翰林大学日本学研究所長 池 明観
(本稿は一〇月二二日に日本教育会館で開かれた先生のご講演を実行委員会の責任でまとめたものです。[ ]は実行委員会が補った言葉です)
*『社会主義』03年12月号、04年1月号より転載
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主催者の一人川上さんから日本に来て話してくれないかと言われた時、私は軽い気持ちで、「それもいい機会ですね」と答えたんですが、今まで重要な働きをされてこられた方たちの、このような大きな集まりの中でしゃべるようになって、非常に恐縮し、当惑している次第であります。最初は、演題についての話はなかったわけですが、後から「T・K生の時代と『いま』」という演題が送られてきて、これは大変なことだと思いました。さらに副題が「東アジアの平和と共存への道」となっています。これをどうやればいいのか。最初にこういう演題であったら、私は多分ためらいたいと申し上げたと思います。しかし後から考えると、私にこういうような重大な問題をひとつ考えてみるようにと機会を与えてくださったものと思い直して、いろいろ考えるようになりました。
我々が共に経験したあの時代と我々が直面している「いま」とは、非常に異なった時代になっている、そして、多くの人がどうしていいのかわからないというような心情になっているのではなかろうかと思うのであります。
●懺悔・自己批判の哲学
私はT・K生という名において、一九七三年五月から八八年三月まで満一五年の間、『世界』という雑誌の誌面を煩わせ、汚してきたわけです。このごろ私も改めてこの時代を思い返しながら、この時代に書いたものを読み直すということは非常に辛いですけれども、いつかは読み直して、今日、自分が書いた文章をどう考えるか、見なおしたいと思うのです。いま見ると他人の文章のような気がいたします。しかし、そういうことを書くことが読んでくださった方々に対する私の義務ではないかという気持ちももっているのです。来年の春にはすべての公職から離れるつもりでいるので、機会を見て、これを読み直しながら自己反省の文章を書きたいと思っている次第です。「懺悔の書」というものでも書かないといけないと思っています。
そういう気持ちがあるものですから、日本で皆さんもすぐ思い浮かぶだろうと思いますが、じつは一九四六年四月に出た田辺元先生の『懺悔道としての哲学』を読み直したわけです。これは、一九四四年の一〇月から一二月までの話が基礎になったように、その時に〔自分の哲学の〕骨子を語ったというものであったらしいです。だから戦争の終わる直前です。「講演の途中、足音を荒らげて退場する一、二の者を除いては、満場粛然として先生の一言一句に耳を傾けたのであった」と、これを編纂した武内義範さんが解説を加えています。
これに対して戦後の動きに対しては見解を異にする方たちもいらっしゃると思いますが、高坂正顕先生が当時のことについて、次のように書き記していました。
「その講演にみなぎる突き詰めた絶望感、無力感、そして懺悔と他力の教説に深く心を打たれると共に、意外なほどの先生の立場の転換にほとんど驚きの念を禁じ得なかった」と。
一九四四年の一〇月から一二月、ほとんど戦争が終わる一年前です。この本の「序」で、田辺先生は次のようなことを言っています。
──これは懺悔を対象とする懺悔の哲学ではない。既成の哲学的方法を避けて、懺悔の解説をする現象学ないし生哲学のごときものではない。だから懺悔に対して哲学的教説を言うようなものではない。あらゆる哲学の立場と方法とが無力として想到せられる廃墟であり、だから今までの哲学では解釈できない、その廃墟の上に復興せられるのが懺悔道である。だから、今までの哲学では説明できない。
〔こうした言葉を聞くと〕すぐにみなさまはお思いになられるのではないでしょうか。これはどうも現代の状況と似ているようだ。今までの哲学では、今までの政治では、説明できない、こういうものに〔現代が〕似ているわけです。田辺は近代哲学という時にデカルトの方法的懐疑というものが近代哲学の始めだというのに、それよりも一層徹底する哲学的想到の方法であり、しかもそれは一度死して復活せしめられた哲学であるから、それ自身既成哲学として取り扱われることはできるものではない。それはまさに死して蘇る転換を「行」で行う、「行証」なのであると言っているのです。
