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第二の見解
(A)総括の視点
一、社青同の根底的危機を直視せよ
 六月六、七の二日間にわたって、聞かれた第二十九回中央委員会は、“四・二八を中心とする政治闘争総括”をめぐって激しい論争が展開され、総括、方針とも一切決定することはできなかった。さらに、我々の“原案を撤回せよ”という正当な要求を無視し“中央委員会は続会し、原案は継続審議”という中央執行委員会の自らの責任を考えない提案を強行採決したにもかかわらず、八月十六、十七日の続会中央委員会は再び総括、方針を決定できず、全国大会開催をきめて終らざるを得なかった。 
 十二月一日の二十八中委から既に九ヵ月、いや、昨年九月の第八回全国大会から一年を経たいま、十一月佐藤訪米をまえにして、社青同は一切の活動の総括も、佐藤訪米阻止、七〇年安保闘争の方針も持ち得ていないというこの状況は、同盟がいまや根底的な危機にあるということを意味している。

 第九回全国大会にあたって、我々は何よりもこの厳しい現実を直視することから出発しなければならない。しかし、全同盟そして就中、中央本部が、この現実を、社青同の根底的危機として認識し、その克服のために全力を傾けていると考えることはできない。少くとも二十九中委における中央本部といくつかの地本のとった態度と中央委の組織運官等は、社青同の現実をどのように考えているのかを疑わしめるものであったし、またそのことの中にも社青同の危機があるといわざるを得ないのである。
 我々は、社青同の根底的危機を直視し、それが何によってもたらされたのかを徹底的に明らかにすることこそが現在最も必要であり、その視点から根底的な総括を行うべきであると考える。それは、この間の情勢と闘いの発展の中で、特に反戦闘争と反合理化闘争に対して社青同がどのようにかかわって来たかという問題であり、さらには第四回全国大会以降の“改憲阻止・反合理化”の基調の全面的な再検討の問題として、対立をあいまいにすることなく厳しく行わなければならない。そのことなしには社青同の今後の発展はあり得ないだろう。
二、反戦青年委員会運動について
 この間の反戦青年委員会運動を中心とする反戦闘争に対する社青同の対応をみるとき、六七年の砂川、羽田闘争以降、中央本部といくつかの地本は、明らかに反戦青年委員会運動と敵対的な関係にあったということができる。
 六四年の原潜闘争から六五年のベトナム反戦、日韓闘争として開始された反戦闘争の中で、社青同はその出発点において既に立遅れていた。しかし、六回大会では卒直にこの立遅れを「本年前半ではベトナム反戦に立上った青年を具体的にいかに組織し、職場の反戦闘争に結集するかという指導が弱かったため立遅れを示しました。」と自己批判し、次のような方針を提起した。

「反戦青年委員会は、日韓闘争の中から生み出された青年の自主的な闘いの成果です。同盟は@反戦青年委が県段階のカンパニアにとどまっているA日常的活動がまだ展開できない、という段階にあるのを早急に地区段階の反戦青年委の確立、地区での恒常的活動の獲得をめざします。反戦青年委の生命は、青年大衆の自主的な闘いのエネルギーであり、この力を発揮させるには同盟が明確な指導を担うとともに、青年大衆が直接創意性と自主性を発揮し得る地区での大衆的基盤を確立していこう。個人加盟で大衆的基盤を持ちうることが理想ですが、団体加盟の場合でも労組青年が意欲的に活動しうるような働きかけが重要です。」
 この方針は、「反戦青年委に参加した仲間が改憲阻止の戦線に積極的に前進するよう努力します」という政治路線上の限界をもってはいたが、組織方針としては基本的に正しい方向をもっていた。 
        
