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第一章 世界情勢の基本的特徴

 

第一節 第二次大戦後の世界資本主義

 IMF体制とその崩壊

 第二次世界大戦後、アメリカが世界の生産の半分近くを占める圧倒的な経済力をもつことになり、盟主として西側陣営をひきいて、ソ連を中心とする社会主義陣営と対峙した。そのもとで世界資本主義は相対的な安定と成長をみせた。

 アメリカは援助によってヨーロッパや日本の復興をうながすとともに、金交換可能な米ドルを基軸とする固定為替相場制(IMF体制)、自由貿易推進体制(GATT)、開発融資機構(世界銀行など)を配備して、西側陣営の強化をはかった。かつてのような帝国主義強国どうしのつぶしあいで共倒れをおこす危険を避けようとする体制がとられたのである。

 

 独立の進む旧植民地に対しても、力づくの支配より、主として経済的支配によって利益の吸い上げを確保する新植民地主義が採用された。これら発展途上諸国は資源の提供役などとして世界資本主義体制に組み込まれ、先進諸国との格差は拡大し、経済的自立に苦しんだ。

 一方、大量で安価な資源の入手にもとづいて、先進諸国は経済を成長させ、成長がもたらす余力と国内の労働者運動の圧力、および社会主義体制への対抗の必要を背景に、社会保障の拡充を進めた。いわゆる「福祉国家」型の国家独占資本主義の体制が形成されたのである。

 

 このアメリカをリーダーとする世界資本主義の安定と成長の体制(いわゆるパックス・アメリカーナ)は、しかし同時にみずから矛盾を蓄積していった。アメリカが貿易赤字を出すようになって、世界にドルが過剰供給され、資源の大量消費が進み、人手不足となるなど、成長そのものがその条件を掘り崩したのである。

 アメリカは金とドルの交換を維持できなくなり、一九七一年のニクソン・ショックでIMF固定相場制は崩壊、一九七三年には変動相場制に移行した。成長がもたらした過剰な生産能力の蓄積、過剰流動性と総需要の膨張、石油をはじめとする資源価格高騰や人手不足は、一九七〇年代にインフレの爆発と深刻な不況の同時発生(スタグフレーション)をひきおこし、混乱のうちに高成長の時代を終焉させた。

 

2 新保守主義の台頭と矛盾の累積

 窮地に追いつめられた資本側は、背水の陣を敷き、困難を逆手にとって反転攻勢を開始した。経済的な競争・対立の激化の反面で、一九七五年にサミット(先進国首脳会議)が始められた他、G5、G7など主要強国間の協調の機構が強化された。一九八〇年代に入ると、はっきりと体制の再編が始まった。成長率の低下、過剰生産力の顕在化で厳しさを増した資本は、企業の存続優先の必要を労働者に突きつけ、権利主張の放棄を迫った。

 また欧米諸国の政府・独占資本は、国家財政の悪化を口実に「福祉国家」体制への攻撃を強め、社会保障の削減を強力に推進した。この反動化は、イギリスのサッチャー政権とアメリカのレーガン政権にリードされて世界に広まった。新保守主義とか新自由主義と呼ばれるこの潮流は、資本主義の原理に対して「公的」な観点から介入する福祉国家を攻撃し、市場万能主義、優勝劣敗の競争、個人の自助努力を称揚した。

 

 勤労者の権利を尊重して社会保障を手厚くし、競争を規制し、平等と再分配を重視するやり方では、社会経済の活力を削ぎ、激烈な競争に生き残ることはできない−−こう主張する彼らは、労働保護法制を後退させ、民営化と規制緩和を進め、社会保障を切り下げる一方、高所得者や大企業に対しては減税を強行した。それは単なる「小さな政府」化、「国家の後退」ではない。上記の諸措置や他の新たな競争力強化策によって、資本の利潤獲得条件を整備・拡充しようとしているのであり、国家独占資本主義体制の現段階での再編・手直しと言わなければならない。

 新保守主義による反動攻勢により、欧米の労働組合運動は後退を余儀なくされた。また、規制緩和にともなう弱肉強食の企業間競争の激化は失業者をふやし、不安定雇用や低賃金労働者の増大をもたらした。先進諸国では所得格差の拡大が一般的な傾向となっている。 一九九〇年を前後してソ連・東欧社会主義が崩壊し、その後未整備で粗野な資本主義への、混乱に満ちた逆走が始まった。残った社会主義国でも、外資導入、市場経済化、私有財産制の容認が進められている。こうして、あらためて資本主義の原理が世界を覆う勢いにある。

