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第二章(2)
 
第三節 ブルジョア民主主義体制と主体
(14) 自国で展開され「成功」しているブルジョーアジーの支配体制は、(ブルジョア)民主主義体制と呼ばれる。第一にブルジョア民主主義とは何か。ブルジョアジーは、一方では、プロレタリアートに形式的には階級として団結し、組織をつくり、代表者をだして階級として交渉し、ある程度までは闘争することを認め、それを保護する立場をとる。他方ではこの団結の内容、組織の指導部・代表者、闘争の方法などに介入し、実質的には 階級の運動総体を現状にしばりつけようとする。このためのアメと思想攻撃の展開によって、民主主義は強力な支配体制となる。ブルジョア民主主義支配体制は、イギリス、アメリカを筆頭に、第二次世界大戦後の日本においても帝国主義段階が深まると共に進み確立した。それは今日では後進国への支配体制についても応用されている(第U章(11))。また接近の思想上の典型はドゴールの「参加の哲学」や、労資協調路線である。
 第二にブルジョア民主主義体制への変更の基礎は、一方ではプロレタリアートの抑えることのできないたたかいの前進である。ブルジョアジーは形式的には譲歩せざるをえなかったし、日本やドイツでも第二次大戦後そうであった。他方では独占資本主義の物質的力量の変化である。ブルジョアジーは実質的にはプロレタリアートを抑圧しきるアメと、思想攻撃の様々な手段能力をたとへば二〇世紀はじめのロシアでよりはるかに向上させている。この二つの基礎があるかぎり、支配体制はブルジョア民主主義以外にはありえない。その最も「安定」している例はアメリカである。
 第三にブルジョア民主主義体制は、当然にも、法律化・制度化されている。この制度上の典型は一方で議会であり、他方で労働組合(および労働者党)である。この法律と制度とは不変のものではなく、客観情勢や力関係によって不断に変わる。議会と労働組合の存在は不変だが、議員の選出方法は小選挙区制へと改悪され得るし、労働組合の権利は公務員労組スト権奪還として形式的には前進し得る。法律・制度をどの地点に立てるかをめぐって、プロレタリアートは不断に、「ブルジョア民主主義拡大」のためにたたかい、また「ブルジョア民主主義破壊」に抵抗してたたかう(戦争直後の日本でとくにそうだったように、今日の独占資本主義国ではどこでも、「民主主義」という思想は最高の価値を与えられ、ある人々にとっては「社会主義」と同じようにたたかいの目標にまでなっている。しかしこの通念は不充分な理解であり、第1章(11)(32)項などでみた六〇年代の「敗北」の背景である。民主主義は本質的な目標ではなく、目標を実現してゆく方法として考えるべきである。レーニンは『国家と革命』の中で民主主義を次のように定義した。「多数者への少数者の服従を認める国家。すなわち一階級が他の階級に対して、住民の一部が他の一部住民にたいして系統的に暴力を行使する組織」−−傍点はレーニン。ブルジョアジーが資本主義社会を維持するために、あるいはプロレタリアートが社会主義社会への転化をかちとるために、行使する方法、これが民主主義である。一般的に「純粋に」民主主義を考えることは頭のなかだけなら不可能ではない。しかし現実の社会と政治では、必らず支配者・被支配者がいて「民主主義」の思想と制度を自分の目的のために行使している。だからだれが、何のために、を同時に考えることが必ず必要である)。
 