 しかし、第七回全国大会では、「反戦共闘のみに集約しきれない分野での青年の闘いが拡大していったといえます」という総括を行うことによって、六回大会での自己批判と方針提起を何らの総括も理由もないままに捨て去り、「反戦を課題とし、団体共闘を中心性格とする反戦青年委と改憲阻止青年会議は性格がことなります。改憲阻止青年会議は改憲阻止の観点から反戦闘争、物価闘争、反合闘争も取り組めますが、反戦青年委は反戦の課題をあぐまで追求すべきで、反戦が物価をとりくむには限界があります。」という馬鹿気た方針として“改憲阻止青年会議”が提起されたのである。        
 “個人加盟”の“地区反戦の確立”“青年大衆の創意性、自主性を発揮する”“恒常的活動の獲得”という六回大会の方針は一体どこへ行ったのか、誤まりだったのか、一切が明らかにされないまま“団体共闘”としてだけ反戦青年委を認めるという反戦青年委の発展の方向とはまったく対立する方針を決定することによって、社青同中央はこの後反戦闘争の中で指導性を発揮することはできなかった。

 こうして七回大会は、反戦青年委運動、特に六七年以降の闘いと敵対する出発点となった。六七年の十・八羽田闘争では、社青同中央は一切闘いに参加しないばかりか、日共と同じように“極左主義”を非難する声明を出すことによって先進的青年学生の闘いと決定的に対立し、六八年四月の総評青対部論文発表後総評が全国反戦改組=解体の方向に向かうや社青同中央はこれとまったく同じ歩調をとった。そして第八回全国大会からのこの一年間中央本部は公然と大会決定さえも無視し、総評と共に、いかに反戦青年委を解体するかのみに集中して来たといっても過言ではないだろう。それは全国反戦再開、沖縄闘争勝利をめざす四・二〇集会に対する積極的な妨害や、四・二八での“反戦排除”に対する積極的な支持等々事実によって示されている。
 このような経過をみるなら、反戦青年委員会とその闘いへの敵対が、今日の社青同の危機的状況を生み出したことは既に明らかだろう。問題は何がこのような敵対関係を生み出したかである。

 それは、何よりも中央本部の反戦青年委とその運動に対する評価と方針の誤りにある。簡単にいえば、反戦闘争、反戦青年委に対する徹底的な無理解といえるだろう。第七回大会では宮城地本から“反戦闘争に対する過小評価”と“改憲阻止に集約する誤まり”が意見書として提起されたが、それは何らうけとめられることはなかった。昨年の八回大会でも福岡、大阪、埼玉、宮城等多くの地本からの提起も遂にうけとめられることはなかった。
 問題は第八回大会で福岡地本意見書が指摘した次の点にある。「反戦青年委員会運動の客観的必然性を、帝国主義における疎外の深化と、労働運動、社会主義運動の体制内化の情勢をつき破ろうとする動きととらえるなら、その組織は、そのような自主的な青年一人一人を職場、地域で結集することを主体とし、どこからも規制ざれない青年の自主的な独自の組織として保障されねばならない。そして、その中に、これまでのべて来た視点での団結をきづくために、“職場反戦”の確立を中心とする方向が確認ざれねばならない。」

 社青同が真に帝国主義を打倒し、社会主義革命をかちとっていこうとするなら、そしてその力を現実の闘いの中で思想的にも組織的にもつくり出そうとするなら、反戦青年委員会運動に対するこのような立場は当然である。しかし、現実に社青同中央はこのような立場ではなく、“体制内化しつつある運動”の立場をとることによって、社青同の危機をつくり出して来たのであり、依然としてそれは克服されていないのである。
 そして、このような誤まりは根底的には後述するように“改憲阻止・反合理化”の基調に示される思想それ自身の問題なのである。

