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第二章 労働組合と社会主義政党の関係
問−前章の結論をうけて、労働組合と社会主義政党の関係について、もう少しくわしくおうかかいしたいのです。そこで、さいしょに労働組合はどんな組織的な特徴をもっているのか、また労働組合とは別個になぜ社会主義政党がうまれたのか、その点からお答えください。
答 すでにふれたように、労働組合は、労働者の生活を維持し改善するために、経済闘争と政治闘争をたたかいます。これらの闘争は、資本家階級にたいしてたたかわれますから、労働組合が階級闘争の組織であることはいうまでもありません。しかし、この労働組合の闘争は、そのどれをとっても、直接に資本主義社会を打倒することを目的としたとたかいではありません。直接には、資本主義のワクのなかで労働者の日常的な政治的・経済的な利益をまもり発展させるためのたたかいでしかありません。
 このように、労働組合は主として労働者の労働諸条件と生活をまもり向上させるための大衆的な組織ですから、それは個個の組合員の思想・信条の一致を前提としてつくられたものではありません。それは職場で働くあらゆる労働者をひろく組織したものですから、意識の高い人から低い人までをひとつに結合しているのが、労働組合の組織の特徴です。労働力の売り手としての経済上の利害は、意識がすすんでいる労働者にも、またおくれた労働者にも共通ですし、それを結合の基礎にしているのですから、このような組織的な特微がでてくるのはとうぜんのことなのです。労働組合を労働者の大衆的な階級闘争の組織とよぶのも、このためです。
 しかし、資本主義のワクのなかでどんなに経済闘争をたたかっても、またその延長としての政治闘争をたたかっても、労働者が資本家から搾取されるという根本状態に変化があるわけではありません。ただ、資本家階級による搾取を部分的に制限することができるだけです。資本主義という経済構造は、すでにのべたように、労働者に低賃金、労働強化、失業などの生活の不安定、諸権利のじゅうりんなど、ありとあらゆる搾取の強化を、不可避的にもたらしますから、労働者階級が国家権力をにぎることによって、資本主義を変革し、社会主義社会をうちたてるいがいに、この矛盾を根本的に解決する方法はありません。
 しかし、社会主義社会をつくるいがいに労働者階級の真の解放はありえないといっても、労働組合はその組織原則からいって、社会主義革命を直接に目的とする運動をやるわけにはいきません。労働組合は、さきにものべたように、社会主義者だけの組織ではないからです。そこで労働者階級のなかでもっとも意識の高い先進的分子が社会主義革命を遂行するための組織として、社会主義政党をつくることになったわけです。
問−労働組合と社会主義政党か別個の組織であり、その組織原則がちがうことはわかったのですが、それでは両者はいかなる関係にあるのでしょうか。
答−政党と労働組合が別個の組織であるといっても、両者は質的にまったくちがった組織であるわけではありません。両者はともに労働者階級の組織であり、労働者階級の階級闘争の組織だからです。そこで問題になるのは、労働者階級のこの二つの組織はいったいいかなる関係にあるべきか、という問題です。
 この関係についての原則的な考えかたは、すでに早く、一九〇七半の第二インターナショナル(国際労働者協会j 第七回大会の決議であきらかにされています。この決議は、今日でも両者の関係にかんする一般的原則的な規定をあたえた、有名な決議ですので、かんたんに紹介しておきましょう。
 (1)政党と組合には、そのおのおのの性質によって定められた行動の領域がある。すなわち労働組合は主として経済闘争の領域で行動し、政党は圭として政治闘争の領域で行動する。そして、そのどちらもが、プロレタリアの解放にとって欠くべからざるものである。
 (2)それぞれの領域においては、党も労働組合も、外からの千渉によらないで、自主的に独立して行動すべきものである。
 (3)しかし、労働者階級の闘争のなかには、政党と組合との協力によらなければ有効に
えない領域があり、かつそういう領域はますます拡大する。
 (4)それゆえに、そのために組合に必要な統一を妨げないかぎり、党と組合とのあいだには、より緊密な、そしてより永続的な関係がむすばれなければならない。
 この決議は、それが採択された地名にちなんでシュツットガルト決議ともいわれているものですが、その要点をいますこし解脱をくわえながらみていきましょう。