(15)日本でのブルジョア民主主義は、支配体制として六〇年代後半から『成功』しはじめたということができる。四〇〜五〇年代には、プロレタリアートの前進の急激さと敗戦によって外からもちこまれた性格とによって、制度・法律だけが先行し、アメ・思想攻撃が有効にはともなわなかった。ブルジョアジーがこの手段の能力とを発達させえたのはようやく六〇年代の高度成長の過程であった。五〇年代以前のおしぎみの情勢のなかで、日本プロレタリアートは、いくつかの他の独占資本主義国では起り得ない重大な譲歩を、少なくとも法律・制度上はかちとり、現在も保持している。その典型は日本国憲法であり、とくに第九条による軍隊の禁止である。これらは逆に日本ブルジョアジーにとっては、対外帝国主義政策の推進のためだけでなく、国内の最後の支配の武器をも大きく制約する致命的政弱点となっている。(第1章(30)、第W章(18)、(19)、第W章第四節参照)。(日本での支配体制が、ブルジョア民主主義から、たとえばファシズムに移る、という可能性は、基礎条件が変わらないかぎりない。もしもプロレタリアートの力量が、プロレタリアートの他の労働諸階級への影響力も含めて極度に落ちれば、この事実が本当に起ったとすれば右の条件は変ったことになろう。だが、ブルジョア民主主義体制は、暴力的な弾圧中心の支配体制を展開すればそれがたちまちプロレタリアートの思想・意識の成熟をうながす、という状況がおるからこそ成立した。暴力的支配体制をブルジョアジーの側から否定してみせることによって、かろうじてプロレタリアートの階級総体の成熟を防止し、現状への幻想につなぎとめているのが、第二次世界大戦後のブルジョア支配体制なのである。この状況をもたらすまでのプロレタリアートの総体としての成長を、われわれは確信をもってふまえるべきであり、一般的に頭のなかだけで「もっと悪い情勢になったら・・・」と空想するのは非科学的である)。
 
(16) ブルジョア民主主義体制のもとで、労働諸階級の大衆の分解はとくに鋭くなる。分解そのものはいつもあり、いつも基本的には三つに分れる。
 第一にはこの体制の形式にゴマかされつつ、アメ・思想攻撃にほぼ完全にのみこまれ、本気で現在の資本主義社会に幻想をもっている一部分−−「勝共連合」「民族派学生運動」などを含む右翼集団から、職場のQCサークルなどに夢中になっている青年まで。公明党もここで補完物の役割を果たしている。
 第二にこの体制にもかかわらず、資本主義社会そのものに立ち向おうとする、様々な差はあるが何らかの自覚を持った一部分−−この部分もこれまでより数多く生まれている。そこには、ラディカルな心情と行動力とを持つ者も含まれる。独占資本主義に深く組みこまれ、その歯車の一つとして搾取・抑圧され疎外されている者にとって、気がついてみると、自分をとりまいていたすベてはあまりにみにくい嫌悪すべきものである。第三に資本主義社会での現実の生活のなかで個々には多くの矛盾を感じながらも、この体制にゴマかされて矛盾の根源を全体的に見ぬけないでいる大部分−‐「一般組合員」「無関心層」と呼ばれる大部分の労働者がいる。この仲間たちは攻撃が激化してきているだけに、矛盾が鋭い形をとってつきつけられた時には、その問題にかぎっては、五〇〜六〇年代よりむしろよりラディカルに自然発生的に労組と関係なくにでも決起する。しかしその時だけの、その問題だけのたたかいに終り、長期的な一貫性、資本という本質に向かう方向性、組合としての組織性という面では、逆にむしろ大きく後退させられているのである。
 このような状況に大多数を抑圧し得ている、第二の部分と切り離なし分解させているという意味で、独占資本の支配体制は「成功」している。高度に完成されたこの支配体制のもとでは、プロレタリアートの自覚・力(団結)・闘争能力(ストライキ等)を、終局目標に向かって発展させる主体的働らきかけが、たとえば後進国にくらベてより一層綿密に長期に深く広く果たされていなければならない。それなしには、ブルジョア民主主義という支配体制のもとでは、現に無数に飛びかっている火花は革命にまで発展できず、すでに見たようにバラバラにその場かぎりに消されてしまうのである。
 
