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第U章 世界史の流れ

第一節 歴史の法則と階級闘争

(1)「マルクスは、資不主義社会が社会主義社会へ転化することは避けられないという結論を、まつたく、もっぱら近代社会の経済的運動法則から導きだしている。

労働の社会化は、幾千の形態でますます急速に前進しており、マルクス死後の半世紀のあいだに、大規模生産の成長、資本家のカルテル、シンジケート、トラストの成長にも、金融資本の規模と威力の非常な増大にも、とくにまざまざとあらわれているが−−これこそ、社会主義がかならず来るということの主要な物質的基礎である。

 この転化の知的・精神的な原動力でおり、その物質的な執行者であるのは、資本主義そのものによって教育されるプロレタリアートである。

 プロレタリアートのブルジョアジーにたいする闘争は、さまざまな形態をとって現われ、それらの形態の内容は絶えずますます豊かなものになってゆくが、この闘争は、不可追的に、プロレタリアートによる政治権力(プロレタリアートの独裁)をめざす政治闘争になってゆく。」(レーニン『カール・マルクス』、一九一四年)

(2)人類の社会はこれまでもこれからも法則に導びかれて変化し、人間の労働生産力=人間が自然に働らきかけそれを創り変える力が、より豊かな生活をめざしてますます進歩し発達するのに対応して再編される。生産力の進歩を止めないかぎり、歴史を止めることはできない。資本主義社会から社会主義社会への転化も、このような歴史の一コマである。現状=資本主義社会を維持しようとする人々はこの発見された事実を陰弊することにヤッキとなり、これは一つの「主義」だ、つまり「そういう考え方・進み方もあるが他の考え方・進み方もある」という。しかし事実というものは誰の眼にとっても、おそかれ早かれ、結局は認められる。この事実の全体を一番早く発見したのがマルクスであり、いまわれわれがマルクスやその後継者(とりわけレーニン)の残した説明に助けられて発見する。このように本質的にはだれもが各々に発見できる事実をおし進めるという点に、社会主義・共産主義運動の基本がある。この基本は運動の実践上の基本でもなければならない(これが忘れられると、情勢が厳しくなった時、社会主義党建設が自己目的化されたり、政策宣伝が実践の中心になったり、いわゆる対外追従が始まったりそれらが階級的政治的意識の源泉であるかの幻想が生まれる)。

()プロレタリアート(労働者階級)は、この事実を最も発見しやすい条件下にある。資本主義社会では、われわれの生活は雇用と賃労働に依存しており、生活・賃金をひき上げようとすれば雇主(ブルジョアジー)との対立が避けられないし、自分たちの団結の必然性が自覚される。この対立自体は資本主義社会ででもいまでは公認され、労働組合への団結、資本との交渉・闘争は、様々な口実による制限を含みつつも、法律上の権利とされているほどである。この対立のなかに、階級闘争なしに働らく大衆にとっての根本的解決はあり得ない(たたかう必然性)という事実がきわめてよく、最も鋭くあらわれている。つまり歴史の事実全体を発見する糸口がある。プロレタリアートは自然発生的に日常無数に、この糸口を自分で体験する。しかもこの糸口は、プロレタリアートに団結の必要を教える。プロレタリアートはこの故に、階級総体として、社会主義革命の原動力であり、執行者である。この糸口も社会主義運動の進め方のなかで忘れないようにしなければならない(この対立は糸口であってそれ以上ではなく、とくに政治闘争=対国家権力闘争への発展の基礎にすぎない。しかしこの糸口を軽視し、階級的政治意識一般を第一歩から、「労働者の雇主にたいする関係の圏外からだけもたらすことができる」などと思いちがうと、その途端にプロレタリアートの階級這動から切り離なされる)。

