前の頁へ  研究・論評目次へ
 
 
加藤哲郎  二〇世紀日本の社会主義と第一次共産党(後半)
 
第一次共産党指導部と公式共産党史の神話
 
 次に、この一九二二年日本共産党創立綱領の、英語原文の方に戻って考えます。正確な日本語訳文は、先にあげた『大原社会問題研究所雑誌』に私が発表したものがありますので、後でそれをご覧になってください。
 重要なのは、いちばん最後です。ハンコがあって、「Adopted by the National Convention of the Communist Party of Japan, Sept. 1922」とあります。 つまり「一九二二年九月に日本共産党の全国大会(ナショナル・コンフェレンス=評議会ではなく、コンベンション=大会)で採択された」となっているわけです。その下の丸い公印は、このハンコが押された別の文書が、モスクワには数通他にも残っていますので、正式な日本共産党の党印だということが分かります。
 
 ハンコの下に「ジェネラル・セクレタリー」=書記長ないし委員長、あるいは当時の日本共産党文献で「総務幹事」と言いますが、「アオキ・クメキチ」とあります。その下に「インターナショナル・セクレタリー」=国際書記、当時の言葉では「国際幹事」が「サカタニ・ゴロウ」と、英字で署名されています。『日本共産党の七十年』など日本共産党の公式の党史では、この頃の初代党委員長は、堺利彦ということになっています。公式党史の見方でいきますと、「ジェネラル・セクレタリー=アオキ・クメキチ」というのは、堺利彦でなくてはならない。
 ところが、その後の二三年二月のいわゆる第二回市川党大会、三月のいわゆる石神井臨時党大会後に、モスクワに送られた日本共産党の報告文書が、秘密資料中にあります。そこでは、今度は「サカタニ・ゴロウ」が「ジェネラル・セクレタリー=総務幹事」=委員長に選ばれた、とあります(詳しくは、前掲「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」参照)。つまり、一九二三年に選挙で党委員長になる人が、二二年九月の創立綱領採択段階では「インターナショナル・セクレタリー=国際幹事」なのです。これが、堺利彦なわけです。これによって、公式党史の初代委員長=堺利彦説は崩れます。私の論文発表後、二〇〇三年一月に『日本共産党の八十年』が出されましたが、私の二二年九月創立大会説や二二年創立綱領の存在はまだ認めていませんが、この堺利彦創立委員長説だけは引っ込めて、「荒畑寒村、堺利彦、山川均らが最初の執行部をつくりました」と改めています。
 
 一九二三年の文書では、二二年九月の創立大会綱領で「ジェネラル・セクレタリー=総務幹事」であった「アオキ」という人物が、今度はモスクワに派遣された、とあります。その時モスクワに派遣されたのは、これは『寒村自伝』(岩波文庫)等でも明らかなように、荒畑寒村以外にありません。そうしますと、この英語版二二年創立大会綱領が示しているのは、「アオキ・クメキチ」つまり荒畑寒村が、初代の「総務幹事」いわば書記長ないし委員長で、「国際幹事」が「サカタニ・ゴロウ」つまり堺利彦だった、ということを意味します。そして、二人が署名し、正式の印鑑を押した日本共産党の綱領が、モスクワの日本共産党関係秘密ファイルの中に七〇年間大切に保存され、それがソ連崩壊によって表に出てきた訳です。
 これは、公式党史や、野坂参三や高瀬清の回想に依拠した犬丸義一『第一次共産党史の研究』(青木書店、一九九三年)などの考証とは、大きく異なります。
 
 さまざまな文献に出てきますが、今まで日本共産党の歴史は、一九二二年七月一五日に、東京渋谷の高瀬清の下宿で創立大会が開かれ、密かに旗揚げされた、と描かれてきました。その後の流れは、二二年秋のコミンテルン第四回大会に川内唯彦と高瀬清を派遣し、ブハーリンから日本の共産主義者は天皇制打倒を掲げなければならないと言われて「二二年綱領草案」なるものを日本に持ち帰り、それをめぐって二三年の二月・三月に共産党は天皇制打倒を掲げるべきかどうかで大議論になり、幸徳秋水らが死刑になった大逆事件の記憶から、堺利彦・高瀬清らがそんなことを議論したことがわかればそれだけでも危ないからと議事録には書かず記録に残さなかった。そこで、モスクワから指示された天皇制打倒の綱領草案をもらって活動を始めようとした矢先に、五月に警察が早稲田大学の佐野学の研究室・自宅を捜索して党創立の事実が知られ、厳しい弾圧で創立メンバーのほとんどが獄中につながれた。そこに関東大震災があって、震災後はとても活動ができないというので解党論が強まり、第一次共産党はいったん解散した、となっていました。
 