田辺元さんは一九四五年に六〇歳です。こういうように、今まで戦争について考えた考えとは全部異なる。そして人生そのものに対して否定的に、あるいは今までとは全く異なった批判的な思考で展開しなければならない、それが日本の敗戦であった。これが哲学者における敗戦であったと言えると思います。
私は来年八〇歳になるので、いま田辺さんが言われたような心情に到達しているわけです。そして、八〇歳でこれに対して思考できるだろうかというような疑念にかられています。いまの時代の状況に当面した私の心情です。この状況に対していったい私は何を語れるのか。実際、私はこの間に病気もしたし、長いあいだ模索もしました。そして、ようやくこのあいだ福岡に行った時に、まだ語れるかもしれないと思い直した。いま、自信を多少回復して、それで川上さんから言われた時に「語ってみます」と答えたわけであります。
人生の終わりの哲学、あるいは懺悔の哲学、これをいろいろ比較しながら考えていかなければならないのですが、私が「韓国からの通信」を書いたというのは、哲学的な文章ではないわけです。そして、いまそういう文章を書いた者として迎えている現実は、田辺先生が日本の敗戦という状況の中で直面した状況とも違います。そこに認識の相違というものがあり得るのであると言えます。
私は自分の立場をどちらに見ているか。そう考えた時に、いわば戦争が終わった時に「勝利した」と喜ぶ側ではなくて、「敗戦した」という考えを持ったものとして我々が思い起こすのはヤスパースの『戦争の罪を問う』という有名な本でありましょう。一方は「戦争が終わった」、他方は「晩年を迎えた」、それぞれ迎えた状況には違いがありますが、私は最近韓国で展開されている状況を見ながら、今まで「韓国からの通信」を書きながら考えてきた自分が破産したように思えてならない。こういうことをまず申し上げておきたいと思います。
●戦後におけるアドルノの心情
それはどちらに似ているかというと、戦後におけるアドルノの心情に似ているのではないかと最近は思っているのです。岩波書店で出ている本ですが、ホルクハイマーとアドルノが書いた哲学的断片が『啓蒙の弁証法』という非常に難しい本になっています。アドルノは一九四四年の春に脱稿したらしいです。この年、彼はアメリカに亡命していて、これから祖国に帰るという喜ばしい時であったはずです。その時、彼はいまの私の歳よりはずっと若いわけですが、目前の情況を見てどのように考えたか。彼にはナチスのもとでの故国における経験があるし、アメリカの実情を見ながら経験したものもある。あるいは西洋文明の終わりを経験したという心情が彼らにはあったわけであります。
ここでアドルノが問うているのは、なぜに人類は真に人間的な状態に踏み入っていくかわりに、一種の新しい野蛮状態へと落ち込んでいくのか。なぜ人類史はよりよき人間的な状況に踏み入るよりは、だんだんと野蛮的状態に陥っているのかという嘆きをするわけです。戦争が終わる、言ってみればドイツに解放の日が来る、そして自分たちが祖国であるドイツに帰れるという心情になっていった時に、彼はじつは絶望していたのです。
こうした心情を私はこのごろしきりに思っているのであります。ホルクハイマーと共に書いている本ですが、私はホルクハイマーの言葉であるよりはアドルノの言葉であると解釈しています。神話から離脱して啓蒙の時代に入る。これが再び神話へと転落するような時代です。日本にも過去に神話の時代がありました。そこから離脱して啓蒙の時代に行く、理性の時代に行く。ところが、今度はあの神話の時代に帰るように見えてならないという心情を、アドルノはここで吐露しているわけです。反対の地への転化です。神話へ転落する時代を自分は目の前に見るような気がしてならないと。
この心情に私はこのごろ非常に共感を覚えます。とくにイラク戦争とその後つづいている後遺症を見た時に、あるいは韓国においていま起こっている問題情況に対して、多くの知識人はものすごい無力感を感じています。多分、アメリカにおける知識人たちの無力感はものすごいものでしょう。それに苛まれていると思います。おそらく日本においても良識の無力化ということが、だんだんと広まってきているのではないか。アメリカのイラク戦争を眺めながら、良識が無力化していくという経験を我々はしている。
