ここで私が提起したい問題があります。「冷戦前の言語」と「冷戦後の言語」との間にニュアンスの違いがある。しかし、〔私たちにとっては〕そこには〔共通して流れている〕一致しているものがある、と私は思っています。それは何かというと、その根底において、状況に誠実に立ち向かう。その状況を常に人間的方向に動かそうとする言語です。具体的な現れ方は違っていても、状況に誠実に立ち向かい、状況を人間的方向に動かそうとする言語(あるいは行動といってもいい)を我々は模索すべきではないか。「民主化時代の言語」と「民主化後の言語」についても同様のことが言えるでしょう。
私がなぜこういうことを申し上げるか。いまの時代は革命が起こらないと前提した場合の言語という問題です。我々の周辺の状況をみたとき、事態は変わっていないし、これからも変わっていかないだろうと思えるか。
このようなときに、少なくとも韓国においては、いま北に向けての言語を発しなければならない。東アジア全体の言語を発しなければならない。我々は日本だけを眺めるのではない。日本の経済が悪いとかいいとか、その言語だけではなくて、アジア全体に向けての言語、東アジア全体に向かっての言語を考えなければならない。こうした言語を、反動的な人々はうち消そうとしているのです。我々が東アジアの明日を語り、東アジアの状況を語りながら、我々は関わらねばならないということを言おうとすると、彼らはそれをかき消そうとするかもしれない。しかしその言語を我々は変えていかなければならないのではないか。常に言語というものは手段ですから、状況によって変わるのです。シニシズムによっては、決して言語は変わらない。いま希望の方向に向かうよりも、逆の方向に向かう、そのような気配が色濃くある時に、我々の言語はどうあるべきかということです。
●韓国における不安の時代
T・K生は本当に暗い時代に革命を訴えてきたのでした。いま韓国の状況においてはどのような言語を編み出すべきか。民主主義が欺瞞のように見えるこの時代に、どういう言語を生み出すべきであるか。いま私たちが逢着している問題です。こういう目で見た時に、私はT・K生の中にあった楽観的歴史観に対して反省しなければならないと思っているわけです。私が「韓国からの通信」を中断してから、一九八七年に廬泰愚政権が立ち、九二年に金泳三政権が立ち、そして九七年に金大中政権が立ち、それから二〇〇三年にいまの盧武鉉政権が立って、だんだんと韓国においても革命のない時代になってきました。八七年六月における民主革命以降、革命というものはだんだん小さくなってきました。
こうした果てに、政治に関係する人たちは、革命的理念なしに単なる権力争いをする。いわば反革命へと転落していく。いま、こういうような状況です。私はこういう状況を見ているので、いまの盧武鉉政権に対していろいろ批判するわけです。革命的であると自ら唱えていた人たちが、反革命へと転落していく。こういう傾向です。そしてそこに現れるのが民衆の背反です。権力と共に民衆が変わっていく。革命的民衆ではなくなる。民衆がものすごく自己利益追求の民衆に変わっていくという状態が現れてくるわけです。政権が自己利益に集中すればするほど、民衆はその方向に自分たちも先になって変わろうとするという現象です。
そうなるとどうなるか。権力を持っている層と民衆との間に離反現象が起こる。その間は割れてしまうわけです。そういう辛い経験を我々はしなければならない。先ほどもちょっと申しましたように、盧武鉉政権は執権わずか半年で支持率三〇%に下がってしまった。二〇%とも言われる。これから何が起こるかわからないという状況です。一番国民の頭を悩ましていることは、これから何が起こるかわからないという現象です。こういう不安な時代を作ってしまった。
●過去の楽観と現在の悲観
だから私に与えてくださいました演題「T・K生の時代と『いま』」に即して考えますと、「T・K生の時代」は非常に困難な時代ではあっても未来が明るく見えた時代であった。ところが「いま」の時代は、T・K生は迫害を受けないし、帰って何をしゃべっても構わないのですが、しかし未来は暗く見える時代である。だからこの演題は非常に優れた演題だと思わざるをえません。「T・K生の時代」は苦しみながらも未来をバラ色に見た時代でありました。しかし「いま」というのはT・K生は苦しまない、楽しんでいるけれども、しかし未来に対しては暗く見えている、雲がかかっているように見える、そういう時代になってきた。いわば楽観的歴史観が全面的に転落してしまった。革命的言語の喪失の時代です。シニシズムのほうが強い時代になってしまった。そしてそれが私の老後と一致してしまったわけです。