三、反合理化闘争について
 社青同は第四回大会以降“改憲阻止・反合理化”の基調のもとに、反合闘争の重要性をうけとめ積極的に闘って来た。しかし、現在の労働運動の体制内化と、太田薫委員長の合化労連でさえもが“条件闘争”“産業政策”という反合闘争の方針をとっているという状況の中で、我々自身が真に敵の合理化攻撃に応え得たのかをみるなら、社青同の方針それ自身が、体制内化しつつある労働運動と基本的には同じ内容としてあったといわざるを得ない。
 社青同の反合闘争に対する方針は、要約すれば“反合闘争は政治闘争の土台”であるという位置づけから“三池の闘争に学んで職場にピラミッド型の抵抗体をつくり、職場抵抗闘争によって労働者の生活、生命、権利を守り、その発展のうえに政治闘争を”というものだったといえる。そして、我々はこの考え方それ自身が問題であり、さらにこの中に資本にのみこまれつつあるこれまでの労働運動の思想をみるのである。既に福岡地本は最も先進的な闘いを経験する中から第五回大会では“反合闘争の意義の再検討”と“労働運動に対する帝国主義支配の浸透”を意見書として提出していたし、第七回大会では宮城地本から“反合闘争の位置づけ”と“方針の欠如”の問題が出されていた。そして、第八回大会では、それぞれの闘いを通じて獲得し得た内容を、福岡、宮城、埼玉等から共通したものとして提起された。

 問題の第一は“反合闘争が政治闘争の土台”という位置づけが「反合闘争を軽視し、その中でかちとるべきものをせばめている」(福岡意見書)ということにある。第二は、“三池第一組合をはじめとする労働者の団結した抵抗”という抵抗の中味では現在の帝国主義支配の強化と労働運動の体制内化の中では闘い得ないということであり、第三には、こうした考え方につらぬかれている“生活と権利”を守るというこれまでの労働運動の思想と運動が資本にのみこまれているのであり、我々はどのような思想と団結をつくり出すことによって帝国主義と闘い得るのかという問題にあった。
 福岡地本は、西日本闘争、日韓闘争、CO闘争、山田弾薬庫闘争等の総括として次のように提起した。「帝国主義的矛盾の深まりの中では、単に“生産点での合理化闘争によって労働者の団結と抵抗のとりでを”といっても、それだけではとらえ得ない全社会的矛盾が存在すること、したがって“団結のとりで”をいかなる視点と中味で築くのかが問われている。」「われわれはもはや三井独占と国家権力を打倒する以外にはない。その行動と力をいかにつくり上げていくかを追求する以外にはない」「帝国主義を打倒する社会主義的団結」「その思想的中味は何か。まず、この社会でのわれわれの絶対的自己矛盾の中味である労働をめぐる資本の論理とわれわれの論理との根底的対決点を明らかにすることから出発する。資本のいう労働の公共性こそ帝国主義を支え、アジア人民を抑圧することであり、われわれはそのような関係を拒否し、うち倒そうとするものである。“生活と権利を守る”というスローガンに代表される従来の労働運動は、現在の労働者の存在を肯定し、労働を“生活していく手段”と割り切り、いかに見返りを獲得するかという思想である。われわれは社会主義革命の根底を、労働そのものをわれわれに奪い返していくものとしてとらえ、労働者自身による社会の組織化=社会主義革命の時点で社会関係の基本となる思想を蓄積していくこと、これこそ現在的革命の前進であろう。われわれ自身の権力の構築である。この追求ぬきでは常に資本の論理に吸収されざるを得ない。」

 また、宮城地本は、「単なる改良の要求としてではなく、社会主義革命へ向っていかに前進するのかという内容でなければならない」「労働者が自らの職場と労働を管理し、社会主義革命へ向っていかに労働者権力を職場から準備していくのか」という視点から「帝国主義の体制的攻撃と真向から対決して闘うこと」を主張した。
 現在の反合闘争がますます“条件闘争”“産業政策”という資本の枠の中にとじこめられ、労働運動それ自身が帝国主義の攻撃に対応し得なくなっているという状況をみるとき、我々のこのような主張はますます深められなければならないし、その点で社青同のこれまでの“反合理化職場抵抗”の中味が問題にされねばならないと考えるのである。