●サイードの感じた大きな絶望
古い雑誌の話をいたします。一九九五年八月号の『世界』に、最近亡くなったサイードさんと大江健三郎さんの対談があります。「生の終わりを見つめるスタイル」。この中でサイードはアドルノの言葉を挙げています。アドルノがレイタースタイルという言葉を使っているというのです。レイタースタイルつまり「後期スタイル」です。私みたいな年になって、つまり晩年になって考えるスタイル、思考のスタイルがあるということです。アドルノはそこでベートーベンの第三期のことを取り上げています。ベートーベンの第三期の作品は非常に難渋になるという。晩年になると、突然作品が難渋になってきて、いわば「英雄」などの第二期とは異なる第三期が現れてくるということを言ったわけです。私は音楽がわからないのでよくわかりませんが、「作品一一一」あるいは「荘厳ミサ曲」などという難渋な作品が出てくるというのです。
ここにもお年を召した方たちが多くいらっしゃるわけですけれども、晩年になっていく時の思考のあり方として、こういうことをアドルノが考えた。そしてそれが即、その当時もう既に死のことを考えているサイードの心情でもあったと言えると思うのです。アーティストたちがだんだん老いていく過程のなかで、和解や結論を求めるというのではなく、むしろそれまで以上に大きな絶望を感じる。最終感を抱く段階に入ってしまう。これが後期のスタイルである。サイードはアドルノのことを言いながら、アドルノの見たベートーベンを語ったわけです。サイードは亡くなるまで盛んに書きつづけました。パレスチナのことも最後まで発言しつづけて亡くなった。彼は自分のその時の心情をベートーベンの晩年になぞらえて考えたものだと解釈できるわけであります。いわば最後に至っての和解と結論を求めるのではなく、大きな絶望や最終感を抱かざるを得ないと。〔その絶望は〕具体的にいえば、〔サイードにとって〕この時代に自分は属していないということ。自分はこれから去っていくのに、いま展開されている時代が私の時代ではないということでしょう。
私はこの心情に非常に共感を覚えます。「韓国からの通信」を書いてきて、解放された祖国を迎えた私ですが、いま韓国の状況を見ていると、これは私の属している時代ではないという心情になる。こういう辛さを思うのであります。サイードは同時に、この時代の内部には希望も決着もないなどと考えるのがレイタースタイルの思考であるとも言っています。我々は若くして闘ってきたけれども、もうこの時代には希望も決着もない。こういう死を迎える人の心情ということをサイードは言っているわけです。
●歴史が継承されない哀しさ
私がT・K生としてやった以上は、T・K生の時代を少しは語らないといけないでしょう。T・K生の時代というのは一九七三年から一九八八年です。私の年で言えば四九歳から六四歳までの時代であります。ところがいま私は八〇歳に間もないわけです。人間はこの一生に生物学的に限定された存在です。
私は韓国のいまの政権が誕生するのにかなりの役割を果たしたつもりです。盧武鉉大統領の就任演説の起草委員長もやりました。ところがいま考えるのは、〔T・K生の時代という〕歴史的経験が継承されないということです。私はあの時代の一五年間、「韓国からの通信」を書きつづけていました。日本統治の最後の時期に生まれ、解放後の南北分断を経験しながら生きてきました。そして数十年にわたる軍事独裁の時代も生きてきました。その過程でこれと闘わざるを得ないという心情となり、その中で生きてきた人です。この人が考え、自分の民族を考え、東アジアを考え、あるいは日韓関係を考える考え方が継承されないということです。
これはお年を召した方々は多分同じ心情になっているのかもしれません。ここには過去において闘いの時代を共有した方たちがお集まりです。そしてそのとき派閥〔や党派〕を異にした方たちが集まっていらっしゃることに対して、私は一筋の希望を抱くわけであります。過去に対して自己批判しながら、いまの困難な時代を眺めながら、前に向かって堂々とした計画を出せなくても、憂いを共にし悩みを共にするという意味でも、非常に貴重なことではなかろうかと思うのです。ところが、これが次の世代に継承されない。これが人間的生の哀しさであると私は思うのです。
