二〇世紀日本の社会主義と第一次共産党
加藤哲郎
*『社会主義』04年2月号より転載 後半
一橋大学の加藤と申します。今時、社会主義を掲げた講演会に、こんなに人が集まるのにびっくりしています。昨年(二〇〇二年)、社会政策学会が社会民主党結成一〇〇周年を記念して「日本の社会主義」をテーマにシンポジウムを開き、私や犬丸義一さんがパネラーだったのですが、参加者は、年配の方を中心に二〇-三〇人でした。今日は、一時間ということですから、私がこの間研究してきたテーマの一つである第一次共産党を中心に、お話をさせていただきます。
日本の社会主義の特質
日本の社会主義を考える場合に、私は、二〇世紀初めにつくられた社会民主党という政治組織を始まりにするのが、いちばん適当だと思います。共産党を重視する人たちは、一九二二年の党創立を強調しますが、むしろ二〇世紀初頭に「社会主義を経(縦糸)に、民主主義を緯(横糸)に」新しい社会をつくることを唱え、すぐに解散させられた一九〇一年社会民主党を出発点・基準にして、この一〇〇年がどうであったかを振り返ることが大切だ、というのが私の考えです。幸徳秋水らの社会民主党に関しては、一〇〇周年ということで、この間各地でシンポジウムが開かれ、新しい資料を含む出版物が出たりしています(山泉進責任編集『社会主義の誕生』論創社、二〇〇一年)。
二〇世紀の社会主義の流れの中で、日本の社会主義の特質をどうとらえたらいいのか。ヨーロッパでは、ロシア革命の時代に、すでに存在した社会民主主義政党から左派が分かれて、レーニンのボルシェヴィキにならった共産主義の流れが生まれました。それまでの第二インターナショナルの系譜とは異なる、第三インターナショナル(コミンテルン)の系譜がつくられたわけです。この流れは、ソ連に次いで第二次世界大戦後に東欧諸国で国家体制となり、さらに中国、北朝鮮、ベトナム、キューバなどを含めると、一九六〇年ごろには世界の陸地の三分の一を覆うようになりました。
それが、八九年の「ベルリンの壁」崩壊など東欧市民革命、さらには九一年ソ連解体まで進み、崩壊していきました。その後ヨーロッパのほとんどの共産党は、名前を変えたり解散したりして、基本的には元の社会民主主義に回帰していきます。他方、最近また旗色が悪くなっていますが、一時はEU(欧州連合)加盟一五カ国のうち一三カ国で社会民主主義政党が政権につく形で、広義の社会主義の思想と運動が生き残るわけです。
ところが日本の場合は、通説的な見方から言うと、社会民主党・平民社の流れは大逆事件で弾圧され、いったん断絶する。ロシア革命の後、まずは一九二二年に日本共産党が、後に労農派・社会党に流れる人たちを含めてつくられた。しかしまだモスクワとの関係があまり強くなかった時代に、山川イズム対福本イズムの問題が出て、山川グループの労農派は、共産党から分かれて出ていく。つまり、共産党が日本の社会主義のメジャーな流れで、ヨーロッパとは逆に、共産党から社会民主主義が分派として出ていく、というかたちになっています。そのため日本では、「ベルリンの壁」崩壊からソ連解体に至る流れの中で、共産党・社会党の双方が、劇的に勢力を失いました。共産党の回帰できるような社会民主主義の伝統がなかった、ということになります。
戦後日本では、共産党が、ある時期まで大きな力をもっていました。労農派の流れは、社会党・総評に影響力をもっていた。日本では、共産党が「民主集中制」の組織原理をもつイデオロギー的に厳格な党となり、社会民主主義に戻るわけにはいかない。他方、日本社会党は、社会主義インターの中で、ヨーロッパ社民党が「第三の道」などを言い出した時にも、まだ生産手段国有化や社会主義革命を掲げ続けた最左派であった。咋今、共産党がようやく社民化しようとする時に、社会党の大勢は、すでに民主党に合流してリベラルの方向にシフトした。残された社民党は、北朝鮮問題で国民から反発され、共産党より弱小。そういう意味で、私は、日本ではヨーロッパのような、共産党の受け皿になりうるような強大な社会民主主義が生まれないまま今日に至っている、と考えています。