 

 しかし同時に、むき出しの資本の論理、市場万能主義の暴走は、現代の世界資本主義に深刻な問題を生み出している。新保守主義改革の進展によって引き起こされた投機の蔓延、福祉切り捨て、貧富の格差の拡大、国民生活の悪化および不安の拡大は各国で労働者を中心とする国民の厳しい批判を引き起こした。九〇年代になると欧米諸国で政権交代が起こり、新保守主義勢力の後退が生じたのはそのためである。

 米国では共和党政権に代わって民主党政権が登場し、西欧では九〇年代後半の総選挙でイギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど多くの国で中道・左翼勢力が勝利し、政権を握った。それらの政権の下では、新保守主義政権による露骨な労働者への攻撃や福祉削減の政策は転換され、市場経済が引き起こす貧富の格差拡大を緩和する政策も試みられた。しかし、アメリカの民主党政権や西欧の社会民主主義政権も財政面での制約や国際的な市場競争の圧力に制約され、民主主義的な改革は限定的なものにとどまっている。

 

 3 世界資本主義の現段階

 今日の世界経済は強く一体化している。GATTはWTO(世界貿易機関)に拡充され、貿易は物とサービスにわたってさらに拡大しつつある。人の移動も拡大した。もっとも膨張しているのは資本の移動である。変動相場制のもとでの大幅な為替レートの変動は、そのたびごと、各国企業に競争力維持強化のための際限ない合理化を強制するとともに、より高い利回りを求める巨大な資金のかたまりの世界規模の移動をうながす。それは一方では、帝国主義の新たな局面とも呼べるほどの直接投資・企業進出の激増となっている。

 資本は国境を越えて最大利潤のための最適配置を追求し、先進国相互に、また発展途上国へと、排他的ではなく進出しながら競争している。このようにして競争は地球規模で無制約におこなわれ、かつてない厳しさのものになった。そのなかから世界的超大企業を誕生させる合併・提携の新たなうねりもおきている。他方では、瞬時に世界をかけめぐる投機的なホットマネー(短期資本)が、世界経済をかき乱す。

 

 このなかでアメリカ経済は、世界の四分の一規模まで縮小したものの、基軸通貨国の地位を利用してリーダーとしてふるまい、一九九〇年代にはコンピュータ化と金融技術を武器に好調を誇った。しかし、労働者の条件悪化と社会的格差の拡大、対外債務の巨大化、バブル的な過熱と、深刻な不安定要因を抱えている。

 ヨーロッパは、共通通貨ユーロの使用にまでEU統合を進め、結束を固めている。新保守主義の猛威への反発もあって、社会民主主義勢力の復活がみられるが、一〇%レベルの高失業の問題など依然として困難な課題を抱えている。

 

 日本は、一九八〇年代後半の巨大なバブルの反動で、一九九〇年代を深刻な不況のうちに過ごし、問題が噴出した。とりわけリストラの嵐で失業が急増し、社会不安が高まっている。またこの間、日本から東アジアヘの資本輸出が激増し、この地域での日本独占資本の勢力の拡大が進んでいる。

 東アジアは奇跡とも呼ばれた急成長をとげたが、国際資金の投機による攻撃を受けて、中南米やロシアとともに通貨・金融危機を経験した。中南米やアフリカなど、その他の発展途上地域でも、対外債務の累積に苦しんでいる国が多く、先進諸国との格差がさらに拡大しているケースも見られる。

 このように、資本主義は冷戦に「勝利」し、社会主義への世界史的な歩みはいったん数歩後退したかのように見える。しかし、巨大で制御困難な不安定要因、際限のない競争の圧力の猛威、潜在的な不満の蓄積を抱え、現在の資本主義が依然として危機の時代にあることは変わらない。

 

第二節 冷戦終焉後の世界政治

 I アメリカ主導の帝国主義的支配の拡大と対抗勢力

 一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけて、ソ連・東欧社会主義が崩壊し、第二次大戦直後に始まった東西両陣営の冷戦が終わった。冷戦終結は、社会主義国が推進した平和共存政策の成果というよりは、ソ連・東欧社会主義の崩壊によって生じた。その結果、帝国主義諸国とりわけ唯一の軍事超大国となったアメリカの政治的・軍事的支配権の維持と経済的競争力の強化をはかる世界戦略が、世界政治に大きな影響を及ぼすことになった。