(17)ブルジョア民主主義という支配体制をとった独占資本主義国では、階級総体の決起は組織力―主体的条件のかってない、飛躍的な強化によってのみ準備できる。ブルジョア民主主義はこの組織力の強化を弾圧することは(形式的には)できない。主体的条件にとっての主要な場は労働組合の運動と組織とだがブルジョアジーはこれを禁止することができない。国家権力を支える行政府―官僚機構のなかでさえ、プロレタリアートはその下部を構成する労働者部分を自分の側にうち固め、官僚機構の破壊とつくりかえのために準備することが、形式的にはできる。ブルジョア民主主義という支配体制は、両刃の剣である。われわれはこの支配体制によって、後進国でのたたかいや、二〇世紀はじめのたたかいにくらべて、あるものを失ったが他のものを得ることができる。何が失なわれたか、そしてより重要なことは、何を利用できるかを以上のように正確に知らなければならない(両刃の剣としての性格が最も典型的にあらわれているのはブルジョア民主主典の議会制度である。一方では、国家権力の中枢をなすこの制度のなかで、プロレタリアートは多数を占め、または事実上それと同じ効果を実現して、政治権力を獲得することができる。ただしこれらは形式的にできるということであり、実際の実現は、客観的条件下で、次の(18)〜(21)にのベるプロレタリアートの実力に支えられて暴力的にのみ可能である。他方で大切なのはこの議会制度のプロレタリアート、さらにとくにその他の労働諸階級大衆のなかに、むしろますます深く根を下ろしている事実である。客観的条件のもとでさえも、議会制度を敵視、または無視して政治権力を国内戦争の形で獲得しようとすることは、この最後の決戦の段階でもう一度、ブルジョアジーに反撃の口実を大衆的規模で与え、階級総体の決起を失うことに他ならない。この二つの理由で今日の独占資本主義国での革命は、日本以外でも議会をつうじて行なわれる外はないであろう)。
 
 第四節 階級的暴力とは何か
(18) 革命はプロレタリアートが実力=暴力をもって政治権力をブルジョアジーから奪取し、プロレタリア民主主義の支配体制(プロレタリア独裁)を逆に展開して社会主義社会への転化を開始する出発点である。ブルジョブの支配体制が民主主義であっても政治権力の実力による奪取および確立という本質は変わらない。われわれはブルジョア民主主義という現在の支配体制に適応しつつ、そのもとでプロレタリアートの実力を最大限に結集できるように、日本革命の戦略をたてる。議会をつうじての政権奪取という方式は、実力による革命=実力の最大限の結集という、以上の原則からこそたてられた妥協の余地のない唯一の正しい方式である(「実力」を軍事力<武力>に限るのは誤まりである。実力とは意識・力・闘争能力のすベてであり、プロレタリアート・勤労大衆総体の決起である。武力はよしそれが一時的に直接の効果をあげるものだとしても、階級総体としての進撃を妨害し一部分の決起になってしまうなら、「実力」となりえない)。
 
(19) 独占資本主義国での革命を支える、真の実力の結集の場は二つある。第一には、労働組合そのものである。労働組合は、本章(8)頂でみた『社会主義の学校』であるだけでなく、政治権力奪取(革命)での主要な基礎であり、さらに革命後の社会主義への全社会的な転化の過程をみちびく、プロレタリア独裁の主要な基礎である。レーニンはロシアでの権力奪取とプロレタリア独裁の最初の三年間の経験の真只中からこうのべている。
「党はその活動をおこなう場合、直接労働組合をよりどころとしている。(労働組合として)形式上は共産主義的でない、弾力のある、そして比較的ひろい、きわめて力強いプロレタリア的な機関が全体としてできており、これによって党は階級と大衆とにかたく結びついており、またこれによって階級の独裁が実現されている。経済的建設だけでなく、軍事的建設においても、労働組合との固い結びつきがなかったら、組合の熱烈な支援がなかったら、われわれは二年半どころか二カ月半も国をおさめ独裁を実現することはできなかったろう」(傍点はレーニン)。ロシアでのプロレタリア独裁は、このすぐ後に「党の活動はソヴェトをつうじてなされる」とのべられているとおりだが、労働組合はその際に「直接のよりどころ」だったのであった。
 われわれはこのような実力結集の場となる労働組合を構築しなければならない。正確にいえば、@われわれはプロレタリアート総体を反独占資本と社会主義への転化にむけて、思想的意識的に成熟させる。A同時にそれを基礎に、プロレタリアート総体を右のような階級的労働組合組織として団結させる。Bこのように思想的に組織的に結集したプロレタリアートの力が、最も効果的に発揮されるのはゼネラルストライキである。ゼネストを政治権力奪取に向けて展開できる闘争能力を築かなければならない。C他の勤労諸階級を反独占資本の側に結集する影響力をもつこと。 
 