盧武鉉大統領と私との間に数十年の年齢の差があります。大統領に当選してから今日までに、なぜ私が彼から遠ざからざるを得なかったか、あるいは彼が私を遠ざけたのかという背景の中に、このギャップがあるのです。こういう意味では人間は歴史に学ばないという問題があるのです。私は自分の歴史から学ぼうとしていても、それ以前の歴史までは遡れないらしくて、いまそういうギャップを感じる次第であります。
●「T・K生の時代」とは何であったか
以上は序論的に申しあげたことです。今度は「T・K生の時代」というのは一体何だっただろうかという反省をするわけです。その反省に立って、その時代を回顧しながらお話しようと思います。先ほど申しましたように、自分が生きた過去であるけれども、いまの自分とは異なった自分の時代であった、他者の時代のように思えてならないのです。そのために読み返すのが辛い。しかし、冒頭に申しましたように、いつかはこれに直面して、これに対して自分の見解が何であるか、晩年に至ってはいますが、これに対して私はかくの如く考えると言わないと不正直ではなかろうかという気にかられています。もっとも、こう言っているうちに頭が悪くなって、実際はできないかもしれないのですが。一方で現在というのは、アメリカのイラク戦争があり、良識の無力ということを否応もなく考えざるを得ないという時代であるわけです。
恐縮ですが私の文章から取り上げさせていただきます。一九八七年の『世界』一〇月号です。その翌年の三月に私は「韓国からの通信」は書かないようになるわけですから、「T・K生の時代」の最後のあたりです。
その年、韓国で革命が起こりました。いわゆる八七年六月民主革命です。私は「その軌跡と展望」ということで、当時の『世界』の安江良介編集長と対談しているのです。いま考えると恥ずかしいのですが、威勢高々に韓国の革命の勝利を私は語るわけです。これはお笑いになって聞いていただきたいと思います。
私はまず韓国の長い民主化闘争の中で『世界』と岩波書店が果たしてくださった役割に対して、本当に心から感謝しています。これは当然感謝しなければならないから感謝したんです。だが、つづけて私は威勢高々にこう語っているのです。
「なぜほかの日本のマスコミの多くはそうでなかったか、私はここに重要な問題が潜んでいると思います。それは結局、日本全体の国際政治に対する認識が浅いということに連なるわけです。日本の国内政治に対しては私はよくわかりませんが、国際政治に対しては、政治的叡知に欠けていると申し上げざるを得ません」
みなさんもお聞きになって傲慢だったなと思われるでしょう。じつに傲慢な言い方を私は安江さんにしたわけです。私の言葉がもうちょっと続きます。
「その背後にはいろいろな理由があるだろうと思いますが、日本の大多数の人々において政治的叡知が欠けているという現象」がある。さらにつづけて私は、
「国民が政治など変えることができないものだと初めから諦めているからではないでしょうか。政治は変えられない、自分たちはどんなに行動しても結果はあらわれてこない、と見ているならば、(大げさな言葉で言えば革命など不可能だと見ているならば──池明観)政治的に行動する機会を自ら失い、政治についてはだんだんと興味も失ってしまいます。他国の動静についても同じようなことがいえるのではないでしょうか(いわば日本の中において政治的変革が不可能だと思うと、他国の中においても政治的変革など不可能だと思っていらっしゃるのではなかろうか──池明観)。その時いまある権力を絶対的なものと見て、それを中心に考えるのではないでしょうか」
いまは反省して、傲慢な言い方だと思います。
私は当時、韓国はこのように革命を起こして勝利しているではないかと、自信満々で言っているわけです。さらに私は、革命はいま進行中であると言い、成功の理由を二つ挙げています。
一つは、反権力的な革命勢力は韓国では成長するのだということ。私はそこで一九六〇年の四・一九革命を起こした時のことなどを話しています。現在の盧武鉉政権に対して、私はいまいろいろ疑問を持っており、非常に否定的になっている。国民の二〇%台しか支持しないと言われている。それで大統領が国民に信任を問うと言っているわけです。そういうことを考えるにつけ、「革命勢力は韓国では成長する」ということは、いまでも通用するのではないかと思います。私は一方で、国が根本的に改まるということ、つまり革命というものに対して絶望しているようなところがありますけれども、しかし同時に、韓国という国は権力に対して否定的な考え方が成長する国である、非常に強い国であるということも言えそうに思うのです。