(4)不断の対立を、転化の必然性という事実全体を発見する糸口に、また団結の出発点にできるかどうか。この点をめぐって革命と反革命との最も激しい種類の攻防戦が展開されてきた。資本主義社会の現状を維持しようとする者−ブルジョアジーは平常の状況下では常に優勢であり、対立を隠蔽しまたは歪曲できる。資本主義社会の思想・意識は、社会主義思想よりその起源においてずっと古く、いっそう全面的に仕上げられてかり、はかり知れ次いほど多くの普及手段をもっている。こうして平常の条件下では、大部分の労働者は資本主義社会に幻想をもち、いわゆる「資本主義のカス漬け」になり、バラバラの状態にされている。だから、社会主義社会への転化という法則をすでに知っている人々(「社会主義者」)は、不断に意識的にブルジョアジーの思想・意識、その教育・宣伝に対してたたかい、プロレタリアートの成長を防衛せねばならない。人間社会では、物資的基礎だけでなく、その上にそれに応じた思想・意識がプロレタリアートの階級総体として成熟してはじめて、転化を開始(革命―政治権力の奪取)することができるからである。このような内容の目的意識の全体こそ社会主義者の特徴である。

()「マルクスはこう書いている。『大きな歴史的発展においては二〇年は一日にも等しい。もっともそのあとで、二〇年を一つに圧縮した数日がくることもあろうが』。

 プロレタリアートの戦術は、この人類史の弁証法を考慮にいれて、一方では先進的階級の自覚と力と闘争能力を発展させるために、政治的停滞の時期、または亀のようにのろのろした時期を利用すると共に、他方では、その階級の運動の『終局目標』の方向に向って、つまり『二〇年を一つに圧縮した』偉大な日々がきたとき偉大な任務を実践的に解決できる能力をこの階級のうちにつくり出す方向に向かって、この利用の活動全体をおこなわなければならない。

 この問題ではマルクスの二つの考察がとくに重要である。その一つは『哲学の貧困』のなかにあるプロレタリアートの経済闘争と経済的諸組織にかんする考察(きたるべき戦闘のためにプロレタリアートの軍勢を訓練する長い期間全体にわたる経済闘争と労働組合運動との綱領と戦術)であり、いま一つは、「共産党宣言」のなかにあるプロレタリアートの政治的任務にかんする考察(政治闘争の戦術についてのマルクス主義の根本命題−−『共産主義者は労働者階級の直接当面する目的と利益を達成するためにたたかうが、しかし、現在の運動の中で同時に運動の未来を代表する』)である。」(レーニン『カール・マルクス』一九一四年)。

() 六〇年代は、また現在も、右のレーニンの言葉でわければ、「政治的停滞期」にあたる。この現状に対して「二〇年を一つに圧縮した」偉大な日々とは、労働者大衆全体を、ほんとうの、決定的な、最後の、大きな革命闘争にみちびくような具体的な特別の転換点を意味する。この特別の転換点を自ら経験したとき、一方では労働者階級の何千万人の社会主義社会をめざす意織・意志・情熱・願望が現実のものになる。他方では同時に支配階級は政府[ママ]危機におちいり、中間分子(プチブルジョアジー)の事態集収の幻想も破産し、ついにはブルジョアジーの全階級勢力がまったく混乱し、たがい同士ではげしくいがみあう状況にまで至る。このような具体的な転換点にみちびかれた、全国民的な−−被搾取者をもまきこむような危機なしに、革命―政治権力の奪取はあり得ない。労働者階級総体(全員のではない)の見解に転換がなければ革命は不可能だからであり、そしてこの転換は、大衆の政治的経験によってつくりだされるのであって、宣伝だけではけっしてつくられるものではない。これはあらゆる偉大な革命の根本法則である。この危機状態は「革命の客観的条件」と呼ばれる。(客観的条件の規定的な意味を忘れると、階級総体の決起なしに政治権力奪取をめざす誤まりが生まれる。それを「日和見主義」と呼ぶ。「ただちに革命政権樹立」と幻想するのが極左日和見、「政治権力がとれれば何でもよい」と公言するのが大衆迎合・改良主義である。但し客観的条件の重要性は、われわれの主体的な働らきかけ・準備を不必要にするのではなく、むしろ逆である。このパンフレット全体がその重要性を明らかにすることを中心課題としているが、二章()()()さらにとくに(10)(16)を必らず参照せよ)。