 まず(1)についてですが、労働組合は、これまでみてきたように、そのおもな行動領域が経済闘争にあることはいうまでもありません。もちろん、くりかえしのべたように、労働組合は政治闘争をたたかわざるをえないし、今日その必要性はますます増大しているのですが、そのおいたちからいっても、その組織原則からいっても、その主たる行動領域が経済闘争にあるのはとうぜんです。これにたいして、社会主義政党は、社会主義革命の達成と社会主義の建設という目的からしてそのおもな行動領域が政治闘争にあるのもとうぜんのことです。そして、そのどちらもが、資本家階級にたいする労働者階級の階級闘争として、プロレタリアートの解放にとって不可欠であることは説明するまでもないでしょう。
 (2)にのべられていることは、二つの組織はともに自主的な組織でなければならないということです。この自主性がおかされると、かつての産別会議のような誤りにおちいることになります。第二次大戦後は、一九四九年ごろまで日本の労働運動の中心をなしたのは、産別会議でした。ところが、当時の日本共産党は、産別会議の指導的メンバーのほとんどが共産党員であったことを利用して、産別会議の中央フラクションをつうじて組合をひきまわし、党の方針を産別会議にストレートに実践させるという方針をとりました。その結果、労働組合である産別会議が共産党の下請け機関化し、組合の自主性がおかされるという欠陥をうみだしました。そこで、この欠陥をただすために、組合の自主性回復、組合民主主義の確立をスローガンとする産別民主化運動がおこり、こんにちの総評が結成されることになったわけです。また、これと逆に、労働組合が政党を支配するようになると、党は労働組合の利益をたんに院内で代行するという、いわば労働組合の第二政治局みたいなものになってしまい、その結果、社会主義政党としてのほんらいの使命を忘れた議会主義の政党に堕落してしまいます。したがって、この自主性の尊重ということは、両者のそれぞれの発展にとってひじょうに重要な原則なのです。
 (3)の政党と組合の協力ということは第一章の「労働組合の経済闘争と政治闘争の関係」のところでのべたことを考えればあまりにも明白です。たとえば最低賃金制闘争ひとつを例にとっても、国会で法制化されなければならないわけですから、そのたたかいに勝利するためには、社会主義政党の院内におけるたたかいとむすびつけなければ不可能です。ましてや、平和と民主主義をまもるあらゆる闘争は社会主義政党が中心となって、院内外で労働者階級、その組織されたものとしての労働組合を指導してたたかいをすすめなければ、成功しえないことはいうまでもありません。この点については、あとでくわしくのべることにします。
 このようにみてきますと、(4)でのべているように、労働組合と社会主義政党は、「組合に必要な統一を妨げないかぎり」できるだけ「より緊密な、そしてより永続的な関係」をむすばなければならない、というとうぜんの結論がでてきます。
 両者がバラバラでたたかったり、あるときは協力するが、あるときは非協力であるということでは、資本家階級の攻撃に十分対抗できないわけですから、資本主義のワクのなかでの日常闘争をすすめるためにも両者は「より緊密な、そしてより永続的な関係」をむすぶ必要がでてきます。ましていわんや、労働者所縁解放のためには、両者のむすびつきはいっそう不可欠になります。労働組合は社会主義政党とは別個の組織だといっても、労働組合がその目的をほんとうに果たすためには、ほんらい社会主義実現の方向にすすまざるをえない歴史的な性質をもっているわけですから、労働者がこの歴史的使命にめざめればめざめるほど、両者は「より緊密な、そしてより永続的な関係」を自主的にむすぶようになるのです。また、そうなるように不断に努めなければなりません。
問−―いまのお話によりますと、シュツットガルト決議はいまから六〇年ぐらいまえにおこなわれた決議だということですが、その当時この決議はどのような意義があったのでしょうか。
答−このシュツットガルト大会決議は、労働組合は政党から「中立」でなければならぬとか「無党派」的でなければならぬという誤った考えに終止符をうった、という点できわめて重要な歴史的意義があります。
 今日の日本でも、労働組合は政党から「中立」でなければならないとか、労働組合が特定の政党と支持協力関係をむすぶのはまちがいであるなどという主張がありますが、こういう日和見主義的な見解は歴史上くりかえしあらわれました。たとえばロシアでも、レーニンに反対したメンシェビキは党と労働組合のあいだに厳密な境界線をひいて、労働組合は「ある職業の組合の全員」を包括するものであるから「無党派」的なものでなければならないと主張しました。