 それが二六年に、いわゆる「福本イズム」を奉じる旧党員を中心に、第二次共産党として再建されました。先に紹介した二六年日本語「綱領」は、その再建にあたって、日本共産党の綱領をどうすべきかと改めて検討され、モスクワで検討されたさいのファイルの中の一つです。つまり、初めは日本共産党結成の証としてモスクワに届けられた二二年創立綱領が、二六年のモスクワで、今度は内容的に本格的にチェックされたのです。そこでコミンテルンは、これを日本革命遂行の指針としては不十分と判断し、いわゆる二七年テーゼを、ロシア語で作ります。二七年テーゼをつくるときには、福本和夫と一緒に、山川均もモスクワに呼ばれていました。山川の方は、健康上の理由を挙げて、コミンテルンの招請を拒否したため、渡辺政之輔・鍋山貞親・福本和夫・徳田球一らがモスクワに赴き、山川イズムも福本イズムも共に否定されたかたちで、第二次共産党が本格的につくられる。そこで山川らは、労農派を結成して共産党と対立し、渡辺政之輔・徳田球一らの党がコミンテルンからお墨付きを得た共産党になっていく、という話になっているわけです。
 
 実は、共産党の「日本共産党の四十年」発表以来、公式党史として流されてきたこうしたストーリーの原型は、ほとんどが、一九三〇年代初頭に、三・一五事件(一九二八年)被告として捕まった獄中指導部がつくりあげた話です。徳田球一などは、取調べに対して最初はのらりくらり答えていたのですが、二九年のある時点から、積極的に共産党の存在意義を訴える方針に転換しました。その時につくられた話が、二二年一月極東諸民族大会に出席した日本代表団が「天皇制打倒」の方針をもらってきて(これも現在では事実でなく、極東民族大会で日本代表団に与えられたのは「天皇の廃止」ではなく「政治制度の民主化」であったことが明らかになっています)、二二年七月に党を結成するとともに、天皇制打倒のいわゆる二二年綱領草案をつくったが、公然と議論すると大逆事件の二の舞になるとして秘匿された、という英雄物語です。共産党が「戦闘的」歴史の始点とする「二二年綱領草案」なるものは、統一公判での市川正一の陳述『日本共産党闘争小史』(国民文庫)が準公式党史としてつくられる以前には、本格的に問題にされることはなかったのです。第一次共産党については、公式党史は、ほとんど神話だと私は考えています。
 
 そもそも一九二〇年代初めの日本で、世界の社会主義や共産党の綱領について本格的に論じることができたのは、山川均だけでした。『無産階級の政治運動』(一九二四年)、『無産政党の研究』(一九二五年)などの著作も出しています。例えば、ドイツ社会民主党のゴータ綱領やエルフルト綱領がどんな内容で、最大限綱領とか最小限綱領とはどんな意味かを当時論じることができたのは、山川均一人でした。
 
 モスクワに送られたさまざまな報告文書を見ますと、たしかに日本革命の綱領をつくることは問題になっていましたが、「天皇制」ないし「君主制(モナーキー)」という言葉は、一度も出てきません。「封建遺制」や「絶対主義」もほとんど出てきません。何がいちばん問題になっているかというと、「第一革命と第二革命」すなわち政治革命と社会革命の関係が、くり返し論じられています。また、アナ・ボル論争の流れから、普通選挙や議会をどう位置付けるかという議論は出てきます。しかし、君主制をどうするかという議論は、まったく出てこないのです。モスクワに残された記録文書からは、コミンテルン側はともかく、日本国内では二七年テーゼの直前まで天皇制を問題にする話はなかったことが分かります。私が神話とよぶゆえんです。
 
 二二年九月創立大会綱領の執筆者は山川均では
 
 そのような流れの中で、二二年九月創立大会綱領を見ていきますと、公式に言われてきた一九二二年七月一五日ではなく、九月のある日に、日本共産党の創立大会が開かれたことになります。そこで実際に採択された綱領は、皆さんにお配りしたものであったと思われます。そもそも公式党史の七月一五日創立説については、犬丸義一さんと岩村登志夫さんらの間で学問的論争がありましたが、少なくとも綱領採択を基準にする限り、日本共産党創立は、二二年九月になります。
 