そこで、私はときたま慎重に考える時は、自分の考えが韓国の現実と歴史をまともに見た結果として持っている考えなのか、年をとってしまった結果としてこんな考え方をしているのかわからなくなって、その区別がつかないのです。その区別をはっきりさせないといけないと悩むのです。しかし、〔自分の考えは〕やはり現実そのものから来る発想でないといけない、自分の老後の私情で彩った思想であってはならないと思っています。
いずれにせよ、こういう考え方をもちながら、国民の二〇%程度しか現政権を支持しないという状況に、どう対応していくか。こういうことが私の解決のない悩みです。私がここに来ている間に、盧武鉉さんは「国民投票で信任を問う」と言い始めた。それに対して私はいろいろな見解をもっています。そんなことを聞きつけて、早速マスコミが云々するので、「考えさせてもらいたい」と言って保留しているのです。サイードはベートーベンを挙げながらレイタースタイルの問題を言った。そして彼は、最終的な考え方は絶望であると言いつつ、自身は亡くなる瞬間まで闘いつづけた。私はそう思う。これを韓国の現状に置き換えて、あるいは東アジアの現状の中において、私のような人はどう生きていくのか。そういうことを思わざるをえないのです。
二〇〇三年九月号の『世界』で、私がT・K生であったという告白をしたわけでありますが、これは大分苦渋に満ちた決断でありました。私はそのまま忘れてしまっていいと思ったのですが、周辺にそれを許さないような勢力が非常に強くて、最後に、私もやはり独善的であってはならないと考え発表したわけです。できるだけこれを国際共同プロジェクトとしての「韓国からの通信」であったということを強調しようと思って、あのような形になりました。
そこで一番最後の言葉を引用しながら、いまの私の立場について自己弁明を試みたいと思います。そこでこういうことを言いました。「韓国からの通信」について、長いこと悩んでいたことを最後に一つだけ言わせてくださいと。闘いの書というのは常に闘うほうを過度に英雄化します。そこで私には、闘っている人々をあまりにも美しく書きすぎたのではないかという自己反省があると。まずそう言って、事実、真実、真理──これらは絡んだ問題でありますが──そのために特に勝利の日には敵対関係を越えて一つにという理想を抱いて苦しみました、と。
いま韓国において問題になることは、〔これと似たような問題なのです〕。大統領選挙戦に勝利するまでは戦闘的になっても構わない。それはできるだけ力を強めるためなのですから。しかし、勝利した瞬間は民主主義の大統領にならなければならない。すべてを許して、すべてを一つにまとめる大統領にならなければならない。これが私の希望でした。そのために働いてきましたが、率直に申しましてそれに私は失敗したのです。これからどうすべきかという問題に悩んでいるわけであります。そういう背景があるから、こういうことを二〇〇三年九月号の『世界』で言わざるを得なかったわけです。
「成功した革命はない」
しかし、現実はどうもそうはいかないもののようです。この歳になって革命家の老後における悲しみが多少はわかるような気がいたします。八七年まで韓国の国民が激しい闘いをして勝ち取った民主主義、それがどうも我々が願ったようには動かないという事実に逢着しているのです。ハンナ・アーレントは「成功した革命はない」と言いました。革命の歴史を眺めながら、痛恨を込めてこう言わざるを得なかった。しかも革命的に闘ってこない人なのではなくて、革命のために闘ってきた人たちが最後になってこう言う。私はこの心情をかみしめるのです。