そこで、もう少し問題提起をさせていただければ、日本には果たしてヨーロッパ型社会民主主義は存在したのだろうか、という歴史的認識の問題になります。山川均、向坂逸郎の指導した労農派系列の社会主義協会のグループは、社会党を介して社会主義インターに加盟してはいましたが、国際的・イデオロギー的に見れば、むしろ共産主義に近い流れであった。その意味では、ドイツ社会民主党、イギリス労働党、北欧諸国社民党のようなヨーロッパ型の社会民主主義は、日本にはついに根付かないままだったと思うのです。
ソ連解体後のコミンテルン秘密資料公開
私自身は、歴史的には、共産党の流れを中心に研究してきたのですが、転機となりましたのは、一九九一年のソ連解体後、日本の社会主義・共産主義についても、さまざまな歴史資料が、モスクワから現れ公開されたことでした。その中に、戦前日本からワイマール時代のドイツに留学し、そこでファシズムや日本の満州侵略に反対する運動を組織して、ナチスの政権樹立時にモスクワに亡命した、元東京帝国大学医学部助教授で国崎定洞という医学者がいました。そのドイツ人の奥さん・娘さんと、私は、七〇年代初めにドイツに留学して以来親しくしておりましたが、その国崎定洞が、一九三七年末にモスクワで「日本のスパイ」とされ銃殺された時の秘密資料が出てきました。その資料に出てくる史実や人名を追いかけているうちに、一九三〇年代にドイツから数人、アメリカから一七人、それから岡田嘉子・杉本良吉など日本からの密入国者を含めると八〇人くらいの日本人がモスクワに行き、そのほとんど全員が、三六年から三九年の間に粛清されたことが分かりました。モスクワで新たに公開された秘密資料を読みますと、ほとんどの粛清犠牲者が、だれか別の日本人に「人民の敵」とか「日本のスパイ」とかと告発され、直ちに銃殺されたり、ラーゲリ(強制収容所)に送られて死んでいくのです。もちろんそこには、秘密警察による自白の強要やでっち上げがあり、ほとんどは一九五〇年代、スターリンの死後に、事実無根であったとして「名誉回復」されています。
実際は拷問で強制的に自白させられたらしい告発状や裁判記録をたどっていくと、その頃のソ連、日本、中国、欧米を結ぶ、世界の社会主義の動きが見えてきます。そこで一〇〇人近い、当時ソ連にいた可能性のある日本人のファイルをつくり、ロシアでスターリン粛清犠牲者の発掘と名誉回復を進めているボランティア組織メモリアルやサハロフ・センターの協力を得て、日本人の粛清記録がみつかると、ご遺族に処刑日を命日として伝え、埋葬された場所を特定し、遺品をご遺族にお渡しするボランティア活動をしてきました。インターネットで情報提供を呼び掛けたり、新聞社に捜索を頼んだりして公表していくうちに、それ自身が一つの研究対象になりました。それらをまとめたのが、一九九四年に出版した加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)、『人間 国崎定洞』(川上武と共著、勁草書房、一九九五年)、および二〇〇二年に出しました『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー)です。
さらに、粛清とは直接関係はしませんが、私が旧ソ連のコミンテルン史料館(旧ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所です)から持ち帰った一千点くらいの史資料のうち、日本の社会運動史にとって重要と思われる資料を、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』などに発表してきました。私が見たのは、主に日本の社会主義および共産党に関わる日本語・英語の資料ですが、それとは別に、片山潜、山本懸蔵、国崎定洞、野坂参三らの個人別ファイルもあります。実は、いまアメリカからは、どんどん若い大学院生がモスクワの旧マルクス・レーニン主義研究所史料館に行って、未公開資料を用いた博士論文を書いています。