もう一つ私がそこで指摘していることは、いま実際において第三世界において民主化への革命が進行しているではないかということです。軍部支配に対する抵抗が進行している例として、私はギリシャ、ポルトガル、スペイン、中南米、フィリピンなどを挙げ、それにつづいて韓国も、というようなことを言っている。世界の中心国であるヨーロッパではなく周縁の国々ではあるが、革命は進行中である。政治と民主主義を求めての民衆の革命が成功しつつあるということを言ったわけです。
つづけて私が言ったことは、こういう傾向は日本には見られないということ。日本のジャーナリズムはこういうことは日本では不可能だと思っている。しかし、たとえ自分の国はそうであったとしても、少なくともそこにとどまるのではなく、外国で〔隣国で〕進行中の革命も解釈〔すべきではないか、それが〕できないでいるのではないか。これは非歴史的な姿勢ではなかろうかと、そこで私は言ったわけであります。それはたんに歴史を間違って解釈するだけではなくて、視座そのものの中に反倫理的な、あるいは非歴史的な姿勢、またはイデオロギー的な要素が染み込んでいるように私は思うのです。
『世界』のこの号は「韓国民主革命の現状と将来」という特集の中での対談ですが、いま考えると今昔の感とでも言いましょうか。〔当時に較べて〕韓国は豊かになった。これは一九八七年の六月革命のことを言っているわけですから、一六年前において韓国はこのように眺められた。しかし、いまはどうであるかという疑問が起こってくるのであります。あの時代において、私は革命的に夢に膨らんだような状況において、「韓国からの通信」を書いていたということを申し上げたいと思います。
●日本の精神風土にあるシニシズム
もう一つだけ例に挙げたいと思います。八八年三月に私は「韓国からの通信」をやめて、九三年に国に帰ります。今年は帰ってからちょうど一〇年になります。当時の私の心の中では、韓国に帰ったら日本の批判的知識人と友好の絆を作っていきたいとしきりに思っておりました。そこで、一九九五年、日韓でともに闘ってきた反体制的な人々のシンポジウムをソウルで開くのです。その年は、ちょうど日本の敗戦五〇年、韓国にとっては解放五〇年でした。それを期にシンポジウムを開こうということになったのです。まずソウルで開催し、つぎに東京でやりました。ソウルには安江良介さんはもちろんですが、大江健三郎さんもいらっしゃいました。ノーベル文学賞をおもらいになって初めての外国だということで歓迎しました。坂本義和先生も来られました。
二つのシンポジウムを終えて私は安江さんと対談をしました。「日韓、そしてアジアにおける日韓」という内容でした。その中で安江さんが私に言われた言葉が、いまになっていろいろと考えさせられるのです。『人間的資産とは何か』(岩波書店)という私の本の中に出ている私の言葉を、安江さんが引用して私に話すわけです。「日本の思想的風土の中には非常に強いシニシズムがある」と私が言ったそうです。それは日本の国内の状況から来ていると思われるけれども、民衆が世の中を変えていくということはできないと見ているのではないか。民衆が歴史を変えるというのは初めから不可能であるという考えがあるのではないか。それがじつは日本人の朝鮮認識の底にあるのではないか、と私は言っている。だからそれがずっと朝鮮における政治的変化に対しても、いわば日本においてはかなりシニカルに見ていたのではないかと思うということを言っているのですが、安江さんが〔こうした私の言葉を〕引用しながらこう言っています。
「冷戦の受益者として終始してきた者には、状況が変わることが非常に怖い。望ましくない。それが、先生がご指摘のような(日本人の革命に対する)強いシニシズムの反面をつくっているのではないでしょうか」と。
こうした会話を交わしながら、お互いが日本の責任に目覚めなければならないということになったわけです。
●世界の問題が我々の問題に