 これにたいして、レーニンを中心とするボルシェビキは、現在では「政治と職業との区分を厳密におこなうことはできない」という立場にたって、社会主義政党という“特定の政党”と労働組合とのかたい結合の必要性を強調し、メンシェビキの主張をしりぞけたのです。このようにレーニンは、労働組合の無党派件または政治的中立性という誤った考えをくりかえしきびしく批判しました。たとえばつぎのようにのべています。「中立性は、自分の物質的状態を改善することが必要であると考えるようになったすべての労働者を統合するために必要である、という人がいる。そしてプレハーノフは、とくにそれを強調している。だが、こういうことをいう人びとは、現代の社会の限界内でこの改善をかちとるにはどうしたらいいかという問題にさえ、階級的矛盾の今日の発展段階がどうしても不可避的に『政治的な意見の相違』をもちこむことをわすれている。組合と革命的社会民主主義派との堅い結びつきが必要であるという理論とはちがって、組合の中立性の理論は、プロレタリアートの階級闘争をにぶらすことを意味するような改善手段を不可避的にえらぶことになる」(レーニン全集、第十三巻、四八〇頁)。
 レーニンのこの批判は、労働組合のなかに「政治的な意見の相違をもちこむ」と労働組合が分裂するというような、今日の日本でもお目にかかる主張にたいする、まことに的確な批判となっています。とくに国家独占資本主義といわれる「階級矛盾の今日の発展段階」では、まさにレーニンがのべているとおりです。たとえば、労働組合の基本的なたたかいの一つである賃上げ闘争をたたかうばあいにも、「政治的意見の相違」がもちこまれることをおそれてはたたかえません。なぜなら、労働者に低賃金をおしつけているのが日本の独占資本とその政府であり、しかも、政府の低賃金政策が労働者階級の窮乏化をもたらしているものである以上、賃上げ闘争も政府・独占にたいする階級闘争としてたたかわなければならないからです。つまり、独占資本の自民党政府にたいして反対の立場にたたなければたたかえないのです。ですから不可避的に「政治的意見の相違」がもちこまれることになるのです。もちろん、そのばあいには組合内の民主的な討論が保障される必要がありますが、「政治的意見の相違」がもちこまれるのをさけようとすれば、けっきょく敵をあいまいにしたままに、ものさえとればよいということにならざるをえません。その結果、「プロレタリアートの階級闘争をにぶらすことを意味するような改善手段を不可避的にえら」ばざるをえなくなります。たとえば、賃上げとひきかえに合理化をのむというような階級闘争をわすれた立場に転落せざるをえなくなるのです。
 このように、レーニンは、労働組合の「中立性」の理論をきびしく批判すると同時に、その本質をもあきらかにしました。すなわち「ブルジョアジーの階級的利害は、不可避的に、現存の制度を基盤とする項末な狭い活動に組合を制限し、社会主義とのあらゆる結びつきから組合を遠ざけようとする志向をうみだす」が、「中立性」の理論は、まさに「これらブルジョア的志向の思想的な外貌である」(同上、四七九頁)というのです。
 そして、当時、ドイツやロシアの労働運動の内部に、この「ブルジョア的志向の思想的な外貌」としての「中立性」の理論が日和見主義的傾向をつくりあげていただけに、レーニンは、シュツットガルト決議が労働組合の「中立性」「無党派性」を否定したことをきわめて高く評価したのです。そして、シュツットガルト決議があきらかにした「組合と党との緊密な接近」こそ「唯一の正しい原則」であり、「組合と党とを近接させむすびつける努力」こそ「われわれの政策でなければならない」(同上、九七頁)と結論したのでした。
 わが国でも、かつて山川均は、この決議を「すくなくとも原則的にはこんにち誰も異論のない、いわば党と組合との関係についての常識となっている」(『社会主義への道』、五四頁)とのべ、これを支持しています。ところが、こんにちの日本の労働運動の一部には、レーニンのように「組合と党とのより緊密な接近」を「唯一の正しい原則」とみるのではなく、これとまったく反対に、「政党支持の自由」が「原則」であると主張する日本共産党系のような人びとがいます。
 こうした主張は、いいかたこそちがっていますが、内部的にはプレハーノフらが主張したこととまったく同じです。その意味で「政党支持の自由」は、労働組合の「中立性」の現代版ということができます。こういうわけですから、いまの私たちにとっても、このシュツョトガルト決議の意義を十分に正しく理解することはきわめてたいせつです。
問−シュツットガルト決議かどのような歴史的意義をもつものであるかはわかりました。ところでこの決議が今日でも労働組合と社会主義政党の関係にかんする「唯一の正しい原則」であるということになるのでしょうか。一般に、国家独占資本主義になると、ますます社会主義政党と労働組合との緊密なむすびつきが必要になるといわれていますが、その理由をもうすこしくわしく説明して下さい。
答−今日の日本のように、国家独占資本主義の段階になると、政治と経済のむすびつきが、いっそう緊密になります。それは独占資本と国家のつながりがいっそう緊密になるからです。たとえば政府は、財政金融政策を総動員して独占資本の合理化と資本蓄積をたすけるとともに、国家権力をもって直接間接に組合弾圧をおこなっています。