そして何よりも私が韓国の状況に対して憂うるのは、革命前の人間と革命後の人間の人間的退廃ということです。これは人間の原罪的なものかもしれないのです。労働運動が革命のために闘う、これは涙ぐましいほど自己犠牲的です。多くの犠牲を生みながら展開されるのです。しかし革命が終わったときにどうなるか。革命を担った人たちが、「より多くのもの」を自分のものにしようとする欲望にかられていくのです。人間の原罪的な姿〔がここにあります〕。だから革命は失敗していくわけです。
革命の心情を抱いて社会改革をつづければ問題ないですが、これを失っていくときの問題です。そしてこの間に世代が変わるようになると、次の世代の人は前の世代の人の経験なしに出発するわけです。私のような人間の場合、日本統治時代のことが頭の中にあってたまらないのです。アジアのために日韓が和解できる日が来るならば、アジアは明るくなるんだという希望が頭の中にあってたまらないのです。しかし、日本統治の経験のない世代はそれがわからない。こちらがいくら説明してもわからない。そういう問題です。〔そう考えると〕歴史の内部においては人類の救済はありえないと思わざるをえない。
こういう次第で、私は変革への勇気と情熱をかなり失っている状況に立たされているのですが、それでもなお、これからどうすべきかを考えるのです。我々が成しうることは何であろうかと。現代の政党体制つまり民主主義体制のもとで一流の人を選び、なおかつ国民の間にも革命の心情が絶えないで、それが湧き出て、偉大な時代を作るということはできるだろうか。それはまずできない。それならこれからどうすべきか。あるいは日本とはどういう関係を持つべきか、このごろは謙虚になって考えるのです。
●ヒューマニティを求める連帯
今まで私は大きなことを言ってきました。それがだんだん弱くなって、じり貧になったような言葉を言うと叱られるかもしれませんが、私は最後に提言としてヒューマニティ〔という言葉〕を留めておきたい。ヒューマニティを謙虚に求める連帯というものを、これからのアジアで模索すべきではなかろうか。最近とくに考えていることを申し上げたいと思うのです。
先ほど私はアドルノの人類史への絶望を申し上げました。アドルノは『啓蒙の弁証法』の中で言っています。この本は一九四七年に出版され、後に岩波から翻訳されました。
──もちろん疑わしいのは現実を地獄として描くことではない。そこからの脱出を勧めるありきたりの誘いが疑わしいのである。現実を地獄として描くことではなくて、そこからの脱出を勧めるということはそれほど説得力はない。
また、彼はこうも言っている。
──今日語りかけることのできるだれかがいるとすれば、それはいわゆる大衆でもない。こういう心情でいま我々が目指したよき時代が失われているということを語りかけようとするけれども、それに応えてくれるのは大衆ではない。あるいは無力な個人ではない。無力な個人でもなくて、むしろ架空の証人である。いまは存在しない架空の証人に向かって、我々はこのような現実から脱出して理想の時代を持たなければならないという我々が描いた時代を、いまはない架空の証人に対して言わざるを得ない。彼らに我々は言い残していくのである。我々と共に、我々が目指したすべてのものが無に帰しないために。
これがアドルノの一九四五年ごろの考え方です。
私は八〇歳近くになるまでこの言葉〔の意味〕がわからなかった。これまで私は希望に向かって走ってきたのです。しかし、いまは謙虚な立場に立って、〔韓国の解放のために闘ってきたこれまでを〕無に帰してしまわないようにするがために、何かを書きつけていかなければならない、と思う。韓国全体を変えるというよりは、より理想的な時代を目指した一人の人間として、その証言を残していきたいという心情です。フランス革命を経験した知識人たちも、もしかしたらそのような心情になっていたのかもしれない。
アドルノにはまた別に『否定弁証法』という大著があります。そこで彼は、人類史がいかに絶望的かということを書いています。
──人類史の中にどのような方向性があるか。人類史は自然支配から人間の支配へと進んだ。かつては自然を支配したけれども、自然だけではなく今度は人間支配にまで進み、最後に人間の内的本性の支配に至る統一性が人類史の中に存在しているのである。だからだんだん良くなるのではなくて、近代になって自然の支配をして、それから人間の支配をして、今度は人間の内的本性までも支配するような、そういう方向へと進んでいるのである。未開人からヒューマンへと通じる普遍史が存在するのではなくて、石の斧から水爆へと通じる普遍史のみが存在しているのである。だから昔は石斧で支配しようとしたけれども、いまは水爆で支配しようとする。投石から水素爆弾へと進むのである。