 それでは共産党が言う「二二年綱領草案」とは何なのか、という問題になります。詳しくは私の論文で論じましたので、『大原社会問題研究所雑誌』の「一九二二年九月の日本共産党綱領(上・下)」を参照していただきますが、これは、一九二四年に『コミンテルン綱領問題資料集』がドイツ語、フランス語で出版された際に、ブハーリンがつくった世界革命のためのコミンテルン世界綱領草案に、これを日本に当てはめたらこうなるだろうという付録としてついていたものです。これが日本語になるのは、一九二八年です。これについて、山川均は『自伝』で重要な証言をしておりまして、『綱領問題資料集』があるのは聞いていたが、実際に見たのは昭和二、三年頃(一九二七年、二八年)だった、という言い方をしています。ご存知のように、山川均は、『自伝』で日本共産党の創立に関わったこと自体を否定し、荒畑寒村からそれではあんまりだと批判されているわけです。
 
 ただ私は、この『コミンテルン綱領問題資料集』についての山川の証言は、事実だろうと思っています。『山川均自伝』の問題は、書かれている部分についてよりも、書かれていない史実にあると考えています。つまり、当時の日本で一番綱領問題に詳しい山川でさえ、「二二年綱領草案」を五年間も見たことがありませんでした。さらに、二七年頃までに日本語で書かれた社会主義・共産主義文献、特高警察が集めた資料・裁判文書類、さらにはロシアやアメリカに残された当時のコミンテルン日本語文献を見ても、今日、日本本共産党が言う「二二年綱領草案」に直接言及したものはありません。
 すべては、モスクワでの二七年テーゼ作成・受容の後に、ドイツ語版『コミンテルン綱領問題資料集』から日本語訳が紹介され(青野季吉「震災前後二三」『社会科学』二八年一〇月)、こんな綱領草案もあったのだと想起されただけです。その想起のために集められた資料の一つが、今日、皆さんにお渡しした本邦初公開資料、多分一九二六年に記憶にもとづき書かれたと思われる、日本語「綱領」なのです。
 
 そこで今度は、英語で荒畑寒村と堺利彦が党名で署名した共産党二二年創立大会綱領に、何で署名をしていない山川均が関連するのか、という問題が出てきます。私は、それを起草したのは、サインした荒畑寒村でも堺利彦でもなく、山川均だと考えております。
 一つの理由は、先ほど申しましたように、二二年当時、綱領を書けるような政治的・理論的力量と理論的統率力をもっていたのは山川均しかいなかったという消極的理由です。
 
 もう一つの理由は、実はこういう綱領があったことを臭わせる当事者の発言・回想が、いくつか残されていることです。これは、犬丸義一氏の第一次共産党史研究でも部分的に紹介されていますが、荒畑寒村、高瀬清、浦田武雄らの、二二年創立時に簡単な、あまり詳しくない綱領があった、そこには天皇制打倒などは書かれていなかった、という回想が残されています。橋浦時雄や鈴木茂三郎らの回想をも参照すると、その当時の第一次共産党の公式文書は、すべて山川均が一人で書いていた、とあります。したがって、起草者は山川均と考えるのが妥当ではないか、と思うのです。この点の詳しい考証も、論文「一九二二年九月の日本共産党綱領(上・下)」に譲ります。
 
 さらに、もう一つの理由は、内容です。労農派の歴史を勉強してきた社会主義協会の皆さんなら分かると思いますが、講座派マルクス主義及び今日の日本共産党の立場からすれば、この二二年創立綱領の中身を見ると、天皇制(君主制)への言及がない、資本主義の発展と封建遺制との関連についての野呂栄太郎・山田盛太郎風分析もない、理論的に見ると実につまらない、凡庸な綱領なのです。唯物史観を日本に機械的に適用した素述のようになっている。だから、弾圧に屈せず、日本資本主義の特殊性を分析して天皇制権力と闘ったという栄光の共産党史には、なかなか入りにくい水準のものです。こんな綱領で党が創立されたのでは、その後の英雄物語にうまくつながらないのです。
 