 だから、今日では、労働組合が経済闘争をたたかうばあいでも、国家権力との対決という側面をますます多くもたざるをえなくなります。今日では独占的大企業にストライキがおこると資本主義体制そのものを根底からゆるがすような影響をもちかねないわけですから、政府は、官公労労働者のストライキ権を奪っただけでなく、炭鉱労働者や電力労働者にたいしてもストライキ規制法をつくったわけです。こうした事実ほど国家権力と独占資本がいかに緊密に融合しているかをしめすものはありません。だから、今日労働組合は、賃上げ、最低賃金制確立、労働条件の改善などという主として経済的な利益をまもるためにも、政治闘争をおこなわざるをえないのです。このことは国家や公共団体にやとわれている官公労労働者のばあいは、とくにあきらかです。したがって平和と民主主義をまもるたたかいはもちろん−これは労働組合を中心とする民主的組織の存続と労働者の生活をまもる条件を確保するたたかいでもあります−労働者の労働諸条件をまもるたたかいも、必然的に政治的性格をおびざるをえないというのが現段階の特徴なのです。このようにみてきますと、今日、労働者の経済的な利益をまもり、向上させるためにも、労働者階級の二つの組織である労働組合と社会主義政党がますます緊密な協力関係をうちたてなければならぬことはあまりにも明白です。労働者階級の側も社会主義政党と一体となってたたかわないと、独占資本とその政府が一体となった攻撃に対抗することはできないからです。
 そればかりではありません。今日では平和と民主主義をまもるためにも、労働者階級の政治闘争の強化がますます必要になってきています。とくに、この数年間の日本帝国主義の動向をみるとき、沖縄「返還」にともなう自衛隊の沖縄移駐や、立川をはじめとする旧アメリカ軍事基地への自衛隊の駐留、さらに膨大な四次防予算にみられる軍事力の強化と産軍複合体の形成など、軍国主義化の傾向は急速にすすんでいます。また中教審路線、司法の反動化などの攻撃も日本労働者階級の政治闘争の飛躍的な強化を要求しています。
 さらにまた、公害、物価高、酷税、住宅難と高家賃、交通地獄など、国民生活をおびやかしているすべての根源が、独占資本の高蓄積と、自民党政府の経済政策にあることは今日ではだれの目にもあきらかになっています。したがってこれらの課題にたちむかうためにはとうぜん政府にたいするたたかい、すなわち政治闘争が、必要になってきます。物価や税金などの問題は、それじたいとしては、労働者の経済状態にかかわる問題ですが、闘争のあいてが政府であり、国家権力である以上、これはあきらかに政治闘争としてたたかわなければなりません。
 したがって、さきにのべたように、今日ほど政治闘争の強化が必要なときはなく、そのためにはなんとしても、労働者階級の二つの組織である社会主義政党と労働組合の協力関係の緊密化がいっそう必要になってきているのです。
 そして、この二つの組織が真に緊密な協力関係をうちたてるためにも、シュツットガルト決議がのべているように、党と労働組合は、おたがいに自主性を尊重することが、なによりも必要です。自主性のないもの同士が協力できないことは、いうまでもないからです。この原則をわすれると、かつての日本共産党のように、産別会議を下請機関化し、政治主義的にひきまわすという誤りをおかすことになります。したがって、自主性を尊重しながら両者が緊密に結合するためには、社会主義政党は労働組合同の多数の活動的な党員をもたなければなりません。そしてその党員が労働組合のなかでもっとも誠実で献身的に活動することによって、組合員多数の信頼と支持をかくとくする必要があります。こうしてかちとられた支持協力関係こそが、社会主義政党の労働組合への正しい指導を可能にするのです。
 こうして、労働組合が、徹底的な大衆討議と組合民主主義の原則にもとづいて、社会主義政党、たとえば社会党支持を決定したとするならば、それは、シュツットガルト決議とレーニンの主張に一致するものであることはあきらかです。われわれは、レーニンがのべるように「いつ、どこでも、組合と労働者階級の社会主義政党との接近を主張しなければならない」(レーニン全集、第一三巻、四七八頁)からです。これに反して、日本共産党や合化労連などのように、「政党支持の自由」が「原則」であるという主張は、労働組合の「中立性」と「無党派性」を主張することと、事実上おなじことであり、したがって、レーニンがいうように、その本質は「ブルジョア的志向の思想的な外被」というほかありません。
 このように、今日でも、いな今日こそ、社会主義政党と労働組合の「緊密な接近」が、「唯一の原則」であるといわなければなりません。
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