() 六〇年代とまた現在の政治的停滞期を、われわれは社会主義への転化の全過程を見渡しつつ位置づけ、この期間に果たすべき任務を確信をもって遂行する。停滞期には停滞期の任務がある。その時期の任務を完遂することは原則であり、低くまたは「高く」その任務からズレることはいずれにせよ日和見主義である。現在の任務は独占資本とのたたかいのなかで、プロレタリアートの自覚(思想と意識)・力(全階級な団結)・闘争能力(とくに政治ゼネスト)を発展させること。しかも社会主義社会への転化のための国家権力奪取の方向に向って発展させることである。個々のたたかいのなかで、そのたたかいの直接の目標(要求の実現)だけでなく、それを重視しながら同時に、階級の運動の未来・終局の目標のための成果をかちとることである。

 「終局の目標にむかって」「能力をつくり出す」という任務を正確に果たすことは実は難しい。個々のたたかいの目標だけを追う傾向や(改良主義・組合主義)、いまただちに終局の目標に向って突っ走ろうとする傾向(極左主義)が生まれやすい。あるいは個々の要求と終局の目標の間に別の中間的目標をおき、実践的には右の二つの傾向のどちらかと同じ誤まりに陥るゴマカシもでてくる(民主主義二段階革命とか、「過渡的要求」など)。革命を執行する階級総体の発展は、主体的条件と客観的条件との二つが共に成立しなければ不可能である(現在を政治的停滞期−−革命の客観条件がないというとき、但し、第U章第二節を参照せよ。一連の鎖をなした世界帝国主義のなかで独占資本主義国は今政治的には遅れた環になっている。「左」右の日和見主義はその一因としてこの分析をもたないため、後進国は革命期→日本もそのはず→極左行動または大衆迎合、の誤りに落ちこむ)。

()前の()()()項の任務を内容とする目的意識が、社会主義者の特徴であり、社会主義党の団結の本質である。社会主義者はこの任務を、プロレタリアート全体を包む組織(大衆組織)のなかで、その個々のたたかいをつうじて一歩一歩果たしてゆく。大衆組織とその個々の要求闘争のなかで、そこでだけ、任務を果たすことができる(ブルジョア民主主義体制のもとではとくに重要)。この時とくに、労働組合が最も重要である。労働組合を通じる以外に、労働組合と労働者階級の党との相互作用を適じる以外に、世界中のどこにもプロレタリアートの発達はおこらなかったし、おこることもできなかった。

 また労働組合が主要な課題としている、いわゆる経済闘争(資本主義社会の物質的基盤でのたたかい)が重要である。ブルジョアジーはここで、生活の基本(賃労働)をつうじて、プロレタリアートの思想と意識を鎖につないでいる。この傾向は六〇年代をつらぬいてますます強力であり、支配体制の柱となっている。鎖はそれがつないでいるその場所で解かなければならない。労働運動と労働組合組織とを、このような任務を保証できるように「社会主義の学校」として組織し運営することは社会主義者と社会主義党の任務の達成にとって死活の意味をもつ課題である。だがこの課題も、社会主義者と社会主義党とが労働組合運動の個々の要求闘争を、最も断固として、勇敢に誠実に献身的にたたかうことを基礎としてはじめて果たされる。

 (社会主義党=プロレタリアートの前衛部分の任務を、客観的条件成立の時期の国家権が奪取、その組織化と指導に限る理解はとんでもないまちがいである。また革命の能力をつくる任務は認めながらもそれを党が、党だけで果たせる任務であるなどという、労働組合を軽視し、または革命事業と切り離なす理解も−−日本共産党をはじめほとんどがこの理解に立っているが−−同じくとんでもないまちがいである。社会主義者とその党との目的意識の内容をこのようにせばめ、、限定してはじめてレーニン主義党ができるなどという人々は、階級闘争をおし進めているのではなく、実は宗派運動をすすめているにすぎない。第U章(18)「階級の独裁」についてのレーニンの引用を参照せよ)