日本からは、残念ながら、こうした資料で日本社会主義関係を追跡しているのは、私と和田春樹さんくらいしかおりません。若い人たちは、旧ソ連や社会主義・共産主義運動史にほとんど関心がない。それで、スターリン主義の日本人粛清犠牲者研究のさいに副産物として見つけた資料を使って、先ほど述べました問題意識に従ってそれらを分析し、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』などに発表して、日本の社会主義の見直しをやっているわけです。
これからお話しする一九二二年九月の日本共産党創立大会綱領を含む基本的な文献は、すでに二〇〇一年に、『コミンテルンと日本』というロシア語版資料集がモスクワで出ています。和田春樹さんの監訳で、岩波書店から出版される予定です。すでに下訳は終わっていますが、和田さんの都合で延びています。その資料集が出ますと、これまで通説的に語られてきた一九二二年の共産党創立、山川イズム、福本イズム、二七年テーゼ、三二年テーゼなど、歴史のかなりの部分を、大きく書き換えざるをえないと思います。
面白いのは、これまで日本共産党の創立後の綱領的文書で、日本人の手で作られたものは、ほとんどなかったことです。知られているもので唯一日本人の手に成るのが、風間丈吉起草といわれる「三一年政治テーゼ草案」ですが、これは、日本を支配しているのは金融資本のファッショ独裁であると、どちらかというと当時の労農派の見解に近いものでした。しかし、すぐに三二年テーゼと講座派理論で否定され、天皇制絶対主義説・二段階革命論になるわけです。共産党が綱領的文書という二二年綱領草案、二七年テーゼ、三二年テーゼ、三五年「日本の共産主義者への手紙」の系列は、もともとモスクワでつくられ、原文はロシア語で、それらの草稿類もモスクワでみつかっています。
旧ソ連マルクス・レーニン主義研究所のコミンテルン史料館に行きますと、日本からモスクワに送られた、さまざまな日本語・英語の報告文書が残っています。今までの日本の研究は、日本の国内で流通してきた文書を中心に、コミンテルン日本支部=日本共産党の歴史を描いてきましたが、モスクワに行きますと、コミンテルンは、世界革命の一環として日本革命を考えていたことが分かります。
当時のコミンテルンは、属地主義といって、党員は国籍・民族ではなく、居住する国の共産党に所属し、人数が多いと言語別組織をその居住国共産党内につくります。そうすると、日本の共産主義・社会主義運動の拠点は、日本国内だけではなく、重要なポイントが世界中にあった。例えば一九二〇年代末から三〇年代初めには、国崎定洞、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助らのドイツ共産党日本人部があり、国内で平野義太郎、河上肇、堀江邑一らが協力していた。その活動には、労農派系で言うと、有沢広巳や土屋喬雄も関わっていました。それから上海を中心に、中国共産党日本人部があり、中国民衆の抗日闘争に関わっていました。さらに、もっと重要なのが、アメリカ共産党日本人部です。こちらには、早くから、片山潜、田口運蔵、鈴木茂三郎、猪俣津南雄、石垣榮太郎らが加わっていました。その流れが二八年頃に、ニューヨーク・シカゴからサンフランシスコ、ロスアンゼルス、シアトルなど西海岸にいる日本人移民労働者や中国人、朝鮮人の解放運動の組織化へと広がっていったのです。この日本人・日系人共産主義者グループは、一九三〇年代半ばの野坂参三のアメリカからの対日宣伝活動や、日本でのゾルゲ・尾崎秀実グループの活動を下支えしただけではなく、太平洋戦争が始まると、アメリカ軍に志願・協力して反ファシズムのために勇敢にたたかい、戦後はGHQに協力して日本の民主化に貢献しています。