 核兵器と軍事同盟に依拠し全世界に広げた情報網を駆使して、巨大企業、金融資本の世界支配を支え、帝国主義的支配とその拡大をめざすアメリカの世界戦略は、冷戦終結後も変わっていない。変わったのは、対ソ「封じ込め」戦略から、独占資本の市場を全世界に拡張する「グローバル化」戦略への転換であり、その障害となる、冷戦時には副次的脅威とされていた「地域的不安定要因」が、主要な脅威と位置づけられたことである。

 

 アメリカは、核兵器・ハイテク兵器など圧倒的に強大な軍事力と、NATO(北大西洋条約機構)など他の帝国主義国との軍事同盟を背景に、冷戦後の世界政治において、ヘゲモニー(指導権)を握り、帝国主義的な介入と干渉をおこなっている。また、戦域ミサイル防衛(TMD)、米本土ミサイル防衛(NMD)構想を打ち出すなど、核軍縮に逆行する動きを強めている。

 

 このようなアメリカ主導の帝国主義的支配の拡大や軍事介入、核軍縮を阻害する政策に対しては、発展途上国をはじめロシアや中国、さらには資本主義国の革新勢力、非政府組織(NGO)などからの批判の高まりがみられる。ロシアは、NATOの拡大やイラクなどへの空爆を批判し、中国とともに「人道的介入」の名によるコソボ空爆にも反対した。また中・口両国は、TMDやNMDなど弾道ミサイル防衛(BMD)構想にも、核軍拡競争をあおるおそれがあるとして反対を表明し、九九年秋の国連総会に弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約遵守決議案を提出し、圧倒的多数で採択された。中国とロシアは、アメリカの一極支配体制に対抗して提携を強めている。また、欧州連合(EU)も、防衛政策の調整機関でおる西欧同盟を一歩進めて、NATOの枠内で独自のEU軍創設を打ち出した。アメリカの一極支配体制は、EUとの関係でも綻びはじめている。だが、日本だけはアメリカに追随している。発展途上国でも、帝国主義の支配と圧迫に抗する動きが強まりつつある。

 NATO、日米安保など帝国主義の軍事同盟は、対社会主義の同盟という本来の使命の「再定義」をおこない、民族・地域紛争への対処に重点を移し、世界資本主義の支配体制・経済秩序を維持し、各国独占資本の「共同搾取」を保障する帝国主義同盟の中核としての役割を冷戦終結後も担いつづけている。在外駐留米軍とその基地は、ヨーロッパなどでは、ある程度削減されたが、東アジアでは減らされず、中東では増強されている。朝鮮半島は、南北首脳会談により緊張緩和へ動きだしたが、在韓米軍は撤退のきざしさえない。

 帝国主義の軍事同盟と、それにもとづく軍事基地をなくするたたかいを強めなけれぱならない。

 

2 核軍縮の国際世論の高まりとアメリカの核戦略

 冷戦終結によって、核軍拡競争は過去のものとなり、核軍縮の国際世論が高まり核不拡散と核兵器廃絶への動きが強まっている。

 一九六八年に採択された核不拡散条約(NPT)を、米ソの共同支配の道具として批判していた中国とフランスの二核保有国が、九二年に同条約に加入した。南アフリカも加入し、保有していた核兵器をすべて廃絶したと公表した。ブラジルとアルゼンチンも核開発計画を放棄し、ラテンアメリカ核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)への完全参加を達成した。核技術をもつ国でNPT未加入はイスラエル、インド、パキスタンだけとなった。

 

 九五年にNPTの再検討会議が開かれ、条約の無期限延長が決定された。この会議は、同時に、核実験の禁止をめざす包括的核実験禁止条約(CTBT)の九六年中の成立を打ち出し、非核地帯の設置を奨励する文書を採択した。それをうけて、ASEAN七カ国とラオス、カンボジア、ミャンマーが九五年に東南アジア非核地帯条約に署名し、九六年にはアフリカ非核地帯条約(ベリンダハ条約)が署名された。また九六年には、八六年以来の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)の付属議定書に未署名のままだった米英仏の三核保有国が署名した。

 こうして、南極条約を含め南半球は、ほぼ全域が非核地帯となった。核爆発を全面禁止するCTBTも、九六年九月、国連総会で採択された。さらに同年末の国連総会は、核兵器の違法性に関する国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見をうけて、核兵器禁止条約(NWC)に向けた交渉の開始を要求する決議を採択した。八○年代後半から、米ソ間で進められた核軍縮交渉も九一年の第一次戦略兵器削減条約(STARTI)につづいて、STARTUが米口両国により九三年に署名され、九四年にはSTARTIが発効した。