アドルノはこうして歴史の進歩への懐疑を示しているのであります。ドイツが解放され、これからドイツは再建されると思っているその時に、アドルノはこのような懐疑に陥っていった。これがドイツの戦後であった。知識人にとっての戦後であった。
一九九五年の「日韓──そしてアジアにおける日韓」という対談の中で、私は安江さんに誇らしく言っているわけです。少なくとも今まで民主化闘争をしてきた韓国の知識人のほうは歴史の変化に対して、日本人のようにシニカルであるよりはかなり楽観的だったと。前にも申し上げた通り、そのことをいま、私は自分に対して反省をしているわけです。だから、ある意味では、このごろになって日本人の心情がわかったと言えるのかもしれません。戦後におけるドイツの知識人たちが、それほど楽観的でなく悲観的であったという意味がだんだんわかってきたというような心情になっているわけです。
アドルノは一九四五年前後にまだ四〇代です。〔その若さですでに〕現代文明の哀しみ、ドイツの悲劇を考えたわけですが、私はそれより四〇年ぐらい遅れてようやく歴史の哀しみということがわかってきた。もし私にまだ思考する力が残されているとすれば、韓国の歴史の中でこれをどう整理するのか。それが私の老後における課題であると申し上げていいのではないか。
こうした悲観論を、なぜようやく八〇代近くなって思うようになってきたのだろうか。それはやはり日本の植民地からの解放があまりにも喜ばしかったからかもしれない。それで楽観論がつづいてきた。いまになってようやく悲観論が私の老後と重なってきたように私は思えるのです。こういう前提のもとに、日韓関係について、韓国内のことについて、いくつか提言を申し上げて私の責任を終わらせていただきたいと思います。
●東アジアの市民交流を
これまでの我々は、政治に期待して働いてきたのではないかという反省です。こうやれば政治が変わり、問題を解決してくれるのではないかという期待のもとに働いてきた。それは日韓問題においても同じようにです。だが私はこれからはヒューマニティにおける連帯を考えよう、そこに集中しようということです。特に東アジアのコンテクストにおいて市民の交流ということ。その中においての友情の成長に希望をもとう。そうでないと我々は暗黒で希望がなくなるからです。政治に対してもっていた今までの希望を、我々は大胆に市民の交流へと、友情の成長へともっていこう。こういうことを私は本日の講演会の責任において提言したいと思います。
とくに〔我々の眼前には〕中国の台頭という問題があります。巨大な中国の台頭ということを前にして、私は何よりも日韓におけるヒューマニズムに基づく市民的交流の活性化が非常に重要だと思います。東アジアをヒューマナイズするために、その根幹における日韓交流が、いま非常に重要であるという思いをしています。
もっとも、私が非常に悲観的になる事実があります。だからこそ〔日韓交流の大切さを〕強調する意味もあるのですが。悲観的な事実というのはこういうことです。金大中さんが一九七三年八月八日に東京九段坂のパレスホテルで拉致されました。私はこの歴史的な日を非常に注目して見ていました。三〇年後の我々が「この日」をどう捉え、歴史の契機として捉えるかということです。残念ながらほとんど記念行事もなければ、人々はこの日を忘却したままでした。非常に皮肉なことになってしまったのです。今日の政治史的状況がそんなものであるということです。
金大中さんに対する日本の評価は現実以上に高いということは、過去の歴史から来ていることでしょう。新聞は半年近く金大中事件を大きく取り上げました。それは日本における日韓関係を全面的に変化させるほどのものでした。政府がやった日韓条約によって転換したのではなくて、一九七三年の半年以上にわたる金大中事件が契機となって日韓関係が変わるのです。とくに日本が変わるのです。日本の市民たちの韓国に対する姿勢が転換してくるわけです。朝鮮半島の問題をイデオロギー的に見るのではなくて、市民の存在として見る。良心的連帯として見る。その中に「韓国からの通信」が支えられてきた重要な理由があると思います。「韓国からの通信」が生き延びた背景には、こうした日本の市民的良識があったのだと、私は思うのです。