そうしますと、二〇世紀日本の社会主義を考える場合、いちばん狭い意味では日本共産党、もう少し広げると講座派プラス労農派、ないし共産党プラス社会党という視点からとらえる見方ができますが、ほんとうはもっと広げて、空間的にも日本という狭い島国に閉じ込めてはならない。もう一つは、日本の社会主義思想を、一九〇一年社会民主党創立以来の諸潮流、キリスト教社会主義やアナーキズム、協同組合運動や新左翼運動、あるいは労働運動だけではなく、文学・芸術運動、知識人の活動から女性解放運動まで視野を広げて見なければならない、と考えています。
一九二六年頃の日本共産党二二年創立綱領日本語文
さて、そういうことを前提にして、モスクワに行きますと、日本の社会主義に関する資料は、日本語だけではなく、英語、ドイツ語、ロシア語などでも、いろいろ残されています。本日の演題である第一次共産党に関しては、私は約三〇点の資料を「一九二二年九月の日本共産党綱領(上・下)」及び「第一次共産党のモスクワ報告書(上・下)」と題して、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』(一九九八年一二月、九九年一月・八月・一一月号)に連載・発表してきました。私のインターネットの個人ホームページ「ネチズン・カレッジ」でも、写真入りで読めます(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Ho me.shtml)。
本日みなさんに資料としてお配りしましたのは、一九二二年九月の「Program
of the Communist Party of Japan」と題された英語文と、一九二六年頃に、おそらく記憶に基づいてこれを日本語で再現したと思われる、「綱領」というタイトルしかない日本語文です。一九二二年日本共産党創立綱領は、英語文だけが見つかっており、それを私は、現代日本語に訳して『大原社会問題研究所雑誌』一九九八年一二月号に初めて発表しました。ロシア語訳は、先に紹介した和田春樹さんたちの資料集『コミンテルンと日本』に載っています。そこで、この綱領が、実際に第一次共産党時代に存在し、ある程度は使われたと思われる証拠として、本日は、本邦初公開の資料である二六年「綱領」を紹介します。以下が、モスクワ・コミンテルン史料館の、一九二六年日本関係秘密ファイルに入っていた、日本語文です。[
]内は、英文を参照した私の補足で、日本語原文では空白になっています。
綱 領
[日本共産党]は国際[共産党]の一部として、官憲に対し秘密に存在し[ているプロレタリヤ党である]。
[日本共産党]は[ソビエト権力を基礎にした労働独裁を樹立して]資本主義制度を廃絶し、共産社会を建設する目的を以て、左の綱領を定む。
一 経 済
日本は極東に於ける最大の資本国である。殊に其の世界大戦中に於ける特殊の地位は急激なる資本制度の発達を来し、最も横暴無類なる搾取を実現してゐる。
日本共産党は、此の絶大なる搾取力の下に苦悩する労働者、農民、及び其の他の下層民衆を組織し、訓練し、統一して、[政治権力と]生産交通の機関をプロレタリヤの手に掌握し、社会主義的にそれを経営する事を期する。
二 労働問題
日本の労働運動はまだ極めて幼稚である。政府の苛酷野蛮なる圧迫の下に、労働組合は甚だ不完全なる発達を為しつつある。けれども自覚した労働者の革命的要求は頗る強烈である。組合運動に加入しない一般多数の労働者の中にも、本能的の反逆心は盛んに燃えてゐる。
[日本共産党]はこれらの反逆心と革命的要求とに対し理想を與へ、方針を示し、戦術を援け、組織を教へる事を任務とする。
既成の労働組合に対しては、深く其の内部に食い入って其の急進化に努め、無組織の労働者に対しては有らゆる接触方法を以て其の団結に努め、常に共同戦線の趣旨方針を以て資本家階級に対抗し、階級戦の一戦毎に於て共産党の実質を増大し、遂に絶大なるプロレタリヤの前衛となる事を期する。