四、改憲阻止・反合理化の基調について
 このような反戦闘争、反合闘争に対する社青同中央の立遅れ、誤まリは、全国同盟の今日の危機を生み出す最大の要因となった。今日、青年労働者の戦闘的な闘争が我々につきつけているのは、根底的な我々と自身の思想の中味の問題であり、我々はその全面的な検討をさけて通ることはできない。“改憲阻止・反合理化”の基調は正しかったが、方針や活動がまずかったなどという問題ではないことももはや明らかである。
 第四回大会での基調の確立とは何であったのか、そこから始めよう。福岡地本は第八回大会で次のように指摘した。「第四回全国大会での基調の確認の意味は、第一に社会主義革命をめざし、その部隊をいかに構築するかという観点から、社青同の闘いを、階級闘争を基調とする同盟綱領の立場に立ちもどらせ再出発させ、第二に、その闘いは“改憲阻止・反合理化”として積上げることを最低の任務として、常にわれわれの闘いの思想と力をうわまわり、のみこみ、押しつぶそうとする敵の帝国主義的支配の展開を闘いの中でとらえ、それをさらにうち倒し得る思想的内容と組織化をつちかっていこうではないか、という確認であってそれ以上のものではなかった」(福岡意見書)。
 そうであるならば“基調”の固定化は絶対にさけられる必要があった。しかし、現実には中央本部をはじめ社青同は全体として“基調”を絶対化し、ドグマ化して来たのである。情勢がどうであれ、闘争がどうなろうと、そして社青同自身が危機にまで陥っていようとも、一切の現実とは無関係に“基調”は守りぬかれ、“基調の正しさがますます明らかになっている”とされているのである。我々が提起して来た“基調の再検討”が全同盟にうけとめられなかったのは当然だった。

 我々がこの間問題として来た第一歩の点は、“平和と民主主義、生活と権利を守る”というスローガンに代表される戦後の労働運動、社会主義運動の思想が、現実の情勢の発展の中で有効性を失いつつあること、帝国主義の展開の中でその思想と運動自身がのみこまれ何らの反撃を組織し得なくなっているということであった。“被害者意識”から出発したこれまでの運動が“平和を守れ”といっている間に、日本帝国主義が既にベトナム侵略に加担し、“我々自身が日々の労働を通じてベトナム人民を抑圧している”“加害者”になっていることこそ、我々がこの間の反戦闘争の中で明らかにし得た内容であり、“民主主義”の名のもとに戦闘的闘争が弾圧されていくという現実をみるなら、そして帝国主義がこれまでの総評=社会党の運動を敵としてではなく、自らの体制内にくみこむことを明確にしている情勢をとらえるなら、我々の闘いは当然にも“平和と民主主義、生活と権利を守る”ためにではなく、一切の帝国主義支配と対決し、それをうち倒し社会主義革命を現実の闘いの中で準備していく思想と力の構築こそが必要となっているのである。戦後革新運動の思想であった“平和主義”“改良主義”の社青同的表現が“改憲阻止・ 反合理化”の基調である以上、我々は真に帝国主義支配と闘い得ないということなのである。
 第二に問題となるのは“一国社会主義革命論”“二段階戦略論”的把握である。一切の国際情勢と無関係に“独占の攻撃は改憲、合理化としてある”“安保は憲法改悪の企画化”として情勢がとらえられ、闘争の方向が“改憲阻止闘争から反独占闘争”という形で示されているものは、結局のところ、我々の闘争の方向を誤まらせるものでしかない。“職場こそベトナムだ“などと語ることによって、ベトナム革命と連帯して発展して来た日本の、いや全世界的な反戦闘争と敵対的関係をつくり、“平和と民主主義”をのりこえて直接的に帝国主義打倒、社会主義革命へと進んでいる戦闘的青年労働者の闘いに対して“プチブル急進主義”なるバトウをあびせるのは、このような把握しかできない思考方法にこそ問題があるといえる。米ソ共存体制を軸とする戦後世界支配体制の成立とその中での日本資本主義の発展、そして六四年〜六五年以降の世界体制の崩壊と日本帝国主義のアジアヘの進出、そしてベトナム人民を先頭とする新たな世界革命の波の高まりをみることができない以上、我々の方針と運動が誤まるのは当然だったのである。