だが、残念なことは、こうした市民の連帯が韓国に知らされていないという問題です。私がこれからこれをどう担うか。韓国で民主化の闘いをした人たちは、当時、「韓国からの通信」を読むために日本語を勉強した。勉強しながらこれを読み続けていた。しかし、一般大衆は軍事政権下にあって、これを知らないのです。日本でも若い世代はわからないのと同じように、民衆はこうした事実を知らない。韓国における不在現象が起こっているということです。
韓国では日本国民の良識が知られていないのです。日本国民の良識と熱意が知られていない。そのため、日韓両国の間でいろいろな問題が起こる際、〔韓国民の多くは〕、日本の戦前における支配、あるいは日韓条約のいろいろな問題にだけとらわれて、日本を眺めているだけ〔という傾向がある〕。こうした問題を、我々がこれからどう解決していくか。巨大な中国が台頭する中において、民主主義国家である日韓両国の提携はますます必要になるでしょう。にもかかわらず韓国の為政者はもう日本を知らない世代と言っても過言ではない。こうした状態の中で、我々のなすべき仕事は何であるかを考えなければならないと思うわけです。これからは少なくともインフォメーションの教材〔を共有する必要がある〕、両国において同じようなインフォメーションが存在して、それを見ていけるようにならなければいけない。
●支配でなく、協力する関係をつくる
最後に具体的なことを一つ、二つ申し上げて終わりたいと思います。
我々ができることは、そんなに大きなことではない。できることからやっていこうということを申し上げたい。それは我々の環境をヒューマナイズすると言ってもいい。私はこれまで日韓文化交流の委員長をしたり、いろいろな韓国政府の責任ある仕事もやってきました。
韓国でも日本でも、さまざまな美術展、文化展などが行われます。それは京都のあとは東京へ、仙台へ、さらに札幌へと行くでしょう。それをそこで終わらせないで、さらにソウルや釜山まで延ばしてほしい。なぜならば同じ文化の中で我々は共通の考え方をしているので理解できるからです。これを基礎に、ともに語り合う時代を作らなければならないのです。ゆくゆくはそれが上海、北京へと伸びていく。そしてそれが北の平壌にまで延びていく。そんな時代を我々は市民の力で作っていかなければならない。東アジアの文化の時代です。支配ではなく協力する関係。これをどう作るかということです。
みなさんはあまり注目していないかも知れませんが、我々の目の前で展開されている一つの非常に重要なことについてお知らせしたいのです。朝日新聞の記事で見ただけですが、この計画がうまくいくと、郵便局を通して故郷のものを買える「ふるさと便」が、「アジア便」になるそうなのです。いま日本でもキムチを買えますが、郵便を通して韓国から買うことができる。韓国のほうでも、私のようにお新香の好きな者は、日本から郵便局で注文できるという。そういう時代になっていく。これはじつにささやかなことですけれども、日韓の将来を示すことではないかと思います。
かねて私は機会があったら言いたいと思っていたことですが、日韓の間では電話料を国際料金から国内料金にしようではないか。そうすれば、毎日でも互いにかけられるでしょう。これほど市民の交流を盛んにすることはないじゃないですか。そして、できたら航空運賃も国内料金にしてしまおう。そうすればもっと活発になるのではないか。民主主義による国民的生活を我々は共有しようではありませんか。
「韓国からの通信」は非常に政治的な文章のように見えます。そして多分に感情を加えた叙情文的なところもあります。しかし、いまはもう散文の時代です。「韓国からの通信」のような叙情的な文章ではなくて、散文的な文章によって両国はどうすれば近くなるかということを考えていきたい。そういう意味でも「韓国からの通信」の時代は終わった時代であり、これからは「韓国からの通信」を越えて友情の時代を我々は共に築いていかなければならない、このようにみなさまに提案して終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