                               

第二節 国際情勢と反独占社会主義革命

()現代の世界では、資本主義社会の崩壊はその寸前の状態にあり、革命の条件は一般的にはギリギリまで高まっている。経済的・政治的方世界危機の影響を受けて、いま各国至るところで、四方八方へ無数の火花がとびあっている。だがその故にブルジョアジーはあらゆる努力をはらって、労働者大衆の思想・意識をいままで以上に資本主義につなぎとめようとしている。死の苦悶に狂ったこの努力の第一の特徴は、それが物質的基盤(生産関係)のなかでも、法律的政治的な段階でも、思想文化の段階でも全面的に展開されていること。第二の、二〇世紀の(帝国主義の)特徴は、全世界では体系的に、世界帝国主義戦線と呼びうる一つの鎖をなして展開されていること。こうして現代の世界は、社会主義への必然的な転化を担うプロレタリアートと、ブルジョアジーとの、ますます鋭さをます最後の対決の時代である。(一般的な条件の高まりは、イコール革命の客観的条件の成立ではない。全国民的危機のためには、特殊で本質的で具体的な、したがってだれの眼にも分りやすい事態を経験することか必要だからである)。

(10)一九一七年のロシア革命を先頭に、いくつかの労働者階級は、各々が迎えた歴史的条件のなかで支配階級を含む全国民的危機を活かし、労働者の政治権力を獲得した。こうしてこの五〇年間にソ連、中国、朝鮮をはじめ、社会主義国・人民民主主義国がうち立てられ、第二次世界大戦をつうじて、全世界の四分の一をおおっている。この結果第二次大戦後、世界の帝国主義列強はアメリカを中心にとくに結束をかためざるを得なくなった。帝国主義列強(独占資本主義国)は、相互に対立関係をもちながらも、彼らの支配体制を維持するために結束している。今後の全世界での闘争のすすめ方をめぐって、中国、ソ連の間に整理されつつはあるが、継続している論争など、社会主義圏の内部の不団結につけこみ、とくに社会主義圈の周辺の小国(ベトナム、朝鮮など)へむけて、しきりに転覆破壊工作をつづけている。チェコスロバキアでの内部矛盾にも、それにつけこんだ反動派へのテコ入れが露骨に行なわれた。多くが農業国だった社会主義・人民民主主義諸国の社会主義経済建設は、様々な困難を負って進んでいる。その故にまた、プロレタリアートを中核に大衆の意識と組織に依拠した真のプロレタリア独裁、有効な指導性が確立されることがいっそう重要になっている。

(11) 二〇世紀の帝国主義段階に入った資本主義国は、自国内部では独占資本主義体制をとり、同時に対外的には帝国主義列強の地位を形成した。つまり後進国に対してより大規模な商品輸出を追求し、さらに帝国主義の特徴としての資本輸出で安い地価、安い賃金(労働力)、安く豊富な資源を獲得しようとする。帝国主義段階ではブルジョアジーに対するたたかいは、自国内部でのプロレタリアートによってだけでなく、世界的な広大な植民地・従属国の全人民によっても激しく展開されている。一方ではこの民族解放運動は、その内部に独立からさらに社会主義社会建設へ向う革命的能力があり、逆に帝国主義国での社会主義革命とむすびついてしかまたそれを土台としてしか最終的な勝利をかちとることはできない。そして他方では帝国主義諸国の独占資本の側からみれば、圧迫され搾取されている植民地・従属国の政治的・経済的・文化的な民族解放のたたかいは、世界帝国主義を危機におとしいれずにはおかない。この両面から民族解放運動は、世界のブルジョアジーとプロレタリアートのきわめて激しく鋭い対決の場となっている。六〇年代はキューバ、ベトナムなどこの戦線の総体としての高い政治高揚期である。