 

 だが、実際の核軍縮はあまり進んでいない。米口両国は、国外および海上配備の戦術核兵器を撤去し、核兵器保有量を削減したか、依然として巨大な破壊力を保持している。英、仏、中などその他の核保有国は、核軍縮を進めていない。一九六七年より前に核爆発をおこなった国に限って核兵器の保有を認めるNPTは、核保有大国の核兵器独占を保障する不平等条約であるが、第六条に「軍縮への誠実な交渉」をおこなうとうたい、核保有国の核軍縮努力を前提としている。しかし、核保有国は、そのような努力をしてこなかった。また、イスラエル、インド、パキスタンなどNPTに加盟していない事実上の核保有国への説得も、不十分であった。しかも、アメリカをはじめとする核保有国は、条約発効二五年後の九五年の再検討会議で、多くの抵抗を抑え、NPTの無期限延長を決定した。

 

 さらにその五年後、二〇〇〇年の再検討会議では、七つの非核国からなる「新アジェンダ連合」やNGOなどからの要求に妥協して、核保有国がこだわってきた核廃絶を「究極の目標」とするから「究極」を削除して「核廃絶の達成の明確な約束」を盛り込んだ文書を採択した。その前年九九年には、NGO主催のハーグ世界市民平和会議が約百カ国から一万人を結集して開かれ、各国議会が日本国憲法第九条のように戦争放棄決議を採択すること、核兵器廃絶の交渉を直ちに開始することなどを打ち出した。

 こうして、遅々とした歩みではあるが、核廃絶の国際的な潮流が強まりつつある。だが、核超大国アメリカは、これに逆らい、核兵器の保持に固執しTMDやNMDの開発を進めている。核軍縮の活動を強めることが重要である。

 

第三節 第二次大戦後の発展途上国

 1 政治的独立の波

 数世紀にわたって帝国主義の抑圧、搾取と収奪のもとにおかれていた被抑圧民族の多くは、第二次大戦後、反植民地と民族独立のたたかいによって政治的独立をかちとった。

 まずアジアでベトナム民主共和国、インドネシア、フィリピン、インド、ビルマ(ミャンマー)、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国が、中近東でレバノン、ヨルダン、イスラエルが独立した。

 アフリカでは戦前の独立国は、南アフリカ連邦、エチオピア、エジプト、リベリア四カ国だけだったが、一九五〇年代に北アフリカでアラブ民族の独立国家が、六〇年には一七の新興国家が生まれた。さらに七〇年代後半には、ポルトガルの植民地アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウなどが独立した。そして九四年には南アフリカ共和国で、史上初の全人種参加による制憲議会選挙がおこなわれ、白人政党である国民党にANC(アフリカ民族会議)が圧勝した。マンデラ議長が大統領に選任され、戦後四六年間におよんだ国民党支配が終わり、アパルトヘイト(人種隔離政策)も廃止された。九九年の国会選挙でもANCは前回を上回る得票で政権を維持した。

 一九四七年の国連パレスチナ分割決議をうけて翌年五月にイスラエル国家が生まれてから、長年の居住民であるパレスチナ人およびアラブ諸国との間でつづいてきたパレスチナ紛争は、九三年にはパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長とイスラエルのラビン首相とが「パレスチナ暫定自治実施協定」に調印し、解決のきざしが見えた。しかし、自治統治終了直前におこなわれた「最終解決」の交渉は決裂し、解決の目途は立っていない。

 

2 非同盟運動

 政治的独立によって生まれた新興民族国家のうち、あるものは経済的自立へ向かい、さらには非資本主義的発展の道を通って社会主義をめざしたが、あるものは再び帝国主義の新植民地主義的支配をうけている。

 だが、新興独立国家の多くは、非同盟中立の立場をとって、新旧植民地主義に反対する有力な勢力となった。一九五五年インドネシアのバンドンで、アジア、アフリカの二九カ国が参加して、第一回アジア・アフリカ(A・A)会議が開かれた。国連憲章の尊重、主権と領土の尊重、平和的方法による紛争解決など「平和十原則」を共同宣言として採択し、その目的達成のため非同盟国(平和共存と非同盟の政策追求、民族解放運動支持、軍事ブロックヘの非加盟、大国との軍事同盟の不締結、自国内に外国の軍事基地を置かない、の五原則を満たす国)の組織化を進めた。六一年ユーゴのベオグラードで二五カ国が参加して第一回非同盟諸国首脳会議が開かれ、平和共存、民族解放闘争支援、外国軍事基地一掃、新旧植民地主義反対の宣言を採択した。