●〔質疑応答〕
【盧武鉉政権の今後についての質問に答えて】
盧武鉉政権について、これからどうなるかということでいろいろ懸念をお持ちになっているのだと思います。私は盧武鉉政権の誕生のために多少力を尽くした者です。彼は、若い人と一緒にニューレフト的ラインを通して当選しました。しかし、今後は国民的政府を作らないといけない。韓国は世界で十何番目に入る経済的大国ですから、韓国はもうニューレフトの時代ではないです。その点、盧武鉉氏は間違っていると私は思います。そのために私からも離れていきました。私はKBSの理事長をしていましたが辞めました。新しい理事長を任命する過程においても、完全に自分と近しいじつに小さいグループの人間を強制的に任命しようとしました。こんなやり方ではこれからの政治はできないということで、私はこれに抵抗しました。それからだんだん遠くなりました。盧武鉉政権はいまの姿勢を続ける限り、失敗するだろうと思います。これははっきりした姿勢で申します。
ただ盧武鉉政権にそうした面があるにしても、私が他の人よりそれほど悲観していません。たしかに権力の中枢は無政府状態のように動揺し、そのためにマイナスも多いですけれども、案外に韓国は自分の道を行っている。企業もそれに動揺しないで動いています。〔べつの言い方をすれば〕、韓国はもう既に大統領によって動かされる社会ではなくなっているのです。もちろん優秀な大統領がいればなおいいですけれども。
こう考えてくると、金大中氏などのようにカリスマ性をもった人はもう韓国には出てこないという条件の中で、どういう社会=政体を目指したらいいかを考える。今後の政体をいかに作るべきか、これを考えるべきです。いまの混乱は、政体をどういうふうに変えるか、そのための一種の模索であり、悶えであるというように私は解釈しているのです。ですから、それほど悲観的には考えていません。
【「北」に対する対応についての質問に答えて】
日韓関係、日朝関係=「北」の問題に対してですが、私は「北」に今年の三月の終わりに一週間行ってまいりました。「北」は大々的な変化をしない限り存続は難しくなると思います。我々が「北」を訪問しても、いっさい「北」の人々には会えません。ホテルの外に出られません。こういうようなやり方では、もう世界的な交流はできない。そして私が「北」側にそういう話をすると答えないのです。〔対面する人は〕自分の意見を言わないのですが、その表情からいって我々の言葉を受け入れているのです。
こういう状態なので、「北」の問題はたんにいまの六者会談だけでは解決できないでしょう。「北」は自分自身の生き残りのための自己変革をしないといけないというのが私の見解です。そうでないと「北」は非常に苦しい状態を続けるだろうと思います。「北」へ行ってきたときのことです。私はもともと「北」で生まれたのですが、妙香山に行く際に旧道を通ったとき、涙なくしてはそこを通れませんでした。こういう状況を前において、我々は人民を対象にした新しい計画を立てないといけない。私は「北」の将来に対して非常に危機を感じています。
南に帰ってきても危機を感じました。こういう「北」の実情に対して、自分たちはお腹一杯食べていながら、全く交流していない。こうした南の政権と南の国民全体に対して、私は非常な憤りを感じているのです。とにかく「北」を自分の同胞であるという基本的な考え方で、この問題を考えなければならないと思うのです。政治家たちがやっている六者会談に対して、私はそれほど信頼を置いていません。これはこの講演で申し上げてきたように、政治家というものは人間の問題を考えていないと私は思うからです。それは南の政府に対しても同じです。それではいけない。本当にヒューマニズムに戻った考え方をもって接しなければならない。そういう熱いヒューマニズムをもっているならば、六者会談に参加する人々にもそれにある種の感動を与えられるだろうと思うのです。適当に政治的に交渉するやり方はやめろということが、私の基本的な見解です。
【日韓文化交流について──質問に対するまとめ】