 帝国主義は一つの鎖をなして結束し、協力し弾圧と抑圧の支配体制を展開している。第二次大戦後のそのやり方は、その国のブルジョア的政治権力−−ほとんどが軍隊を基礎にした「反共軍事政権」−−を建てさせ一方では民族独立を形だけ実現させ、他方では経済「援助」で帝国主義への従属的経済体制を維持させる(南米のほとんどすべての国。アジアではインドネシアやタイ)。しかし鋭い眼でこれらのゴマカシをみぬいて立上る解放闘争の戦列には、全世界から共同に反革命帝国主義軍事力を集中して血なまぐさい殺リクを繰り返す(「韓国」やベトナム)。資本輸出を開始し帝国主義段階に復活した日本独占資本も、この野蛮な「共同事業」に加わりはじめた。

(12)アメリカ、EEC諸国、イギリス、日本などの独占資本主義国・工業国は、物質的基盤としては社会主義への転化の条件が最もととのっている。しかし転化は、政治権力の獲得(革命)と政治的法律的な段階での変革なしにはあり得ない。政治権力獲得のための全国民的危機の成立を各国ブルジョアジーは死にもの狂いの努力で防止しようとし、「成功」してきた。

 しかし、社会主義世界体制の成立と、ますます高まる民族解放闘争とによって、帝国主義の経済的活動領域−−思うままに資本輸出・搾取・収奪のできる地域はせばめられた。帝国主義の力の最も重要な源泉は物質的基盤から危機に立ち、その結果、自国内部での搾取・収奪・抑圧は、第一次世界大戦までの初期の帝国主義段階とはくらべものにならぬほど激化している。とくに合理化インフレとにこの激化の特徴がある。独占資本主義国でも、革命の条件は一般的には高まり、無数の火花が飛びちっている。その例は一九六八年の「フランスの五月」である。しかしにもかかわらず、条件は階級総体の決起に至ることはできず抑圧され、たたかいは一時的爆発に終った。この最大の例もまた「フランスの五月」であった。

(13) 一つの鎖をなすブルジョアジーの世界体制と、プロレタリアートの国際的連帯に立ったたかいは、帝国主義国家(独占資本主義国)内部での対決を、その決定的な重要性を、ますます鋭く浮かびあがらせている。社会主義国ですでに政治権力を獲得したプロレタリアートの、反革命に対抗しつつ社会主義建設(経済的にも上部構造でも)をかちとるためのたたかい、後進国で全国民的民族解放闘争運動の支柱となろうとするプロレタリアートの、資本主義の枠内で解放をかちとれるという幻想に対抗しつつ帝国主義の侵略と抑圧を駆遂するためのたたかい、それらはいずれも、すでにみたように独占資本主義国−―帝国主義の本拠地の内部からの増援部隊を必要不可欠としている。

 たんに拠点本国での反乱が帝国主義の侵略抑圧を弱めるというだけではない。長い深刻な大量な反独占闘争に鍛えあげられたプロレタリアートの「知的・精神的原動力」としての面でも、後進国の搾取・収奪のうえにあまりにも不均等に発達し蓄積された生産力や技術の面でも、増援部隊が必要不可欠なのである。一つのたたかいへのこの結集、全世界的なしたがって最終的な勝利の柱は、独占資本主義国でのたたかいである。これらの国々での革命、反独占社会主義革命の成立こそ、全世界の反帝国主義闘争にとって勝利の鍵である。

 世界反帝闘争のなかでわれわれが果たすべき任務は何か、という問題についての答は右のとおりである。(帝国主義に対する全世界的勝利のためには、社会主義圏の防衛と経済発展が中心か、民族解放闘争の支援が中心か、という論争は問題を考える視野の狭さという点ではじめから無意味であって解答がでるはずがない。またプロレタリアートのたたかいが全世界的に一つであることから飛躍して、たとえば独占資本主義国でのたたかいをも、民族解放闘争から出発させる−−アジア侵略反対闘争こそ日本国内の闘争でも中心だ−−というような発想をたてることは誤まりである。日本独占に対する日本プロレタリアー卜の出発点ははるかに多面的に無数にある。アジア侵略・帝国主義闘争加担に対するたたかいはそのなかの一つであり、最も重要なものの一つではあるが、戦略中心をこれに限定するべきではない)。

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