(20)独占資本主義国での革命の実力を結集する問題で、第二に、プロレタリアート以外の全勤労諸階級の実力、反独占資本主義の思想・力・闘争能力を結集することが重要である(農民・学生・中小企業主など)。プロレタリアートは最大限の努力をはらい、必要な妥協を辞さず、少しでも同盟者を増やして実力の最大限の結集をかちとらなければならない。たとへどんなに小さな「ひび」であっても敵のあいだの「ひび」を、それからまたたとえどんなに小さな可能性であろうとも、一時的な、動揺的な、ゆるい、たよりにならぬ、条件的な同盟者でもよいから、大衆的同盟者を味方につける可能性を、かならず、もっとも綿密に、注意ぶかく、用心ぶかく、じょうずに利用し活用しなければならない。
 ブルジョアジーは、かって典型的にファシズムがその初期に必らずそうしたように、また今も後に第V章三節でみるように、プロレタリアートととくにその他の勤労諸階級に対して、そのもっとも切実な必要と要求に、デマ的に−−アメと思想攻撃とによって訴え、現状と資本主義の側につなぎとめようと努力している。われわれはこれを許してはならない。逆にこれら勤労諸階級を、社会主義社会をめざすプロレタリアートの側に結集しなければならない。それが反独占統一戦線である(日本での当面の反独占統一戦線の具体的内容は、第W章五節をみよ。ここで確認しておくべき重要な条件は、全勤労諸階級を結集してゆけるためには、プロレタリアートが、@知的精神的原動力として、反独占資本の方向を明確に大衆的規模で明らかにでき、A組織的にも統一戦線組織または機関の中心を担え、B闘争のなかでゼネストという決定的な打撃力を行使できる−−という三点での実力を確立していなければならないということである。第I章(10)〜(12)の六〇年代の経験をもう一度参照せよ)
 
(21)プロレタリアートのなかである部分は他の大部分より時間的により早く社会主義への転化の必然性に気づく。この部分=社会主義者は第一に、個々の要求闘争(改良、抵抗闘争)のなかで他の大部分の中心となり、もっとも断固としてたたかうだろう。また第二に、社会主義社会への転化という終局の目標やそのためのプロレタリアート総体の発展を常に忘れないで、その実現のために努力するだろう。その時当面は、政治権力奪取をどのような形態で、どのような実力で行なうか、またその実力を築く方法について頭のなかでだけなら様々な可能性が考え得るために論争は避けられない。さらに第三に他の大部分の平均的な発展度ではまだできないが、しかし必要な、とくに総体の発展にとって必要であるようなたたかいの課題や闘争形態をも訴え担うだろう。たとえば政治闘争のあるものはそうである。最後に第四に、いかなる時も団結と組織的活動とが重要であり、そこにのみプロレタリアートの実力が生まれることをより強く自覚しているであろう。
 大まかにいって以上の四点について、社会主義者はプロレタリアート総体の他の大部分と異なっていて、より以上の活動をすることができる。この相違を出発点として、このそれ以上の活動を任務として、社会主義者は団結する。これが社会主義党である。
 社会主義党(「前衛党」)は、実力を結集する第三の場であり、同時に主体である。社会主義党は現在(政治的停滞期)、全国民的危機状況、プロレタリア独裁の時期のすべてをつうじて、社会主義への転化へ、階級運動を導びく主体であり指導部である。そのうちの現在での、停滞期での任務は主体的条件を成立させることである。この時期に、社会主義党は、プロレタリア総体ととくに労働運動のなかで行を共にする。しかもそのなかで常に終局の目標を代表しつづける。この二つのどちらがかけても、任務を遂行することはできない。社会主義党はプロレタリアートの団結形態の一種であり、階級総体の一部分としてのみ意味を持っている。社会主義者の党としての団結は、必要不可欠である。ブルジョアジーが支配体制を高度に発達させた帝国主義段階では、とくに決定的である。社会主義者が団結し、右の四点を中心に目的意識的に主体的条件を築かなければ、そして大変重要なことだが、実際に効果的に築ける能力をもっていなければ、革命も不可能である。
 
 
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