アナキスト若しくはサンチ”カリストの思想が日本の進歩した労働者の間には、謂ゆる小児病の現象として、可なりに深く浸みこんでゐる。彼等は或は中央集権に反対し、或は共同戦線に反対し、或は労働独裁に反対し、或は政治運動に反対し、徒に空漠なる無政府の理想にあこがれてゐる。[日本共産党]は是等の夢想家に対し、断乎たる決意を以て、然し乍ら又有ゆる寛大と忍耐とを以て対応し、漸次に労働者間に於ける其の偏見を除かしめ、我々の実際的なる理想と戦術途に転向させる事に努めねばならぬ。
三 農民問題
工業の急激なる発達は、亦た農村の急激なる哀頽を来してゐる。自作農は高率を以て年々小作に陥り、土地の集中は顕著なる現象を呈してゐる。
近来、農村に於ける小作争議は頻りに頻発し、小作組合は到る処に組織されてゐる。多くの地主は小作人から土地を返還されて困ってゐる。彼等は土地を売らうとするが買手がない。それで彼等は機械の応用、賃金労働の雇用、或はごまかしの組合組織等を計画してゐるが、いずれも成功しない。
[日本共産党]は、これらの情勢に適応して、全国の農村に宣伝を行ひ、広く革命的精神を鼓舞し、共産的理想を理解せしめ、多数農民をして堅く都市の労働者と提携し結合せしめる事に努める。
四 政 治
我国の政党は既に明白な資本家党になってゐる。然し封建制度の余力が猶ほ官僚軍閥として残存してゐる。現在の政治は其の二勢力の妥協である。議会制度は極めて保守的で、まだ普通選挙すら行はれて居ない。要するにデモクラシーはまだ日本に於て甚だ幼稚である。
[日本共産党]は、議会制度が社会革命の妨害物であり、保守勢力の最後の城壁である事を確信する。然しデモクラシーを出来得るだけ徹底させる事はプロレタリヤ運動の為に有利である。故に我々はプロレタリヤの新しき政治運動を以て、デモクラシーの徹底を促進する。
然しながら我々の政治運動は、全然新しきプロレタリヤの政治機関を建設する事を究極の目的とする。故に我々はデモクラシーの徹底を促進すると同時に、極力デモクラシーの偽善を暴露させ、議会制度の有害なる真相を摘発する。そして結局、ソビエットの組織に依り、プロレタリヤ独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する事を期する。
五 軍国主義問題
東洋のドイツと称された日本帝国は、其の軍閥の優勢を以て世界に知られてゐる。日本の軍閥は其の優勢の力を以てアメリカとすら開戦しようとしてゐる。彼等が資本制度を撤廃する[ものではなく、貪欲に市場を切望するブルジョア資本家の自然な同盟者である]
日本軍閥の精神は其の愛国心に在る。国民教育及び軍隊制度に於て極力鼓吹する愛国心は今だに多数国民の心を奪ひ、其の目をふさぎ、其の耳をつぶして[ゐる。軍閥が資本家を]擁変するといふ真[の]目的は、まだ多数国民に看取されて居らぬ。[日本共産党]は此の愛国の迷信を醒まし、軍閥精神の根本を破壊し、遂に軍隊全部の崩壊を計らねばならぬ。
六 朝鮮支那問題
[日本共産党]は云ふ迄もなく侵略主義に反対する。支那に対する干渉、満州蒙古に於ける勢力範囲、台湾の併合、悉く我々の反対する所である。
殊に朝鮮の併合は最大の害悪である。故に我々は朝鮮人の独立運動を援助する。
極東に於ける三大民族、支那、朝鮮、日本は、経済上及び政治上に於ける其の密接の関係からして、是非とも相携へて革命の道を歩まねばならぬ。故に吾々はプロレタリヤの世界的団結の中に於て、殊に右三民族中のプロレタリヤの団結を重要視するものである。
以上は日本[共産党]の大体の綱領である。我々は国際共産党の一部として、其の指導と援助との下に、常に此の綱領に依って努力し活動するのである。
日本共産党二二年創立綱領の英文原文と、この二六年日本語「綱領」を較べてみましょう。日本語の方の見出しを見ていきますと、経済、労働問題、農民問題、政治、軍国主義問題、朝鮮支那問題となっており、英語の二二年創立綱領と、まったく構成が同じです。ただし、英文の方がやや長く詳細で、日本語文には、省略があります。おそらく二二年創立時の綱領を、文書で残すことなく頭の中に記憶していて、二六年の、いわゆる日本共産党再建のさいに、記憶に基づいて、二二年創立大会時の綱領を再現したものと思われます。そこで、二二年日本共産党創立綱領の、二六年日本語訳「綱領」の内容を見てみましょう。