私はそういう心情の中で、一九九三年に書いた『人間的資産とは何か』の「韓国から見た日本」の項の中でつぎのようなことを言っています。これは私が日本に対するコメントとして言った言葉として、率直に申し上げます。
──日本は安定している。そして世界の国々は不安定と混乱の中にある。日本は安定しているのに世界の国々は不安定で混乱している。この違い〔落差〕が問題である。この二つを結び付けて、世界はそう〔不安定と混乱〕であるのにもかかわらず日本はそうでない。〔つまり日本は幸せだ〕。こういうような歴史認識が日本にはあるのではないか。韓国のような国ではそういうこと〔不安定と混乱〕が起こっても、日本は起こらないというような認識があるのではないか。他者の不安定、他の国々の不安定によって、かえって日本は安定している、あるいは富んでいるという考えがあるのではないか。これが日本におけるアジアの変動、世界の変動に対するシニシズムの原因ではなかろうか。
こんなことを私は言ったわけであります。
だが私はこのシニシズムが崩れてきたように思うのです。それはいつからか。この歴史解釈はいろいろ検討していただきたいのですが、一九九一年一月の湾岸戦争から崩れ出したと思います。このときから日本は少なくとも巨額なお金を出さないといけなくなった。世界が不幸では日本はそのまま島国として平安を保てることができないということを認識してきたのではないか。そのとき一三五億ドルを日本が出すのです。イラクに不幸がある時には日本も不幸にならざるを得ない。もう既にそういうことが始まった。世界の不幸への日本の関連ということが、ここで言われるようになってきたのではないか。かつて一九五〇年から三年間、朝鮮に南北の戦争があった。しかし日本はそれでよかったんだ、かえってそれが日本に利益になったという認識は、日本にとってももはや許されない時代にだんだんなってきたのではないかと思います。
いわば世界の問題が我々の問題であるという時代に、これからだんだん日本も入っていかざるをえない。だから今日では、日本においても世界の変化に知らず知らずの間に影響されて、自分たちも発想しなければならないというようになってきたのではないか。そういうふうに日本がなっていく時に、私は韓国の現在に対して非常に楽観的であったように記憶しています。私は日本に対してこういう批判の言葉を使いながら、全般的に眺めてみると、少なくとも今までの民主化闘争をしてきた韓国の知識人は違うと思っていた。歴史の変化に対して、シニカルであるよりはかなり楽観的だったと思います。
反動的な考え方というのは歴史の変化を望まないからであると言われます。〔それに対して〕リベラルな人々は、状況の変化に対して常に誠実な対応をしようと心がけます。そして、それを自己変革を媒介として展開していくのだと思います。状況に変化がある場合、〔過去の自分を保守するのではなく〕、自分を変革しながら状況に対応していくものだと考えざるを得ない。その際、私は、我々の言葉は状況の変化に対応する政治的な言語でなければならないという話をしたのです。
これは主体的に自分が変わることを前提とするのです。永遠の真理を語るのではなく、具体的状況の中で我々は語らなければならないということを言いました。じつはどこで私が引用したのかはっきりしませんが、「説得の言語」という言葉を使いました。「合意のための言語」です。歴史に変化をもたらす言語を我々は模索しようと。今度の講演を準備しながらいろいろ資料を読み返して、私はこんなことを言ったこともあるのかなと思い出したわけであります。
[編集部注]
(1)田辺元(一八八五─一九六二) 哲学者・京都大学教授。戦後、「種の論理」を中心としたいわゆる田辺哲学が侵略戦争の論理に使われたことを自己批判、『懺悔道としての哲学』を著した。『田辺元全集』全一五巻がある。
(2)アドルノ、テオドール(一九〇三─六九) ドイツの哲学者・社会学者・美学者。フランクフルト学派の代表的思想家。代表作に『啓蒙の弁証法』『否定弁証法』などがある。
(3)サイード、エドワード(一九三五─二〇〇三) エルサレム生まれのパレスチナ人で、米コロンビア大学教授(比較文学)。米国のイラク攻撃へも反対の論陣をはった。代表作に『オリエンタリズム』『イスラム報道』などがある。
(4)金淳一(キム・スンイル)、民法学として登場。