 第三に、“反独占闘争”“反独占・社会主義”といわれる綱領的内容の問題である。これまで述べて来たように“改憲阻止・反合理化”の基調が、基本的に改良主義的内容でしかなかったということは“反独占闘争”の中味もまたそのようなものとしてとらえられて来たということである。議会で五一%をとれば革命になるかのような幻想に貫ぬかれている議会主義、改良主義の思想が、どのような大言壮語をしたところで革命とはまったく無縁なものであり、労働者の闘いを革命へと向けるのではなくて改良の闘争に押しとどめるものでしかない。そして、このような思想は、労働者階級こそが資本主義を打倒し得る唯一の階級であることを忘れ、逆に労働者を小市民の水準に引下げてしまう思想であることは、いまさら言うまでもないことである。結局のところ“改憲阻止闘争から反独占闘争へ”という“反独占・社会主義”なるものの内容は「労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない」(マルクス)にもかかわらず、議会での五一%の議席の獲得によって「でき合いの国家機関を掌握して、自分自身の目的のために使用」しようとするものでしかないのである。
 このような改良主義の基盤がますます失われていく過程がこの間の情勢と闘争の発展の過程としてあったのであり、我々は不十分ながらもこのことを指摘しつつ、反戦闘争、反合闘争の中で帝国主義を打倒し得る思想と力の構築の方向とその中味を追求して来たのである。
五、同盟組織の分解状況
 同盟のこのような政治的思想的混乱と誤まりは、当然にも同盟組織の分解状況と腐敗した組織運営となってあらわれている。「京都地本問題」はその典型である。
 意見の対立を、相互討論や運動での検証を通じて解決するのではなく、多数をたのんで一方的に組織から排除しようとするやり方が社会主義とはまったく無縁な、否、まったく対立するものであるにもかかわらず、「京都地本問題」は現実にこのような腐敗した組織運営とそれを許す考え方が同盟内に存在していることを示した。
 さらに、約半数の同盟員がユーレイであるという事実は、京都地本に限らず全同盟的に存在していることであり、社青同結成以来の社民、民同的組織体質が現在でもひきつがれて居ることの証明として、そして、この間の同盟の誤まりがもたらした組織の分散状況を示すものとしてわれわれはとらえなければならない。

 また、社青同がこの数年間何ら拡大していないこともまた厳然たる事実である。それは中央本部がいうように“社青間の影響力はこの間拡大しました”“しかし、社青同の組織は現状維持にとどまりました”“その理由は全体の情勢がきびしくなり、社会党・総評系の運動全体が混迷し、分散化しているなかで、そういったきびしさをのりこえて同盟の周囲に結集した仲間を、同盟加盟にまで結合させる力に不足していたことです。”(第八回大会議案)などというものではない。“社会党・総評系の運動の混迷、分散化”の中で、社青同のとって来た政治路線そのものが破産したにもかかわらず、ドグマにしがみついて戦闘的青年労働者の闘いと敵対し、社青同から逆に追いやることによって同盟拡大の基盤をますますなくして来たからなのである。そのことがまた、民同とのゆ着、社青同の民同的体質を助長さごせるという結果を生み出している。
 いずれにせよ「京都地本問題」は京都だけの問題ではなく、全同盟の現実を集中的に表現しているのであり、二九中委における対立と中央委員会の運営ぶりもまたその点で同じ問題なのである。このような同盟組織の分散化と腐敗した組織運営が、どれほど社青同の発展に害を与えたかはもはやいうまでもない。
 そして、社青同を真の階級的青年の闘いの真只中につくり上げるのではなく、社民、民同的組織に堕落させて来た中央本部の責任は徹底的に追求される必要があるだろう。
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