 しかし、私は、それは理由があることだと思います。むしろ一般的で、凡庸であるからこそ、創立時の綱領たりえたと考えます。第一次共産党を創立する際に、それまで直接行動か議会主義か、アナーキズムかボルシェヴィズムかと論争してきた様々な流れが、国際連帯を求めて、一つにならなければならなかった。共同戦線党をつくるには、実はこういう水準での合意こそ、まずは必要であった、と考えています。つまり、一九二二年九月の時点で、日本の変革をめざして共産党をつくるために集まった人々の最大公約数的理解が、この創立大会綱領であった。モスクワにもっていって共産党創立を報告し、承認を得るために必要な限りでの綱領です。しかも当時は、大会で公然と議論して多数決で決めることなどできないわけですから、ごく狭い範囲の指導者たちの間で、短くて誰も反対できないような綱領をつくったのがこれであった、と考えます。
 
 もちろん起草者が山川均だという私の推論は、歴史的・学問的に確定したわけではありません。英文タイプですので、残念ながら筆跡鑑定もできません。しかし、先年亡くなられた、私にとってこの種の歴史研究の生き字引で助言者であった石堂清倫さんも、この英語文の調子からして、原文を日本語で山川均が書いて、荒畑寒村が英語に訳したのではないか、とおっしゃっていました。
 
 はっきりしているのは、第一次共産党創立メンバーのなかで、綱領がつくれる立場と力量・求心力があったのは、山川均、堺利彦、荒畑寒村の三人しかいなかったことです。その中で、山川均が綱領など理論面を担当し、モスクワとの関係で組織を代表したのがジェネラル・セクレタリーである荒畑寒村と、インターナショナル・セクレタリーであった堺利彦だった、と考えるわけです。
 
 再び現在の問題に関連して
 
 最後に、最初にお話しした問題に、立ち帰りましょう。ヨーロッパでは、共産党は社会民主党から左の分派として分かれ、ソ連の崩壊とともに、共産主義を捨てて社会民主主義に回帰しました。それに対して、日本の通説では、日本の社会民主主義は、共産党から分派として生まれたがゆえに、きわめてイデオロギー的で、共産党側の「反党分子」規定をはじめ相互の近親憎悪的対立が根強く、未だに統一できないだけではなく、両方とも先日の総選挙で勢力を激減させ消滅しつつある、という話になっています。
 
 しかし、二〇世紀初頭の社会民主党の結成を出発点に、平民社から継承される二二年九月日本共産党創立綱領、さらには第一次共産党の二二年から二六年くらいまでの活動記録、モスクワに送られたさまざまな報告文書等々を見ると、日本の共産党も、やはり社会民主主義から生まれ出発したと考えられます。秘密資料を読むと、モスクワでは、二七年まで、なんとか山川均を委員長に共産党を再建できないかと考えていたと思われます。ですから、二七年テーゼまでの日本共産党=第一次共産党は、やはり日本の社会民主主義の出発点だったと考えてよいのではないか。ところが、「コミンテルン加入条件21か条」や「コミンテルン規約」に拘束される国際共産党日本支部であったため、山川イズム対福本イズムの対立があり、二七年以降、山川、荒畑、堺の第一次共産党指導者たちが、徳田球一や渡辺政之輔ら第二世代に指導部を簒奪されて、それがモスクワ公認の共産党になっていく、それに対抗して労農派が形成される、という流れをたどるのです。
 そう見ると、日本でも、共産党は社会民主主義から生まれたと考えてもよいのではないか、ただしその社会民主主義が、ヨーロッパ型とは異なり、しっかり根付いていなかったのではないか、と思われます。
 
 私は、共産党系の人たちには、もっと社会民主主義、とくに北欧の社会民主主義に学べと言ってきました。しかし、実態的・政策的にかなり変わっても、日本共産党は、未だに社会民主主義に戻るという決断はできないようです。かつての「トロツキズム」と同じように、「シャミン」という軽蔑を込めた呼称も、いまだに残っているようです。
 社会主義協会の皆さんは、たぶん、自分たちは社会民主主義のオーソドックスな道を歩んできたと自負されていると思いますが、その社会民主主義の深さと広さが、今日問題になります。自分たちが第一次共産党の正統的継承者だということになれば、今度は、二七年頃に自分たちの党を奪ってモスクワと結びついていった日本共産党に、今日どのような態度を取るのかが、問われているのではないでしょうか。
                                (以上)
前の頁へ