文化を共有するということは非常に重要なことです。とくに我々のように、政府の立場に立っていない、民間レベルで文化を共有するということはものすごく重要であると考えます。私自身もそのために努力してきたのですが、盧武鉉政権のもとではこれ以上あなたたちの指令では動かないと言って辞表を出して辞めました。
文化の共有のためにはすべきことが非常に多いです。日韓をより近づけるために、あらゆる努力が可能です。非常に幸いなことには、日本政府もそれに対応するような仕方をしようとしています。日本政府はこれまで文化交流に対してかなり冷淡でしたが、このごろ非常に積極的になりました。これには中国との関係などいろいろなことを考慮した結果だと私は思いますが、それに比べて韓国政府のほうは遙かにそれに劣っています。現在はそうです。これをどういうように変えるかということが大問題であります。
今まで私は文化交流の委員長をしていましたので、東アジア全体の状況をみながら日韓の文化交流を最大限度拡大するために働こうとしてきました。金大中政権のもとでは、私の希望のほとんどが可能でした。日韓の文化をより緊密にするためならば、どんな働きをしても構わないということで、政府としても感謝してくれていたのです。ところが、盧武鉉政権のもとで挫折しています。そういう意味でも私はいまの政府に批判的にならざるを得なかったのです。
もっとも、私が交流委員会を辞めても、委員会自体はいまでも続いていますので、条件さえ整えば活動を活性化して文化交流をやることは可能だと思います。端からですが、私もそれに助言を続けたいと思っています。とにかく日韓はうんと近くならないといけない。いまアジアの状況はそれを強く要求していると思うのです。
日韓両国の間には、いろいろな過去の問題とか罪責の問題とかがありますけれども、私は韓国に対してこう言っています。罪責の問題はもう日本に対して問いかけるなと。それが良かったとか悪かったからとかの問題ではなくて、日本が成熟して自らの問題としてそれを言うまで、相手に任せろと言っているのです。
これに対して日本側から「あなたはあまりに日本に対して寛大である」と言う人もいます。でも、私はいつまでもそういうことを問題にして両国の関係が疎外されてはならないと言うのです。非常に緊急な時代に来ていると思うからです。だから日本が当分それができないというのなら、それはそれでいいから、できないことはそのままに置いてでも、前に進まないといけないと思うからです。あらゆる面において、そういうやり方が必要であると思います。
もうご存じかと思いますけれども、韓国の高校生が日本に修学旅行に来る場合、集団で来る場合には、日本はビザを免除しています。韓国はすでに日本のビザを全部免除している。日本もできることはする。もちろん、不法滞在とかいろいろな問題がありますから、私はそういう問題があることは後に延ばしても構わない。できることから日韓をもっと接近させる方法をどんどん使うべきであるという方針でいこうと思うのです。
この道こそが、いまアメリカが東アジア問題に関与し、「北」の問題があり、中国の問題がある中で、我々が選択すべき重要な方向だと思います。これはたんに政府任せにしたのではだめです。民間レベルにおいても進展していかなければならない。小さいところから始めよう。日本で展示会があるのなら、それをソウルまで延ばしてみようという考え方をしましょう。韓国のほうで展示会があるならば、それを東京まで延ばすのだ、いや、日本の地方都市まで行くんだというようにしましょう。地方でも市民がそれを助けてやるという方向にどんどん進んでいかなければならない、私はそう思っています。
(本稿は実行委員会の主催で開かれた一〇・二二講演会の記録です。[ ]は実行委員会が補った言葉です。小見出しは本誌編集部によります)
[編集部注]
(1)アーレント、ハンナ(一九〇六─七五) ユダヤ人で、二〇世紀を代表する女性政治哲学者。代表作に『全体主義の起源』『人間の条件』などがある。
(2)マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波書店、一九九〇)。
(3)アドルノ『否定弁証法』(作品社、一九九六)。