冒頭に主語がありませんが、これは、万が一官憲の手に渡った際秘密にするためで、「(日本共産党)は国際(共産党)の一部として官憲に対し秘密に存在す。(日本共産党)は資本主義制度を廃絶し、共産社会を建設する目的を以って、左の綱領を定む」となっています。ここから、二六年にモスクワにいた日本人が日本語にしたものではなく、当時日本にいた日本共産党創立時の関係者が、危険を承知でモスクワに届けたものと推定できます。
「一 経済」のところで、「日本は極東における最大の資本国である」「日本共産党は、此の絶大なる搾取力の下に苦悩する労働者、農民、及び其の他の下層民衆を組織し、訓練し、統一して、生産交通の機関をプロレタリヤの手に掌握し、社会主義的にそれを経営することを期する」となっています。
次の「二 労働運動」では、「日本の労働運動はまだ極めて幼稚である」云々と言って、「既成の労働組合に対しては、深く其の内部に入って其の急進化に努め、無組織の労働者に対しては有らゆる接触方法を以て其の団結に努め、常に共同戦線の趣旨方針を以て資本家階級に対抗し、階級戦の一戦毎に於て共産党の実質を増大し、遂に絶大なるプロレタリヤの前衛となることを期する」とあります。その後にアナーキズムやサンジカリズムの批判が行われています。
「転向」という言葉が、後の権力への屈服という否定的意味合いではなく、この頃すでに使われていたことが、末尾の文章でわかります。また英語のUnited
Frontを「単一戦線」「統一戦線」ではなく「共同戦線」と訳していますから、山川均の共同戦線論を意識していると思われます。
「三 農民問題」のところで、工業の発達によって農村、特に小作農が苦しんでいるという話がありますが、ここには日本側がつけたのか、モスクワのコミンテルン側がつけたのかは文書そのものからはわかりませんが、コメント風の書き込みがあります。そのコメントは、「資本の転回」「小作人に土地を授ける件」と読めます。
「四 政治」では、議会制度は極めて保守的で、まだ普通選挙さえ行われていない。デモクラシーは日本ではまだ幼稚である、という認識です。ここにも書き込みがあり、「然し封建制度の余力が猶ほ官僚軍閥として残存してゐる」という部分に傍線が引かれ、「説明を要する」「封建制度に対する意見」とコメントされています。
「議会制度が社会革命の妨害物」のところでは、「資本主義の政治構成」「プロレタリヤの政治的国家」と書き込まれています。「極力デモクラシーの偽善を暴露させ、議会制度の有害なる真相を摘発する」という部分には、「各政党の主張及基盤」と書き込みがあります。「結局、ソビエットの組織に依り、プロレタリヤ独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する」の箇所には、「ブルジョア革命が行われるか行われないか不明」とコメントされていますから、後の二七年テーゼにつながる、コミンテルン側の書き込みかもしれません。
「五 軍国主義問題」では、「東洋のドイツ」と称された日本帝国は軍閥が強く、愛国心をあおっているという話をしていますが、「資本主義と軍国主義との関係」という書き込みがあり、愛国心に関連して、「教育問題、婦人問題、水平社」と上書きされています。この末尾に「結論の修正」と書き込みがあるのは、英語の原文を書き込み者が持っており、英語では「プロレタリアートの赤軍組織化」となっていたためかもしれません。
最後の第六項目で、極東における三大民族、支那、朝鮮、日本の連帯を語っていますが、「共産主義に導くとする意、戦線の一致、修正」という書き込みがあり、おそらく「我々は朝鮮人の独立運動を援助する」の部分の内容が要チェックとされたのでしょう。
全体にわたって、日本語文にも、上書きと思われる書き込み文にも、天皇や君主制・天皇制への言及はありません。この上書き部分が、一九二六年時点での、二二年創立綱領への批判的コメントと思われます。