 

 その後、首脳会議はほぼ三年に一回開かれ、八一年には九五力国が参加して、発展途上国に不利な国際経済機構の変革を求める「新国際経済秩序(NIEO)確立のための宣言」を採択した。非同盟諸国は、国際平和と民族解放、新旧植民地主義反対のために大きな役割を果たし、国連でも帝国主義諸国に対抗して発言力を増大した。

 だが、新国際経済秩序の確立は進まず、八○年代以降資本主義大国でネオリベラリズムが発言力を増したこともあって、一次産品の輸出に大きく依存する途上国の経済は悪化し、非同盟諸国の力は弱まった。加えて国家間の利害対立、さらには非同盟運動の支えとなっていた社会主義体制の崩壊もあり、首脳会議参加国は増えているが、非同盟運動が国際的影響力を弱めたことは否めない。

 現在は非資本主義的発展の条件はなく、どの途上国も資本主義としての発展を遂げる他ない。それ故その発展のなかで、経済的自立と民主化の条件を拡大するのが非同盟運動の役割である。事実一部の国は急速に生産力を高め、労資の階級対立も発達している。労働者階級の力を強め、民主化を推し進めることが当面の課題である。

 それに対する帝国主義諸国の対応は、基本的には「アメとムチ」の使い分けである。力関係に応じた硬軟両様の折衝をおこない、各国の市場を開放させ、投資と貿易で利潤を吸い上げられるかぎりは良好な関係を維持し、援助をもおこない、市場の成長を促す。しかし、利潤追求が妨げられると、制裁措置をとり、時には軍事的攻撃をも加える。

 

 3 「開発独裁」の崩壊、動揺と民主化

 新興民族国家の多くは、非同盟運動の担い手となると同時に、国内政治では上からの経済開発を大義名分として、強権的反共独裁の政治体制をとってきた。いわゆる開発独裁である。この「開発独裁」によって、アジアとラテンアメリカの途上国の多くは、先進国からの開発資金の導入をテコに一定の経済発展をとげた。

 だが、強権政治による外資導入をテコとする急速な経済発展は、貧富の差の拡大、労働者状態の悪化、環境・公害問題の深刻化など、社会的矛盾を激化させた。

 ラテンアメリカでは、一九七〇年代の開発促進によって債務が累積し、八○年代に入ると利子・利潤、返済などの海外への送金額が外資の流入額を上回るようになり、経済が悪化し、民衆の不満が高まった。その結果、八三年にアルゼンチンで、八五年にはブラジルで軍政が終わるなど、「開発独裁」に終止符がうたれ民主化の動きが強まっている。

 

 アジアでも多くの発展途上国が「開発独裁」のもとで外資を導入し、経済を発展させてきた。アジアでは八○年代から九〇年代にかけて、韓国などの新興工業地域(NIEs)を中心に、経済は高度成長をつづけた。しかし、九七年七月に発生したタイの通貨危機はASEAN諸国から韓国などへ波及し、アジアの途上国の経済は深刻な危機にみまわれた。経済危機は国民の生活を直撃した。さらに、政治腐敗も暴露され民衆の不満が高まり、インドネシアでは三二年に及んだ長期独裁政権が崩壊した。タイや韓国などでも、政権が交代し、アジアでも民主化の動きが強まっている。だが、多くの国で民主化の過程は複雑であり、前進と後退をくりかえしながらおこなわれている。

 アフリカでは、六〇年代に多くの国が独立したが、一次産品の輸出国という植民地時代の経済関係は基本的に変わらなかった。しかも、高度成長下で先進国の工業製品の価格は上昇したが、一次産品の国際価格は据え置かれるか引き下げられ、貿易赤字が増加した。貿易赤字、財政赤字の穴埋めは、外資の導入による他なかった。そのため、アフリカの対外債務は六〇年代から増えつづけ、典型的な一次産品輸出国が多いサハラ以南アフリカなどでは八○年代以降、GDPはゼロないしマイナス成長となり、債務返済不可能の事態さえ生じている。そのため、NGOなど広範な勢力による債務帳消しの国際キャンペーンがおこなわれ、先進国の政府も取り組まざるをえなくなっている。

 

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