと非常に高いわけです。ただしそうは言っても、だいたい二○○二年から三年頃までは、具体的には昔の生産水準に達するための時間を必要としたわけですから、専門家は将来中欧、東欧諸国が西側十五カ国と同じような経済規模を達成するのは二○二○年頃だろうと推測を立てています。いまは経済成長率の話でしたが、実際に社会生活を見てみますと非常に格差が広がっています。現実に中欧、東欧諸国の賃金水準は、西側諸国のだいたい三十%か四五%程度です。そういうことで欧州連合ということで大きな枠の中に入っていますが、実際の社会生活上の違い、格差が非常に大きくなっています。この中欧、東欧諸国における低賃金水準を利用するために、西側から東側に資本が移動しています。
 今までは、十五の欧州連合の国に中欧、東欧諸国十カ国が加盟する、そのための資格なり能力が前提であるという説明でした。反面でしかし、十五カ国の方は十カ国の新しい中欧、東欧諸国の国々を加盟させるだけの能力があるのか、吸収できるのかの問題が発生してきます。そのことを何とか可能にしようとして生まれてきたものが、欧州憲法条約だろうと思います。具体的に憲法とは、ややもすると戦争の後、あるいは革命の後につくられる。しかしこの欧州連合の場合には、戦争も革命もない時代に新しい憲法を採択しようとしているわけです。確かに冷戦というのがありました。それも戦争の一つかもしれない。そうすると、冷戦時代に社会主義国と言われていた国々を、西ヨーロッパ諸国の中に吸収をしていこうということです。
 
 目下のところ、欧州連合の左翼勢力は、欧州連合の憲法が批准されることに反対をしています。今週末にはフランスで、国民投票によってその成否が問われます。フランスの場合は国民投票が用いられます。それに対してドイツの場合には、国民投票という制度がないために連邦議会での決議、あるいは採択で批准が終わってしまいます。さきほど私たち左翼勢力は、欧州連合の憲法の採択に反対していると説明しましたが、その理由を二つ述べてみたいと思います。
 
  一つは欧州憲法の中で、欧州連合を軍事化しようとしていることです。それにはとりあえず三つの側面があります。NATO加盟諸国以外では、各国の軍備を拡大していくということは強制、要請されていません。それに対してこの欧州憲法の中では、各国が実際に軍備をさらに拡大していくことが取り決められると同時に、二つ目には約六万人の緊急展開部隊を編成しなくてはならないと言っています。軍事専門家の説明によりますと六万人の部隊を緊急に展開するためには輸送部隊を含めて約二十万人の兵力が必要だと言います。それに私が個人的にも危険だと思っていることは、この欧州連合の憲法の中で、各国が軍事開発のためのエイジェンシーを構成しなくてはなりません。各分野の軍事、兵力をさらに向上させるための研究開発が、義務づけられています。それを欧州連合として独自に設置をしていこうということは、地域で言えば欧州連合の中の軍需産業をさらに発展させることです。もっかのところ軍事専門家の説明によりますと、ヨーロッパ諸国の兵力、軍事力は、だいたいアメリカに対して八年遅れていると言われています。それを挽回することが必要だということです。私たち左翼勢力は、今日のヨーロッパにおいて軍事力、軍備の拡大が必要なのではなくて、また欧州連合は、仮にどこかで紛争が起きたとしてもそれを軍事的に何とか鎮圧するということではなくて、平和的な解決のために資材を投入しなくてはならないと考えます。
 
 それともう一つ私たちがこの欧州連合憲法で不満、反対する理由は、経済体制をネオリベラルな経済体制で進めていくことを憲法の中で明らかにしている点です。例えばドイツ連邦共和国の基本法、憲法を紐解いてみますと、経済制度がどうあるべきかは取り決めていません。しかし福祉国家であろうという目標は、否定されています。ところがこの欧州連合憲法の中では市場経済が経済活動の基礎であり、ここでは当然競争が中心になります。ということは欧州連合憲法は、具体的に福祉削減にブレーキをかけるのではなくて、資本がやりたいことがやれるような経済体制を維持していこうとしているわけです。
 
ですから欧州の左翼勢力は、社会的平等をさらに確立していくために努力しています。また西欧と東欧諸国の労働組合、政党の協力、連帯を、高めていく努力が必要だろうと考えています。これらの課題は本来私たち社会主義政党とか、あるいは社会民主主義者が抱えてきた課題であると思います。確かに左翼の運動、労働組合の運動が後退をし、停滞をしているわけですが、私の考えでは世界では新しい社会運動の芽が生まれていると思います。私が述べてみたいのはポルト・アレグレで起きている社会フォーラムという運動です。その社会フォーラム運動は、ラテンアメリカからヨーロッパにもできています。すでにパリやロンドンでも集会が開かれています。それぞれ二十万人の参加者が集まってその運動に協力をしています。しかもその際、労働組合が重要な役割を果たしています。そういうことから私の考えでは社会党、共産党、社会民主主義者という人たちも、この社会運動の中に協力をして連帯を強めるべきではないかと思います。それが実現すればおそらく新しい世界ができあがると思います。そうすれば平和を擁護するためにも大きな役割を果たせるでしょうし、社会的な平等というものも、また貧困の撲滅にも役に立つだろうと思います。どうもご清聴ありがとうございました。
 
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